スパイス
私は腹を空かせていた。午前中の商談がなかなかまとまらず、昼食をとる時間がなかったのだ。出張先で土地勘がなかったからか、近くに飲食店を見つけられなかったと。なんにしろ、今は飯屋を見つけることが最優先事項だ。ああ、腹が減った──
が、しかし、まったくと言っていいほどその手の店がなかった。スーパーマーケットはもう閉まっているし、コンビニもない。別に、ど田舎というわけでもないのに。スマホで調べても一軒も、……いや、一軒だけ見つけた。
店名「コンセプトレストラン『小説の庵』」。変わった名前だ。コンセプトレストランというのは聞いたことがないが、おそらくコンセプト・カフェみたいなものだろう。世界観を楽しむための空間だから、料理の味には期待できないか。けれども、そんなことは飢えた獣も同然の私には些細な問題だった。私は速足で、目的地へ歩を進めた。
そこは案外すぐに見つかった。というのも、建物が、そうだな、コンセプトである小説用語で表すならいわゆる館モノの舞台となるような、厳かな洋館だったからだ。小説の庵と聞いて旅館のような和食の店をイメージしていたので、いささか面食らったが、気を取り直して扉を開いた。繰り返す、そんなことは些細な問題に過ぎない。
「いらっしゃいませ、ようこそ『小説の庵』へ。おひとりさまですか」
「ああ」
「ようこそおこしくださいました。さあ、こちらのお席へ……」
コンセプト、という割には普通のレストランだ。私にとってみればそっちの方がありがたいのだが。
「さて、お客様。メニューをお渡しする前に、当店の『掟』をご説明いたします」
「なるほど、掟ときたか。悪いんだが、私はただ食事にありつきたいだけなんだ。他に客もいないようだし、そういった設定云々は抜きにして、早くメニューをくれないか」
「しかし、お客様、どうしても申し上げないわけには……」
「いい、いい。そうか、わかったぞ。君も雇われだから、店長か誰かに言いつけられるのが怖いんだろう。それなら約束するよ、君が説明をしなかったことは、誰にも言わない。この身に誓ったっていい」
そう言った途端、店員はパッと顔を明るくした。
「本当でございますね。そういうことでしたらお渡ししましょう、どうぞご覧ください」
「ありがとう、君もなかなか大変だな。……うわあ、どれも旨そうだ。値段もそこまで高くない。そうだな、これとこれと、それからこれを大盛りで。飲み物はこれで頼む」
「かしこまりました。それからお客様、どうか『掟』のことは」
「店長には内密に、だろ。わかったから、さっさと注文を店長に伝えてくれ。もうはらぺこで死にそうなんだ」
そこまで言って、やっと店員はその場から去った。よっぽど店長が恐ろしいんだろう。
料理は案外早く届いた。皿を持ってきたのはさっきの店員ではなかった。
「ようこそ『小説の庵』へ。わたしは店長のクチナシといいます。お待たせいたしました」
「おお、ありがとう! やっと飯にありつけるよ!」
「お待ちください、お客様。ちょっとご確認しますが、当店の『掟』についてはご存知で?」
「ん? ああ、もちろん。しっかりとさっきの店員さんから聞いたよ」
「さようですか、それはよかったです。お食事のお邪魔をして申し訳ありません。どうぞごゆっくりお楽しみください」
艶やかな光沢を放つ料理の数々は、はたして想像以上だった! さきほどまでは慌てていて気がつかなかったが、メニュー名もなかなかしゃれている。「登場人物」というかごいっぱいの小さなパンたちは、どれも味と食感が異なって、しかも食べ進めていったり複数を同時にかじったりするとそれらが変化していく。食べるのが楽しくて仕方がない。「舞台」という名前の大盛りのシチューは、そのままでも十分に旨いのに、「登場人物」パンにかけて食べると、その絶妙なマリアージュといったらなかった。「情熱」のワインは一口飲むと咽喉が焼けるようだったが、二口目からはその、身を焦がすような舌触りに夢中になった。徐々に体がぽかぽかしてきて、その心地よさは、なにものにも勝った。とにかく、すべてが最高だった。
ひとしきりそれらの品を楽しんだあと、私は生唾を飲み込んでもう一つの皿の上を見つめた。そこには、「テーマ」という名の大きなローストビーフがあった。表面は引き締めたように炙ってあるが、その中にはたしかに、いまにも溢れ出さんばかりの肉汁が詰まっている。それを確信させる、堂々としたたたずまいだった。
覚悟を決めて、えいやっとその身にナイフを入れる。案の定、黄金色に輝く肉汁が泉のように湧き上がってきた。皿の上に散らすのももったいないので、切り分けるのはあとにして、とりあえず口に放り込む。
「……?」
なんだろう、不味いわけじゃない、のだが。期待していたよりは、味が薄い。しかも、なぜか噛めば噛むほど薄くなってしまう。私は、がっかりするというよりも、むしろ戸惑った。そして焦った。
こんなに薄いわけがない。だってそうだろう、少なくとも食べる前までは百点満点だったのだ。それを口に入れた途端に。こんなことってないだろう。絶対に、あり得るはずがないんだ。私はこれを美味しく食べなければならない。食べる義務がある。なにか方法があるはずだ、この状況を打開する一手が。
そこまで考えたときにはもう、口の中のローストビーフはなんともつまらないものになっていた。いやに湿り気のあるゴム塊。それが最もふさわしい形容だった。心なしか、皿に残った大きな塊も、色褪せて見えた。
私はさらに焦った。どうしようどうしよう。このままでは私は義務を果たせない。義務を果たせなくなったらどうなる? そんなこと、考えたくもなかった。
しかし、解決策は案外すぐに見つかった。パンかごの奥にひっそりと置かれた、木製の小瓶。私にはそれが、まるで神か救世主のごとく思われた。本能的にわかった。これだと。
小瓶のふたを開けると、黒っぽい粉と小さなスプーンが入っていた。どうやらスパイスらしい。私は夢中でそれを皿の上のローストビーフにかけた。
──輝いたように、見えた。そう、スパイスをかけた瞬間に。魔法だった。あるいは祝福だった。夢遊病にかかったみたいにおぼつかない手つきで、切り分ける。フォークを突き刺す。口に運ぶ。十分に咥内に収まったことを確認してから、唇を閉じる。その隙間からフォークを引き抜く。噛む。旨かった。噛む。涙が出た。そのときの歓喜は、筆舌に尽くしがたい。私は希望に満ち溢れていた。
ふと気がつくと、残りの肉がまたくすんできている。たいへんだ、早くスパイスをかけなければ。かけると肉はまた輝きを取り戻した。ところが、一切れ食べるごとに、残りの肉はどんどん鮮やかさを失っていく。慌ててスパイスをかける。一切れ食べる。その繰り返し。
そして、完食まであと一口というところで、小瓶が空になった。振れど揺らせど、もう一粒だって出てきやしない。今度こそもうおしまいだ。私にはあれが必要だった。
そう思ったとき、私はまたもや素晴らしい解を見つけた。そうだ、ここはレストランだ。そして私は客だ。いくらなんでも、あのスパイスの在庫が少しもないなんてことはあるまい。私は気を持ち直して、声を張り上げた。
「おおい、ちょっといいかい!」
店長がやってきた。名前はなんだっただろうか。いや、今はそんなことどうでもいい。あれが欲しい。
「いかがなさいました、お客様?」
「ああ、この小瓶に入っていたスパイス、あれをもっとくれないか。美味しくてつい使い過ぎてしまった」
店長はそこで、ほんの少しだけ眉をひそめた、気がした。
「お客様、失礼ですが『掟』をお聞きになったうえでの判断でございますか」
「掟ね。うん、聞いた聞いた。だから早く、さあ、スパイスを!」
店長の顔に、とびきりの笑顔が浮かんだ。
「さようですかさようですか! いや、志を共にする方と出会えて、わたしは本当に幸せ者だ! それでこそこの店を始めた甲斐があるというものです。いいでしょう、すぐにお持ちします!」
偉い上機嫌だったな。大方、こだわりの品を褒められて嬉しいんだろう。
こんなときになって、ワインの酔いが回ってきた。
「お待たせいたしました、こちらをどうぞ。さあさあ、どうぞさいごの一口を! 格別に美味しいこと請負ですから!」
私はふんだくるように小瓶を受け取ると、中身をあらためた。間違いなく、さっきまで私が食べていたものと同じだ。私はそれをかけた。ローストビーフは花が咲くように、みるみるその輝きを取り戻していく。私はもう一度あの快楽におぼれられることに私のすべてを懸けて感謝し、最後の一口をほおばった。
「本当にうれしいです、お客様。わたしの料理で傑作になっていただけて。やはり『死』は最高のスパイスですな。小説は、どんなにいいテーマを選んでも、インパクトがなければ読者に届きません。それを世に伝えるために、料理を研究し、店を開きましたが……わたしの訴えに心底から納得し、『掟』を破っていただいたのは、お客様が初めてです。改めて、感謝申し上げます」