秘密の部屋
「失礼します、室長」
ミアの後に続き、入室する。彼の執務室に入るのはこれが2度目だった。
1度目は研究課に配属された任命式の時で、当たり前だが、用がなければ立ち入ることが許されない場所なので、こうして気安く出入り出来る彼女が羨ましかった。
「ミア、どうした?」
驚いたように立ち上がり、条件反射のように彼女にハグしようと腕を広げたジンは、彼女の後ろに影のように立っているリズに気付き、ハッと腕を下ろした。
「ライト君…?」
「ジン、彼女まだ報告書を提出していないでしょう?もう少し待ってあげられないかしら?」
面食らったように二人の顔を見比べたあと、ジンは大仰に溜息を吐いた。
「ミア……それは君が口出しする事ではないよ」
断られると思っていなかったのだろう。ミアは少し頬を紅潮させ、背後にいるリズをジンの前に引っ張り出した。
「でも彼女、すごく怯えておどおどしていたの。そうじゃなくても、彼女には相談相手がいないの……わかるでしょう?」
至近距離でジンの金色の瞳と見つめ合うことになり、リズの心臓は早鐘を打っていた。彼とは、ここに初めて配属された時からの知り合いで、もう8年になる。父の口利きで鳴り物入りしたリズは、下積みを経る事なく、いきなりこの第一研究課に配属された。周囲が快く思わない中、周りとの緩衝材となってくれたのがジンだった。
父の一番弟子だったジンは、その役割が自分にあると責任を感じてくれていたのかもしれない。
それでも、周りが自分に冷たく当たる中、優しく接してくれた事は今でも心に残っている。
──彼は、ただ自分の業務を遂行しただけ。
頭ではそうわかっていても、元々男性に免疫のないリズは彼に恋をしてしまうのを止められなかった。
愚かな女。
自分でもそう思うのに、男手一つで育ててくれた父を早くに亡くした寄る辺のない心は、
どうしても身近な保護者的存在へと依存してしまう。
「あの…室長、すみません……本日中には何とか提出しますので……」
いたたまれなさに蚊の鳴くような声で告げたリズに、ジンも渋々と言った感じで頷く。
「まあ……今回はミアに免じて大目に見るが、次回からはすぐに提出するように」
「……はい」
ごもっともだったので、神妙に頷くしかなかった。恥の上塗りになおさら萎縮するリズとは対照的に
ミアは自分の意見が聞き入れられ、とても嬉しそうだった。
「ジン……ありがとう。彼女もすごく喜んでいると思うわ」
驚く事に、ミアはリズの方を一瞥すらせずにそんな事を言った。流石に、実際のリズの表情との乖離に
ジンも閉口したものの、最終的にはミアの方を向いてにっこりと微笑んだ。
「君たっての頼みなら仕方ないさ。それよりも、君のその気配りにはいつも脱帽するよ」
見つめ合い、自然と距離を縮める二人に、リズは慌てて暇を告げる。
「あ、あの、私はこれで……失礼しました…!」
飛び出すように部屋を出ると、一目散にその場を離れる。すれ違う人々が驚くほどのスピードで、廊下を突き進んでいく。
何度目かの角を曲がり人気のない通路までやってくると、ほっと息を吐き、ずるずると壁にもたれて座り込んだ。膝頭に顔を埋め、目頭の熱さに必死に耐える。
何とみじめな事か。好きな男の婚約者に同情され、あまつさえ二人のいちゃつきまで見せつけられるはめになるとは。
そもそも自分の不始末からこうなったわけだが、報告書を提出できないのには理由があった。
その原因と対峙すべく、リズは立ち上がる。
通路奥の『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉の前に立ち、液晶パネルに手をかざす。
数秒後、起動音と共にロックが解除され扉が開く。
最初に目に飛び込んできたのは、一面ガラスに覆われた居住スペースだった。ソファやテレビ、本棚など、生活に必要な物は全部揃っている。特徴的なのは、天井から壁まで床以外の全てがガラスで覆われている事だった。つまり、中にいる人物を観察する事ができる。
今はその部屋に誰もいなかったので、リズはゆっくりと近付いた。怖々とガラスに触れ、中を覗き込む。
室内はきれいに整頓され、居心地は良さそうだった。室内を挟んで向かい側のガラスの外には見慣れた研究室の景色が広がっていたが、光の屈折を利用して向こう側からはこちらが見えないようになっている。
これは、異能研究の第一人者と言われるリズの父が作り上げたものだ。
誰に見とがめられることもなく、この中にいる彼とコミュニケーションを取るための秘密の部屋。父が亡くなった今、この部屋に入ることが出来るのはリズだけだった。
父の死に際し、多くのものが貴重な研究材料として扱われた。資料、パソコン、ささいな事を書き留めた
メモまで、父のよすがとなり得る全ての物を研究所は持ち去っていった。
それ程までに、リズの父は偉大だった。
父との回想にふけりながら室内を歩き回っていたリズは、ふと人の視線を感じて立ち止まり、顔をあげる。
そこには、一度も日に焼けた事のないような白い肌と色素の薄い薄茶色の瞳と髪色を持つ男がいた。
まるで寓話に出てくるセイレーンか何かのようだった。それほどまでに中性的で現実味がない。
男はガラス越しにじっとこちらを見ていた。逆らえない引力に引き寄せられるようにふらふらと近付いたリズは、自分でも気付かぬ内にその男とガラス越しに手を合わせていた。
「……何を…っ」
ハッと我に返り、信じられないものを見るように自分の手を凝視する。体中から嫌な汗がどっと噴き出した。
『異能犯罪者予備軍』
他人の精神や思考に入り込み、人を操れる特殊能力を持った人々のことを政府はそう呼んでいる。
非常に希有な能力であると同時に、国家間のスパイなどに悪用される恐れがあると、政府は彼らを一様に監視対象としている。
慌ててモニターにもなっている壁面パネルに目をやるも、今のところ脳波に大きな乱れはなくホッとする。
彼と自分を隔てているガラスには、電気や周波数、その他パルスなど一切の干渉を遮断する機能が備わっており、万が一にも能力を使われるなど有り得ない。
だとしたら尚更、今し方自分の取った行動の説明がつかない。まさか無意識だとでも言うのか?
──いや、そんなはずはない。
リズはすぐにその仮説を否定する。だって、自分は彼を恐れているのだ。とりとめもない恐怖にいたたまれなくなり、逃げるように部屋を出る。背中に突き刺さる視線も気のせいだと言い聞かせた。