課外授業3 恋する乙女のエトセトラ
「課長の奴、今度一回〆ないとダメっすね……」
開発第二課主任、恋川亞里亞27才。独身。
上着の内ポケットに手を突っ込みながら、足早に廊下を歩いていた。
愚痴るのも無理はない。今日も今日とて、課長の思い付きに振り回されて半日を棒に振ったのだ。そろそろ課長の疑惑の領収書を、お局様に回す時が来たようだ―――
廊下の突き当り。非常階段に繋がる扉の前でふと立ち止まる。
無意識に足が向いていたが、少し前にここでタバコを吸うのは禁止されたのだ。
「しゃーないっすね……」
喫煙室まで戻るのも面倒だ。代わりに缶珈琲の微糖を買うと、非常階段に繋がる重い扉を押し開ける。
まだ寒さの残る風が身体に吹き付ける。
4年前とは違い誰もいない階段の踊り場に―――一瞬、恋川の息が止まる。
無人を予想していた場所に先客がいたのだ。
見覚えよりもずっと小さな人影に、すぐに落ち着きを取り戻す。
「お邪魔するっすね」
恋川は気楽に言うと、人影の隣に並ぶ。
「えっ!? あ、あっ、あの―――」
悪戯を見付かった子犬のように慌てているのは、4月に入社したばかりの女子社員。蛭間薫。18才。
―――18才。恋川は心の中で繰り返す。
「ごっ、ごめんなさい! 少し休んでいただけで、すぐに戻ります!」
「大丈夫っすよ。そのままそのまま」
恋川は疲れ気味の笑顔のまま、蛭間の肩に手を置く。
「あっ、あの、恋川先輩。私が居なくなったから探しに来たんじゃ……?」
「そんな面倒なことしないっす」
言って缶珈琲を手渡す。
缶珈琲を受け取った蛭間は、様子を窺うように恋川の顔を覗き込む。
「えーと……でも、これ先輩の珈琲じゃ」
「私にはこれがあるっす」
恋川は懐から取り出した電子タバコのスイッチを入れる。
「秘密っすよ。ここ禁煙だから。珈琲は口止め料」
「は、はあ……」
しばらくボンヤリと缶珈琲を見つめていた彼女は、ぽつりと呟く。
「すいません……」
「? なんで謝るっすか?」
「あの、だって、私、何もできないし。ミスばっかりして、この前も恋川先輩にフォローしてもらって……」
「入ったばかりは仕方ないっす。今は研修期間なんだから、勉強して周りに迷惑かけるのが仕事っす」
恋川は白い歯を見せて笑う。つられて蛭間の顔にも少しだけ笑顔が浮かぶ。
「そういえば今日は午後から専門学校で研修っすよね。授業はどうっすか?」
「え、あ、はい。とても分かりやすくて、助かります。特に田中先生が―――」
パシュ。小さな指で缶珈琲の蓋を開ける。
「あっ、その、個人に合わせてプログラム組んでくれてるから……ずっと不安だったけど、私でもついていけてます」
……恋川は缶珈琲を啜る後輩の横顔に目をやった。
つい一か月前まで高校生だった彼女は、小柄な体格もあわさって現役女子高生でも楽々通用する。
不安げな表情は、まるで親からはぐれて怯えている子犬のようだ。
無理もない。高卒の18才がいきなりのブラック開発現場だ。自分の入った頃に比べて大分改善されたとはいえ、辞めてないだけで上出来である。
「それは良かったっす。田中主任―――先生が4年かけてシステム作ったっすからねー。色々あったな……」
苦闘の日々を思い出す。
色々あって、なにも無かったあの日々を。
それがこの会社に入ってくる若手の為になれば、この4年間も救われようというものである。
「―――それに、田中先生ってこの会社に居たんですよね。ご存じでした?」
「ご存じも何も、私の元上司。うちの新人教育プログラムも、私と二人で作ったっす」
恋川の少し自慢気な言葉に、蛭間は目を輝かせる。
「そうなんですか! 田中先生ってどんなでした?」
「どんなって……」
目が死んでいていつも煙草吸ってサボってるように見えて……実はやたら面倒見が良くて、周りのために上司と喧嘩することも我慢することも厭わない―――そんな男だ。
……なんとなくそれを口に出すのを躊躇っていると、蛭間はそれにはお構いなしに恋川に詰め寄ってくる。
「田中先生って……独身なんですよね?」
「そうっすけど……?」
……? なんでそんな質問を。
あれか。若者特有の、行き遅れた男女を笑う例の文化であろうか。
一瞬の内に心を閉ざそうとした恋川は、もう一つの可能性に思い当たる。
「……やめた方がイイっすよ」
「は……はい?」
きっぱりとした口調に鼻白む後輩に向かって、恋川はさらに畳みかける。
「あの男、タラシっす。薫ちゃんは必要以上に近付いちゃダメっす」
「あっ、あの……はあ……」
先輩の態度に戸惑っていた蛭間は、おずおずと恋川の顔を見上げる。
「あの……ひょっとして」
「ん? なんすか」
「先輩……あの、昔……田中先生となにかあったんですか?」
「っっ!??!」
思わず電子タバコを取り落とした恋川は、空中でそれを受け止める。
「なっ、なにも……というか、むしろ何もなかったというか―――」
「は、はい?」
「なかった……何もなかった……」
思わず手すりに顔を突っ伏す恋川。
「あ、あっ、あの、大丈夫ですか? 私、なにか変なこと」
「あ、いや、大丈夫っす。薫ちゃん、一つ先輩からの忠告」
そう、先輩として後輩を虚無の道に進ませるわけにはいかない。一つ咳払い。
「あの人は弱った女子の心にいつの間にか入り込むっす。だから薫ちゃんは―――」
「……頼りがいがあるってことですか? 私お父さんとか居なかったから少しそういうのに憧れます」
おや。なんだか話がおかしな方に。
……仕方ない。後輩の貴重な適齢期がかかっている。ここは覚悟を決めて情報を開示する必要がある。
「……JKっすよ」
「は、はい?」
「あの人、女子高生といい仲なんすよ」
流石にこの一言は聞いたのか。蛭間の表情が変わる。
「そんな変態っすから、薫ちゃんも気を付けないと」
「女子……高生……」
目を丸くした後輩の姿にホッとしたのもつかの間。
蛭間薫は両手でギュッと缶珈琲を握り締めた。
「私、最近まで高校生でしたから! 全然ありってことですね!」
「……はい?」
「制服もまだ捨ててないし、なんなら―――」
……なんならどうだというのだろう。
「待つっす! あの人、JKでもギリだから! 数年かけて慣らしていって、ようやくJKなんすよ?!」
「慣らすって……? なぜ女子高生に慣らす必要があるんです?」
「だってあの人……女子小学生と……あれだったんすよ」
恋川は絞り出すように呟いた。今度こそ言葉を失う蛭間。
……決まった。ロリコンとマザコンは女子受けの悪さに関しては東西の横綱だ。
これで道を踏み外そうとした若い娘を一人救うことが出来ただろう。
「いやー、どうかと思うっすよ。薫ちゃんもあの変態男には気を付けて」
「あっ、じゃ、じゃあ、私でもありってことですね」
……なんで?
反対に言葉を失う恋川に、蛭間はモジモジと手の中の缶を弄ぶ。
「そ、その女子高生さんで慣れてもらえば……私でも有りってことですよね?」
……強い。若いって強い。
恋川は思わず空を見上げる。世間ではアラサーと呼ばれる年になった自分が、いつの間にか無くした強さである。
「あっ、あの、珈琲ごちそうさまでした。午後から学校で一杯勉強してきます!」
立ち尽くす恋川に頭を下げると、蛭間は建物に戻ろうとする。
と、その背中に恋川が声をかける。
「……私が教えるっす」
「あっ、はい?」
突然の申し出に首を傾げる蛭間。
「午後から有給取るから、私が教えてあげるっす」
「え、でも、学校が」
「行かなくていいっす。今日は私が先生っす」
その言葉をどうとっていいのか分からなかったのか。蛭間はさらに深く首を傾げる。
「え、えと……じゃ、じゃあ、恋川先輩も一緒に行きます?」
「一緒に……?」
後輩と並んで授業を受ける光景が脳裏に浮かぶ。
そういえば、自分はあの人の授業を受けたことが無い。教育担当者として、授業の質を確認する必要もあるのではないか……?
恋川はゆっくりと頷いた。
「……しゃあなしっすね。」
そう、しゃあなしなのだ。
決して田中先生の生徒になりたいってだけでは無いのだ……多分。
皆様ご無沙汰してます。
順調に行き遅れている恋川さんの登場です。
初登場時は大卒1年目でピチピチだった恋川さんも今年で無傷の28才です。
どうしてこうなった……
そして18才の新人は油断ならない相手のようです。若いは強い。若さを失って初めて気付くのです。
ちなみに私は失うものも残り寿命だけになってきました。安心です。
課外授業は不定期更新となりますが、気長にお付き合い頂ければ幸いです。




