コーヒーパーラー「ライフ」7
そこに、コーヒーパーラー『ライフ』の扉が開き、巨漢の高見沢治美が入ってきた。
高見沢治美は、大晦日の午前中偶然空きの時間が出来たので、河原に行って、台本を音読していた。
高見沢治美は、河原で台本の音読をしていると調子が出てきた。
高見沢治美は、「平安クリーンスタッフ」への帰り道でも、得意の声帯模写を織り交ぜながら、白熱の演技で音読をしながら戻って来た。
高見沢治美が、「平安クリーンスタッフ」では、年越しそばの準備が整っていた。
高見沢治美は、コーヒーパーラー「ライフ」で休憩しているバンドマン ツヨシを呼んで来るように社長夫人に言われていたのだ。
バンドマン ツヨシは、コーヒーパーラー「ライフ」に入って来る高見沢治美を見つけた。
「おまえ何のようだ?」
「私で、悪かった? 社長の奥さんに呼んで来るように言われたから、来たのに! あんた、口のききかた知らないね」
「俺は、夢の話をどこまで話していたか、お前の顔みたら、忘れしまった」
バンドマン ツヨシは、確かに何かを思い出そうとしているようだ。
高見沢治美は、バンドマン ツヨシが何かを思い出すのを待ってはいなかった。
「忘れたの。年末の大掃除業務! まだ進行中だよ。年越しそばが用意できたよって! 年越しそばを食べたら次の現場に行くから、バンドマン ツヨシを呼んで来てほしい、だって」
バンドマン ツヨシは、高見沢治美の話に元気がなくなった。
「次の俺の現場は、大変だからなぁ! 毎年、毎年、年末になると、あの現場で、いらつくわ」
高見沢治美は、バンドマン ツヨシの心境を読みとった。
「そう、思い出したよ。旅館『渓流館』のことだよね。今年もバンドマン ツヨシさんの担当らしいね」
「旅館『渓流館』で大掃除と来たら、あの開かずの間の話ですね? あそこの開かずの間の部屋は、一年に一度、大晦日に大掃除をするんですよね」
「そう、俺も何度もやったが、あそこの部屋を掃除していると、後ろに何かの気配を感じるんだ。不気味でしょうがない。気配を感じるんだよ。そして、とても背後が気になる。振り向きたくなってしまうのさ。振り向くと……良くないことが起こるらしい」
「昨年の大掃除の時にも、オシッコで、部屋を離れて、相方は開かずの間に一人なったんだよね」
「少しの間なら大丈夫だと思ったんだけどね。オシッコを済ませて、その開かずの間に戻ってみると、相変わらずその相方は掃除をしているんだよ」
「それで俺は一旦は安心したんだ。しかし、驚いたことに、相方の後ろには、見知らぬ影がたっていて、相方を見下ろすように観察していたんだよ。それから、その影は相方の後を追って、前から、後ろから、すぐまじかに相方のことを恨みのこもった表情で見つめていたんだよね。しかし、相方は、その影の存在に全く気づかない様子なんだよ」
「それは、俺も卒倒しそうなくらい恐ろしい光景だった。心配だなぁ。今日の仕事。いつも、俺は、こういう風に君たちのことを心配しているんだよ」
「うそ!」
高見沢治美は、確信を持ってバンドマン ツヨシの言うことを否定した。
「うそじゃないぞ、俺は、会社の潤滑油みたいな存在で、いつも、こうやってみんなのことを考えているんだ」
「バンドマン ツヨシさん、言っていることが意味不明。実際、あなたは反対のことをやっているってうわさだよ」
「うわさって何だよ」
「会社の人間を呼び出しては、会社に関する愚痴というか、悪口を言いふらしているそうじゃなの。感じ悪い」
「いや、俺はみんなにアドバイスできたらと、ただ、そんな思いでいるのさ。この会社は、長いから、いろんな現場回っているだろう。みんなの苦労はよくわかるんだ」
「昨日も(去年の)年越しそばで喧嘩したって?」
「えっ、おまえ、いったい何で……知っているんだ」
「年越しそばのエビ天でけちるんじゃないとか、言ってたそうね。養殖ものとか冷凍ものは体が受け付けないとも言ってたみたいね」
バンドマン ツヨシは、高見沢治美の言うことが聞こえていないかのように、無視するようにマスターに意味不明なことをつぶやいていた。
「それから……」
と、少しびびった様子でマスターは話を進めるようにバンドマンに促した。
「それから、なんだっけ、昔のことは忘れてしまった」
バンドマン ツヨシは、なさけなさそうにマスターを見返した。
「だって、ネズミのことで頭がいっぱいだったからな。そのあとは、夢の拾った折りたたんだ一万円札のこともあったし」
バンドマン ツヨシは、話を続けた。
「今年の大晦日は、『平安クリーンスタッフ』にとっては、悔しい年の瀬というわけだよ」
「俺の現場で、主のような、巨大なネズミの死体が、見つかったのであるからね。しかもミイラ状態で……」
「それは、いかにも俺たちが手抜きの仕事をしていると、誤解を受けてしまいそうな出来事なんだよ。岡寺のぶよさんが占ってくれたように、悪い運勢が俺につきまとっているに違いないかもしれないな」
「それもあって、僕は、他人とは関わっていられないから、とにかく年末は忙しくてね。俺は、最後の仕上げが残っている。だから、そろそろ失礼するよ」
なぜか、バンドマン ツヨシは、ため息をついて見せた。
「こんな忙しさの中でも、気をつけてないと、ふと気づくと、誰かが僕の背を狙っているなんてことがよくあるものだ。たいていは、君らのような恩知らず連中だけどね。今日からは、それに加えて俺が拾った折りたたんだ一万円札を奪い返そうとする土管の住人にも警戒すべきだということ。それが、今よくわかった。さようなら」
ツヨシ(つよし)は、しっぽを巻いてコーヒーパーラー『ライフ』から逃げ去るようにも見えた。
# #
大晦日のこの日、コーヒーパーラー「ライフ」には、営業はとっくに終わったのに、明かりがともっていた。
深夜まで、三人は、感慨深げに酒を飲んでいた。
「平安クリーンスタッフ」の社長、塚原瑛太と堀米泰成は、「平安クリーンスタッフ」で年越しソバを食った後、コーヒーパーラー「ライフ」を訪れて、マスターを交えて三人で話をしていたのだ。
三人は、長い時間、重要なことについて、あるいは、重苦しい話題について話し込んでいたらしい。
そして、一段落ついて、三人は一息入れることにした。コーヒーパーラー「ライフ」のマスターは、社長、塚本瑛太と堀米泰成のために締めのコーヒーを淹いれた。
コーヒーパーラー「ライフ」のマスターは、重苦しい空気を変えようと、バンドマン ツヨシに託されていた一万円札の話題を持ち出した。
コーヒーパーラー「ライフ」のマスターは、キチンと折りたたんだ一万円札をテーブルの上に置いた。
「それは、バンドマン ツヨシ君が置いていった一万円札ですね」
「バンドマン ツヨシが、これを持ち主に返してやってほしいと言って、置いていった」
「バンドマン ツヨシは、この一万円札、夢の中でホームレスから手に入れたものだと、信じているみたいでしたね」
「これは、返せるようなものでしょうか。それとも堀米泰成さんは、バンドマン ツヨシの夢の中の人物に心当たりでもあるんですか」
マスターは、堀米泰成に聞いた。
「さあね。どおなんでしょうかね」堀米泰成は、意味ありげにほほえんで見せた。
マスターは、この話はそれ以上掘り下げず、先代社長、塚原卜然に水を向けた。
先代社長、塚原卜然は、話の流れを変えようとして、年越しそばの話を持ち出した。
「そうだ。忘れていた。ところで、年越しソバ。どうなりました。バンドマン ツヨシくんは、むくれていたでしょうね。年越しソバの天ぷらの話なんですが……」
「それが、そうでもないんですね。バンドマン ツヨシ君見立てでは、養殖もの、冷凍物のエビ天でしたけど、バンドマン
ツヨシは、二杯完食しました。その二杯には、さらに、バンドマンツヨシは、さらに天かすを大盛りのせて食べてました。そうでないと、エビ天を喰った気がしないのらしいです……」
「ほっ? 」
先代社長、塚原卜然は、そこまで言うと、何かの不審な物音を聞きつけたらしく、耳をそばだてた。
「おぉ」
堀米泰成も、その音を聞き当てたらしい。
マスターは、先代社長の塚原卜然と堀米の予想を超えた動きに、不安になった。
バンドマン ツヨシの拾った折りたたんだ一万円札をバンドマン ツヨシの夢の中のホームレスが取り返しにやってきたのだろうか?
いつもの定位置のカウンターの後ろではなく、テーブルにいたことが、マスターの不安を煽ったようだ。
マスターは覚悟を決めて、先代社長と堀米とが向けた視線の先にあるものを確かめようと、振り向いた。
そこには、なにもない。
マスターの背後には、窓にかかるカーテンが見えただけだった。
しかし、マスターはおびえた表情を浮かべた。
そして、マスターにもその音はかすかに聞こえてきたのだ。
ゴーン~~!
それは、年越しの鐘であった。
「振り向いたら、ドカンとやられる予感でもしたのかな、マスターは……」
と、堀米はマスターの臆病を冷やして言った。
「振り返ればドカンではなく、ゴーンと除夜の鐘が鳴りましたとさ」
先代社長、塚原卜然もとぼけて見せた。
了