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教室に入ると、なにやらいつもとは異なる騒がしさで溢れかえっていた。
ある一つのうわさ話、剣呑な内容のそれで教室内は持ちきりだった。
嫌でも耳に入る。
クラスメイトの一人が自殺したという。
「お姉様、顔が青いですよ。大丈夫ですか」
琴峰は戸籍上、私の義妹という立場であり、外で赤音様というのもおかしいということで、私のことを姉と呼ぶ。
そもそもいかに奴隷とはいえ、同級生に様を付けるのがおかしいのだが、琴峰にもこだわりというものがあるらしい。数々の譲歩の結果が、外ではお姉様という呼称を使う、ということだ。
それはともかく、私は今にも倒れそうな心持ちだった。
彼について私が知ることは多くないが、それでもクラスメイトの一人、同じ学年、まだ十代の青少年が死んだ、という事実に、私は打ちのめされていた。名前程度しか知らない人だったが、確かに昨日までは生きていたのだ。
「川内くんが、死んだのね。そう」
平静を装ってみたが、駄目だ。吐き気が止まらない。目眩がする。
私は昔からそうだ。何か心に衝撃が走るとき、それを防御するすべを知らない。
「お姉様、保健室に行きましょう」
「いいえ、大丈夫。慣れたものだわ」
「そんな倒れそうになっていて何をいうのです」
「……貴女はそんな私が好きなんじゃないの?」
先日の会話が思い起こされる。
かなしい顔をした私が好きだ、と、彼女は言ったのだ。
「わたしは、そんな貴女を守りたいのです」
真剣な顔で、窘められた。
「貴女が好きなのですから、貴女の為ならわたしは何でもいたしましょう。貴女を傷つけるものは許さない。そんなことは、当然でしょう」
「……私が悪かったわ。でも、保健室は本当にいいの。大丈夫だから」
「そうですか。でも、これ以上様態が悪くなるようでしたら、無理矢理にでも連れていきますからね」
会話しながら、私は寒さに打ち震えていた。
空虚さを感じる。
クラスメイトが死んだことについて、幾つもの感情が湧き上がる。
『辛い』『可哀想』『寒い』『死』『羨ましい』『悲しい』
自殺。死とは、救いになるのだろうか。
この寒い世界からの離脱。
それとも、永遠の寒さを強いられるだけだろうか。
そもそも、死とは何だろうか。
ホームルームが始まり、授業が始まり、その日が過ぎ去ってまで、私はそのことについて考えていた。
死の実感というものが、私にはひどく身近に感じられる。生の実感とは裏腹に。
そもそも私は、生きていたいのだろうか?
根源的な問いに触れることになる。
私はいつだってそうだ。ニュースで誰かが死んだ時、身近な不幸があったとき、死について、そして同時に生について考える。
私は、生まれた時から、望んで生まれてきたわけではない。そういう思いが強くあった。
生は怖い。生き物が、生きているだけで恐ろしい。あの生誕を経験してしまったせいだろうか。私は、生と死に対する価値観が、あやふやなまま固定されてしまっている。
私は生きながら生に恐怖している。確かに生きているはずでありながら、それから逃げるようにして毎日をやり過ごしている。
それはもしかしたら自殺した彼に対する冒涜で、のみならず生きとし生けるもの全てに対する冒涜的行いかもしれない。
私は彼のことを何も知らない。家庭環境も交友関係も、何一つとして。彼には死ぬだけの理由があり、私にはなかった。それが、生と死を分けているだけなのかもしれない。
しかし私は、生という事象に対して、これ以上目を逸らし続けて生きていくことが出来ない、と感じてしまった。
それこそ、後追い自殺でもしてしまいそうなほどに。
そもそも、生まれてきたことが間違いだったのではないか。
暗い思考が私を侵す。私は私が生きていることと、同年代で死んだクラスメイトの生を見比べてみる。私と彼は何が違ったのだろう。何故、彼は死を選べて、私にはそれができないのだろう。
死ぬことは簡単だ、今からでも学校の屋上にいって、柵を飛び越え、一歩を踏み出せばいい。
一歩。幸せに向かうためには、一歩ずつ歩いて行くしかない。それは途方も無い道程で、千里の道を歩んだとしてもゴールの影すら見えないものだ。
だが、屋上からの一歩は、そこがゴール地点となる。
幸せへのマラソンに対する、最高のショートカット。もしくは、不幸への片道切符。あるいは、幸福への片道切符であるのかもしれない。
だが、戻ってこれない、というのは嫌だ。
母の子宮から追い出されたときからのトラウマ。不可逆現象なんて大嫌いだ。
死ぬことは、難しい。
そもそも生きることは不可逆現象の連続で、不可逆現象には必ず不幸が付きまとう。成長なんて老化の言い換えでしかない。小学校から中学校に、中学校から高校に上がっても、その度に何らかの悲しい出来事が付きまとう。知人との別れや、それまでの生活からの追放。
そう、追放だ。
私は母の胎内から追放され、またあらゆる場所から追放されてきた。
実家だって、成長したらお見合いなり何なりで結婚することになり、追放されてしまうのではないだろうか。
「かなしいお顔をしています。お姉様。またなにか、悩み事があるのでしょうか」
「琴峰」
琴峰は、私が生きてきた中でほぼ唯一といってもいい、私が手に入れた私のものだ。
私の奴隷。私だけの。
しかし、本当に、この日本で、いつまでも私の奴隷などという立場でいてくれることが、許されるのか?
彼女は人格を持った人間で、私の一部ではない。いずれ何処かへ離れてしまうのは、当然の事のように思える。
成長して、結婚して、子を孕み、母となり、老いて死ぬ。おそらく彼女の人生において、私というファクターは全く必要がない。彼女は聡明で、美しく、誰からも愛される人間だ。
私に恋をしている、という一点こそ、彼女の汚点となっているのではないか。
私は彼女に問いかけようと思う。
「琴峰。もし仮に、私が死んだら、どうする?」
「死にます。今この瞬間にでも」
曇りなき瞳で、私を見据える。
彼女は本気だ。
私の苦悩などまるで問題にしていない意思の強さ。琴峰は、私の理想、なのだろうか。
「そしてわたしが先に死んだ場合、お姉様は、後追い自殺でもなさるのでしょうね。大変悲しいことですわ」
その、笑顔。
もし今、私から琴峰が失われたら。それは半身を失う、などという生易しい表現ではない。
それこそ、全身を失うかのような。
「琴峰。お願いだから、貴女は何があろうと死なないで。私のそばにいて。たとえ私が――」
それ以上は、言葉にならなかった。だが、琴峰には伝わっただろう。言葉以上のことが。私の感情が。それでも彼女は、私が死んでしまったら、後を追うのだろうか。それが、愛なのだろうか。
「私はお姉様から離れません。わたしを信じてください。わたしはつま先から頭のてっぺんまで、貴女のものです」
ああ、甘い言葉が絶望となって私を打ちのめす。
琴峰が私に依存しているのではない。私だ。私が、彼女に依存しているのだ。
琴峰はただ、それを知って私を気遣っているに過ぎない。
私は、琴峰との出会いがなければ、今はもう生きてはいなかったかもしれない。そもそも、琴峰と出会うまでに自殺しなかっただけでも奇跡のようなものなのだ。
弱い。圧倒的に弱い人間だ。
そして、根源的な疑問。
「私は、琴峰を愛しているのでしょうか」
あえて琴峰に聴かせるように、言葉にした。それだけで身体が打ち震えた。
奴隷。親友。姉妹。恋人。私と琴峰の関係は、一言で言い表せない。
「わたしは、お姉様のことを愛しております」
「それは、恋人としてかしら。主人と奴隷としてかしら。それとも、母と娘のように……?」
「どのようにでも。たとえばわたしはお姉様に欲情しますし、お姉様に目を掛けられることは格別な喜びです。そして、差し出がましいとは思いますが、お姉様の弱さを守らせていただくことに至福を感じることもまた、事実です」
「貴女が私のことを愛しているのはわかった。今更疑いはしないわ。問題は、自分でもどうかと思うのだけれど、私が貴女をどう見ているかなの。羨望、嫉妬、幾分かの申し訳なさや、憐憫。愛おしさを覚えることは確かだけれど、そこに愛はあるのかしら。私にはわからないのよ。貴女は、私にとって苦悩だわ」
「お姉様は、自分のことでいっぱいなのですね」
くすり、と。
親しみすら込めた笑顔で、琴峰は私を見た。
その通りだと思った。
私は、琴峰を見ているときでさえ、私のことしか考えていない。
「わたしは、そんなお姉様を愛さずにはいられません。か弱いか弱い、赤子のようなおひと。これ以上愛されるべき存在が、他にいるでしょうか? お姉様は、生物としてずるいですわ」
そんな、冗談なのか本気なのか判別できない戯言でさえ、私にとっては紛れも無い真実。
そうか、私はずるかったのか。
その通りでしかない。