38日目 いらっしゃい恋川さん
「あー、これから我々を取り巻く環境は厳しさを増していくと思われます。君達は一層の危機感を持って公私の区別なく仕事に邁進を———」
ジョッキを抱えた俺の腕がプルプルと震えだす。
課長の言葉は続き、ビールの泡はすっかり消え失せていた。
本日は遅ればせながらも、恋川亞里亞の歓迎会が開催されている。
……それはそうと恋川はどこだろう。
外出先から直行したから良く分からんが、あいつの姿が見えない。
ひょっとしてなんかのサプライズ演出だろうか。
「———その中、二課に増員を勝ち取ったのは私の尽力の結果でもあります。これは人と人との繋がりを大切にする私の信条が上にも通じたものと———」
それにしても課長の挨拶長いなあ……
俺は一旦ジョッキを下ろす。主人公は恋川なんだから課長はあんまり出しゃばらないで欲しい。
「———本日、恋川君は欠席ではありますが、日頃の疲れを飲んで忘れて明日からの仕事に———」
……っ?!
どういうこと? なんで主賓の恋川が欠席なのだ。
俺は隣の高橋を肘でつつく。
「おい、なんで恋川いないんだ?」
「なんか課長から緊急の案件だって言われてましたよ。一課でやってた仕事を後任がトラブったみたいです」
えー、そんなのそっちで勝手にどうにかしろよ。
そわそわしていると、課長の挨拶がようやく終わったのだろう。皆がジョッキを頭上に掲げる。
「カンパーイ!」
『かんぱーい!』
ガシャガシャガシャ。
皆がジョッキを親の敵とばかりに打ち合わせる。
すっかり泡の消えたビールを一口飲むと、俺はこっそり席を立つ。
何ができるか分からんが、恋川のフォローをしに行かなくては———
「おい、田中! どこに行くんだ!」
立ち上がった俺の背中に、課長の大声が投げられる。
「いやちょっと会社に戻ろうと———」
「こんな時くらい仕事の話はやめろ! おい、こっち座れ。お前に仕事についての心構えをレクチャーしてやる」
……これは面倒なことになった。
俺は肩を落としながら、課長の隣に席を移す———
———すっかり長居をしてしまった。
課長の『社会人としての心得』を一時間以上も聞かされたのだ。
気が付けば俺と課長の周りから人が減っていき、最後にはマンツーマンで課長の相手をする羽目になったのだ———
ビルの7階は今日は珍しく静まり返っている。
俺は千鳥足で廊下を渡り切ると、中から灯りの漏れる二課の扉を開けた。
「お疲れ。大丈夫か?」
モニターを覗き込んでいた恋川が、疲れた目を向けてくる。
「……主任っすか。飲み会はいいんすか」
「隙を見て途中で抜けてきた。なにがあったんだ?」
「それがっすねー」
恋川は背もたれに身体を預けながら大きく伸びをする。
その姿勢、胸が強調されるのでほろ酔いの独身男性には目の毒だ。
……まあ、酔っているので目を逸らしたりはしないのだが。酔ってるし仕方ない。
「後任がパラメータの設定、グチャグチャにしちゃって。手直しして、手順書を一から作り直してます」
「一課の仕事、引継ぎしたんじゃなかったっけ」
「中にコメント入れといたけど、ごっそり消えてるんすよ。なんででしょうね」
あー……多分それは、ミスった後任が証拠隠滅で消したのだろう。
俺は隣の席に腰を下ろす。
「なんか手伝えることあるか?」
「さっき送ったとこなんで、向こうのチェックが済めば帰れます。いまは待ち時間でメールのチェックしてただけっすよ」
「ほい。これ、差し入れ」
恋川はコンビニの袋を覗き込むと疲れた顔にようやく笑顔を浮かべる。
「缶珈琲とシュークリームっすか。糖分、まじ感謝っす」
シュークリームに齧り付く恋川の肩越しに画面を覗き込む。
「ホントに終わったみたいだな」
「……主任、酒臭いっす」
「そうか? 悪いな、離れるから———」
「構わないっすよ。今日の店、焼き鳥でしたっけ。美味かったっすか?」
「ああ。特に特製つくねが絶品で、卵の黄身と絡めて食うと最高だったぞ」
「おお……」
「で、追ってビールを流し込むじゃん。シーザーサラダで口の中を落ち着かせてから、最後の一口は黄身とタレを大増量で口に入れるんだ。これまた追いビールが進むったら」
「……早く終わらせて私も行くっす。まだ残ってますかね?」
恋川がメールの受信ボタンを連打する。
俺は壁の時計に目をやった。
「……そろそろ課長が〆の挨拶してる時間だな」
「マジっすか」
ガクリと肩を落とす恋川。
「まあまあ、社会人の飲み会なんて仕事の延長線上だ。実際行ってたら課長に絡まれて大変だったと思うぞ」
「でも美味しかったんでしょ?」
「まあな。水炊きの〆の雑炊がこれまた美味くて、日本酒で酔った身体にスッと入るというか———」
「……メッチャ堪能して来てません?」
「……仕事の延長だぞ?」
恋川の責めるような視線から目を逸らす。
「私がトラブルで一人寂しく仕事してる中で飲むお酒は、さぞ美味かったでしょうねえ……」
「でも酒と焼き鳥に罪は無いじゃん?」
「その通りっすね。ただ、正論って時に人を傷つけるって知ってましたか?」
俺が悪いわけではないのだが、何となく罪悪感。
「今度埋め合わせするから機嫌直せよ」
「……いいんすか?」
「もちろん。今日お前、頑張ったしな」
流石に自分の歓迎会で残業とか気の毒過ぎる。
しゃーない。今度とんかつ弁当でも奢ってやろう。
「じゃあ今度……今日の店に連れてってくださいよ」
「別にいいけど」
言った途端、缶珈琲から口を離し、勢い良く俺に向き直る恋川。
「ホントっすね! 冷酒もいっていいっすか!」
「そのくらい構わんが」
「マジっすか。獺祭とか頼んでいっすか」
「えー、白鶴じゃダメか」
「しゃーないっすね。それで妥協します」
どうやらこいつの機嫌も直ったようだ。
……夜の職場に若手女子社員と二人切り。
なんかちょっとドキドキするよな。
俺はほろ酔いの浮かれ気分で缶珈琲の蓋を開ける。
鼻歌混じり、マウスをクリックした恋川が「お」と、呟く。
「返事来ました! えーと……」
メールを読んでいた恋川の表情が曇る。
「……リテイクっす」
「あー……」
俺はポケットを探ると、さっきの店でもらったガムを恋川の机の上に置く。
「……食うか?」
「……ありがとうっす」
「……なんか手伝おうか」
「……お願いします」
終電まであと2時間。
俺達のカウントダウンが始まった。
本日の分からせ:分からせられ……ノーコンテスト
アラサーさん、酔っ払ってちょっとうざい先輩と化しました。怒らないどころかお誘いしてくれる恋川さん、マジ天使かもしれません。
そんな恋川さんを酔わせたい人も、反対に潰されたい人も、バナー下から★~☆~で応援頂ければ大変に助かります。
きっと恋川さんが『……私を酔わせてどうするつもりっすか?』と言ってくれます。
次回、メスガキちゃんが立夏ちゃんの可愛いところを見つけます。
ちなみにうちの職場に一週間で辞めた人がいたのですが、最終日の自分の歓迎会にはちゃんと出席してくれました。
主賓が一名だったので、きっと気を遣ってくれたに違いありません。
……歓送迎会って言葉は、この為にあるんだと気付きました。




