消えた論文
リズが研究室に戻ると、室内が騒がしかった。
「あ、ライトさん!やっと戻ってきた」
研究員の一人に呼び止められ、リズは戦々恐々と辺りを見回す。
「あ、あの、すみません…休憩時間はまだ終わっていないはずですが……」
始業時間になっても戻らないリズを探して騒ぎになっているのかと思いきや、それを聞いた研究員はおかしそうに笑って首を振った。
「何言ってるんですか。ライトさんが見当たらないくらいで、こんな大騒ぎしませんよ」
はっきりと否定され、リズは勘違いに頬を赤くする。
「そ、そうですよね…すみません。思い上がりも甚だしくて……」
「クロエさんのレポートがなくなったんですよ!」
「え?」
驚いて顔を上げた時にはもう、研究員はリズには興味をなくしていて、人々が取り巻く輪の中心を興味深そうに眺めていた。
リズも急いで立ちはだかる人の壁の隙間から、覗き込む。
研究室は前方に監視部屋があり、そこを見下ろすような形で徐々に段下りとなっている。中段スペースには、各担当者が
モニターチェックするためのデスクとPCが並んでおり、その前でジンとクロエが向かい合っていた。
「それで……君は盗まれたと主張するのかい?」
「ええ。だって、あれは学会に提出する予定だった論文なんですよ?きっと盗用する気です」
まかりなりにも室長であるジンの前で腕組みをし、不遜な態度を崩さない女の名はクロエ。優秀だが、気位が高く普段から周りとの衝突も多かった。
だからなのか、野次馬をしている研究員たちにも同情した様子はなく、何なら面白がっているような節さえあった。
「じゃあ聞くが……どうしてそんな大事な物を、不特定多数の目に触れる所なんかに置いておいたんだ?」
「あら、室長がいつも仰ってるじゃないですか。大事なデータはデジタル上だけでなく、紙にして残しておいた方がいいって」
「今はそんな事を言ってるんじゃない……君の管理の仕方について疑問を呈してるんだ」
管理不足を指摘され、クロエは鼻白んだように言い返した。
「じゃあ、私が悪いって言いたいんですか?」
「誰もそんな事は言っていないだろう。ただ君は、はなから同僚を疑ってばかりで、他の可能性を考えられていない。
例えば、大事な書類だとは気付かずに単純に捨てられてしまっただけかもしれない」
「では、第三者が関与した事はお認めになるんですね?」
「そうとは言っていない。……とにかく、君はどうしても人のせいにしたいらしいな」
揚げ足取りばかりしてくるクロエに、流石のジンも辟易したように溜息を吐く。
周りもこの手の騒ぎには慣れているらしく、「またか」と言う雰囲気だった。
「どうしたの?」
「またクロエが……」
始業時間になり休憩を終えた研究員たちが、続々と入室してくる。ギャラリーが増え始めた事に気付いたジンは、入り口の方を軽くあごでしゃくった。
「クロエ、少し二人きりで話そう」
「いやです。圧力で言論を塞がれたくありません」
「…君がそんなタマじゃないのは、ここにいる全員が分かってる」
頭痛を覚えたように眉間を指で押さえたジンに、リズは同情を禁じ得なかった。
いつも自己中心的なクロエに対して、ジンは常に冷静沈着に対応している。リズの個人的な感情を抜きにしても、彼は評価すべき上司だった。
だが、流石にこのままでは拉致があかないとクロエも思ったのだろう。とっておきの切り札を出すように、新たな要求を口にした。
「室長、昨晩の監視カメラの映像を見せて下さい」
「監視カメラ?……いや、それは…」
言い淀むジンに、クロエは畳みかけるように主張した。
「カメラの映像を見れば、誰が持ち去ったのかすぐに分かります。それとも、室長は通常業務を止めてまで、この不毛な
やり取りを続けたいんですか?」
どの口がそれを言うのかと突っ込みたい所だが、リズを含め口を挟む者はいなかった。
「録画データを見るには……所長の許可がいる」
「分かっています。それでも私が直接行かずにわざわざお願いしているのは、室長の顔を立てるためです。研究成果が盗まれたかもしれないのに、何もせずに手をこまねいていたって不名誉を被りたいんですか?」
これには、野次馬に徹していた人々からも抗議の声があがる。
「おい、流石にその言い方は室長に失礼だぞ!」
「そうだ!元はと言えば、自分が……」
だが、続く言葉はクロエの射るような視線によって塞がれる。
「何?じゃあ、あなたたちが代わりに探してくれるの?」
一瞬で室内が静まりかえり、気まずい雰囲気が流れる。クロエは所内でも優秀研究員として認識されているため、誰も対等に立ち向かう勇気はないのだ。
それを察してかクロエが小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「出来ないわよね?だって、学会に発表できる論文も書けないような人たちが、ましてや人様の論文の責任なんて負えるわけないものね」
あからさまな侮蔑に、顔を赤くして憤りを覚える者、関わり合いを避けようとする者……など反応は様々だったが、リズは圧倒的後者で、自分に火の粉が飛んでくるのを避けるため急いで人波の後ろに隠れた。
それなのに、たまたま体がぶつかり目が合った研究員が、何かを思い出したように、ご丁寧にもクロエに聞こえるような声で言った。
「あ……そう言えば、昨日の宿直はライトさんでしたよね?」
その呟きをクロエが聞き逃すはずがない。
モーセの十戒のように人垣が割れて、クロエとリズが一直線に見つめ合う形になる。獲物を見つけた肉食獣のように、階段をゆっくりと上ってくるクロエに、リズは金縛りにあったように動けなくなる。きっかけを作った張本人は、バツが悪そうに人波に紛れていった。
「あ、あの……」
「ライトさん。昨晩、私の論文をどこかで見かけませんでしたか?あそこに置いておいたはずなんですけど……」
ジンの前にあるデスクを指差し、クロエはやけに丁寧な口調で尋ねる。
「い、いや…どうだったかな……た、たぶん、なかったと……」
「ねえ、ライトさん。あなたって、本当にあの天才ライト博士の娘なんですか?優秀な親と比べて自分が凡人だって気付いた時はどんな気持ちでした?」
それを聞いたジンが血相を変えて飛んでくる。
「クロエ、よせ」
肩を掴まれ不機嫌そうに振り返ったクロエは、煩わしそうにその手を振り払う。
「前々から思ってたんですけど……室長ってライトさんに甘いですよね?どうしてですか?博士への恩義ですか?それとも彼女に何か利用価値でも見出してるんですか?」
思わず視線を合わせたジンとリズに、クロエは小さく噴き出す。
「だって、そうじゃなきゃおかしいですよね。何の成果も出せない、ただ被験者に怯えているだけの人間が、この第一研究室に配属されるなんて」
「私に配属決定権はない」
「まあ、そうでしょうけど……それじゃあ、ライトさんにお聞きしますわ。何の才能も無い、凡人がエリート達に混じって働くのは辛くありません?
己の非才を嘆き、妬ましさに腹いせをしようとしたのではなくて?」
その場はすっかりクロエ劇場と化していた。取り巻く観客を前に、大仰な演技は続く。
「あなたは宿直の夜に、たまたま私の論文を見つけた。最初は破り捨てようかと思ったけど、その勇気はなくどこかへ隠した。あなたの性格上、盗用なんて大それた事は出来なさそうだもの」
一刻も早く否定しなければいけないのに、クロエの言葉がナイフのように心に刺さり、見えない血が流れていくのを感じる。
「反論は?」
「………あ、の……」
「わかった。所長に頼んで監視カメラの映像を見せてもらおう」
いきなり前述の言葉を翻したジンに、周囲の人々も驚きの声を上げる。監視カメラは所内の至る所に設置されているが、その映像はプライバシーも含め実験映像など秘匿性が高いものとなっているため、確認するのには研究所所長の許可がいる。なので、相当の事がなければ許可を求められない。ジンとしても自分の評価に影響するため、出来れば大事になるのは避けたかったはずだ。現に、先程までは消極的な態度だった。
「……本当にリズさんには甘いのね」
「違う。君がそこまで言うのなら、本当に誰かが故意に盗んだのか確かめようって言っているんだ。その代わり……もし君の推測が間違っていたとしたら、ここにいる全員に頭を下げて謝罪してもらう。いいね?」
「いいわ」
一瞬逡巡するような様子を見せたクロエだったが、それでもやはり自信はあると見えきっぱりと答えた。
「では、今から所長室に……皆は通常業務に戻ってくれ!もうとっくに始業時間は過ぎている」
「室長。私からも一つ提案が。もし第三者の関与が認められた場合、責任をとって辞任して頂けますか?」
ぞろぞろと業務に戻りかけていたギャラリーは、その言葉にギョッとして足を止める。
「何を言い出すかと思えば………君に私の進退を決める権限はない」
「どうでしょうか?私の論文が学会に発表されれば、世の中がひっくり返ります。その場合、室長は研究所の功績を妨げようとした戦犯として、上層部に報告される事になるでしょうね」
「……それは脅しか?」
常よりも一段低いジンの声にクロエも一瞬口を閉じるが、すぐに気を取り直したように胸を張った。
「いいえ。起こりうる未来の可能性の一つをお伝えしたまでです」
ジンはそれ以上何も言わなかったが、クロエを見る瞳には鋭さを宿していた。
睨み合う二人を前に、リズは青ざめたままその場から一歩も動けずにいた。この場に仲裁出来る者はおらず、周囲の人々も固唾を吞んで見守る中、入り口の自動扉が開く音がし、皆そちらへ視線を移す。
白衣に身を包んだ、派手な髪色の女が入室してくる。両手をポケットに突っ込み、ピンヒールの音を響かせながら颯爽と階段を下りてくる。ネームタグには、この研究所の責任者の証である赤い星マークがついていた。
「どうした?みんな手と足が止まっているぞ。我が研究所きってのラボがこんな体たらくでいいのか?」
発破をかけられ、皆慌てたように自分の作業に戻る。だが、もちろん事の成り行きは気になるので、しっかりと聞き耳は立てていた。
「オーブリー所長……」
「トラブってると聞いてな。とりあえず、詳しい話は別の部屋で聞こう」
話題にしていた本人の登場にクロエは一瞬面食らった様子を見せていたが、その提案に異論はないと見え、大人しくオーブリーに従う素振りを見せた。
「彼女は?」
ぽつねんと残されていたリズを見やり、オーブリーはジンに問う。
「彼女は…今回の件には、関係ないと思います。……恐らく」
歯切れの悪い回答に片眉を上げたものの、オーブリーはそれ以上言及する事はなく白衣の裾を翻した。甘いサンダルウッドの香りが辺りに漂う。
「と言う訳で、この件はもうこれで終わりだ!みんな忘れるように。さあ、それぞれの職務に励め!」
人々が聞き耳を立てていたのに気付いていたのだろう。オーブリーは頭上で大きく手を叩くと、リズにも早く持ち場に戻るように指示した。
頭を下げ彼らに背を向けたリズは、自分のデスクに戻るすがら三人をもう一度振り返る。すると、階段を上るジンと目が合い、慌てて視線を逸らした。
周囲は途中で立ち止まったリズを取り残し、いつもの喧騒を取り戻していく。
「しまった!クロエたちの事に気を取られていて、モニターチェックしていなかった!」
「おい……それはマズイぞ!……良かった……バイタルも脳波も安定してる」
騒ぐ研究員達の前には、上下するグラフが映し出されたモニターがあった。彼らはそこで日夜、部屋の最奥にある監視室の中の彼の状態を確認するのが仕事だ。四方を透明な壁で作られているそこは、どの角度からでも彼の事を観察できる。
一応、風呂場とトイレは男性のみが入室できる小部屋に続いているが、彼……被験者β(ベータ)であるキールのプライバシーはここには存在しない。
リズが先刻いた秘密の部屋は、監視室を挟んだ向かい側に存在しているのだが、その存在には誰も気付いていない。
研究室自体が彼のいる監視室を見下せるように作られている。それは、まさに彼が実験モルモットである証であった。個人の自由もなく、尊厳もない。
ただ、国の命の元に生かされている人形だ。
彼はいつもそこからリズたちを観察していた。否、観察しているのではなく、観察されているのだと、リズは感じていた。
だから今、彼がリズの顔をじっと見ていたとしても驚かない。彼はいつも誰かを見ている。今日はたまたまそれが自分だっただけだ。
内心でそう言い聞かせ、リズはゆっくりと視線を外す。
忙しく人が動き回る研究室の中、誰も自分の事など気に留めない。
それでいいのだ。だって、自分はここに存在してはならない人間だから。
音を立てずにゆっくりと自分のデスクへ戻ったリズは、昨夜の報告書の完成に取りかかる。
監視カメラの映像を見られたら、すぐにバレてしまうだろう。ジン室長はきっと怒る。でも、それでいい。
自分が研究者でなくなるのなら、もうどうなったって構わない。
リズは遺書を書くつもりで、報告書と向き合った。