世界からドの音が消えた日
掲載日:2026/07/02
世界から、正しい「ド」の音が消えた。
最初は、朝一番に淹れるコーヒーの湯気、あのケトルの沸騰音が半音低く聞こえた。スマホの通知音も、駅の自動改札のチャイムも、まるで泥に沈んだようにひずんでいる。絶対音感を持つ僕にとって、それは世界が丸ごと狂ってしまったかのような激痛だった。
耳鼻科の診断は「異常なし」。誰も僕の訴えを信じない。それどころか、狂っているのは世界の方だった。
一週間が経つ頃、僕は気づいた。不快でしかなかった街の雑音――深夜の蛍光灯が発する「ジー」というハムノイズ、冷房の駆動音、遠くの工事現場の打撃音。それらが完璧な調和を保ち、巨大な一つの「楽曲」を奏でていることに。
それは、人間が作れるような高尚な音楽ではない。もっとドロドロとした、原初の怪物を呼び覚ますような、おぞましい賛美歌だ。音のパズルが、街全体を使ってじわじわと完成へと向かっていく。
そして今、僕の耳元で、僕自身の心臓がその曲のラストノート(最後の1音)に合わせて、狂ったリズムを刻み始めている




