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世紀末が過ぎてからさらに十年以上経ったこの年、豪雪だった冬が終わり、過ごしやすい春から日差しが眩しい初夏に向かって少しずつ季節が移り変わろうとしていた。今日は海からの爽やかな風が吹き、空には雲一つなく太陽がまぶしい。
ここ今津市にある整備された港町の大きな公園では、開港百五十周年を祝ってイベントが開催されていた。港に大型客船や潜水艦などが一般公開され、広場には屋台も並び、大きなステージも仮設され様々な催し物が人々を楽しませていた。連休でもあり、人出は多い。
「なんでまだクールビズにならねえんだ、こんなに暑いのに」
楽しげな人々が行き交う交差点を、スーツ姿で汗を拭きながら早足で歩く背の高い男。北条冬也は整った顔の眉間にしわを寄せている。大きく重そうな営業鞄を一つは肩から、一つは手に提げ、さらに地元の銘菓の紙袋を持っている。
冬也は大きな仕事が終わったところだった。部下の山科和彦と二人で取り組んでいたはずだが、最終チェックの後、事業所所長との挨拶と今後の段取りの辺りから姿が見えなくなっていた。就職氷河期時代に入職し、社畜根性が鍛えられている冬也には、上司に報告なく自由に行動する山科の精神構造は理解できない。
「だいたい、お嬢も急に菓子が食べたいとか言うんじゃねーよ。買いに行かせる前に山科はいなくなってるし」
部下だけでなく、上司も冬也を苛む。業務の完了と報告に向かう旨を伝えたところ、業務と関係あるとは思えないお使いを言い渡されたのだ。
流れる汗を拭きながら、上司に仕事の報告をするため公園脇の喫茶店に向かっていた。おやつの時間も近くなり、日差しは強く気温もぐんぐん上昇している。反比例するように男の機嫌は下降していた。
「そもそもネクタイの意味がわからん。拷問具としか思えねー」
意味不明な愚痴を言いながら、広大な公園を横切って目的地に向かっていた。ステージから吹奏楽の軽快な音楽が聞こえてくる。ふと、ステージの方に視線を向けると、観客の端に部下を見つけた。真剣な眼差しでステージを見つめている。
「山科ぁ!なにやってんだ!」
暑さと、荷物の重さと、ここ連日詰めた仕事の疲れと、この部下の自由さへの苛立ちがないまぜとなって怒りの形相で部下に詰め寄った。
音楽の音量が大きかったため冬也の声は響かなかったが、近くで観覧していた人達がぎょっとして彼等を見ている。
「あれー、北条部長。吹奏楽好きでしたっけ?」
「…いくぞ」
のんびりした部下の口調に疲れが倍増した気がした。周囲の視線にいたたまれなくなり、山科を引きずるようにして観覧席から連れ出した。
不機嫌で汗だくの冬也とは対照的に、弾むような口調で山科が話しはじめた。
「僕、初恋が中学だったんですよね」
突然の告白に二の句が継げない。かわいそうな子を見るような冬也の視線に気づかず、山科は続ける。どんな話が展開されるんだろう、惚気られたらキレて怒鳴るか殴るかするかもしれない、と疲れた頭でぼんやり思った。
「まあ、話しかけることもなく、高校も違って、そこで恋は終わったんですけど」
終わってしまった。だが話は続く。
「その女の子が吹奏楽部に所属してて、サックスみたいなクラリネットみたいな楽器を演奏してたんですよね。さっきのステージにも同じ楽器演奏してる子がいて、あの楽器の名前はなんて言うんだろう、って考えてました」
「ん?」
話のふり幅の大きさについていけず、冬也は思わず間抜けな声を出した。
「だから、部長が何してるのか聞いたから答えてるんですけど」
確かになにやってんだ、って言ったね。けど、上司に「説明しないと解らないんですか?」みたいな顔でこっちに責任があるように言うな。そもそも本当に何をしていたのかはどうでもいいんだ。だいたいお前の初恋とか楽器への興味とか仕事に全く関係ないだろう。さぼりじゃないか。PC鞄しか持ってないお前はこっちの荷物を一つ持て。あと暑い。なんで俺だけすごい汗かいてんだ。
冬也は何を伝えたらいいのか解らなくなり、ぐったりと「そうだな、すまん」とだけ言った。
「マスター、餅のお菓子には緑茶か抹茶が合うと思うのですけれど」
昔ながらの内装の狭い喫茶店には、コーヒーの香りが漂っていた。客は一人だけ。カウンターにオーダーメイドのスーツを着こなし、長い足を組んだ三十代と思われる美女が座っている。
「えっ、絢音さん、まさか冬也に頼んでたお菓子ここで食べるつもり?」
「今いただきたいからお使いを頼みましたの」
「ここは喫茶店です。メニューからどうぞ」
「あら、固いことを仰らないで。わたくしと貴方の仲じゃありませんか。それとも上手く淹れられるのはコーヒーだけなんですの?」
「いや、論点すり替えてけしかけても、うちに緑茶も抹茶も無いからね? あと持ち込みご遠慮下さい」
「わかったわ。コーヒーで我慢して差し上げるわ」
わかっていない。彼女にとって、お菓子を持ち込んで食べるのは決定事項のようだ。マスターと呼ばれた高根沢拓海は、これ以上の説得を諦めた。今日はこのお嬢様がこの店を貸し切っているのだ。多少彼女の言い分通りにしたところで何の問題もない。
この強権的な美女は楓小路絢音といい、部下である北条冬也と山科和彦からの報告を待っている。彼女は大企業の本部に所属し、理事の一人である。企業傘下のグループは多く、職種も多様だ。グループ全体を総括する立場にあり、調査部と呼ばれる部署の責任者である。業務は内部の調査など様々な仕事をそれぞれの会社に出向いて行うため、決まった勤務場所は無いに等しい。
絢音は何故かこの喫茶店『WindyTown』を気に入り、この今津市周辺で仕事をする時にはこの店を貸し切り、自分の事務所のようにして振る舞っている。
不定期に、そして突然貸し切りにされるWindyTownであったが、マスターである拓海はいつでも受け入れていた。店員が自分だけであり身軽だということと、報酬が良いというのももちろんだが、もう一つ、調査部で行われている表に明らかにされない調査に理由があった。
決してこの喫茶店の客がいつも少ないということではない。断じて。
カラン、とドアについたベルを鳴らしながら、ぐったりと疲れを見せる冬也と、何かぶつぶつ独りつぶやく山科が入ってきた。
「お疲れ様。首尾はいかが?」
「楽器ってどのくらいの種類があるんでしょう」
「あなたの仕事の種類くらいじゃないかしら」
「拓海、水くれ」
冬也は絢音と山科の全くかみ合わない会話をほおって、上司に報告に向かう前に高校の同級生だったマスターの元へ向かった。
「冬也いつもより疲れてるんじゃない? 外暑そうだね」
「ほんと色々疲れた」
山科とのやり取りを思い出しながら言い、一息にグラスを空けると、心得たように拓海がピッチャーから水を注いでくれる。二杯目も一息に飲んで「サンキュ」と短く礼を言い振り返ると、絢音がこちらをニヤニヤと見ている。
「仲が良くて妬けますこと」
絢音が意味ありげに言う。
「えっ、部長男色なんですか」
すかさず山科も言葉尻に乗る。仕事でもこのくらいのレスポンスが欲しい。
「ちょ、俺を巻き込まないでくれ」
拓海は心底迷惑そうに言い、一歩下がった。拓海、お前もか。
もう疲れがピークに達した冬也は突っ込みを入れることもできず暫く固まった後、やっとのことで「報告します」とだけ言った。
ちなみに山科が気になっていた楽器はバスクラリネットです。