13 トオルくんは招き猫
それは唐突だった。夜空と飲んで、二日酔いで頭がガンガンしているところに、とんでもない申し出が来た。
「このお店で、僕にバイトさせてください!」
トオルくんが頭を下げてきたのだ。
私は知っている。トオルくんが通っている高校はお坊ちゃま、お嬢様だけの進学校であり、お小遣いに困ることは、まずない。と、なると、バイト代が目当てではないということだ。すると一体、何が目的であるのか?
「や、それは……ちょっと駄目っていうか」
「どうしてですか?」
「だってさ。トオルくんは野球部なんでしょ? 詳しくは知らないけど、三年生の夏って貴重なんじゃない? 目指せ、甲子園って」
「いえ、それはないです。僕らの高校は弱小校ですので。三年は早々に引退して、夏の予選は、二年主体で頑張ってもらう。僕たち三年は、受験勉強にとりかかっているんですよ」
んー、そういうものだろうか。私は野球のこと、詳しくないからよくわからないのだけれども。それにしたって、もし、そうなら。
「もし、そうだとしたら、勉強を頑張らなきゃ駄目じゃない」
「それはそれでやっています。それに僕は推薦ですし。でも、勉強ばっかりじゃ息が詰まってしまって……だから、気分転換にこのお店で働きたいんです!」
うーんと唸ってしまう。そりゃ、私だってトオルくんと一緒に多くの時間を過ごしたいよ? けど、どうも何かが引っかかるっていうか……。
結果、申し出を却下した。なのに、トオルくんは珍しく食い下がってくる。
やいのやいのと五分ほどやりあって、とうとう根負けしてしまった。
「じゃあ、月水金だけ。それも三時間限定なら……」
「ほ、本当ですか?」
「うん。そのつもりになりました」
「嬉しいです、シブさん。僕、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
深々と頭を下げてきた。こんなに一生懸命になられたら、許可を出すしかない。
じゃあ、明日から来られますか? と問うと、トオルくんは「はい」ときっぱり言い切って、「それじゃあ、明日からよろしくお願いします」と、もう一度頭を下げ、足取り軽やかに店外に出ていった。
それから、二週間ほど経過した。
この「ヤンソン」に、変化が起こったのだ。押し寄せる人、人。それなりに入っていたお店ではあったが、それとは比較にならない。どうやら、バイトしているトオルくんが、女子の口コミで広まったらしい。それで、この店は繁盛店となったのだ。
トオルくん様様である。彼はどうやら招き猫であったようだ。
七時となり、閉店時間。それでも、まだ店内に三人ほどの女性客がいた。有閑マダムといった体であり、トオルくんを見てはボソボソと話をしている。
きっと、彼女たちは「眼福だー、眼福だー」と言っているのだろう。店内に漂っているトオルくん成分を浴び、若返ってる気がする。なんというか、プラセンタ的な。
マダム三人がレジに雑貨を持っていく。レジ打ちはトオルくんがしてくれている。勤めて七日足らずなのに、もうテキパキと働いてくれていた。業務の飲み込みも早いし、そつなくこなしてくれているので、私としては大助かりだ。
「あの。握手していただけます?」
「あ、はい。いいですよ」
トオルくんが軽やかにマダムの手を握る。マダム連中は、きゃーと騒いだり、写真を撮ったりで、傍若無人であった。
満面の笑みを浮かべ、マダム達は帰っていった。それから、店の外の札をクローズにし、店内に戻る。
一息つき、私は出来たての珈琲を持ってラウンドテーブルに行く。トオルくんは熱心にも、棚にある商品をいそいそとディスプレイしていた。
「トオルくん、その辺にしてお茶しましょ?」
「あ、はい」
トオルくんはとてとてとやってきて、丸椅子に座り、カップに口をつけた。そうしてから、爽快感溢れる笑みを漏らす。
「ああー、やっぱり美味しいなー。シブさんが淹れてくれる珈琲が一番のご褒美です」
「それはなによりです」
二人でいる時間が多くなったので、幾分、私の方も慣れてきた。そりゃあ、胸は高鳴っているけど、さすがにテンパるまではなくなっていた。
「実のところですね……」
トオルくんは不意に表情を曇らせる。あれ? 私、何か粗相してしまったのだろうか。
「ブラックはまだ苦くて……砂糖とミルク、入れてもいいでしょうか?」
あ、そんなことだったのね。私は胸を撫で下ろし、どうぞどうぞと勧める。彼はテーブルにあるスティックシュガーとミルクを入れた。
「でも、苦手ならもっと早くに言ってくれても良かったのに。どうして言わなかったの?」
尋ねると、トオルくんは恥ずかしそうに俯いた。
「だって。ブラックが飲めないなんて、格好悪いじゃないですか。特に、シブさんの前じゃ」
う、うわぁ。無理して背伸びしていたのか。えーい、この可愛いやつめー。
猛烈に彼の頭をかいぐりしたい衝動にかられてしまう。
「早く大人になりたいなー。シブさんと釣り合える大人の男に」
ポツリと漏らす。
いや、いいの。トオルくんはそのままでいいんだって。むしろ、汚れた大人の世界など知って欲しくない。純真無垢な温室育ちの薔薇のつぼみのままでいて欲しいです。お姉さんの希望としては。
「うーんとね。トオルくんが来てくれてから、このお店の売上が倍増したの。時給も上げるし、臨時ボーナスもあげようかなーとか思っているのだけれども?」
「え、いや、いいですよ。僕はシブさんと働くことだけで、満足なんですから。それにバイトするって、社会勉強になりますから。ですから、時給はこのまま結構です」
「でも、それじゃあ悪いよ」
「いいんですってば。この話は、これで終わりにしましょう」
きっぱりと言われてしまった。しょうがない。臨時ボーナスは、他の手立てで考えよう。
トオルくんは、コーヒを飲み干した。
「それじゃあ、僕、上がりますね」
「はい、今日もご苦労様でした。──と、そうだ。あのさ、トオルくん」
「なんでしょうか?」
「君の探しものって、見つかったの?」
「はい、見つかりました」
「なんの商品だったの?」
「それは……多分、シブさんの笑顔です」
どんがらがっしゃーん。私は彼の破壊力のある言葉に面くらい、椅子から転げ落ち、尻もちをついた。
「だ、大丈夫ですか?」
「は、はは……ドジッちゃった。大丈夫大丈夫」
立ち上がろうとすると、トオルくんが手を差し伸べてくる。私は、その手を無視して、自力で立ち上がった。トオルくんの優しさにまだすがれそうにない。彼の手を握るとか、心の準備がーーー!
私が立ち上がってからも、トオルくんは心配そうな眼差しを向けてくる。私たちの視線が合い、ついつい見つめ合ってしまった。そのときの私はというと、心臓がバクバクと爆音を立てていた。




