コトリガミ:序
私は、すべてを諦めていた――
いつか、神は乗り越えられる試練しか人に与えない、という言葉を聞いた事がある。
しかし、そんな事はない。
世界は時として唐突に、憐れな子羊にどうしようもなく理不尽で、身の丈に合わぬ重荷を背負わせる事があるのだと、私はこの時知ったのだ。
薄暗い御堂の中に、村長の高圧的な言葉が空虚に響く。
私の身に何が起こったのか。私がどういう存在になったのか。そして、私はこれからどうするべきなのか……。
そんな諸々を小難しく語っているようだが、そんなものは私には必要がない。
彼の言葉は私の耳にも、頭にも、当然心にも、まるで響かなかった。
何故なら、そんな言葉よりももっと雄弁に、私の置かれた状況を語ってくれる物がこの場にはあったからだ。
私を取り囲むように座っている、村の大人達。
ここからでは影になっていてよく見えないが、それでも彼らの視線は感じ取る事ができる。
憐み。あるいは、蔑み。それと、怒りも。
種々雑多な感情が込められた視線。
それらの根底にある物が何なのか私には分からないが、それでも一つだけ確実に、私にも分かる事があった。
彼らと私の間には、明確な壁があるという事だ。
今朝方、畑仕事に出掛けていく近所のおじさんに挨拶したら、笑顔で手を振ってくれた。
向かいのおばさんは、頂き物のおすそ分けだと言って、私にお菓子をくれた。
初孫が生まれたと言って、誰彼構わず写真を見せびらかしていたお爺さんは、勿論私にも暑苦しい程の笑顔で写真を見せてくれた。
そんな彼らも、この周囲に座って、私にそんな視線を向けているのだと思うと、悲しくて堪らなくなる。
人並みの幸せを伴った、春の陽だまりのようだった、私の世界。
突然、そこから一人だけ追い出されてしまったように思えた。
――だけど、仕方ないか。
自嘲気味に、諦めの言葉を胸の内で呟く。
――何故なら、私は『私』で無くなってしまったのだから。
ここに来るまでの途中、何気なく覗き込んだ鏡の事を思い出す。
何の変哲も無い姿見。だけど、そこに映っていたのは見知らぬ姿だった。
真白い髪。紅い瞳。
始めは、自分が覗き込んだ物が鏡だと気づかなかったくらいだ。
だけど、気づいてしまった。
その中に映るのは、紛れもなく、自分の顔だと。
白い髪と紅い瞳をした、最も身近な人間の、知らない姿なのだと。
その時、私は例え様のない気持ち悪さを感じた。
鏡を覗いて知らない私が映る。そんな経験は今までした事がなかった。
いや、そもそもあそこに映っているのは本当に私だろうか?
何者かを映すアレは、本当にただの鏡なのだろうか?
割れそうなくらいに頭が痛んだ。
胸の奥に鉛の塊を詰め込まれたような、得も言われぬ不快感を感じて、思わずえずく。
意識が錯乱し、考えが纏まらない。
――なのに、それでもはっきりと、分かってしまった事が、一つだけあった。
私は『私』で無くなったのだ。
きっと今、ここにいるのは、『私』の姿をして、『私』の思考を借りた何者かなのだろう。
だから、ついさっきまで親しくしていた村の者達も、遠巻きに私に視線を投げつけるのだ。
村の仲間の姿を似せた、得体の知れない何者かを、畏怖と侮蔑を持って眺めているのだ。
村長は、変わらず言葉を続けている。
相変わらず、碌に頭に染み渡ってこない言葉だが、そんな物でも一つだけ教えてくれた事があった。
『私』で無くなった、名無しの、私。
そんな私の新しい名前は『道具』というものらしい。
ならば精々、その名前を全うしてやろうじゃないか。
どうせ、『私』には戻れはしないのだから。
村長の苛立たし気な声が聞こえる。
よく聞いていなかったが、何やら同意を求められていたようだ。
大方、『道具』として生きる事への確認といった所だろう。
今更、私に是非を問うのがおかしくて笑えてくる。
この状況で、何の選択権があるというのだろう。
『私』である事を否定された私に、何が残るというのだろう。
もはや、馬鹿らしくて口を開くのも億劫だが、同意を求められているのならしてやろう。
『道具』としての初仕事だ。
口を開き、お望み通りの同意の言葉を吐き出してやろうとして――
――それを、隣で佇んでいた少年が遮った。
思わず隣を見る。
そこには、いつも隣に居た幼馴染が、瞳を燃え上がらせながら、必死に虚勢を張る姿があった。
自分勝手で、どこか頼りないといつも思っていた、私の良く知る少年。
そんな彼が、真っ直ぐに相手を睨みつけて、絶対に認めないと気炎を上げていた。
私は、既にどうしようもないと諦めて、『私』を捨てようとしていたのに――
彼は、そんな『私』を、必死に救い上げようとしていた。
私は、そんな事は不可能だと思った。
私たちはまだ子供で、変に意地を張ったって何かが変わる訳ではないと。
だけど、彼は諦めなかった。
必死に、私の手を離すまいと、ただひたすらに足掻き続けた。
いつしか、そんな彼の姿が、私にとっての光になっていた。
昏く沈んだ世界に差し込んだ、一筋の光に――
そして、私も覚悟を決めたのだ。
彼が意地を張り続けるというのなら、私も張り続けよう。
彼が『私』を諦めないというのなら、私も『私』だと言い張り続けよう。
彼と共に、彼の隣で歩み続けよう、と――