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サン

 思えば、私は暖かさというものを知らずに育った。

 いや、正確には違う。

 ただ私は、他の人があたりまえに感じる、嬉しい、楽しい、といった感情を実感できずに育っただけだ。

 なのに、悲しい、寂しい、という感情だけは人一倍あって、それが私のすべてといっても過言ではない。

 なぜ私はそのような人間なのか。

 理由は明白である。


『私は、私が生まれる前のことを覚えている』


 母の胎内にいたときの暖かさを覚えている。

 その一点だけが人と違い、そして、そのことに人生のすべてを狂わされている。

 そもそもなぜ、私以外の人間は、あの幸せの時間を忘れることができているのだろう。

 私は未だにあの、母の胎内で羊水に包まれた時間が忘れられずに、外の世界を生きている。

 どうしても埋められない虚無感のようなものを抱えて、悲しみ以外のすべてを母の胎内に残して生まれてきた。それが私だ。

 あの至福の時間に比べれば、すべての楽しい事柄は色褪せてしまい、味を失う。

 ただ、琴峰と肌を触れ合わせている時だけは、少しだけ、ほんの少しだけ、その虚無を埋められるような感覚がある。

 琴峰と肌を合わせるようになったのは、実を言うと私が彼女に押し倒されたためであり、形だけを見ると私は奴隷に屈服させられた情けない女主人ということになるのだが、そのことは重要ではない。

 私が琴峰と出会ったのは、私たちが中学三年生の春のこと。

 当時、相野琴峰という少女は、誰の目から見ても非の打ち所のない才女であった。

 成績はどんな科目でも一番。加えてスポーツも万能で、空手部の部長をしていた。

 実家は実業家で、裕福な家庭だったそうだ。

 だが、それも変わる。世界的な不景気の煽りを受け両親が事業を失敗し、相野家は一家心中を図った。

 その結果は、琴峰のみを残して全員死亡。琴峰のみ、首吊りに使った縄が切れて助かったということらしい。

 その後、どういった経緯か知らないが私の父が琴峰を養子に受け入れ、私と引きあわせた。

 琴峰の開口一番の言葉は、今でも忘れられない。

『私は貴女の奴隷です。貴女にすべてを尽くす為に存在します。ですから、どうぞよろしくお願いいたします』

 琴峰がどういった心情で如月家の養子となり、また私の奴隷という立場になったのかも、私は知らない。

 そういうものなのか、と、ただ受け入れただけである。

 家族を亡くした同情のようなものはあった。だから、私も琴峰に対してできる限り優しく接した。

 以降、琴峰は私の奴隷として、また得難い学友として、如月家の一員となった。

 もっとも、奴隷と友人という立場が同時に成り立つかは私には定かでないのだが。

 その琴峰は、今が幸せだと言った。

 この上なくはっきりと。

 翻って私は、どうしたら彼女のように、自分が幸せであると感じることができるようになるだろうか。


「何を悩んでいるのです、赤音様」

 思索に耽っていると、琴峰は心配そうに私の顔を覗きこんだ。

「朝の、お父様の言ったことでちょっと。琴峰、幸せって何かしら」

「わたしにとっては、赤音様のお側にいることがなによりの幸せですわ」

「『私にとっては』ね。つまるところ、幸せというのはそれに尽きるでしょう。それでは、私にとっては幸せとはどういったものか、少し考えていたの」

 なんていってみても、答えは既に出ている。

 私はただ、帰りたいだけだ。

 あの、素晴らしい……羊水に包まれた、母のゆりかごの中へ。

 それは、永遠に不可能なことである。

「琴峰。貴女はなぜ、幸せなの? 私といることに何の意味を感じて、何を求めているの?」

 そして、何処へ向かうのか。

「それはおそらく、恋をしているからですわ。奴隷の身分で僭越ですが、わたしはただ、貴女に恋をしているのです。おそらく、そういうことなのですわ。求めずとも、思うことが幸せなのです」

 花の咲くような笑顔で、私に恋をしていると告げる。その感情は何処から来たものだろう。

「実はわたし、ずっとずっと昔から、赤音様に恋をしていたのです。胸に秘めて幾星霜、今、幸せでないはずがないではないですか」

 知らなかった。

 私が知るかぎり、私と琴峰に接点はない。せいぜい学校のテストの点数が同じだったくらいしか共通点もない

「そう。それはいつからのことかしら」

「赤音様のお母様が亡くなられたとき、お葬式の会場で一目惚れでしたわ。当時、まだ健在だった両親に連れられて、わたしも参列していたのです」

 それは、私が小学生に上がるかどうかといった頃の話ではないか。

 ずきり、と胸が痛んだ。

 母を亡くしたときの寂しさが、おもむろに蘇る。

 琴峰は手のひらを私の頬に当てて、瞳を覗きこんだ。

「ああ、そのお顔、その表情です。なんてかなしい、かなしいかなしい顔をする人なんでしょうと、その日、わたしは一瞬で心を奪われたのです」

 唇が近付く。

「宝石が砕ける瞬間を、時を止めて封じ込めたようなお顔。赤音様は時折、いえ、頻繁にその表情をなさいます。どれだけの悲しみが貴女に渦巻いているのでしょうか。それからふとした時に貴女を見て、ますますそのような表情をなさる赤音様に、わたしはすっかり魅了されてしまいました」

 琴峰の瞳に自分の顔が映る。

 もう吐息がかかるほどに近い。

 いつだってそうだ。初めての時も、琴峰はこのように私の心に忍び込んできた。

 寂寞の思いを引き出して、私の心をかき乱し、拒めないように。

 食虫植物。

 琴峰の本質。

 彼女の口内は、母の子宮のように暖かい。

「赤音様。貴女は――美しい」

 ああ、それは、どうも。


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