49日目 あの日からずっと
パパの仕事が長引くと、すごく長く待たされる。
宿題もすぐ終わっちゃうから、あたしは会社の中を歩き回るようになった。
6階にはソウム課と第一課、社長室がある。
7階は後から増えたらしく、半分がパパの会社。第二課がある。
会社のみんなはパパに優しくしてくれる。
みんな笑顔でパパをほめて、パパがほめると嬉しそうな顔をする。
パパのことをほめてくれて、パパのことが好き。
だからみんなのことが好き。
「あら、理沙ちゃん今日もなの。はい、ジュースあるよ」
「ありがとうございます! これ、皆さんで食べてくださいってパパから」
「あら、ありがと。みんなー、社長から差し入れよ」
ソウムの女の人はいつも親切だ。
ジュースをいつも出してくれて、あたしは飲まないから、その次も同じのを出してくれる。
笑顔で可愛いって言ってくれるし、話しかけても嫌な顔はしない。
パパのことも沢山ほめてくれる。
だから好き。
……だけど最近分かり始めた。
みんなパパとあたしのいないとこでは———パパの悪口を言っている。
意地悪な人がそうなのかと思ってたけど、実はみんなそうみたい。
……でも、パパの前ではパパを好きでいてくれるから。
だからみんなのことは半分好き。
みんなパパの前ではほめるけど、いないとこでは悪口言うから。
みんなはパパのことが半分好きで、半分嫌いだってことだと思う。
だからあたしはいつも笑顔であいさつ。
パパを好きな半分が、少しでも大きくなって欲しいから。
……あたしは段々と会社の中に詳しくなってきた。
サーバー室に入ったら怒られたから、そこ以外は大体覚えた。
社長室、応接室に、会議室。
ロッカールームは無いから、女の人がいつも文句を言っている。
あたしは毎日、隅から隅まで歩き回って、いくつかお気に入りの場所を見つけた。
———パパの悪口を聞かずに済む、静かな場所を。
最近のお気に入りは給湯室、冷蔵庫の横の隙間だ。
丁度あたしが一人、人目に付かずに隠れていられる。
ブウン……
冷蔵庫がブンブン言うから、ここに隠れていれば何も聞かずに済む。
ブウン…… ブウン……
いつもは人がたくさんいるけど、ソウム課が忙しい時はとても静か。
そんな時にはあたしはここで何も考えなくていいように、冷蔵庫の声を聴いている。
ブウン…… ブウン…… ブウン……
ブウン…… ブウン…… ブウン……
…………………
……………
……あれ?
あたし、少し眠っていたみたい。
目を擦って、冷蔵庫の陰から出ようとしたあたしは、慌てて身を屈めた。
……給湯室に誰かいる。
賑やかな女の人の笑い声。
「———社長の娘、今日も来てたね」
……聞き覚えのある声だ。
ソウム課でいつもあたしにジュースをくれる女の人だ。
「もう少ししたら冬休みでしょ。もっと来るよ」
「うちは託児所じゃないっての」
最後の言葉に笑い声があふれる。
……あたしは服の裾をぎゅっと握る。
「それにさ。あの制服、高千穂女学院でしょ」
「なにそれ。有名なの?」
「有名よ。お金持ちの学校だって」
流しにガシャガシャと乱暴に食器を入れる音が響く。
「私達に払わない残業代で、高い学校行かせてるのよ。入学の寄付金だけで、私ら一年食べていけるわよ」
「じゃあ、あの子に代わりに仕事やってもらいましょうよ」
耳障りな笑い声に、あたしは耳を塞ぐ。
みんなパパが居ないところでは悪口を言うけど、いるとこでは褒めてくれる。
だからみんなのことは半分好きで、半分嫌い。
今ここにいるのは嫌いな半分。パパがいれば好きな半分でいてくれる———
あたしは見付からないように身を縮める。
「……お湯もらいに来たんだけど。いいっすか」
掌の間から、あのおじさんの声が聞こえてきた。
……少し嫌いで、少しキモいおじさんだ。
パパとけんかばっかりして、パパを沢山嫌う人。
あの人、確かの上の階の人なのに、なんでここにいるのだろう。
あたしは気になって、耳を塞ぐ手を下ろす。
「なんか7階のポットが壊れちゃって」
「あら、田中君じゃない。悪口大会の優勝者が来た」
「なんすか。俺、そんな扱いなんすか。ここ、ヤカンありましたっけ」
「社長よ、社長。私、あそこまで言えないわ。やっぱいつ辞めてもいい人は違うわね」
「ああ……社長ですか」
ガシャガシャと何かをかき分ける音がする。
流しの下でも探しているのだろう。
「あれ、ヤカンありましたよね?」
「それにほら、託児所代わりに子供連れてきちゃって。田中君からバシッて言ってやってよ」
「俺がですか?」
「そうよ。来たくなくなるよう、代わりにあの子に言って貰ってもいいけど———」
ガシャガシャという音が止まる。
おじさんは小さく、うーんと唸る。
「そりゃ社長には言いたいこと沢山あるけど。子供は関係無くないですか?」
「はい?」
「あの子が通ってるのはお金持ちの学校かもしれませんけど。子供は親に学校行かせてもらって、そこで一生懸命勉強してるだけじゃないですか」
「……なによ、聞いてたの」
「外まで聞こえたんすよ。それにほら、あの子に聞こえてもいいって感じで悪口言ってる人もいるでしょ」
再びガシャガシャとかき回す音が聞こえ出す。
「俺らが社長のことどう思ってても、子供にとっちゃ大好きなパパで自慢の父親なんだから———」
音が止まり、冷蔵庫の前に人の気配。
あたしは息を殺して精一杯身体を小さくする。
「———だから大人は、何があっても子供の前で親の悪口言っちゃダメだと思います。……あ、冷蔵庫の上だったのか」
おじさんは冷蔵庫の上から何かをを下ろす。
「これ借りていいっすか?」
「……キモッ。子供子供って」
「はあ、キモイっすか。でも———」
「はいはい、そうやって人を悪者にしとけばいいでしょ。苦労してるのはこっちなんだからね!」
乱暴にバタバタと足を鳴らしながら、誰かが給湯室を出ていく。
その後を追う足音。
しばらく経った頃、力無い溜息が聞こえる。
「俺、キモかったかな……」
元気のない呟きは、例のおじさんだ。
あたしは冷蔵庫の陰からこっそり顔を出した。
パパとは全然違う、くたびれたYシャツを着た後ろ姿。
頭をかきながらお湯を沸かしている冴えないおじさんの背中を。
あたしは今でも覚えてる———
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「おーじさん♡ 今日も来てあげたよ♡」
あたしは扉の陰から姿を現すと、新しい服を見せつけてやろうとくるりと回る。
おじさんったら、今日もめんどくさそうに溜息をついて煙草を消した。
「お前、また来たのか。学校どうだった」
「あれ、あたしにそんなに興味あるの? 愛され過ぎて困るなー♡」
「なあ、社交辞令って知ってるか?」
「安心して。おじさんの立場、ちゃんと考えてあげるから♡」
このおじさん、いつもこんなつれない態度。
……でもあたしの見たところ、落ちるのは時間の問題だ。
なにしろこのあたしが、これだけ好きになってあげたんだから。
あたしはおじさんの肩に両手を置いた。
嗅ぎ慣れた煙草の匂いが、私の鼻を心地よくくすぐる。
「あのね、聞いて欲しい話があるの」
「おい、近いって」
おじさんはそう言うけど、あたしは構わず話を続ける。
だっておじさん、ちょっと喜んでるし♡
あたしは駄目押しに、おじさんの耳に口を近付ける。
「それでね、おじさん。今日学校でね———」
アラサーさんとメスガキちゃん。こんな出会いがあったようです。
この頃から、メスガキちゃんは心に決めていたのでしょう。
最終回まであと3話。
次回、クリスマスデート編です。




