50日目 これはデートではない
……これはデートではない。
俺はコートの襟を直しながら、心の中で繰り返す。
12月24日。20時過ぎの街角は、週末の昼間のような人通りだ。
家族連れ、そしてそれ以上に仲睦まじい恋人達が手を繋いで行きかっている。
アーケードの入り口。メスガキとの待ち合わせ時間より少し早めに来た俺は、美容院の立看板に隠れるようにして立つ。
よくよく考えれば、このアーケードは会社から駅への通り道でもあるのだ。
人目を思えば、ここを待ち合わせ場所にしたのは間違いだったかもしれない———
「いや……心配しなくてもみんなまだ会社だよな」
会社を出た時、みんな普通に働いてたし。
一心不乱にキーボードを叩く恋川の後ろ姿が脳裏をよぎったが、俺は無理にそれを振り払った。
背後から近付いて来る小刻みで小さな足音。
振り向くと、前傾姿勢で走ってきたメスガキが、俺の前でブレーキをかけるところだった。
「おっ、お待たせ! ごめんね、授業がっ……長引いて……」
ゼイゼイと息を切らせながら、メスガキがそれでも笑顔を見せて来る。
「俺も今来たところだから。走ってきたのか?」
「だって……遅れたら……おじさん帰っちゃうかもって」
メスガキは胸に手をあてて息を整える。
「遅れたくらいで帰ったりしないって。それよりそんなに急いで走って大丈夫か。変な汗かいたり、チカチカした光は見えたりしないか?」
「大丈夫だよ。おじさんは走ったらそうなるの?」
……ならないの? ……ならないか……ならないよな……
早くも呼吸の整ったメスガキは、素早く髪を直すと目の前でくるりと回る。
「どう? 可愛い?」
羽織っているのは薄茶色のポンチョコートという奴だろうか。
コートの下は茶系の上下に赤いニーハイという取り合わせだ。
予想と反して年相応な格好に、俺は何故だか見てはいけないものを見ているような気分になる。
「……ああ、似合ってるんじゃないか」
「なによ。なんで目を逸らすのよ」
メスガキが両手で俺の頬を掴んで、強引に自分の方を向かせようとする。
「手、冷たっ! こら、人の顔を掴むなって」
「じゃあ、ちゃんとこっち見てよ」
「分かったって」
こんなところで人目は集めたくない。
なんといっても人通りの多いアーケードの入り口なのだ。
俺はメスガキの手を引きはがすと、ワザとらしくしかめっ面をする。
「いいか、たくさん人がいるんだから、騒いで迷惑かけちゃ駄目だぞ」
「はーい。あたしいい子にしてるよ♡」
メスガキは俺を手招きしながら、小走りでアーケードに入っていく。
膝上のポンチョコートから覗く赤いニーソックスが、やけに鮮やかに目に映える。
俺はメスガキの後を追いながら、もう一度心の中で繰り返す。
———これはデートではない。
知久町アーケード。
アーケードと名乗ってはいるが、丁度俺が入社した年、老朽化で屋根は撤去されている。
屋根の撤去と同時に植えられた街路樹も、今では2階を越すほどの大きさに育ってる。
「おお……」
通りに足を踏み入れた俺は、思わず声を盛らした。
街路樹を青いLED照明が彩り、一面が青白い光に淡く照らされている。
抑え気味なピアノの音でクリスマスソングが流れ、正に恋人の聖地と言わんばかりの様相を呈している。
何故かドヤ顔のメスガキが、俺に肩をトンとぶつけてくる。
「ね、凄いでしょ。一度、おじさんと来てみたかったの」
「仕事帰りに何度か通ったけど、こんなに明るくなかったぞ」
「10時過ぎたら、条例かなんかの問題で明るさが変わるの」
……なるほど、謎は解けた。
これ、なんかミステリーのネタになりそうだな。ついでにLED照明も殺人トリックに使えないか———
思わず大股で歩き出そうとした俺は、隣のメスガキに合わせて踏み出す足を緩める。
メスガキが猫のようにまとわりつきながら、俺を挑発的な目で見上げて来る。
「ね、あたしたちって周りからどう見えてるかな?」
「どう見えるって」
……これはあれだ。
私っていくつに見える? 的な罠質問だ。何度これで煮え湯を飲まされたことか。
俺は慎重に頭の中でシミュレーションを繰り返す。
「周りを見てみろ。どう思う?」
「周り?」
メスガキは大きな瞳で周りを見渡す。
はしゃぐ子供を連れた親子連れ。手を繋ぎ腕を組むカップル。そして疲れた顔で足早に通り過ぎるサラリーマン———
俺はメスガキの頭をポンポンと叩く。
「俺とお前も同じように見えてるんじゃないかな」
……よし、無難に乗り越えた。答を煙にまきつつも、相手の想像の余地も残しておく。
社会人10年目、このくらいの腹芸はお手の物である。
「ふうーん」
メスガキはつまらなそうにそう言うと、俺の前を塞ぐように後ろ向きで歩き始める。
「こら、後ろ歩きは止めなさい」
「こないださ、あたしのこと名前で呼んでくれるって言ったじゃん。全然守ってくんないし」
……え? 俺、そんなこと言ったっけ。
脳味噌に減損の兆候があるとはいえ、自分に不利益がかかるようなことは忘れないはずだ。
「本当に俺、そんなこと言ったか? マジで?」
「ホントに言った……ような気がしないでもない」
流石に嘘をつき切らなかったのか。気まずそうに顔を伏せる。
「あのさ。人に名前を呼べと言うなら、まずは自分からだろ」
「自分から?」
「そうだ。お前はおじさんって呼ぶけど、俺まだ30だぞ?」
「……おじさんだよね?」
俺は無言でメスガキの肩を掴むと、強引に前を向かせる。
「おじさんだとしても、さん付けで呼ぶとか、それなりの配慮をだな」
「さん付けはちょっとよそよそしくない? 君付けで呼ぶとかどう?」
……くん?
メスガキが変なことを言い出した。
親子ほども年の離れた小娘に「田中君」と呼ばれるとか、いくら何でも——————
……田中君。田中君……か。それはそれで……有り……か?
「どしたの?」
俺が考え込んでいると、メスガキが不思議そうに見上げてくる。
……いかん。世の中には、分かっても分かってはいけないことがある。きっとこれはその一つだ。
「い、いや何でもない。やっぱ、さん付けじゃないか、うん」
「ふーん。じゃあ———」
メスガキは悪戯っぽい表情で俺の肩に手を置いた。
「———慎二さん♡」
「っ?!」
思わぬ不意打ちに一瞬息が止まる。
「こ、こら、からかうなって」
「あー、あたしの囁きにドキドキしちゃったんだ♡ きゃー、へんたーい♡」
……釈明させてもらっていいだろうか。
年の瀬も差し迫った夜更け。冷え切った耳元に暖かい吐息が当たれば、反射的に身体が強張るのも無理はない。
つまり生理的な反応であって、決してこの小娘の行動にドギマギしたわけでは———
「じゃあ、次は慎二さんの番だよ?」
……俺の番。
つまり、俺がこいつを名前で呼ぶってことか?
俺は一瞬だけ考えて、そのまま足を速める。
「それはまた今度な」
「あー、ズルいーっ!」
背中をペシペシ叩く小さな手を無視して、アーケードを進んでいく。
駅の手前、寺と接した公園がある。そこがイルミネーションのメイン会場となっていて、入り口にはキラキラと光るゲートが光のハートマークを掲げている。
しかし……これはいくら何でも甘口すぎる。俺にゲートの真ん中で、指でハートを作れとでもいうのか。
思わず怖気つく俺の腕を、メスガキが掴む。
「ねえ、あのハートのゲートを一緒にくぐると結ばれるんだって! ホントかな?」
「でもさっき、酔っ払ったサラリーマン二人組がくぐってたぜ?」
「結ばれたっていいじゃない」
……確かにそうだ。お幸せに。
「さ、あたしたちも行こ♡ 商店街の人が記念写真撮ってくれるって」
「待てって。俺、こういうの苦手———」
……一年前。元カノと過ごしたクリスマスの記憶がよぎる。
似たようなシチュエーションで、俺は早足で逃げ出したのだ。
そのことをいつまでも———というほど時は重ねられなかったが、責められた覚えがある。
「……写真、他の奴に見せるなよ」
俺の言葉に目を丸くして驚いたメスガキは、輝くような笑顔で頷いた。
「うん!」
……まあ、二人で指でハートを作れとか言われなければそれもいいか。あくまでも記念写真だ。
引っ張られるまま、光のゲートの真ん中に二人で並ぶ。
「はい、お二人とももっと寄って!」
……商店街のおっちゃんが余計なことを言う。酔ってるんじゃなかろうな。
ニマニマ顔で俺に寄ってくるメスガキ。
「お兄さん笑顔が固いよ! はい、指で左右からハートを作って!」
え?! 話が違う。
いや、違うも何もそんな話はしてなかったけど———
メスガキがニヤケ顔で指でハートの片側を作っている。
「慎二さん、覚悟決めようか♡」
……是非もない。俺は覚悟を決めた。
———説明書きによれば、ツリーは9メートルあるという。
ガンダムの半分だなあとか思いながら、きらめくツリーを見上げていると、メスガキが肘でトントンつついてくる。
「ね、あたしと初めて会った頃って覚えてる?」
「初めて会った頃?」
まだ学校の制服を着ていた頃だから3年くらい前だろうか。
いつも足をブラブラさせながら、椅子に座ってた覚えがある。
「……なんかいっつも退屈そうに笑ってた」
「笑ってるのに退屈そうなの?」
メスガキは可笑しそうにクスクス笑う。
俺もつられて少し笑う。今のこいつは———楽しそうに笑う。
「ふーん、そんな時からあたしのこと良く見てたんだ」
「いや、見てないって」
俺のはっきりとした否定も、メスガキは鼻先で跳ね返す。
いつもの生意気そうな表情が俺を煽る。
「2年生の頃からそんな目で見られてたのかー♡ ひょっとして、あたしもうおじさんの対象年齢から外れちゃった?」
「んなわけないって」
適当に放った言葉に、メスガキが笑顔のまま固まった。
不思議に思って会話を思い返した俺は、慌てて手を振る。
「いやっ! 違っ! そういう意味じゃなくてだな!」
俺の釈明も無駄だったか。メスガキの首から上が真っ赤に染まる。
モジモジと指をこねくり回しながら、俺を上目遣いで見上げて来る。
「そ、そうよね。慎二さん、変態だし……あたしそういうの大丈夫だから」
いやいや、大丈夫とかそういう話じゃないし。
なんといって誤解を解こうか焦っていると、メスガキがおずおずと小さな箱を差し出してくる。
「そんな変態の慎二さんに……プレゼントがあります」
「……え。ああ、そうか」
語彙力0の返しをしながら受け取ったのは、綺麗にラッピングされた小箱。
えーと、こういう時にはどうするんだっけ。次こそは正解を引かねばならぬ。
「……開けていいかな?」
メスガキはこくりと頷く。
寒さに強張る指で包みを開けると、中に入っていたのは小ぶりな携帯灰皿。
表面が天然革で装飾された見るからに上質な品だ。
「これ……随分高そうだな。もらっていいのか?」
「大丈夫。ちゃんとお小遣い貯めて買ったし」
「……そうか」
こんな時にはどんな返しをすればいいのか———
途中まで考えた俺は、心の中で自分を叱る。
この期に及んで、無難な正解を探っている場合じゃない。
「ありがと。大事にするな」
素直な言葉。
メスガキは嬉しそうに頷く。
「悪い、いまちょっとプレゼント持ってなくて———」
「あれ。イブの日に女性と会うのに、手ぶらで来たんだ?」
「う……」
いつもなら即座に言い返すところだが、今晩ばかりは分が悪い。
言葉に詰まる俺に、メスガキが優しい笑顔を見せて来る。
「じょーだんだよ。はい、お返し頂戴」
と、小さな手を差し出してくる。
プレゼントの催促でなければ、これは———
……俺も手を伸ばそうとするが、ためらいが捨て切れない。
まだ子供の小さく華奢な手。
夜の寒さにすっかり白くなっている。
こんなに寒いのに、何故手袋をしていないのか。
メスガキは軽く目を伏せ、白い手をじっと見つめている。
……ああ、そうか。
俺は彼女の手を握る。
「すっかり冷えちゃったな」
「……温めてもらうし」
……これじゃまるで握手だ。
俺は苦笑いしながら、握ったままの手を下ろす。
「綺麗だな。理沙」
「え」
「……ツリーだぞ?」
「……ばーか」
俺は彼女の手を握ったままツリーを見上げる。
冷え切った理沙の小さな手が握り返してくる。
年の差は埋まらない。
だけど背の差は少しずつ埋まっていく。
どこまで一緒にいてやれるか分からない。
だけどもう少しだけ、同じ景色が見れる日まで、こいつに構われてやろうと思う。
本日の分からせ:分からせられ……0:100
アラサーさん、色々と覚悟を決め過ぎてる気もしますが、本人がそれでいいのならいいでしょう。
メスガキちゃんは、随分前から覚悟完了していたようですし。
完結までもう少し、二人の行く末を見守ってください。




