引退女房のスローライフ
私秋子は綾宮様にお仕えする女房だった。だが、事情あり女房勤めやめて遠縁より譲り受けた山荘に引きこもることにした。
幸い受領を何度も任じられた父より譲り受けた遺産がたくさん残っている。荘園もあるし、私の一生として問題ない生活費が確保できる。むしろ余ってしまうような気がする。その時は寺に寄付すればよいのです。
今はとても静かな時を過ごしております。誰かのお世話をするわけでもなく、自分だけの都合で起きて身支度して父の供養をして昼には山菜採りをして夜は思いついたものを古い紙に綴ること。
煩わしい人付き合いとはおさらばです。客対応も姫の元へ訪れる殿方の案内もせずにすみます。
一瞬事件のことを思い出してずんと暗くなってしまった。こういう時は外で過ごすのが一番である。
「おや、姫さま。どこかへ行くのかい?」
声をかけてきたのは飛丸といい私が都の屋敷に過ごしていた時から働いていた下男である。屋敷を弟夫婦に譲りそのままそこで勤めればよいものを私の世話人としてついてきた。まぁ、幼少時より一緒の屋敷で過ごした古馴染みがいると思えば気が楽ではあるが。
「ええ、少し川まで散策をしようと思って」
「ちょうど釣りに行こうと思っていました。少し待ってください。この薪を片付けたら準備しますので」
そう彼は手際よく薪を片付けていった。飛丸をお供に川までたどり着く。川辺で川の流れをみると上からぱらぱらと木の葉が流れてきた。またふわっと魚が現れては消えていく。
飛丸はいつもの場所で釣りを始めた。袖を捲し上げると右腕の傷痕がみえた。幼い頃の傷痕で動物の罠にひっかかり縄で傷がついてしまったという。
「飛丸、随分ここの生活に馴染んでいるのね」
「そりゃ、姫さまに出会う前は山の中で過ごしていましたので」
飛丸はもともとは都の出身ではなかった。父が信濃の受領として赴任していた時に出会ったのだ。私が山の奥で遊んでいたら帰り道がわからなくなってしまい途方にくれてた時に、私を見つけふもとの家人のもとへ届けてくれた。後日父は飛丸を気に入って都へ連れ帰ったのだ。私も幼いながらもよき遊び友達であった飛丸と別れずにすみよろこんだものであるが。
「わざわざ信濃から都に来たのだからあのまま弟に仕えればよかったのに」
都とこんな山奥の生活、比べれば都の方がきらびやかで飽きないだろう。
「いえ、都には飽きていた頃でしたので」
「なら故郷に帰るとか考えてみなかったの? 親戚とかいた……」
言いかけて大昔に聞いたことを思い出した。飛丸は孤児であった。親兄弟を失った後山奥で一人生きる孤独の身。
「ひどいことを言ってしまったわ。許してください」
「気にしていませんよ。随分昔のことですから忘れているでしょうし」
それでも私は落ち込んだ。
「ほら、みてください」
飛丸は笑顔で今釣り上げた魚をみせた。
「身がしっかりしております。今宵は焼き魚をこしらえましょう。いや、大根や野菜とともに炊き込むのも捨てがたい」
「任せるわ。あなたの作るものはなんでも美味しいもの」
飛丸は一時炊事場にいた時もあり、料理を熱心に覚えていた。私が夜中に眠れないと焼いた餅を持ってきて話を聞いてくれていたな。うちがちょっと変わっているおかげで都に戻ってからも飛丸とよく絡んだものだ。父親がかなりの変人だったからかもしれない。優秀な歌詠みで学者であったのだが。
山荘に戻ると馬が門のところで繋がれていた。鞍をみて誰がきたのかすぐに想像できた。
「飛丸、白湯を用意して」
飛丸は頷き魚を持って厨へと姿を消した。
建物の中に入ると馴染みの者が挨拶をしてきた。
「やぁ、勝手にあがらせてもらったよ」
「文もなしにこられて、連絡あればすぐに白湯をお持ちしましたのに」
「いや、すぐに戻るつもりだ。何か不自由なことはないかなと思って、姉上の顔をみにきました」
彼は高明。私の弟である。私が都を去る時ちょうど新婚であり、6位になった祝いに屋敷を譲ったのだ。
「奥方はお元気にされている?」
「ええ、おかげさまで。姉上には感謝しております。良い土地の屋敷をいただいて」
奥方の屋敷では不幸が続いていて位置や方角が悪いと考えられた。屋敷を手放したいが、それではしばらくどこで過ごせばよいのやらと頭を抱えているところで私が屋敷を譲ったのだ。おかげで奥方にはたいそう感謝され、季節が変わるごとに果物や唐菓子を送ってくれる。ときどき都で流行っている物語の写本も送ってくれるので私としては暇つぶしになっている。
「男の子も生んだそうね。めでたいことだわ」
「姉上が送ってくれた祝いの歌を喜んでおられました」
「そうでしょう。なかなかの力作よ。私だけでなく飛丸にも知恵を借りたの」
飛丸と聞き高明はああと思い出した。
「姉上についていった下男でしたね」
「そうよ。あなたも知っているでしょう。飛丸の歌は父上仕込みよ」
飛丸をたいそう気に入っていた父は彼の仕事の合間に文字を教えたり歌を教えた。飛丸は声が非常によいので父は彼が歌を詠み、漢詩を吟じるのを好んだ。
「飛丸の才能は私やあなた、ほかの兄弟たちの上よ。本当に父自身自分の子であればあちこちの宴に連れ出して自慢していたのにといっていたわ」
「養子にしようとしていましたね。親戚類に止められましたが」
中流貴族といっても血筋にはそれなりに自負している。家に山奥で育った氏素性のしれない者を招くなどとんでもないと親戚から強い反発を受け、父はやはり変人であるとみなされるようになった。
「でも、飛丸は本当になんでもできるのよ。父上が気にいるのも無理はないわ」
「兄上の前でそれを言うのはやめておいてくださいね」
家内では兄が飛丸を快く思っていなかった。生まれた時から父より手ほどきを受けたというのに、山から拾ってきた少年の方が優秀だと父に絶賛されて目の仇にしていた。なにかと飛丸につらくあたることがあり、私がかばったことが何度もあった。
「やぁね、そもそもあの人には会わないわ。あったら女房勤めを再開しろとか、どこそこの男と一緒になれとかうるさいし」
女房勤めをやめた時はひどい剣幕で怒っていたな。綾宮、その娘たちにもう一度仕えるようにと。兄としてはその娘のうち一人が左大臣の後見を持ち入内するという話を聞いていたのでやけになっているのだ。運良ければ妃に仕える女房であり多くの貴公子と接点を持つ。そこから覚えをよくしてもらい自分にも良い職が得られるように推薦してもらおうという腹のようである。確かに兄としては必死なのかもしれないが、私としてはもう一刻も早く別れたかった。そうこうしているうちに兄は今年受領として新たに赴任してさっさと消えてくれたのだが。
「そんなにひどい職場だったのかい?」
「そうよ。少なくとも私にとっては」
綾宮は何かと賑やかなのが好きでせっせと貴公子たちを招いては歌詠みの会を繰り広げていた。毎回私は歌を詠まされてはあれこれと吟味されていた。多くの女性からみれば憧れの貴公子に直接歌をみてもらえるなど贅沢なと思われるが、週に3回以上となるとさすがに精神的にきつい。歌は詠める方であるが、そこまで引き出しは多くなくとっさに出てこなくて苦労してしまう。今日は誰が来るのかと思うと憂鬱であった。
また年頃の姫たちの恋のつなぎ役にも出されていた。こういうのは乳母か乳姉妹でもよいのではと思うのだが、姫たちの指名なのでいやだと言えず夜遅くまで起き貴公子の送り迎えをする羽目になる。粗相がないようにと気を張り詰めているとこの前の歌はどうだったと小さな評論会が開かれる。すぐに機転の効いた返しが返せればよいのだが、返せない時は貴公子はくすくすと笑いそのまま姿を消してしまうのでなんだかもやもやとしてしまうのだ。
それだけではなく同僚からの妬みもかっては小物をよく隠されることが多かった。大事な櫛を隠されて悲しい思いをした。草子まで奪われて探していると1週間後には同僚たちが集まってはその草子の内容をそらんじて恥ずかしい思いをしたものだ。
「あれ、もしかしてその草子」
「なに?」
「いや、綾宮が左大臣に送ったようで内容の歌とか素晴らしいと絶賛され今では綾宮草子と呼ばれてあちこちの貴公子女房が写して読んでいるらしいよ」
高明も少し読んだようで内容を聞くと間違いなく自分が書いたものだった。
「うわぁ」
あんなものがあちこちに広まっているとは恥ずかしいものだ。中には黒歴史というものもあり、女房たちに妬まれていると気づいた時点で実家に送って処分しておけばよかった。
「やはり姉上は宮様のもとへ戻った方がいいのでは? 宮様はあの草子をとても気に入っていて、誰が書いたか気づいているらしい。ときどきだけど私のもとに文を届けてくださる」
是非宮仕えに戻ってきてほしい。彼女はどこにいるのだろうかと。
「いいこと、絶対に言ってはダメよ」
「と言われても相手は宮さまだし」
絶対やめてほしい。兄弟たちも知らないと答えるようにと徹底的に諭した。
「まぁ、姉上がそういうのなら黙っておくよ。でも兄上が数年後都に戻ってきたらどうなるかわからないよ」
「その時は優秀な女房たちが現れて私のことなど霞んでしまっていることを祈るわ」
とにかく今の生活が気に入っているのだ。脅かされたくない。
「わかったよ。うん、そうだね。今日久々に会った姉上は顔色がずっといいし、こちらにいる方がいいのかもしれない」
けど、使用人が飛丸一人というのはいささか不安がある。
「そのうち新しい侍女を雇おうかな」
「私よりあなたの屋敷で雇ってあげてよ」
この山荘では人手はそんなに必要ない。
「わかったよ。じゃあ、飛丸が辞めるといったときに教えて。そのときに考えるから」
「大丈夫よ。その時は自分で何とかするから」
いざとなれば所縁の寺にお願いして探してもらうこともできる。
高明は山荘を出て私と飛丸は見送った。
「新しい侍女を雇うのですか?」
先程の会話を聞いていたようである。
「雇わないわ。あ、もしかして結構負担? やっぱりだれか雇った方がいいの?」
飛丸は首を横に振った。
「いいえ、私一人で十分です。どうか姫さまのお世話をこのままさせてください」
「……私が死ぬまで?」
そういうと飛丸は悲しそうな表情を浮かべた。
「死ぬ予定があるのですか?」
「ないわよ。このまま私がおばあちゃんになっても、老衰しても一緒にいてくれるのかしらと思っただけ」
「できればそうしたいです」
思いもしない返しである。こうして私のお世話をしてくれるのはありがたいのだが、これがいつまでも続くとは思わなかった。彼もよい男である。いずれはよい女性に出会って所帯を持つかもしれない。その時はさすがにお別れだろうと思っている。
「ありえません。姫さまの元でずっとお仕えしたい」
「どうしてそんなことを言ってくれるのかしら。父上への恩返しのため?」
「いいえ、姫さまへの恩返しのため」
飛丸は優しい笑顔で右腕を撫でた。そこには瘢痕化した傷跡があった。昔動物の罠に引っかかって縄が食い込んで痕になったという。
「姫さまは覚えていますか? 罠に嵌められた狐のことを」
「ええ、と……ああ、山で散策しているときに罠に引っかかった狐がいたわね。悪さをする狐がいるからだと言われたけど私は下男を連れてきて刀で切ってもらったわ。狐はそのままぴゅーと逃げてしまったけど」
子供ながらにとても痛々しそうにしていた。大人の下男は悪さする狐をこらしめるためだろうと言ったが私は泣いて助けてほしいと縋った。その狐が罠にはまったのは右の前足、飛丸の昔かかった罠に似ている。
「まさかあなたが」
確か狐は化けると聞いている。目の前の飛丸はもしかして狐なのだろうか。
「いいえ、自分と同じ罠にはまった狐を助けるなど姫さまお優しくすぐ騙されやすそうだと放って置けないなと思い亡き殿様にお願いして奉公させていただきました」
長年仕えていて案の定私が騙されやすい性格で、そんな中一人で山荘にこもろうとすると聞いて心配でついてきたのだ。
「まぁ、姫さまのお世話は好きなのでできれば続けさせていただきたいです」
「もう変な言い方して、一瞬あなたが化け狐かもとひやりとしたじゃないの」
飛丸は笑いながら厨へと走っていった。私はぷんぷんとほおを膨らませて久々の彼のからかいに乗せられたのを悔しいと感じた。だ が、しばらくして美味しそうな夕食の香りを嗅ぎ悔しさはすっと消えていった。