還る場所
その日、アルマは胸騒ぎを覚えていた。
レーシーはそんなアルマに声をかける。
【シンパイ? シンパイ? エイミーガシンパイ?】
「そうね……なんだかすごく嫌な予感がするの」
その日出さないと行けない課題はとっくの昔に終えている。アルマが胸騒ぎを覚えて、ぎゅっと胸元を掴んでいるのを見かねたのは、同じく課題を終えたばかりのアイヴィーだった。
「ちょっとアルマ。大丈夫?」
「アイヴィー……ええ。ちょっと後輩のことで気になることがあってね」
「あらま。またルーサーが厄介事に巻き込まれたのを相談乗ってたの? 相変わらずお人好しねえ、あんたも」
「そんなつもりはないのだけれど」
実際に本当のことなのだから、アルマもいちいち否定はできないのだが。アイヴィーはちらりと授業風景を見る。
本日の召喚科の課題は、召喚陣の最適解だった。妖精をさっさと召喚できるアルマも、日頃から召喚陣を持ち運んでいるアイヴィーも、この手の課題は余裕綽々でクリアしてしまった。だから残りは召喚魔法を習い立ての転科したばかりの後輩のほうに教授がかかりっきりになっている。
召喚陣が複雑になり過ぎてなにも呼べなくなってしまっている後輩に頭を抱えているのを見ながら、アイヴィーが口を開く。
「今日の課題はもう終わったでしょう? 様子見に行ってあげれば? アルマが口出ししたってことは、ルーサーだと手に負えないって思ったからでしょう?」
「いいのかしら」
「いいんじゃない? さすがに教授も、個室持ちのアルマをどうのこうのって怒れないと思うからさ。それに人助けなんだから」
「アイヴィーは相変わらずお人好しね」
「お人好しぃ? 違う違う。私の場合は、面白さ優先だから。私からしてみれば、アルマとルーサーを一緒にしてなにやら事件に取り組ませたほうが面白そうって思っただけ。ほら行った行った」
アイヴィーからしてみれば、真のお人好しに「お人好し」と呼ばれることほど恥ずかしいことはないだろう。体よく追い出されたアルマは、転がるように魔女学科へと走って行った。
(間に合うといいんだけれど)
アルマ視点では、エイミーの情緒不安定さも、彼女に残されている妖精眼も、危険な代物でしかなかった。
妖精眼は本来、妖精郷を観測するためのものだが、妖精は人間の思い通りに事を進めさせてはくれない。テルフォード教授やアルマのような妖精学を学ぶ学者は存在してもなお、妖精郷についての知識が深められないのは、妖精が全く人間の思い通りに動いてくれないからに他ならないのだから。
「……手に負えないとわかったのなら、手を出さなければよかったのに。せめて逃げる際に彼女も連れて行ってあげればよかったのに」
妖精眼を研究していた施設の連中が、禁術法をきっかけにエイミーを置いて逃げ出した理由は、アルマは予想がついていた。
手に負えなかったから、禁術法を言い訳に逃げ出したのだ。
ただでさえ魔眼の人体実験は不測な事態に耐えきれる人材が乏しいのに、妖精の面倒を見ながら魔眼の研究なんて、一流の学者ですら難しいのだから、手に負えないから捨てたと結論は容易に立てられる。
それでも人体実験の末に妖精眼を定着させられてしまったエイミーについては責任を取ればよかった。
アルマはエイミーについて思った。
ルーサーの友達であり、いずれ全てが嫌になり、妖精郷へと還ってしまう子。
せめてアルマができることは、妖精に好かれやすいルーサーを守り通すことだけだった。だからこそ、アルマは走っている。
妖精になにもかもを奪われ、養父に拾われなかったら詰んでいたアルマの人生。それでもなお、彼女はルーサーへの気持ちだけは捨て去ることができなかった。
彼女の恋だけは、妖精にだって奪わせはしない。奪った妖精は殺す。それがアルマの恋だった。
****
その日の魔女学科の授業は、一時間目二時間目は座学だったが、三時間目からは二時間かけて薬の調合を行う。
魔女学を極めれば一人前の薬剤師になれると言われるほどに、魔女学でつくる薬の調合は奥が深かった。決められた量の薬草を決められた時間乾燥させ、それぞれ規定数太陽と星と月の光を当てる。それらの光を受けた薬草を、決められた時間煮出してつくる。その日の調合したものは、記憶を水の中に移し替える水薬だったが。
ルーサーは仕上げにダイヤモンドの原石を入れ、ダイヤモンドに余分な物質が吸収されていくのを眺めているときだった。
普段の脳天気なエイミーから、表情が消えているのを見てしまった。
「エイミー……?」
ルーサーがおそるおそる声をかけた途端、エイミーが口を開いた。
「あたし、還らなきゃ」
「待ってエイミー。還らなきゃって」
「あたし、お父さんもお母さんもいないんだ。捨てられちゃったから。施設の先生たちに育ててもらったけど、ある程度自分でなんでもできるようになったとき、施設の皆で順番に部屋に呼び出されたんだ。その途中で戻ってこない子とか、失明した子とかいたけど……あたしは無事で帰ってこられたんだ……でも、痛くて怖くて最悪だった。あたしの目の中に、異物をいっぱい埋め込まれてさあ」
エイミーとルーサーは、会話をしているようでしていない。エイミーはルーサーの制止の言葉も質問も、なにひとつ返してはいないのだから。そして彼女は薬の調合を放ったらかしにして、てくてくと歩いて行く。
「気付いたら先生たち皆いなくなってて、オズワルドに呼ばれたんだ。ここに来てから、いろんなことを覚え直さないといけなくって、くたびれちゃったなあ。でも、それも今日でおしまい」
「待って、エイミー。君いったいどこに……?」
「ずっと聞こえるんだ。【戻っておいで、戻っておいで】ってさ」
その言葉に、ルーサーは絶句した。
エイミーが話した言葉は間違いなくアルマが使う、妖精語。正確な発音、正確な聞き取りは人間の体ではほぼ不可能であり、アルマがどうして正確な発音ができるのか、本人もわかっていないと言っていたものを、エイミーはいともたやすく行ってしまったのだ。
「エイミー、待って! 君は、本当に妖精郷に?」
「……どこに行ってもあたしの居場所はないとはわかってるんだよ。ここじゃないどこかにしか行けなくって、どこかに行ってもあたしの居場所になり得るかはわからない。でもさあ、せめて」
エイミーは自分の手で彼女の瞼を撫でた。彼女が子供返りをしてしまうほどの痛みと絶望に耐えて埋め込まれた妖精眼は、もう彼女にすっかりと定着してしまい、傍から見ただけでは彼女の異常性はわからない。きちんとしゃべって解明したリー教授やアルマたちでなかったら、彼女に埋め込まれているものについてなにもわからなかっただろう。
エイミーは最後にルーサーを見た。そしてにこりと笑った。
「あたしを必要としてくれるひとたちのところに行きたいなあ」
「待って。エイミー、妖精は絶対に人間の友達にはなってくれない。君は……騙されて……」
「人間にもいいように使い捨てられた。使い捨てられる相手が変わるだけだよ。大丈夫。最後にルーサーに心配してもらえただけで充分。あたしは君と友達になれてよかった」
エイミーは言いたいことだけ言って、手を広げた。
調合をしていた学生たちも、さすがにおかしいと気付いたのか、ひとり、またひとりとエイミーを見て、絶句した。
彼女が手を広げた先には、穴があった。
魔法使いであったのなら、異界の入口を開けるというのがどれだけおそろしいことなのかがわかる。人間では何十年でもかかる異界への入口の生成を、妖精眼を持つ彼女は簡単にやってのけたのだ。
魔眼は詠唱、道具抜きで魔法を行使する魔法。そのことをルーサーはまざまざと見せつけられた。
「待ちなさい! 行っては駄目!」
アルマが急に教室に飛び込んできたが、もうなにもかもが手遅れだった。
エイミーはそのまま入口に足を踏み入れると、跡形もなくいなくなってしまったのだから。辺りはざわざわと喧噪が沸き立ち、大騒ぎになる。
ルーサーはアルマのほうを、ただただ青ざめて見ていた。
「アルマ……エイミーを、あと一歩で助け出すことが、できなかった……」
「……ごめんなさい。私が、もっと強く言っていれば」
妖精は人間の気持ちなんてわからない。
彼女が呼ばれたからという理由で旅立ってしまった妖精郷で、彼女が幸せになれる可能性なんて、なきに等しいのに。止めきることができなかったのである。




