精神的自立
人類は物質的には他者に依存していたとしても、精神的には他者から自立するべきだ。それは、他者への精神的依存からの脱却をなくして、人間が自身の、他者を踏みつけにして成り立つ欲求に歯止めをかけることなどはできないからだ。
このことを考えるにあたり、まず、前提として人間の根源的な欲求は承認欲求であるということをお互いの共通認識として持っておきたい。これに関し、いや三大欲求や、もしくは他の欲求こそが人間の根源的な欲求だと主張する方もいるだろう。これらの意見に対し、私は明確に反論を持ちうる。
まず、三大欲求だが、これらは完全に満たされうる。これこそ、三大欲求が人間の根源的欲求足り得ないことの証明である。性欲に関しては、一概に言えないところもあるが、少なくとも食欲、睡眠欲に関しては、どれだけ精神的に他者に依存していたとしても、満たされうるし、一度満たされて仕舞えば、暫し、その欲求が表に出てくることはない。これを、生物の根源的欲求と呼ぶならまだしも、人間の根源的な欲求と呼ぶには流石に無理があるだろう。というか、即身仏などに見られるように、三大欲求を意志の力で超越した例など探せば幾らでもある。そんなものは、人間の根源的な欲求と呼ぶには値しない。
では、他の欲求についての反論だ。これに関しては少々ややこしいが、皆さんに納得していただけると思う。その内容とは、他の欲求が発生した原因を探っていけば、必ず承認欲求に行き着くというものだ。何をいってるんだと思われるかもしれない。しかし、三大欲求を除く他の欲求について考えてみてほしい。これらは、絶対に人間が生きるために必要な欲望なのかというと、決してそんなことはないし、基本的に、今よりも自分にとっていい環境、状態にしたいというものであるという共通点がある。では、なぜ今よりもと思うのか、その理由は単純だ。今の自分よりも他者に承認してもらえる存在、状態に、なりたいと思うからだ。そうでなければ、今よりもなどとは思わない。こういうと、こう言ってくる人が出てくるだろう。では、変わりたくない、このままでいたいという欲求は何なのかと、他者からの承認から遠ざかるような欲求ではないかと。これに対する反論もシンプルだ。変わることで他者からの承認が得られなくなるかもしれないから変わりたくないと思うのだと。
上記の内容で、人間の根源的な欲求が承認欲求であると納得してもらえたかなと思う。勿論、こじ付け、論理が無茶苦茶だと思われる方もいるだろうし、それに関してそんな事はないというつもりはないが、今ある様々な欲求を、自分以外の存在がおらず、何でも自分の思い通りに動く世界に自分がいたとしても持ち続けられるのかを考えてみてほしい。仮に、その答えが否なんだとしたら、少なくとも今あなたが持っている欲求は、他者からどう思われるか、どう接せられるようになるかを中心に置いたものであり、それを私が承認欲求と言い換えているんだと理解してもらいたい。
ここまでで。勘のいい方なら気づいたかもしれない。私が今まで語った承認欲求というものは、他者からの承認でしかなく、他者以外、つまり自分自身からの承認を対象にしていないということに。それは、私がら自分自身で自分を承認することこそ、他者への精神的依存からの脱却を果たすのに必要不可欠なことと考えており、その場合、発生する欲求は基本的には他者を踏みつけにして成り立つものではなくなるからだ。
ここで、一度、そもそもなぜ人間の根源的な欲求が承認欲求なのかということについて考えてみよう。私は、それは、人間が集団でなければ生きられない生物であるからだと考える。人間は、単体では弱い。これは自明だろう。人間を素っ裸でサバンナのど真ん中に置き去りにしたとして、人間が生還する事はほぼ不可能であることからも分かるように、人間は本来生物ピラミッドの中位ぐらいの存在であり、本来なら間違っても頂点なんかにはなり得ないのだ。しかしそれを人間は、集団行動と知恵によって成し遂げた。ここで肝となるのが集団行動という点だ。生物としてどう考えても不完全である人間が、生き残ってきた理由を考えると、我々の本能に集団行動が刷り込まれていてもおかしくはないし、きっとそうなのだろう。しかし、集団行動というのはいいことばかりではない。特に文明が起こる前においては集団行動の悪いところがはっきりと出た。それは、無能を殺して排除するという行動でだ。姥捨山などの昔話で聞くように、働けない所謂穀潰しは集団には必要ない。文明が起きてもそのような風潮はなくならなかったのに、その時よりも生存が過酷な時代ではいうまでもない、無能を生かすことが、そのまま集団の全滅に直結する可能性があったのだ。つまり、そのような時代では、他者からの承認を得ることが、自身の生存に直結していたのだ。そして、人間の構造自体は縄文時代から変わっていないことを踏まえると、人間の根源的な欲求が承認欲求であることがわかると思う。
ここで、なぜ人間が他者からの承認を求めることが問題なのかについて考えよう。それは、自分自身を自分で評価する基準が他者になってしまうからだ。それがなぜ問題なのかは、大きく二つの理由がある。一つ目は、欲求に歯止めが効かなくなるからだ。他者から承認して欲しい、賞賛されたいという欲求は止まることを知らない。世界の頂点に到達するまでは、誰の方が自分よりも他者に承認賞賛されている、あいつよりも他者に承認賞賛されたいと思い、仮に世界の頂点になれたとしても、誰かにその立場を奪われるかもしれないと思い、常に他者からの承認賞賛を求め、行動するようになる。しかもそれは、誰よりもという欲求であり、簡単に人を排斥、貶め、自分を相対的に高い位置に行こうとする方向に向かいがちであり、いじめなどの問題もそうであるし、世の中で起こる問題の多くはこれが原因で起きている。また、このような考え方では満足することなどは出来ない。幸せは人それぞれという言葉があるが、それは今の自分の状態を幸せだと定義することで幸せだと人は感じるためで、上記のような有様では自分の状態を幸せだと定義する事は不可能であろう。人が幸せになるためにも、他者からの承認を求めることをやめる必要がある。そして二つ目の理由だが、それは、自分自身が消えてしまうことにつながるからだ。これがどういうことかを説明するために、まずは、人間の自我意識心といったものがどのように形成されるのかを考えてみたい。まず、これは前提だが、生まれたばかりの赤ん坊に自我などはない。全て、遺伝子に組み込まれた本能によって彼ら彼女らは動いている。しかし、人間のような複雑な生物は生まれてから死ぬまでの全ての行動を遺伝子に本能というタサ形でプログミングする事はできない。よって、生まれてから人間は、周囲の人間や動物、ものの行動を状況と合わせて模倣するようになる。しかし、全ての人間や動物、物が同じ行動をするわけではない以上、必然的に我々人間は成長する過程において、どの状況で誰の、何の合同を模倣するのかという選択を迫られることとなる。これを意識的、無意識的にあらゆる状況に対して行うことにより人間は自我などを獲得していっていると考える。これを踏まえると、自分自身のいわばアイデンティティというものは自身の一つ一つの選択により形成されるのである。ここまで聞けばお分かりだろう。どのような選択を自分で行うかが重要であるのに、他者からの承認を求めて行動を行うと、行動の理由が自分では他者になり、自分自身というものを失ってしまう。
上記のことから、私は他者からの承認を求めることを否定するのだし、他者からの承認の代わりに自分自身による自分の承認を行うべきだというのだ。それができれば、まず間違いなく自分自身というものを失うなどといことは起こり得ないし、どのような状況であっても今自分は幸せだと思えるようになる。
このことを踏まえて、どのような教育が望ましいかを考えたい。
まず私は、誰かを貶めて相対的に自分の位置を上げようという行為が、逆に自分の位置が低いと思っていることの証明であるということを教えたい。というのも、最初から急に自分で自分自身をしょうにしようなどといってもできるわけではない、なのでまずは他者からの承認を求めるがあまり、誰かやものを貶める行為を抑制しようと思ったからだ。上記の内容を教えられれば、いじめなどで誰かを貶める行為は、いじめる側が自分に自信がないカッコ悪く、ダサいやつだという認識を全体で持つことができ、そもそもいじめのようなことを行う人間も減るだろうし、いじめる側といじめられる側の他者からの評価的な意味での立ち位置が逆転し、自分もいじめられるかもしれないということがそこまでリスクにならず、周りも止めやすくなるのではないかと思う。そして、そういった思考が最終的に人がどうこうではなく、自分が自分自身を人に誇れるような人間になるべきだという思考に結びつけばいいと考える。
そして私は、自分自身というものを形作るのは自分の一つ一つの些細な日常生活のことも含む選択であり、それを大事にして欲しいということを教えたい。それは、人間自分のやりたいことや、何をやるかを意識的に決めて行動すると、それが上手くいく上手くいかないに関わらず何だかんだ充足感を得るものであり、そこから自分の一つ一つの選択を大事にしていくようになればいいし、他者からの承認などなくとも、精神的充足感は得られるというとを知り、他者からの承認にこだわる必要などないということに気づいていってくれればと思う。
では具体的にどうするといったところまでは固めきれていないが、教育などを通して、徐々に段階を踏んでいき、人間の他者への精神的依存からの脱却を成し遂げられたらと思う。




