課外授業4 初めての……
手に提げたレジ袋を持ち直すと、俺はエレベーターの階数表示に目をやる。
……6……7……8……
点滅した9の文字を確認すると、俺は開いた扉から足取り軽くマンションの外廊下に踏み出す。
今日は学校の仕事は昼番で終わり。久々に早い時間に帰宅だ。
奮発して買ってきた国産牛を焼くとして、こないだ借りてきたDVDも明日には返さないとな。
ビールでも飲みながらゆっくり見るか。ウルグアイのコメディ映画とか書いてあったので、きっと明るい映画に違いない―――
鼻歌混じり自分の部屋に向かっていると、俺の部屋の前に影絵の様な人影が立っているのに気付いた。
……影絵みたいだと思ったのは黒いからではない。
まるで絵画のように均整の取れたシルエットに、現実だと思えず脳がバグった―――そう言っても良い。
ハイウエストでグッと絞った特徴的なシルエット。
儚ささえ覚える華奢な身体と、目を奪われる肉感との奇跡的なコラボ。
恐らくはどんな美女を連れて来たとしても敵わない、この年頃のこの瞬間しか持ちえない美しさが、古びた集合住宅の暗がりを圧倒していた―――
理沙。
―――声をかけようとした俺は言葉を飲み込むと、彼女に見つからないように静かに後ずさる。
そのまま開いたままのエレベーターに滑り込み『閉』ボタンを押すと、ようやく息を吐く。
「なんであいつが居るんだ……?」
……あれはいけない。
何故かはともかく、自分の部屋の前に“あれ”が居るのはいけないのだ。
「とにかくどっかに飯でも食いに行くか……」
不整脈を思わせる鼓動を奏でる胸に掌を当てていると、白い手が勢い良くエレベーターの扉の間に飛び込んできた。
「うわっ!?」
「おじさん! なぁんで逃げるのっ!?」
白い手の持ち主はエレベーターの扉を力任せに開く。
飛び込む様に身体をねじ込んできたのはもちろん理沙だ。
怒りで顔を赤くして、俺のネクタイを掴んでくる。
「こら、ネクタイ引っ張るなって」
「気付いてたでしょ?! 私がいるって気付いてなんで戻ろうとするの?!」
「待て待て! 顔近いって!」
理沙の顔が目前に迫る。鼻腔をくすぐる甘い香りから意識を逸らしつつ、『理性』の二文字を頭の中に思い浮かべる。ちなみにMSゴシック64ポイントだ。
「だってお前……約束しただろ、勝手に家に来ないって」
「こないだ言ったじゃん。今度、家に遊びに行くって」
そういや確かに言ってたな。あの約束そんな汎用性があったのか。
上手い反論のできない俺を引きずり、理沙は908号室の前に立つ。
……えーと、この流れは理沙を部屋に上げるということか……?
いざとなると流石に迷う俺に向かって、理沙は不機嫌そうに手を差し出す。
「鍵」
「え、あ、はい」
鍵を受け取ると理沙は迷いなく扉を開ける。
理沙は始めて来たとは思えない気安さで上がり込むと、部屋の明かりをつける。
「昔、散々家に遊びに行ったでしょ。なに勝手に意識してるのよ」
……確かにそうだ。まるであの頃のような自然な態度に、俺も肩の力を抜いてネクタイを緩める。
そう、俺の意識し過ぎなのだ。理沙の奴もちょっとした気まぐれで突撃してきたに違いない。
「そりゃそうだが小学生の頃とは違うだろ。お前はもう高校生なんだし、男の家に上がり込むってことは―――」
言いかけて気付く。失言だ。
理沙はあの頃のような生意気な表情を、あの頃とは違う大人びた顔に浮かべる。
「上がり込むって……ことは? その続きを教えて?」
さり気に距離を取ろうする俺を、巧妙に壁際に追い詰める理沙。
「つまり……あれだ。世の誤解とか、その、身の危険とか―――」
「へえ、つまりおじさんは世の中から誤解されて、私の身に危険が及ぶようなことをするんだ」
「し、しないって!」
「しないの?」
言うが早いか理沙は俺の身体に腕を回し、壁に押し付けて来る。
「ちょっ、お前!」
こいつ、自分で何を言っているのか分かってるのか。枯れてるとはいえ俺も男だぞ。
俺は真面目な表情で理沙の肩に手を置く。
「いいか理沙。俺は34才だ」
「私は15才です。なんで突然自己紹介なのよ」
「今はまだいいかもしれない。だが俺は10年後には40半ばだぞ。完全におじさんだ」
「今もおじさんじゃない」
うんまあそうだが。
「これから一緒にいられる時間だって少ない。お前の幸せを考えるのなら、やはり同じ年代の相手と―――ごふっ!?」
理沙は俺の胸を強く叩く。
「おま……少し手加減……」
「じゃあ仮に私がおじさんと同い年だったら、一緒にいられる時間が増えるの?」
言い終えると理沙は長い溜息をついた。長い長い溜息を。
……確かにそれは―――
「増えないな。でも、相手が先立つ場合もあるし―――」
「おじさんの場合、相手が同い年でも先に死ぬでしょ」
「決定事項なんだ」
「決定事項よ」
これも反論できない。
まあ確かに長生きできるとは思っちゃいないが、こうもはっきり言われると。
「私が15だろうと40だろうと、おじさんと一緒にいられる時間は変わらないの。むしろ急がないと、残り少ないおじさんの時間がどんどん減るのよ」
「でもほら。これからお前、高校が3年あるし、進学だってするだろ」
「そりゃね。普通に高校生活は楽しむし、大学だって行くわ」
「ほら、そこには普通に同年代の連中がいるだろ? その、お前はモテるし……その……」
俺が言い澱むと、理沙は楽しそうにクスクス笑う。
「あー、つまりそういうことか」
「……そういうことって?」
「つまり私が若い男に心変わりするんじゃないかって心配なんでしょ?」
「俺もまだまだ気持ちは若いぜ」
冗談めかして受け流したが、その不安は否定できない。
この先、世界の広がっていく理沙に比べて、俺はこの先年を取るばかりの只のサラリーマン。
理沙の気持ちが俺の側にいつまであるのか。
彼女にとって過去の過ちになるくらいなら、ただの思い出で済む今の内に―――
……そんな俺の不安に気付いたか。理沙は俺の身体に回した腕に力を入れる。
胸元で理沙が大きく息を吸う。
「……安心して。私、おじさんじゃ無きゃドキドキしない体にされちゃったんだもん」
「言い方。それ、他では言うなよ?」
胸に顔を埋める理沙の小さな頭。
その身体に腕を回すと、怯えたように小さく震えた。
「……怖いか?」
「……まさか。武者震いよ」
俺の腕の中で震える理沙の身体は、強く抱きしめれば折れそうなほどに細くて華奢だ。
だが小学生の頃の子供のそれではない。しなやかで成熟の過程にある女性の……身体。
「お前が俺をどんな奴だと思ってるのか知らないが。俺は別に善人じゃない」
抱きしめる腕を緩めると、理沙の背中を優しく叩く。
「高校生のお前から見たら、俺は余裕があって包容力のある大人に見えるかもしれないな。だけど―――」
「え? そう言うのは無いよ」
「……無いの?」
じゃあ事実の通り、JKにドギマギする中年男に見えてたってことか。
「お前の目から、俺はどう見えてたんだ?」
「割といつも一杯一杯で自信が無くて……にも拘らずお人好しで見栄っ張りで、色んなことに足を突っ込んでフラフラになっちゃう、大人になり切れてない大人―――って思ってる」
……随分な印象だ。だがしかし、大人の男なんてみんなそんな感じじゃないのか?
理沙は顔を上げると、大きな瞳で見上げて来る。
「違う?」
「んー、まあ、思い当たるところも無いことは無いが。一つ大きな思い違いがある」
「思い違い?」
「大人ってのはそんな全部の姿を使い分けてるんだ。意識的にも無意識でも。自分を守る為にな」
……俺自身、“本当の自分”なんてものはとっくに見失っている。
仕事の自分、家での自分なんて簡単に分けられるものではなく、全ての瞬間が自分を守り、大人として社会を乗り切るために最適化を続けている。
「だから……お前が守るべき子供としてでなく同じ場所に来た時―――俺はお前の『おじさん』じゃいられなくなる。お前を守るだけの大人じゃいられなくなるんだ。駄目な一人の大人しか残ってないかもしれないぞ?」
「あら、私おじさんの駄目なところも―――大好きよ?」
その言葉に一瞬、息が止まる。
……そういえば。ハッキリと好きとか言われたのは初めてだ。
「お前、簡単に男に好きとか―――」
「簡単なんかじゃないわ。おじさんのだらしないとこも、隙だらけのとこも、優柔不断なとこも、健康診断に引っ掛かりまくるとこも、自分より人のことを先に考えちゃうとこも、加齢臭も、煙草臭いとこも、暑いときには靴がちょっと臭うとことか、枕の臭いとかも―――」
……匂い関係多過ぎやしないか。
「―――全部まとめて好きよ、慎二さん。多分ずっと昔から。そしてこれからもずっと」
「理沙……」
思わず身を乗り出そうとした俺の胸を、理沙が掌で押す。
「……慎二さんは?」
「え、俺?」
「だって慎二さん私のこと……好きでしょ? 貴方の口からちゃんと好きって聞いてないんだもん」
勝気な表情の奥、理沙の瞳に浮かぶ不安気な色。
……理沙にそんな顔させて。
男としてこれ以上怖気ついてる場合じゃない。
俺は心を決めると、真っすぐ理沙の瞳を見つめ返す。
「もう一つ、お前に大人って奴を教えてやる」
「え?」
理沙は一瞬不思議そうな顔をすると、
「あ、あのっ!? か、覚悟は決めては来たけど! そ、その、いザとなると心の準備が……っ!」
顔を真っ赤に染める。
……そっちじゃない。
俺は苦笑いをしながら理沙の頭を撫でる。
「いいか。大人の男は心底惚れた女に、むやみに愛してるとか言わないもんだ」
「……じゃあ一生言えないじゃん」
「だな。嫌いになったか?」
「……意地悪」
理沙はワザとらしいしかめっ面をすると、小さな唇をツンと尖らせる。
そのまましばらく俺の顔を睨みつけていたが、いつの間にか真剣な顔で俺を見つめている。
「どうした。俺ってそんなに男前か?」
「……ばーか」
もう一度バーカと繰り返すと、理沙はゆっくりと瞳を閉じた。
僅かに震える小さな背中を抱きしめると、俺はゆっくりと唇を重ねた。
アラサーさん、これはもう逃げられませんね。『理性』が『責任』の二文字に取って代わったようです。
え? 責任を取るようなことが起きたのかって?
それは分かりませんが、JKだから合法……ですよ?
以下私事にて恐縮です。
今回、拙作『俺はひょっとして、最終話で負けヒロインの横にいるポッと出のモブキャラなのだろうか』で第15回小学館ライトノベル大賞・ガガガ賞を受賞させていただきました。7月に刊行予定となっています。
これも私をなろうという場で鍛えてくれた読み手の皆様のおかげです。
更新ペースは遅くなるかと思いますが、これからもなろうも頑張ります!




