第二幕 禍根
目の前で部下を失い、親友をも失ったヘクター。次に彼を待ち受ける悲劇とは……
第二幕 禍根
目を覚ました時、ヘクターは自宅のベッドに横になっていた。傍らでは妻のソフィアが心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
「よかった、気が付いたのね」
「ソフィア、俺は……」
起き上がろうとするヘクターを、ソフィアは「まだ起きてはだめよ」と言って静止する。
「あなたたちが予定の帰還時刻になっても戻らなかったのを陛下がご心配なさってね、もしもの事に備えて救援を送ったの。そしてあなたは助けられたのよ」
「他に……生存者は?」
ソフィアは何も言わずに首を横に振った。
「ダリルは……あいつはどうなったんだ?」
わかっていながらもヘクターはすがるようにしてソフィアに問う。彼女はとても言いづらそうにうつむいていたが、やがて決心してその重い口を開く。
「ダリルの遺体も……確認されたわ」
そこまで言って彼女は口ごもった。
「くっ……ダリル…ちくしょう…………」
ヘクターは嗚咽の声を漏らす。そしてもう一度「ちくしょう!」と叫び、シーツを強く握り締めた。
全て夢であって欲しかった。城へ戻ればいつものようにダリルがいて、いつものように笑い合う。そんなヘクターのささやかな願いはこの時、跡形も無く砕け散ったのだった。
「ヘクター……」
ソフィアは血がにじみそうな程強く握り締めたヘクターの拳を、細く弱々しい両手でやさしく包み込む。
「あなたのせいではないわ」
ヘクターはソフィアの胸にその身を預け、しばらくの間彼女の優しさに甘んじていた。
ヘクターがソフィアと出会ったのは三年前、ヴァングリフ将軍の率いる第一大隊でダリルと二人で副隊長を務めている頃だった。
その頃はまだ二人とも新米で、毎晩のように将軍に連れられて城下にある酒場へと入り浸っていた。ダリルはめっぽう酒に強い方で、将軍と一緒になって夜明けまで騒ぎ続けていたが、ヘクターはといえば、ほんの一杯の葡萄酒を口にしただけで顔は紅潮し、気付けばテーブルに伏して死んだように眠ってしまう程アルコールには弱かった。もちろん、そんな彼にも将軍は酒を勧め、ダリルも悪ノリして次々と注文を繰り返す。
ほぼ毎日繰り返されたその宴は、ヘクターにとっては苦痛を強いられるだけだったのかもしれないが、彼が逃げ出さずに通い続けた理由がソフィアだった。
彼女は当時その酒場で働いていて、酔いつぶれたヘクターをいつも優しく介抱してくれていた。その様子を見た将軍やダリルが茶々を入れてくることもしばしばあったが、日に日にソフィアに対するヘクターの想いは強く、確かなものへと変わっていった。
それから一年後、第二小隊の隊長へと任命されたその日のうちに、ヘクターは彼女に想いを告げ、結婚を申し込んだ。そして数日の後に二人の結婚式は取り行われた。決して盛大なものではなかったが、ヘクターにとってこの上ない幸せに包まれた日だった。
しかし、結婚してからというもの、部下の教育や各担当地域への遠征といった隊長としての激務に追われ、二人でゆっくり過ごす暇も無いまま二年の月日が流れた。このままではどんな不満を言われても仕方ない。ヘクターはそう思っていたが、ソフィアは決して愚痴をこぼす事無く彼を支え続けた。
過去に一度、ヘクターは彼女に仕事ばかりでろくに二人の時間を作れない事を詫びた事があった。だが彼女はいつものように微笑み、「謝る事なんて無いわ」と返し、更に、
「たとえ二人の時間が無くても、あなたが帰らない日が続いても、私は辛くなど無いの。ただ無事に私の所へ戻ってきてくれるなら私は他に何も望まないから」
と続けた。その事があってから、ヘクターは彼女だけは何があっても守りぬくと心に誓い、より一層己を鍛え、力を欲した。大切な人を護り続ける力を。
外はあいにくの大雨であったが、ヘクターは午前中の間に、ダリルが幼い頃身を寄せていた教会に向かった。そこで神父の許しを得て霊安室へと入る。そこには名誉騎士の鎧を着せられたダリルが棺の中で静かに横たわり、周りには色とりどりの美しい花が敷き詰められていた。
「ダリル……遅くなってすまない」
ヘクターは街の花売りから買った一輪の白い花をダリルの両手の上に乗せた。
その後、しばし黙っていたがやがて語りかけるように口を開く。
「お前が名誉騎士か、隊長の俺を差し置いて将軍よりも上になっちまったな」
ヘクターは喋り続けた。幼い頃によく一緒に悪戯をしてヘクターの両親に叱られた事、二人で城下の見張りをしていた頃の事。二人でレミアム山の怪鳥討伐に出掛け、敵に圧倒されていたところを将軍に救われ、九死に一生を得たこと。喋って喋って、そして無理やり笑った。やがて笑っているハズのヘクターの頬を一筋の涙が伝う。
「くそ……何が名誉騎士だ。こんな鎧が今更何を護ってくれる?……」
ダリルは何も言わない。今も、この先もずっと。彼がヘクターに語りかける事も、共に笑い合うことも無い。拭っても拭っても溢れてくる涙が更に涙を誘う。
「ダリル、俺に力が無かったせいでお前を守ることが出来なかった……すまない」
声は引きつり、目は焼きついたように熱い。ヘクターはその場に膝をついて泣き続けた。やがて、いつからか室内に差し込む光に気付いて彼は顔を上げた。いつの間にか雨は止んでいた。厚い雲は晴れ、降り注ぐ日差しは複雑に作り込まれたステンドグラスを通り抜け、七色の光となってヘクターとダリルを照らしている。
ヘクターは導かれるように立ち上がって瞳を閉じる。その暖かな光はヘクターに巣食った悲しみを洗い流してくれるような気がして、とても心地よいものだった。
「ヘクター」
一瞬、ダリルに呼ばれたような気がして彼を見たが、先程と変わらずただ静かに横たわったままだった。しかし、ヘクターにはダリルが少しだけ、ほんの少しだけ笑ってくれたような気がした。
「ダリル……ありがとう。安らかに眠ってくれ」
最後にダリルの手を強く握った後、ヘクターはダリルの元を後にした。
その日の夕刻、一人の兵士が家に訪ねて来て、皇帝からの伝令をヘクターに伝えた。内容は、明日皇帝の元へと出向き、今回の事件の詳細を聞かせて欲しいとの事だった。
事件の詳細を聞きたがっているのは皇帝だけでなく、騎士団の仲間たちも同様のようで、伝令係の兵士はヘクターに何か聞きたそうに口ごもっていたが、言い出せなかったのだろうか、とうとう何も聞かずに立ち去って行った。やはり皆、真相を知りたいという気持ちはあるのだろう。
しかし、話しても信じてもらえるのだろうか?
幸い、ワイバーンの死骸は多くの兵士達が目撃していたので、小隊の全滅に不信感を抱く者はいないようだったが、問題はなぜヘクターだけが無事でいられたのか、兵士達の中には死体すら発見されなかった者もいて、ダリルまでもが無残な姿で発見されたのにも関わらず、ヘクターだけは無傷だった。
最初にヘクターを発見した兵士は、鎧をきれいに切り刻まれているのに外傷は一切見受けられず、ただ気を失っているだけの彼の姿を見て全く状況が掴めなかったという。
おそらく、この国の誰一人としても予想は出来ないだろう。ヘクターが神剣に眠るドラゴンと契約を結び、二対ものワイバーンをいとも簡単に倒してしまった事など、一体誰が想像できるというのか。
仮に信じてもらえたとしても、証明になるものが無い。せめて神剣だけでも持ち帰れていたら……しかし、あのボロボロの剣を神剣だと言っても、それもまた信憑性に欠けるだろう。などと考え込みながら寝室へと戻る。そして窓辺に置かれた木製の椅子に腰掛けて、
「あのドラゴンがもう一度現れてくれたら……」
とヘクターがボソリと呟いた時、
「今私が姿を現したら、お前の妻は卒倒してしまうだろうな」
聞き覚えのある声がヘクターの一人言に答えた。思わず「そうだな」と答えかけたが、すぐにはっとして室内を見回す。すると先程まで自分が横になっていたベッドのすぐ脇、大人の腰の高さぐらいの棚の上に、刃は折れ、柄や鍔は錆付いている一見ガラクタにしか見えない剣が置かれていた。
だが、ヘクターにはこの剣がガラクタでは無い事はすぐにわかった。あの神剣だ。そしてこの声は圧倒的な力の元にワイバーンをこの世から消し去った赤き翼のドラゴン、レーヴァの声だ。
「な、なんで……いつの間に」
驚いて立ち上がり、ヘクターは剣へと駆け寄る。
「何を驚いている? 言ったハズだ。私とお前は一心同体だと。それは互いの命が果てるまで決して変わる事は無い」
ソフィアも先程の兵士も、剣の事は何も言わなかった。それ以前にヘクターの記憶では、目を覚ましてから部屋を出るまでここには何も無かった。
「一体どうやって、ルフォートからここまで飛んで来たとでも言うのか?」
「私は剣に宿る者だ。自ら何処かへと移動する事は出来ない。だがお前が私を必要とした時、私と神剣を呼んだ時、たとえ地の果てからでも私はお前の元へと現れる」
「じゃあさっき俺が、この剣とお前がいたら、と思ったから、ここに現れたという事なのか?」
「今回はそういう事になるな」
「今回はって・・・」
ずいぶんとあいまいな返答にヘクターは困惑を隠せない。だが、ドラゴンの言うことは事実だと認めざるを得ないだろう。現に今、ここに神剣は存在しているのだから。
その時、ソフィアがおもむろに室内へと入ってきた。
「ヘクター? 誰と話してるの?」
レーヴァと会話していたヘクターの声を聞いたのだろう。しかし、まさか剣の中のドラゴンと話していた。などとは口が裂けても言えない。
「ん? いや、ちょ、ちょっと一人言を……」
どぎまぎしながら答えるヘクターの姿はこの時、ソフィアにはただの挙動不審にしか見えなかった。
「大丈夫?」
怪訝そうな表情でソフィアはヘクターの顔をのぞき込む。
「だ、大丈夫だよ」
「そう? ならいいけど……それは?」
ソフィアは「いつ持ってきたの?」と続けて、棚の上にある錆びた剣を指差した。やはり彼女も神剣がここにある事は知らなかったようだ。
「やっぱり本当なのか……」
神剣にそっと触れ、ヘクターは先程のドラゴンの言った事を思い出す。
「え? なに?」
ことごとく彼の一人言を拾い上げるソフィアに、ヘクターは更にドモり始める。
「え? あ、いや、な、なんでもない! ホントになんでもないんだ。これはさっきの部下がさ、持ってきてくれたんだよ」
ソフィアは眉間にしわを寄せ、まったく事態が理解できないといった様子でヘクターを見ている。
「ま、まあいいじゃないか、それより夕食の準備は? 良かったら手伝うよ」
「これからよ、でもあなたはまだ病み上がりでしょ?」
ヘクターは何とか話題をそらしながら、ソフィアを部屋から強引に押し出す。
「いいんだいいんだ、もうすっかり良くなったよ」
でも、とヘクターの身を案じるソフィアの両肩を掴み、一度だけ神剣の方をちらっと振り返った後、部屋を後にする。一部始終を黙って聞いていた剣の中のレーヴァは、「忙しい男だな」と思い、少しだけ笑った。
その日、何ヶ月ぶりかにヘクターとソフィアは夕食を共にした。そして、少し外を散歩して色々な事を話した。だがソフィアは今回の任務の事も、ダリルの事さえも聞かなかった。いつか、ヘクターから話してくれるのを待とう。それは彼女の思いやりでもあり、深い愛の証でもあった。
ヘクターはレーヴァの事を彼女に話すべきか否か悩んだが、結局話すのをやめた。自分自身、まだレーヴァの事をちゃんと理解していない気がしたし、なにより彼女を混乱させたくなかった。ヘクターもまた、彼女を思いやっての事だった。
その後、家に帰り温かいスープを飲んだ後、二人は眠りについた。
夜も更けた頃、ヘクターは誰かの呼ぶ声で目を覚ました。
「ヘクター、ヘクターよ」
目を開け、棚の上の神剣を見るとかすかに赤い光を放っている。
「ヘクター、聞こえるか?」
「ああ、聞こえてるよ。どうした?」
ソフィアを起こしてしまわないように声を小さくして、ヘクターは答えた。
「何か変だ、この辺り一帯の大気が魔力を帯びている」
「魔力? それって何かマズイ事なのか?」
眠たい目をこすり、ベッドから起き上がりながらヘクターが言った。
「ああ、普通はこんなに魔力が密集するなどそうそう有り得る事ではない」
レーヴァがそう言った直後、ヘクターが窓の外に赤く燃え上がる炎を見た。
「あれは……」
窓を開けて身を乗り出して確認すると、彼の不安は的中した。
「城が燃えている!」
はじかれたようにヘクターは部屋を飛び出した。レーヴァが何か言いかけていたが、この時のヘクターの耳には入らなかった。
城に近づくにつれて多くの市民の悲鳴と、彼らを非難させる警護兵たちの声が聞こえてきた。ヘクターはその中の一人に声をかける。
「どうした? 一体何があったんだ!」
まだ新米なのだろうか、彼の身体はかすかに震えていた。
「敵襲です! 突然多くの敵兵が城に現れたんです!」
ヘクターが「魔物ではないのか? 山賊か?」と聞くと、その兵士はとても言いづらそうに言った。
「クルニール……王国軍です」
「な……なに?」
ヘクターの背筋に何か冷たいものが感じられた。
「それは確かか? 間違いないのか?」
兵士の両肩を揺すってもう一度確かめるも、兵士は黙ってうなずくだけだった。ヘクターは再び走り出した。
「なぜ、なぜ王国軍が!」
ヘクターは信じられない気持ちでいっぱいだった。ヘクターの知りうる限り、国家間の争いなどもう何十年も無かったハズだ。それに西の大国クルニールとはずっと外交を行い、常に協力し合ってきた。そのクルニールがなぜ帝国に攻め込んでくるのだろう?
とても頭が働かない。徐々に膨れ上がりつつある嫌な予感を胸にヘクターは城へと急いだ。
城門は開け放たれていた。そこをくぐって中に入った瞬間、ヘクターの目には確かにクルニールの紋章が掘り込まれた甲冑に身を包んだ兵士の姿が飛び込んできた。更にヘクターを驚かせたのは、その兵士たちの持つ異様な雰囲気だった。表情には生気が無く、敵国を攻め落とす程の気迫も感じられない。中にはその身に剣が突き刺さっていたり、腕を丸ごと切り落とされているにも関わらずに、少しも苦しむ様子を見せず向かって来る者もいた。その不気味さに帝国の騎士達は震え上がり、防衛線は破られる一方であった。
「なんだ……なんなんだこいつらは」
ヘクターは引きつった声を漏らし、とっさに足元に落ちていた直槍を拾い上げて構える。そして思い切り勢いをつけて敵兵の一人に不意打ちを喰らわせた。
「ヘクター様!」
その場で戦っていた兵士達はヘクターに駆け寄り、状況の説明を始めた。
その兵士の報告によると、つい先刻、激しい衝撃と共に裏門を破壊した敵兵が城へとなだれ込んできたという。不意を突かれた騎士団は将軍の不在もあって対応が遅れ、火の手は一気に城中に広がった。
「現在、この正門は我々がおさえ、敵の進入経路である裏門では第三小隊が奮戦しております」
「陛下は、陛下は無事なのか?」
「はい、まだ内部への進入を許してはいません。万が一突破されても親衛隊が守りを固めています」
ヘクターはそっと胸を撫で下ろす。
「そうか、敵の数は?」
「おそらく、三十人ほどの部隊だと思われます」
「三十?」
ヘクターは思わず聞き返した。
―――少な過ぎる。いくら将軍が不在で、戦力が乏しいとはいえ、仮にも帝国騎士団がたった三十人程度の部隊に遅れをとるなど・・・
何か理由があるのかと兵士に尋ねると、彼は先程ヘクターが吹き飛ばした敵兵を指差し、
「あれです……」
と答えた。そして言われるがままにヘクターがそちらを見ると、途端に彼は絶句し、我が目を疑った。ヘクターの不意打ちによって頭部を破壊され、おそらく再起不能と思われていた敵兵が、明らかに陥没した頭部から大量の血を流しながらゆっくりと立ち上がり、なおもこちらに向かって来ていた。
「あ……あ…」
ヘクターは全く事態が飲み込めない。するとそれを察した部下が、
「ご覧の通りです。我々が何度剣で切り裂いても、何度槍で突き刺しても、奴らはああやって起き上がり向かってくるのです。私も気が変になりそうです……」
部下の身体はひどく硬直し、足はガタガタと震えを刻んでいた。その間にも生ける屍と化したクルニールの兵士達は着々とヘクター達との距離を詰める。
「くっ、何なんだこいつらは!」
ヘクターは迫り来るアンデッド達の群れの中へと飛び込み、手にした直槍で一人、二人と次々に弾き飛ばしていくが、打てど払えどクルニール兵が数を減らす事は無かった。やがてヘクターの身にも疲労の色が見え始め、不意に横から腕を掴まれて動きを止めてしまう。
「しまった!」
更に他の片腕を失ったクルニール兵が正面からヘクターに迫り、もう片方の手に持った剣を振り下ろす。それと同時にやや離れた位置から部下達の助けを求める声も聞こえる。彼らも敵兵に囲まれて万事休すと言ったところなのだろう。
「くそっ」
ヘクターは迫り来る浅黒い刃から目をそらすようにしてグッと閉じる。やがて剣はヘクターの頭部をきれいに両断する。かに思われたが、そうはならなかった。
不思議に思ったヘクターはゆっくりと目を開く、するとたった今まで目の前にいたクルニール兵達は、忽然とその姿を消していた。文字通り、跡形も残さず消えていたのだ。
「ヘクター様、これは一体……」
兵士がヘクターに尋ねたが、その理由は彼にもさっぱりわからなかった。
しばし立ち尽くしていたヘクターだったが、今度は正門へと駆け込んできた兵士に名を呼ばれて我に帰る。
「どうした?」
「大変です! 城下に……城下に巨大なモンスターが!」
見ると、城下の方から炎が上がっているのがうっすらと確認できた。
「ちぃっ、今度は城下か!」
ヘクターは再び走り出す。城下にモンスターが現れたとなると、家に一人残してきたソフィアにも危険が及ぶかもしれない。彼は無我夢中で城下へと向かった。
長い坂道を下り、短い橋を渡って所々に火の手が上がる街に入ると、ヘクターの頭上を巨大な影が通り過ぎた。その影の正体を確認したヘクターは足を止め、目を見開く。
耳に残るかん高い雄叫び、大きな翼とその口から吐き出される漆黒の炎。
「ワイバーン……また現れたのか」
記憶に新しい、ドラゴンに似て異なる者、闇からの使者の名をヘクターはしっかりと覚えていた。だがヘクターを驚かせたのはそれだけではなく、街中を我が者顔で飛び回る凶暴な飛竜が確認できるだけで五、六体はいたことだった。そして、ワイバーンたちの被害は甚大であり、もはや彼一人で事態を解決する事など不可能であった。
その時、一体のワイバーンが街のはずれの方角へ向かって行くのが見えた。その方向にはヘクターの家があり、そこにではおそらくまだソフィアが眠っている。
「ソフィア!」
叫ぶのと同時にヘクターは駆け出していた。近隣の家屋を通り過ぎるたび、燃え上がる家から必死で脱出する者や家族の名を呼びながら泣き叫ぶ子供、その救助に当たっている兵士達の怒りの声がヘクターの耳に飛び込んできた。
「くそっ、こいつら一体何の為に」
ヘクターは、誰にも想像もつかない疑問を自分自身に投げつける。だが一つだけ彼がわかっている事は、これ以上魔物の被害により家族を、愛する者を亡くし、悲しみに打ちひしがれる人を増やしてはいけないという事だった。
ワイバーンの目をかいくぐり、やがてまだ被害を受けていない我が家へとたどり着いたヘクターは、内心ホッとして辺りの様子を伺う。どうやらまだ魔物達が迫ってきている気配は無い。
「間に合った」
そう言ってヘクターが庭を抜けようとした時、悲劇は訪れた。
上空から一体のワイバーンが飛来し、その口から大きな火球が放たれた。やがて火球は地上へと達し、ヘクターの家を巻き込みながら彼の眼前で燃え上がる。突然の出来事になすすべも無く、燃え盛る炎を受けて崩れていく我が家をただ見つめていた。そして、手に持っていた直槍を落とし、がっくりとうなだれる。
「そんな……ソフィア」
だが次の瞬間、火の海と化した瓦礫の中から先程のワイバーンが放ったものよりも更に巨大な火球が現れ、空中のワイバーンを襲う。瞬く間に炎に包まれて邪悪な飛竜は真っ逆さまに落下し、灰となって消えた。
「ヘクターよ、私を捨て置いて戦いに行くとはどういうことだ」
レーヴァの声が聞こえ、かつてヘクターの家だった瓦礫の山の一部が弾け飛ぶ。そしてそこからはレーヴァが現れ、赤く輝く翼を羽ばたかせて舞い上がる。
「レ、レーヴァ!……ソフィアは、ソフィアは無事なのか?」
「安心しろ。お前の妻は幸運にも私のすぐ側にいた。あの程度の炎では傷一つ負っていないだろう」
そう言われてヘクターがレーヴァの現れた場所へと駆け寄ると、大人二人くらいがすっぽりと収まってしまう程度の小さな円形の光があり、その中に彼の妻、ソフィアの姿もあった。
「これは……?」
彼女の傍らにあるあの折れた神剣『レーヴァテイン』が微かに光を放っていたが、ヘクターが近寄るとやがて光は収まり、円形の結界も消えた。
ヘクターはソフィアを抱き起こし、怪我を負っていないかを確認する。レーヴァの言う通り、ソフィアは全くの無傷で気を失っているだけの様だった。
「ソフィア、無事で良かった」
心底安心したヘクターが声をかけると、ソフィアはうーんと呻き、息苦しそうに何度か咳込んだ。ヘクターは目を覚まさない彼女を火の手が回っていない木陰へと移動させてそっと寝かせる。そしてレーヴァテインを手にしてレーヴァの元へと戻り、更に数を増やして集まってきたワイバーンに向き直る。
「レーヴァ、なぜこんなにモンスター共が集まって来るんだ? 今まではこんな事は無かった。一体帝国の何が狙いで…」
「こやつらの狙いはこの国ではないようだ」
ヘクターの言葉を遮り、レーヴァは答える。
「この国じゃない? 狙いは帝国ではないのか?」
「ああ、先に城を襲ったアンデッド共も今ここに集まっているワイバーン共も、恐らくはお前と私をおびき出す為に仕向けられたのだろう」
ヘクターは視線をレーヴァへと移し、
「どういうことだ?」
と尋ねる。
「何者かが我々に会いたがっているようだな。手っ取り早く我々を見つける為にこの国を襲い、神剣を持っているお前を捜し出すという手を使ったのだ」
「では、クルニール王国は無関係なのか? 城を襲ったのは王国兵ではなくただのモンスターだったと……」
するとレーヴァはしばし沈黙し、やがて確信を持ったように答えた。
「いや、おそらく城を襲ったのもワイバーンを使って街を襲ったのも、その王国とやらの者の仕業だろう」
ヘクターに戦慄が走る。
「まさか……」
「ああ、魔物たちを仕向けたのは王国の手の者と考えて間違いないだろうな」
ヘクターはそれ以上何も聞く事は出来なかった。さまざまな想いが頭を駆け巡る。それらは決して一つにまとまることは無く、ヘクターをますます混乱させた。
クルニール王国とダルゼウス帝国はおよそ三百年前、今ではただの伝説として語られる『竜騎士ラディアスの戦い』の後に設立された。
戦いの後の荒廃したフォルティアを復興へと導く為、争いの無い新しい世界を実現する為に、当時の権力者達は、二つの国が平等に大陸を治める『二国制』による世界の統率を計ったのだった。
これにより、二つの国は互いを見張りつつ、協力し合い現在まで発展してきた。双方の国は武力、商業、人材、どれをとっても甲乙つけ難く、帝国騎士団に対し王国騎兵団という刺激し合える良きライバルの存在も、武力の強化には欠かせないものとなった。
ヘクターは以前、将軍と共に王国へと招かれ、クルニール王と接見した事があった。その時にヘクターはクルニール王の人間性を垣間見たが、ダルゼウスの皇帝に勝るとも劣らない素晴らしい人物だという印象を受けたのを覚えている。
それゆえ、近年のクルニールの異変振りには納得のいかない事が多すぎた。もしレーヴァの言う通り、王国がモンスターを従えて帝国へと侵攻してきたのならば、各地で起こっているモンスターの大量発生も、王国によるダルゼウス騎士団の戦力分散の為の布石という考えに行き当たる。
全ては最悪の仮説へと繋がるのだ。
「ヘクターよ、困惑する気持ちもわからないではない。しかし今は目の前の問題を解決する方が先決だ。そこで眠っているお前の妻を護りながらこの状況を突破するのは至難の業だぞ」
上空はワイバーンが飛び回り、地上からはいつの間にか、先程城から姿を消したアンデッド兵が迫ってきていた。流石のレーヴァも敵の物量には余裕を保ってはいられないようだ。
ヘクターはこの時、手にした神剣を見て今まで以上に頼りなさを感じていた。いくら神剣といえども、今の状況においてどれだけ敵の猛攻に耐え、力を発揮し得るだろうという不安に駆られた。
「考えても仕方ない……レーヴァ、ワイバーン共は任せていいな? 俺はアンデッド共を叩く」
そうだ、やるしかない。俺達がここで逃げ出せばソフィアにも帝国の人々にも更に被害が及ぶ。相手の狙いが自分達なら、この国が危険にさらされた原因が神剣を持つ俺にあるとしたら、受けて立つしかないのだ。
ヘクターは自分に言い聞かせる。
「無論だ。あやつらの相手など、私だけでも十分過ぎる位だ」
レーヴァの余裕の一言にヘクターは口の端を持ち上げてニヤリと笑う。そして二人が呪われた魔物達に先手を仕掛けようとした時、前方のやや上空に稲妻が走る。そしてその場所が次第に歪み始めた。
「レーヴァ、今度はなんだ?」
得体の知れぬ力の出現にヘクターは動きを止めてレーヴァに問うが、レーヴァも驚きを隠せない様子で、
「何者かがこの空間へと無理やり入り込もうとしている。その者こそが我々を捜していた張本人だろう。だが理解できないのはこの魔力だ。これはまるで……」
そこまで言って口をつむいだ。歪みが勢いを増す中、ヘクターとレーヴァだけでなく魔物達も動きを止め、不気味な静寂が辺りを支配する。
やがて空間が裂けるように破裂し、そこから一つの人間らしき影が地上へと降り立ってゆっくりとこちらへ歩みを進めてくる。亡者共は後ずさりして道をあけ、ワイバーンも地上へと降りてその黒い影の行動を見守っているようだった。
月明かりに照らし出されたその影の正体は、全身を黒い甲冑で覆い、手には身の丈程はありそうな長い槍を持った騎士だった。顔は確認できないが、風貌からして男性だろう。
その人物が一歩進むたびに金属製の鎧がガシャ、ガシャと音を立て、ヘクターの鼓動を早めていく。
「何者だ!」
ヘクターは声が震えないように叫ぶので精一杯だった。しかし黒き鎧の騎士からは返答がない。
「気をつけろ。あやつからはただの人間にはない強力な魔力を感じる」
「魔力? レーヴァが使うあの力か?」
「ああ、魔力とは神が我々に与えし力。その強力さ、危険さゆえに人間には最低限しか与えられなかったものだ。それゆえ我ら竜族程の力を発揮する事は叶わないのだ。しかし、あの者からは私と同様、いや、それ以上の魔力が漂ってくる」
「だが、俺はレーヴァと契約した時から魔力を与えられたんだろ? だったらあいつもドラゴンと契約したんじゃないか?」
今だ自分にレーヴァと同様の力を感じる事は出来ないが、ヘクターなりの解釈で疑問を投げかける。
「確かにお前はあの時の契約により、『竜人』となって私と同等の魔力を得た。しかし竜人へと生まれ変わったからと言って、私と同じ力を使えるわけではない、あくまでも竜人とは神剣へと魔力を注ぎ、使いこなす事が出来る者を指す。つまり、『竜族と同等の魔力を持った人間』という事なのだ」
次第に明らかにされる竜の力に、ヘクターは少しばかり混乱しそうになる。
「それ以上に、今この世界でドラゴンと魂の契約を交わしている人間は、お前一人なのだ」
「なぜだ? なぜ言い切れるんだ?」
ヘクターは黒騎士から目をそらさずに尋ねる。レーヴァも視線を黒騎士へと向けて答えた。
「魂の契約は神剣に宿るドラゴンとしか交わすことは許されない。そして神剣はレーヴァテインを除いてこの世には存在しない」
レーヴァの言葉はヘクターを大きく動揺させた。
「じゃあ、あいつは……あいつの持つ魔力はどこから……」
「私にもそれがわからない。ただ一つ言える事は、あやつが我々に敵意があるとすれば極めて危険な存在だ。あやつから感じる魔力は大きな負の力を帯びている」
ヘクターはゴクリと唾を飲み込んだ。甲冑の男は二人とやや距離を置いて立ち止まり、槍を構える。ヘクターもそれに習ってレーヴァテインを構えた。
「油断するな、気を抜けばこちらがやられるぞ」
ヘクターが「ああ」と答えた直後、黒騎士が動いた。
ゆっくりと槍と構えなおし、黒騎士が槍を突き出した瞬間、槍から漆黒のオーラが発生してヘクターの頬をかすめる。とっさに反応していなければ頭を串刺しにされていただろう。ヘクターは一瞬、黒騎士が槍を投げたのかと思ったがそうではないようだ。現に槍は黒騎士の手元に残っている。
「今のが奴の魔力か?」
ヘクターが問うと、レーヴァは眼前に魔方陣を浮かび上がらせながら答える。
「いや、違うな。今のは奴自身のものではない。あの槍にも何かあるようだ」
そしてレーヴァから魔方陣を介して無数の火球が放たれる。ヘクターは巻き込まれないように飛びのいて火球の行方を追った。火球は美しい軌跡を描いて一直線に黒騎士へと向かい、爆音を響かせて黒騎士を包んだ。
「直撃か?」
ヘクターは構えを解くことなく言った。そして巻き上がる土煙の中、黒騎士の姿を確認しようと目を凝らしていると、
「まだだ!」
レーヴァが珍しく声を荒げた。そして砂塵の中から先程と同じ大きな槍のオーラが衝撃波となって横薙ぎに二人に襲いかかる。
最初にレーヴァが胸を斬りつけられる。そしてヘクターはというと、レーヴァテインで黒騎士の放ったオーラを受け止めようとしたが、恐ろしいほどの衝撃にいともたやすく跳ね飛ばされて大木に背中を強打した。
やがて土煙が収まり黒騎士の姿が確認できるようになると、彼が全くの無傷である事が見て取れた。
「馬鹿な」
レーヴァは目を見開き、失意の声を漏らす。
「く、なんて力だ」
ヘクターは立ち上がったが、背中に激痛を感じてその場に膝を付く。
「ヘクターよ、レーヴァテインを使うのだ。こやつに私の魔力は通用しない」
レーヴァに言われ、ヘクターは神剣をを構える。そして内から溢れ出す力を折れた刀身へと込めて黒騎士に向かっていった。同時にレーヴァも翼を羽ばたかせ、その身に炎を纏い、突進する。
黒騎士は二人の同時攻撃にも全く臆することなく、左手をゆっくりかざしてレーヴァの物と同様の魔方陣を描き出した。まるで身体の全体を覆う盾のように彼の前にそびえる魔法陣は二つ、三つと重なり、三重に展開された後、回転を始めた。
ヘクターとレーヴァはそこに渾身の一撃をそれぞれぶつけるが、陣はびくともせずに回転を続け、黒騎士が一度左手を振り上げてそこに黒いオーラを叩きこんだ。
三つの魔法陣は砕け散り、その反動でヘクターとレーヴァは信じられない程の力で後方へと押し返された。そして宙を舞い地面に落ちる前に、二人に無数の、先程のレーヴァのそれよりも更に多数の黒い炎の雨が降り注いだ。
「ぐぅう! これは」
ヘクターは声を上げて必死にレーヴァテインをかざし、レーヴァは炎の結界を作り出してそれぞれ防ごうとしたが、途切れる事の無い火球に全身を打ちつけられる。
やがて炎が止み,辺りが静寂を取り戻す。地面に叩きつけられたヘクターとレーヴァは起き上がることもままならない。黒騎士はなおもゆっくりとヘクターに歩み寄り、ヘクターの脇腹を思い切り蹴り上げる。
「ぐあっ!」
二発、
「うああぁ!」
3発。ヘクターは抵抗すら出来ずにされるがままだ。
その後何度蹴り上げられただろう、もはや声も出ない。黒騎士は仰向けになったヘクターの頬を踏みつけ、手にした巨大な槍を天へと掲げる。朦朧とする意識の中、ヘクターは青白く輝きだした槍をボーっと見つめていた。
―――ああ、おれは殺されるんだな……ソフィア、守ってやれなくてごめん。少しだけ先にダリルに会いに行くよ……
ヘクターは覚悟を決め、最後の瞬間を待った。
「ヘクター!」
だが彼にはまだ最後の瞬間は来なかった。名を呼んだ声の主はすぐにわかった。目をあけるとそこには愛する妻がいた。黒騎士の槍によって胸を貫かれ、ブラウスを真っ赤に染めた妻が……
「ソフィ…ア」
そして槍が引き抜かれると同時にソフィアはヘクターの上へと倒れ込む。ヘクターは彼女を抱き起こすことも出来ず、震える声を絞り出した。
「ソフィア……ソフィア……」
彼女は最後の力を振り絞ったのだろう、ヘクターの顔を優しく撫でて一言、
「ヘクター、大丈…夫?」
それだけ言ってから、目を閉じてぐったりと力尽きた。
「ソフィア、ソフィア! 目を開けてくれ! ソフィア……」
ヘクターの心は悲鳴を上げ、目からは涙が流れてくる。しかし身体は動かず、声も出ない。その姿を見ていた黒騎士は、なおも槍を掲げて今度こそ止めを刺そうと身構える。
その時、激しい突風と共に黒騎士は弾き飛ばされる。レーヴァだった。大地が震える程の雄叫びを轟かせてヘクターとソフィアを守るように黒騎士の前に立ちはだかる。しかしレーヴァもヘクター同様に身体はボロボロで、威嚇するのがやっとであった。
今、二人には勝ち目はないだろう、もう一度槍で攻撃されたら、もう一度魔力を使った攻撃を繰り出されたら、今度こそ命はない。しかし、わかっていながらもレーヴァは黒騎士と対峙していた。引くわけにはいかなかった。
しばしの間、黒騎士はレーヴァと向き合っていたが、突然踵を返して左手を払った。するとその空間に歪みが発生し、彼はその中へと足を進める。そして一瞬の内に姿を消してしまったのだった。。
再び静寂。辺りを埋め尽くしていた魔物達もいつも間にか忽然と消え去っていた。レーヴァがヘクターを見ると、彼は気を失っており、その上に重なるようにして彼の妻が伏している。
レーヴァの胸にヘクターの悲しみがなだれ込んでくる。またも大切な者を護れなかったという自負の念がヘクターの心を蝕み、同様にレーヴァの心をも締め付ける。
だが次にレーヴァが目にした光景によって、その苦しみは不安へと変貌を遂げる事となる。
黒騎士の槍によって穿たれたソフィアの傷がみるみるうちに塞がり、代わりに黒い刻印が彼女の体中を覆っていったのだ。
「これは……『夢魔の刻印』か!」
レーヴァは誰にともなく呟く。やがてソフィアの傷は完全に塞がり、彼女はい奇異を吹き返した。
「ヘクターよ、お前の妻は死よりも過酷な苦しみを強いられる事になりそうだ」
そう言い残し、最後に上空へ大きな火球を飛ばした後、彼はレーヴァテインの中へと吸い込まれていった。
さてさて、そろそろ長ったらしい文章に慣れて頂ける頃でしょうか?
次回もよろしくお願いします。