第2話:海沿いの展望台
日が傾き、海が茜色に染まっていた。
宮城県・塩釜港。マリンゲートの展望台。
港に吹き込む潮風が、髪を揺らしていく。
波の音、遠くのカモメの声、潮の香り。
世界がゆっくりと静かになっていく、放課後の時間。
その空間に、私はひとり立っていた。
コーヒーの入ったカップのぬくもりを、両手で包む。
ここは、私が“落ち着ける”場所だった。
親が漁師で、私は幼い頃から海と一緒に生きてきた。
港の波音を子守唄に眠り、朝の船出を眺めて育った。
展望台から見える海は、日によってまったく違う顔を見せる。
晴れた日はきらきら輝いて、曇りの日は無口に揺れて。
そして今日の海は――茜色に沈みはじめていた。
(なんでだろう。胸が、ざわついてる)
その正体は、まだわからなかった。
コーヒーをひと口。
アイスなのに、喉の奥がほんのり熱くなる。
文化祭まで、あと一週間。
“動く机”の噂は、日に日に不穏さを増していた。
しかも今日、映画部の一之瀬くんが、学校から忽然と姿を消した。
――いや、“忽然と”という表現には語弊がある。
彼は、机に“座った”直後、消えた。
(本当に、偶然なの?)
何かが、噛み合いすぎている気がした。
そのときだった。
街のほうから、サイレンの音が聞こえた。
思わず振り返る。
ビルの隙間から、パトカーの赤いライトが見えた。
複数台。銀行の前で停車する。
集まる人。スマホを掲げる誰か。
制服の警官たちが、何かを追いかけていた。
(……事件?)
私は反射的にカメラを構え、ズームを最大にする。
ファインダー越しに、逃げる男が映った。
黒いフードを深く被り、顔は見えない。
けれど、その走り方が、どこか異様だった。
まるで迷いがなく、すべてが計算されたような動き。
私は思わず、シャッターを切った。
──その瞬間。
男が、こちらを振り返った。
(……見えた?)
信じられない。距離がある。
こっちは展望台の上。視線が合うはずなんて――
なのに、確かに。
あの目は、私を見ていた。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。
……そして、すぐ隣から声がした。
『……撮ったんだ』
「ひっ……!?」
私は心臓が跳ね上がる音を聞いた。
慌てて振り向く。
そこにいたのは――一之瀬 圭だった。
「……え? 一之瀬、くん……?」
学校で姿を消したはずの彼が、そこにいた。
制服のまま、潮風に髪をなびかせて。
「さっきの写真、見せてもらっていい?」
「え、う、うん」
私は手が震えそうになるのを抑えて、カメラの液晶を見せる。
銀行の前、逃げる男。
その背後に、騒ぐ人たちと警察の姿。
一之瀬くんは、じっと画面を見つめた。
「……君、すごいタイミングだったね」
その言い方が、妙にひっかかった。
驚きでも、感心でもない。
まるで、“予定通り”だったかのような。
(……知ってた? この事件が起こること)
その疑念が、胸の奥に静かに根を下ろした。
カモメが上空をかすめて鳴く。
私はようやく落ち着いてきた呼吸を整えながら、一之瀬くんの横顔を盗み見る。
冷静。だけど、どこか影がある。
そして、ふいに彼が言った。
『それ、証拠になるかもしれない』
「……証拠? 何の……?」
「さっきの犯人、銀行強盗事件の容疑者かもしれない。警察の発表では、まだ逃走中だって。……でも、君の写真には、ヒントが映ってる」
私は戸惑いながら、聞き返す。
「どうしてそんなこと知ってるの? 一之瀬くん……まさか、さっきの現場に?」
彼は、少しだけ目を伏せた。
そして、ポケットから一枚の紙を取り出し、私の手に握らせた。
『このアドレス。誰にも見せないで。もしまた何かあったら、ここに』
折りたたまれたその紙には、見慣れない文字列のURLが書かれていた。
「……君は偶然、現場を見ただけ。でも、もしその“偶然”が、誰かにとって都合が悪かったとしたら――」
「“目撃者”で済まないこともある?」
彼は、うなずかなかった。ただ、静かにその場を離れようとする。
「待って、一之瀬くん……!」
「気をつけて。君は、もう“普通”には戻れないかもしれないから」
そう言い残し、彼は展望台を去っていった。
私の手の中に残された、紙切れ一枚。
そして、得体の知れない不安だけが残った。
その夜。
私は、眠れなかった。
カーテンを閉めたはずの窓が、気になって仕方ない。
ふと立ち上がって、カーテンの隙間から外を見る。
街灯の下。
電柱の影。
誰かが、こちらを見ている――そんな気がした。
「……っ」
私は慌ててスマホを取り出し、さっきのアドレス宛にメッセージを送る。
《家の前に、不審な人がいた。もしかして……今日のことと関係ある?》
すぐに返信が届いた。
《俺がなんとかする》
その短い一文。
なぜか、胸が苦しくなった。
安心、ではない。
怖さでもない。
“巻き込まれた”という実感。
(あの日、あの机に出会ってから……私は、何かに引き込まれてる)
その確信が、心の奥で静かに脈打っていた。