腕 その1
バンドマン ツヨシは、空を見上げた。
昨日も曇り。今日も曇りである。スッキリしない天気だ。
雨が降るわけではなく、晴れるわけでもなく、どんよりとした天気が何日も続いていた。
バンドマン ツヨシは、コーヒーパーラー「ライフ」の入り口で行ったり来たりしている。
バンドマン ツヨシは、そのたびに空を眺める。
バンドマン ツヨシは、中へ入ろうか、入るまいか悩んでいる様子だ。
バンドマン ツヨシの手には、駅前のスーパーで買った商品が詰め込まれたレジ袋が握られていた。
コーヒーパーラー「ライフ」では、ラジオをかけているらしかった。バンドマン ツヨシが耳を澄ますと、なかからコマーシャルの歌声が聞こえてきた。
「~♪ 毎日、健康、農協牛乳♪ 健すこやか暮らしのお手伝い~~♪」
話がそれるが、飲食店でラジオをBGMとして流したりするのは、著作権法に触れないらしい。
バンドマン ツヨシは、コーヒーパーラー「ライフ」の中の状況を把握しようとこころみる。
バンドマン ツヨシは、窓を通してコーヒーパーラー「ライフ」の中をこっそりのぞき込んだ。
「また、あいつが来ているのか」
このように、バンドマン ツヨシは、コーヒーパーラー「ライフ」の中に入りたそうなのだが、とある人物が中にいるのでコーヒーパーラー「ライフ」の中に入れないでいる。
このところ、毎日、特定の客が、特定の時間にカウンター席のバンドマン ツヨシの定位置の席を先取りしてしまう事態が続いていた。
清水員子というのが、バンドマン ツヨシの指定席を占有して、バンドマン ツヨシをコーヒーパーラー「ライフ」から遠ざけてしまう客である。
清水員子は、コーヒーパーラー「ライフ」を訪れると、コーヒー一杯で、恐ろしいほどの時間、バンドマン ツヨシのカウンター席の席とマスターを占領していた。
清水員子は、いつもマスターと熱心に会話している。
そして、マスターと清水員子との二人の会話には、たいてい、女装の占い師の岡寺のぶよが参戦していた。
このマスターと、清水員子と占い師の岡寺のぶよの三人は、恋バナという、バンドマン ツヨシにとってはとてつもなくくだらなく思えるジャンルの会話をいつも延々と続けているのである。
バンドマン ツヨシは、そのハナシに加わることも、加えてもらうこともなかった。
もちろん、そのつもりもないけれど。
このひと月くらいの間バンドマン ツヨシは、自分の指定席とは異なる窓際の席で、清水員子の恋バナとやつを聞く羽目に陥っていた。
バンドマン ツヨシは、ぜんぜん楽しくはなかったけれど。
また、バンドマン ツヨシは、そのつもりはないのだが、いつか清水員子の恋バナの内容を分析していた。
バンドマン ツヨシが思うに、清水員子の恋バナは、その内容でふたつの種類に分けられた。
一つには過去の清水員子の恋の遍歴の自慢であった。
また、もうひとつには、自分の愛の深さや今の彼の素晴らしさを表情する同じような言葉が続いていく「今彼」自慢であった。
ところで、清水員子の「今彼」自慢は、それが何日か続くと、「今彼と別れることにした」という別れ話報告が数日ごとに差し挟まれることになっていた。
この別れ話報告が、がさつなバンドマン ツヨシにとっては、非常に唐突でまったく理解の出来ない代物だった。