青天の霹靂
てくてく
てくてく
てくてくてく
それは、なんの変哲もない日常の上に突然現れた。現れた、と言うには一瞬すぎるほどに垣間見えただけだったけれど。
無理矢理考えて、いつもと違ったところを頑張って何かに当てはめるとするならば、それは、ほんの少しばかりの旅先だったことだろう。
ただの、突発的な旅行とも呼ばないような、ふと普段乗っている電車の終電まで行きたいと言う気持ちに駆られるようにして、たどり着いただけだった。
電車にただ揺られてゆき着いたそこは、まさに夏を体現した場所だった。
ー・ー・ー
電車から体を出してホームに足をついたその瞬間から、私はなぜか懐かしさに駆られた。
まだ電車内の冷房で冷えたままの体に、ホーム上をぬけるぬるくも爽やかな風がふわりと掠める。
自分の体が、この空気に溶けていってしまいそうな感覚。ゆったりと流れる時間そのものに、この体を預けてしまいたい。
だけど、来るだけやってきていつまでもホームの上に居座るのはマナー的によろしくない。きょろきょろと見渡すと、改札口を見つけた。
私の地元の駅も、都会から見たらちんけなものだろうけど、この駅は私のそれより、もっと小さく見えた。馬鹿にしてるわけじゃない。なぜならそれは、すっきりとまとまっていたから。
駅として必要なものだけを取り揃えたそれは、ホームと改札と、屋根があれば充分だと、胸を張っているみたいで。だけど、決してそれを他の人には見せない。普段はきっと、いつも通りひっそりとこの電車に乗ってどこかへ揺られて行く人を見送り、やってきた電車に乗っていた人々が降りてくる様を、見守っているのだろう。
ぴ、と改札をくぐると、そこは夏だった。
目の前に広がる、青々と茂る緑が、畑なのな田んぼなのかわからない自分が恨めしい。
ひと昔前のコンクリートで丁寧に舗装された道、ふと置き忘れられたような遮断機、そして、誰かがいつも乗っているのであろう白い自転車が、そこにあった。
写真、を撮ればよかったのかもしれない。
でもなぜか、できなかった。
撮って仕舞えば、きっとその写真を見るたびに、私は今日を思い出す。けれど私が惹かれた全てのものは、写真に収まるほど、この小さな画面に入り切るほど、狭いものではなかった。
広がる全ての物事が、そこにある全てのものや見えないものまでもが、私の目や耳や鼻、あるいは皮膚さえも惹きつける。私はそのまま動けなかった。
どれぐらい、私はぼんやりとこの全てを眺めていたのだろうか。
ふらり、と体が揺れるようにして、私はようやく歩き始めた。
吸い込まれるかのように、遮断機の方へ。
幸い、電車はあまり来ないようで、ずっと開きっぱなしのそれの上に立つ。
ぼうっ、と続く線路を見やる。あの先に、私の家が、私の街が、ある。あの忙しなくて、足をもつれさせた拍子に取りこぼされそうな街。
嫌い、ではない。でも多分好きでも、ない。
さして変わらない毎日を繰り返すのは、ひどく退屈だから。
夏とは言え、暗くなる前には帰らなくてはいけない。
親は心配するだろうし、それがきっかけでこんなところまで来ていたことを知られてしまうのは、もっと嫌だ。
ふい、と私が、空から視線を逸らしたその時。
突然、空気が変わった。
髪がひりつくような、そんな空気が顔面に押しつけられる。そんな生ぬるい息を、そっと、吸おうと、した。
カッ、と空が光った。
どこまでも広がる青空に走る、一筋の稲光。それは見たこともないぐらい長くて、空の一番上から遠く見える山の端に突き刺さらんばかりの勢いで光った。
決して光は強くない。目が眩むようなそれじゃない。
けれど、なぜだか目が離せない。
私の肩から、ずるりとリュックが滑ったその直後。
バァ ァ ァ ァ ァ ッ !! ン !!!
つんざくような音だ、なんて言葉を当てはめても足りるになるような轟音じゃない。
耳を、目の前に現れた誰かにその両手で掴まれて、がっと前に引っ張られるような感覚。稲妻に着いている『目』と、私の目があった気がした。
纏っている服も、かけられた肩書きも、全部この『目』の前では無意味だった。
ない、のだ。文字通り全てが、存在しなくなる。
そこにあったのは、大地と空と、気まぐれに降りる雷と、それをただ見ることしかできない私。
息を、忘れていたと思う。
真正面に落ちた雷に、完全に体と心の全てを奪われていた。俗に言う恋だとかそんなものじゃない。もっとずっと昔からあるような、心が震えて仕方がないのに、涙はどうしても出ず、しかしやはり目と魂にに焼きついて離れない、運命の出会い。
あぁ、これを青天の霹靂と呼ぶのか。
心はどこか麻痺していて、ぼんやりと今見た状況に名前をつけて当てはめようとしていた。そんなことできるわけないと、心のどこかでは分かっていながら。
ー・ー・ー
気がついたら、私は帰りの電車に揺られていた。
膝に乗せたリュックを、そっと抱きしめる。電車は相変わらず寒かったけど、ガラガラに空いたこの車両の中に一人だけの私は、私の周りだけ、妙に生ぬるい空気をはらんでいる気がした。
そう。ちょうど、あの夏の空気がまとわりついて。
まだ、心臓が動いている実感がない。あの時確かに、私は心の臓を鷲掴みにされた。
ぬるりといつのまにか私の体に差し込まれていた何かに、突然握り込まれたのだ。
痛みなんて感じなかった。は、と一瞬息が止まるような、このまま息絶えてしまうのも自然に思えるような、違和感に似た体験。
それが、生物としての単なる恐怖によるそれだったのか、それすらも凌駕した何かに対する心の震えだったのか。私には、わからない。
頭はぼんやりとしているのに、目は妙に冴えている。
何かを感じるための調節弁を、無理やりこじ開けられた後。ものすごく脱力しているのに、どこかうっすらとした高揚さえある。
言葉を重ねれば重ねるほどこの感覚が薄れていってしまうことを知りながら、私はずっとあの一瞬の出来事を心の中で反復し続けていた。
多分これからしばらく、もしかしたらずっと、地元の駅で線路を見るたびに思い出すだろう。この線路を辿った先にあった、日常の隣にある何かに。
ー・ー・ー
いつかこの記憶が、たくさんの記憶の記憶で塗り固められて、あの時の生々しいまでの衝撃を百分の一に満たない程度にしか思い出せなくなったとしても、私はこれをやめられないだろう。




