1 雷雨の中、突然の出会い
私は河原の土手を駆けていた。
川から流れているせいだろうか、少しひんやりとした風が頬を撫でていく。
うん、悪くない。
ちょっと冷たいけど、心地のよい風だ。
何より、今の火照った頬を優しく冷やしてくれるから。
「──もう。なんで、私がこんなにドギマギしなきゃならないの!?」
ひとりごちる。
そうなのだ。なんで、私がこんなにどきどきしているのか。
そのことを話すには、僅か十分前のことを語らなくてはならない。
そもそもなんだけど。私は今みたいに、河原の土手を全力で駆けていたわけじゃない。
お店をディスプレイするための布が必要になって、隣町まで買い物に行く途中だった。生地屋さんに行くには、この荒川沿いの土手を通ると、近道になる。
だから、お店の玄関口にある札をひっくり返して、オープンからクローズにした。そして散歩がてら、のんびりと水面を揺蕩う流れを見ながら、この土手を歩いていたんだ。
川は陽光を反射し、私の目に眩しく映っていた。川のせせらぎが心地よく心に染みていた。
けれど。
雲の上の神様は気紛れで、つい今しがたまで、太陽の光が降り注いでいたのに、みるみる辺りは暗くなっていく。
見上げると、灰色の曇天。今にも泣きだしそうだ。
これはまずいと思い、私は避難するように土手を降り、橋の下へと早足で歩む。
橋の下に着いたと同時に、天からぽつりと水滴。それはどんどん強くなっていき、空から重なるように降ってきた。
文字通りの土砂降りになってしまった。
遠くでは、稲光まで見える。それが見えたあと、雷音が遅れて耳に届く。
はぁと嘆息してしまう。だって、さっきまで天気と同じで、私の心は晴れやかだったのに。けれど、突然の激しい雷雨だなんて。
橋の下にいて、恨めし気に上から垂れてくる雨垂れを見ながら、心が徐々に湿っていくのがわかってしまう。
かくも、人の心はうつろうものであろうか。気紛れなこの六月の空のように。
晴れなら、晴れやかな気分。雨なら、それがちょっと湿ってしまう。
「まぁ、そんなものよね」
私は自分を納得させるように頷いてみせる。
そうやって、突然の降雨に動けず、橋の下で佇んでいる。
結局のところ、橋の下で動けずにいた。突然の雷雨を、ここにいてやり過ごすしかないだろう。幸い、ゲリラ豪雨っぽいし。
パシャパシャパシャ。
水をはじく音に気付き、そちらの方を見遣る。右手から大急ぎで駆けてくる人影が見えた。
それは、どんどん大きくなって、こちらにやってくる。
白いワイシャツが濡れていた。──というより、全身が濡れている。文字通り濡れねずみである。
その人は私のいる橋の下まで来て、背をかがませ、荒い息をしていた。肩が上下し、大きく息を弾ませている。
と、その人がこちらに視線を向ける。
そして、その瞳に、私は不覚にもドキリとしてしまった。
形の良い整った眉毛。優し気な面持ちのアーモンド・アイ。髪は燃えるような赤毛であった。ワイシャツのワッペンから察するに、この近くにあるお坊ちゃん高校の生徒のようだ。
しばし、ぼうっと見とれてしまう。見目麗しい──というか、水も滴るいい男とは、よく言ったものだ。文字通り目の前に存在してる。
彼の顔は、どこかで見たような面影があった。どこで見たのだろうかと、思いを巡らす。
僅かに考えたあと、思い当たった。そうだ、彼はギリシャ神話に登場する美少年のアドニスに似ているのだ。神話の肖像画が抜け出してきたような、見た目の麗しさだ。
そのとき、恥ずかしながら、私はだらしなく口を半開きにしていたように思う。
だって、仕方がない。
彼は私の大ストライクゾーンだったのだから。もうね、ど真ん中の直球。是非、打ち返してくださいとばかりのストライクよ。
けれど。
勇気のない私は、そんな絶好球ですら見送ってしまう。
いやいや、無理だってこのシチュエーションは。私だけでなく、誰だっておろおろしてしまい、尻込みするに違いない。だって、考えてもみて?
好みの美男子と、降りしきる雨。そして、橋の下での二人だけの空間。絵に描いたような少女漫画のようなシチュエーション。
こんな降ってわいたような状況に挙動不審にならずにはいられない。私は少なくともなっているし、多少なりとも乙女を自称している女の人なら、誰もが胸をときめかせてしまい、過呼吸にもなりかねないシチュだって。
そんな風に自意識過剰になりつつ、心の中で大盛り上がりしながらも、男子高生をちらりと見る。
彼は、その綺麗な瞳を向けてきた。
「どうも、こんにちは。お姉さんも降られちゃったんですか?」
「あ、う、うん。そう……」
しどろもどろになりながら、なんとか私の心を宥めすかそうと試みる。
えーい、このドキドキ。とまってよ。
大きく高鳴った心音が、彼に聞こえないかとひやひやしてしまう。どうしよう。会ったばかりなのに、ときめきが止まらない。
「お姉さん、あの……名前聞いてもいいですか?」
「あ、う、うん。私は渋谷加奈……」
うわぁー。どうしよう。名乗っただけなのに、心臓の動悸がますます速くなってる。
それでも。
勇気を振り絞り、尋ねてみる。
「あの……君の名前も訊いていいかな?」
彼は頬を緩め、目尻を下げた。ただ微笑んだだけなのに、どうにもキラキラして見える。すっごく輝いている笑顔だった。さっき見た川に反射する太陽の光のように。
「僕は朝井トオルっていうんです。よろしくお願いしますね、加奈ちゃん」
やられた。私のハートを完全に撃ち抜かれた。人懐っこい笑みに、フレンドリーな呼び名。しかも、好みの人から。
反則でしょ、これ。
そんなこんなで慌てふためきつつも、この場で自分が取るべき最良な行動をようやっと思いついた。
「濡れていたら、乾かす」
ごく当たり前の話。
トートバッグを開け、ハンカチを取り出す。
「あの……よかったら、使って?」
トオルくん……会ってすぐにそう呼んでいいのかわからないまま、彼にハンカチを手渡す。
今思い返せば、あのとき、私の手は微かに震えていたように思える。齢二十七にして、未だに乙女だったってことなのです……はい……。
「サンキューです、加奈ちゃん」
トオルくんは、はにかみながら受け取った。
その姿がまた、可愛くって。
ズキューンとまたもハートを撃ち抜かれてしまった。本日、通算三度目である。
もし、この世に「萌え死ぬ」などというものが本当にあったとしたら、私は三度死んでいることになる。
まぁ、それもしょうがない。だって、本当にいちいち可愛いのだから。ルックスだけじゃなく、その笑顔と、初々しい仕草が。
いつの間にかである。いつの間にか、私の心は梅雨空から、晴天になっていた。
この突然の出会い。これは気象予報士ですら、予想するのは容易いことではなかったはずだ。