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狐憑き:結

 部屋に戻って、そのまま縁側とは反対側の廊下に飛び出した俺を出迎えたのは、まるで見計らったかのようなタイミングで、廊下の向こうから現れた葛花の姿だった。

「……何か言い訳は?」

 思い浮かべた通りの不機嫌顔で、開口一番にそれである。

 仮にも命を懸けてきた相手に対して、もう少し労いの言葉とかあっても良くはないか? と言いたくなるけれど、思いっきり失態を演じたという自覚が自分でもあるので何も言えない。

 冷や汗交じりに立ち尽くす俺の脇腹辺りに葛花の視線が向く。

 微かではあるが、そこには狐の牙を引っ掛けた傷があり、血が滲んでいた。

「取り逃がした上に手傷負い、ね。退治するかどうか決める以前の問題じゃない」

 冷ややかな視線で責められて、思わず縮こまってしまう。

 事前にちょっと格好つけた感じで自分から難易度を引き上げた挙句、それどころではないくらいの大失敗をしでかしたのだ。

 これほど格好悪い事もそうそうない。

「……次もこの体たらくなら、私がやるからね」

「……面目ない」

 はぁーっ、と葛花が深い溜め息をついた。

 何というか、普通に怒られるよりも精神的にきつい。

「で、相手は? 敷地内から出てく気配を感じたけど、何やったの?」

「……いや、ちょっとムキになっちゃって、思わず部屋の外に蹴り飛ばしちゃったら逃げられた、というか……」

「…………」

 再び、さっきよりも大きい溜め息で呆れられる。

 失敗した事は自分でも痛いくらいによく分かっているので、頼むからせめて普通に文句を言って欲しい。

「後でお説教は謹んで拝聴いたします。それより、気配を感じてたって事は、追えるな?」

「……当たり前でしょ。薫と一緒にしないで」

 一言余計だが、そこは流石の高性能アンテナ装備。

 ある程度の距離なら、離れていても感知する事くらいは造作もないらしい。

「家の裏手側に抜けていく気配を感じた。そう遠くない位置で止まってる」

「よし、場所が分かるならすぐに追うぞ。もしも、他の人間に憑りつかれたりしたら面倒な事になる――」

「あの……」

 駆け出そうとした所を遠慮がちに呼び止められた。

 声のした方。葛花の背後に視線を向けると、おっかなびっくりといった風に廊下の向こうから現れた依頼人のご主人の姿があった。

「除霊は終わったのでしょうか? 息子は……大丈夫でしょうか?」

 見るからに不安そうな顔で、恐る恐るそう尋ねられた。

 反射的だったとは言え、被害者の少年を思いっきり投げ飛ばした事を思い出す。

 相当な音がしたはずだし、もしもあれが別室のご主人にも聞こえていたとすれば、無事を問いたくなるのも無理はないだろう。

 しかし、ぐずぐずしていると逃げた狐がまた誰かに憑りつくかもしれない。

 第二、第三の被害を防ぐ為にも、一分一秒が惜しい状況なのだが……さりとて不安に顔を曇らせる依頼人に理由も話さず放置という訳にもいくまい。

 僅かに逡巡した後、とりあえず簡潔に状況の説明だけ済ませておこうと、ご主人の方に向き直った。

「ご心配なく。除霊は滞りなく終了しました。憑りつかれていた反動で、しばらくは目を覚まさないかと思いますが、出来る限り安静にして、しばらく寝かせてあげてください。万が一、二日経っても目を覚まさないようなら、もう一度ご連絡くださればすぐに駆けつけますので。それでは、我々はこれから息子さんに憑りついていた悪霊を追わねばなりませんので。失礼します」

 一息に早口でそれだけ説明して、そそくさと主人の脇を抜けて玄関に向かった。

 後ろから当惑したご主人の引き留める声が聞こえた気がしたが、今は緊急事態なので申し訳ないが無視。

 家から飛び出し、葛花の言っていた裏手を見やると、外へと抜けられる小さめの門があるのに気付いた。恐らくは裏口なのだろう。

 その先には、山に沿う様に蛇行しながら伸びていく道が見える。あの道を辿っていけば後を追えるだろうか。

「距離は?」

「大体二、三百メートルって所ね」

「移動は?」

「してない。同じ場所に留まってる」

(……ふむ)

 確かに、そう遠くはない。

 おまけに裏手から伸びる道は、どう見ても人が居る場所からは遠ざかっている。

 そして相手が移動せずに留まっているというのなら、そこまで焦る必要もなかったか。

「三百メートルくらいなら、歩いても五分くらいだな。それくらいなら大した事ないだろうけど……」

 問題は、その見えている道が集落から離れ、山に入っていく道であるという事。

 別に二、三百メートル程度歩いた所で迷子になって遭難したりする訳では当然ない。

 重要なのはその道が、まるでそれこそが山道としての正しい姿だと言わんばかりに、結構な勾配の上り坂になっている事である。

 目測でおおよそ十度程度。

 つまり、上る人間の体感的には四十五度くらいの坂に思えるという事である。

「……葛花」

「……何?」

「へばるなよ」

 返事の代わりに足を踏みつけられた。

 遠回しに気遣ったつもりだったのだが、どうやら遠回しが過ぎたらしい。

「余計なお世話。子供扱いしないでって、いつも言ってるでしょ」

「……さいですか」

 ここに来るまでに死にそうなくらいにへばっていたのは誰だよと言いたくなったが、この通り本人はやる気に満ち溢れている訳だし、余計なお世話とまで言われては仕方ない。

 たかだか三百メートル程度だし、坂道とはいえ大丈夫だろう。

「覇気に満ちてるようで大いに結構。そんじゃ、その勢いのまま道案内よろしく」

「分かってる。ついてきなさい」

 不機嫌そうにそう言って歩き出した葛花の後に続く。

 一時はどうなる事かと思った狐落としもようやく大詰め。

 さっさと片付けて家に帰って、硬いソファで惰眠を貪ろう。

 そんな事を考えながら坂道を上っていくのだった。



「あそこね」

 右手に望む集落が全景を見渡せる程度に坂道を上った頃。

 無言で前を歩いていた葛花がそう言って足を止めた。

 彼女が示す方に目をやると、鬱蒼と茂った木々に隠れる様にして、随分と草臥れた鳥居があった。石で造られた鳥居の表面は、長い年月を経た事を表す様に苔生しており、見事なまでに周りの木々と一体化してしまっている。初見の人間では、誰かに教えてもらわないとまず気づかないだろう。

「……よく気づいたな」

「そりゃ気配を探ってるもの」

 何でもない事のように言って、葛花はさっさと鳥居の方に歩いて行ってしまう。

「…………」

 端から見れば葛花の高性能アンテナはちょっとどうかと思うくらい便利過ぎると思うのだが、本人にとっては大した事ではないらしい。

 俺自身が神祓いとして人並み以下なので、余計にそう思うのかもしれないが。

 まぁ、何にせよ、見失わなかったのは幸いだ。さっさと先を行ってしまう葛花に続くようにして鳥居をくぐった。

 雑草に埋もれる様にして続く石畳によってかろうじて分かる道の先には短い階段が続き、その向こうには少し開けた空間が広がっている。周囲を一面木々に覆われているせいか、鳥居のこちら側は昼間だと言うのに随分と薄暗い。

 無造作に伸びる雑草を踏みしめながら石畳を歩いていく。

 階段を昇り、広間まで来た所で改めて周囲を見回してみた。

 乱雑に木々が立ち並ぶ中、役目を果たさなくなって久しいであろう手水舎と、祠と言っても差し支え無さそうな社の存在が、辛うじてここが神社である事を示している。

 一応、今立っている広間が境内という事になるのだろうが、そこそこの広さこそあるものの、建立当初は境内の一部だったと思われる場所に、所々木々が侵食するように生えてきており、境内の形は実に歪な様相になっている。石畳によってかろうじて社まで続く道が見取れるものの、それも苔や雑草に覆われる有様であり、見た目では境内というより適当に木を伐採して作っただけの広間と言った方が近い。

 端的に言ってしまえば、その神社は寂れていた。

 いつ頃から放置されているのか、それすら想像もつかない程の荒れ果てよう。かつてこの地に住まう人達の願いの為に建立され、そして忘れ去られた時代の残骸の姿がそこにはあった。

 こういう場所は苦手だ。

 己が為に祀り上げておきながら必要が無くなれば捨て去る人間の身勝手さ、そしてその身勝手さの犠牲となった者達に追い打ちをかけるようにして引導を渡す自身の行いの罪深さを嫌でも想起させるからだろう。

 別に今更、己の業を見せつけられた所で後悔や罪悪感に苛まれる事も無いのだが、それでも多少、憂鬱になる程度には気に病んでいたりするのだ。

「……それで、やっこさんはどこに消えた?」

 胸中の鬱屈とした感情を誤魔化すように葛花に聞く。今の俺にはやるべき事があるのだ。ブルーな気分に浸りたければ、やる事やってから存分に浸る事にしよう。

 一方、葛花は俺の問いには答えず、代わりにこの広間の主役である社を指差した。

「……まぁ、そうだよな」 

 当然と言えば当然。

 もしかしたらはぐれ者の雑霊で偶々ここに逃げ込んだ、なんて可能性もあるんじゃないかと考えたが、結果は当初の予想道理という事らしい。

 社とは詰まる所、そこで祀られている神の家であり依代だ。

 言い換えれば、その神の領地とも言える場所であり、祭神以外でそこに入り込めるのは相応に格の高い神くらいである。

 少なくとも、そこいらのはぐれ雑霊程度では、たとえ荒れ果てて忘れ去られた神社と言えど、入り込むのは不可能だろう。

 となれば必然、あそこに逃げ込んだモノ――あの少年の身体から追い出し、俺が蹴り飛ばした巨大な狐はこの神社に祀られている神だという事になる。

(成程な……。確かにこの有様じゃ、むしろ悪神に堕ち切っていないのが奇跡と言えるくらいか)

 もう一度ぐるりと神社を見回してそんな事を思う。

 うらぶれたこの神社では、贔屓目に見ても充分に信仰を集めているとは思えない。

 このままの状態が続けば、先程葛花が言っていたように、遠からず本当に悪神と化してしまうのも時間の問題だろう。

 そうなれば今回のような事が再び起こる、もしくはそれ以上の惨劇が起こるのは想像に難くないし、それで困るのはこの近くに住む人達。それと、半端な仕事を上から責められる俺達なのである。

 なので、この神社の現状は何とかしなければならない。

 世の為、人の為。そして何より自分の為に。

(……まっ、そうは言っても、結局はこの辺りに住んでる人達次第なんだけど)

 仮に社を綺麗に整備したからといって、それで問題が解決する訳ではない。

 大きく綺麗な社も立派な鳥居も丁寧に整備された敷石も、すべては参拝者を招く為の物。より多くの人に見てもらう為の物に過ぎないのだ。

 祈る人間がいなければ、どれだけ立派な神社を築こうとも神は救われないのである。

 結局の所、ここの神様が悪神化を免れるか否かは、周辺住民が参拝してくれるかどうか。別に付け焼刃でも構わない、要はここに神様が居るのだと覚えていてくれるか人が居るかどうかに掛かっているのだ。

(その為にも、ある程度は外面を整えるのも重要なんだけど……)

 外面だけを整えた所で意味は無いが、仮に参拝してくれる人が居た所で、本殿が今にも崩れそうなあばら屋だと参拝する側の気持ちも萎えるというもの。

 何事も見返りを求めるのならば先行投資が必要なのは世の常。それは現世も幽世も変わらないのである。

 というか、この神社の有様では、せめて外面くらいは繕わないと誰も来てくれないだろうという確信がある。

 金があれば万事が解決する訳では無いが、解決する為の取っ掛かりには大抵の場合、お金がかかるものなのだ。

(修繕は……地元の人がやる気になってくれれば有り難いんだけど。無理なら上に掛け合うってみるしかないか。俺を嫌ってる上が素直に修繕費を出してくれればいいけど)

 この荒れ果てようだと、まともな神社に直すだけでも結構な手間と費用が掛かりそうだ。

 依頼主を始め、地元の人が修繕費を出してくれるなら非常に助かるのだが、別に彼らにそんな義務がある訳ではないので強要する様な真似はできない。

 そうなるとこちらで修繕するより他はないのであるが、勿論、俺の懐にそんな金は無いし、上の連中に丸投げするより仕方ない。

 だが、そもそも社の修繕自体が規定違反の行動の末であり、ましてや嫌われてる俺の頼みを上が聞いてくれるかと言うと――

(……無理かな。やっぱ)

 早々に挫けそうになったが、それはあくまで最終手段だ。

 とにかく、まずは地元住民を説得して、何とか修繕してもらえるよう働きかけてみるしかない。

(しかし……ホントにボロボロだな。この社……)

 改めて近くで観察してみるが、その惨状はまさに祭神の現状をそのまま表したかの如く、際どい物だった。

 苔に覆われた壁面は腐食が進んでいて、軽く小突いただけで崩れ落ちてしまいそうなくらいに危なっかしい。

 所々、シロアリに食い荒らされた跡もあり、放っておけば、遠からず倒壊するであろう事は確実だ。 

 屋根も軒先が崩れてきていたり……どころか、一部盛大に崩落している所もあるくらいで――


「……ん?」

 ふと、違和感を感じた。

 何気なく見過ごそうとした視線を戻す。

 軒先の一部分がまるで食いちぎられたように欠けている。

 これだけボロボロの神社なら、それ自体は別におかしい事ではない。他にも崩落している箇所はいくつかある。

 だが、他の場所に比べると、ここだけ妙な違和感を覚えるのだ。

 具体的に言えば、ここだけ他の場所に比べて、損傷度合が激しい。

 それはまるで自然に崩落したというよりも、何かに壊されたといったような――

「…………」

 同時に、ふとある事に思い至った。


 何故、あの少年は悪神でもない神に憑りつかれたのか。


 悪神になってしまったものに憑りつかれたというのなら、そこに理由を求める必要はない。

 悪神とは己を見失って、既に分別も分からず、ただ暴れ回るのみとなった存在の名だ。

 彼らのもたらす災いに意味などない。

 強いて理由を求めるとすれば、彼らは災いをもたらす事そのものが理由なのである。


 しかし、あの神は、まだ悪神には成っていなかった。


 勿論、実際に相対した俺は身を以て体験した事だが、あの神は悪神化していないと言っても、行動そのものはほとんど悪神のそれだった。

 意思の疎通もできず、問答無用で近づいた俺に襲い掛かってきたのだ。

 そんな相手に、いまだ神としての道理が通用するのかは分からないけれど――

(……何だろう? 何か引っ掛かる)

 自分でもよく分からないのだが、泡の様に湧いて出た疑問が頭から離れない。

 もしかしたら、自分が単に信じたいだけなのかもしれない。

 今回の事は、悪神としての無差別な災害ではなく、神としての理由のある祟りだったのだと。

 そうだという根拠を探して、あれはまだ元の神として引き返せる存在なのだという裏付けが欲しいだけなのかもしれない。

(……でも)

 だけど、もしも仮に、本当に神としての祟りだったのだとしたら――


 神と名の付く者は、人間の願いの結晶だ。

 それが何の理由も無く、人に仇なすという事は考えられない。

 つまり、そこには彼が憑りつかれた、明確な理由が存在するはずである。


 だとすれば、その答えは明々白々。

 古来より、神が人を祟るのは、人が彼らの領域を侵したがゆえである。


「………………」

 削り取られた軒を睨む。

 確証は無い。けれど、あれはもしかしたら――

「薫」

 名前を呼ばれて意識を戻す。

 声をかけてきた葛花の方に目をやると、彼女は何か丸い物体を両手に抱えて立っていた。

 その辺りに落ちていたのか、所々土で汚れているそれを見て、頭の中で何かが繋がった気がした。

「――――――」

 踵を返して、神社を後にする。

 後ろから慌てて追いかけてきた葛花が文句を言うが、俺の耳には入らなかった。


 頭の中で出来上がった、一つの絵。

 果たして、それが真実なのかどうか、確証は無かった。

 でも、もしかしたら、一度広がった溝を埋める事ができるかもしれない。

 そんな期待が、俺の足を急かしてやまなかったのだ。




 家の前まで戻ってくると、不安そうに玄関前で立ち尽くしているご主人の姿があった。

 急いでいたとは言え、言葉足らずの説明だけ残して飛び出してきてしまったのだ。途方に暮れるのも仕方ないと言うか……いや、実に申し訳ない。大いに反省。

 こちらに気づいたようなので、駆け寄って声をかけた。

「すいません。お待たせしました」

「ああ……いえ、その……お帰りなさい」

 ほっとしたような、でもちょっと怒ってるような、何とも言えない微妙な表情で、ご主人が出迎えてくれた。

「それで……あの、どうなったんですか? 息子に憑りついていたモノは退治していただけたのでしょうか?」

「……ああ、ええと……それなんですがね」

 やはり、ご主人は退治をお望みらしい。

 息子に憑りついて、妻を病院送りにし、近隣住民にも怪我を負わせた危険な相手なのだから、むしろ野放しにする理由が無いし、当然ではある。

 憤りがあるのも勿論だろうが、また同じ事が起こるかもしれないという不安で、夜も眠れなくなるかもしれない。

 相手が土地神だった、と言うだけでは、矛を収めさせるのは難しいか……。

 まぁ、何はともあれ、まずは事情の説明である。

「ところで、ご主人。これに見覚えがありませんか?」

 先程、葛花が拾ってきた球体を見せてそう問いかける。

 掌の上に鎮座した、俺の頭程度の大きさを持つ球体。

 黒と白で彩られた特徴的な模様をしたそれは、どこからどう見てもサッカーボールである。

 それなりに使い込まれているのか、所々に土を擦った様な跡があったり、全体的に黒ずんでいたりして、お世辞にも綺麗とは言い難い。

 そんなボールを見せられても普通なら戸惑うだけだろうが、ご主人は俺からボールを受け取ると、手の上でくるくると向きを変えながら、何やら真剣な表情で観察している。

 もしかしたら自分の勘違いかもしれないという不安もあったのだが、何やら難しい顔で考え込んでいるご主人の様子を見ている限り、どうやら当たりらしい。

 しばらく押し黙ったままサッカーボールを見つめていたご主人が、実に納得いかない、といった風に口を開いた。

「これは……おそらくですが、息子の物だと思います。確実にそうだと言える自信はありませんが……。うちに置いてあったボールと傷や汚れ具合が似ている……気がします」

 首を傾げながら歯切れ悪く返答するご主人。

 自身の曖昧な記憶が本当に正しいのかと訝しんでいるのか、それともこのボールをどうして部外者の俺が持っていたのかと疑問に思っているのか……。おそらくは両方だろう。

 裏が取れたと言うには少し怪しい物言いだったが、そうじゃないと、こちらとしても話が進められなくて困る。

 強引にでも息子さんの物だという事にしていただいて、話を進めよう。

「ところで、家の裏手の道をしばらく進んだ所にある神社をご存じですか?」

 さらに明後日の方向に飛躍する話に、いよいよご主人の不信の色も濃くなってきた。

 だが、怪訝な表情を浮かべつつも、一応はこちらの話に付き合ってくれる辺り、このご主人は本当に人が良いと思う。

「ええ……。そう言えば、小さな神社が一つあったように思いますが……」

 良かった。完全に忘れ去られているかのような廃れ具合だったので、地元の人達も存在を把握していないのではないかと思っていたが、流石にそこまでではなかったようだ。

「このボールはそこに落ちていました。多分、貴方の息子さんが遊んでいた物だろうと思って持ってきたんです」

「……どうして息子の物だと?」

 ご主人が一層眉を顰める。

 どうしてと言われても、確証があった訳ではなく、状況から推測したに過ぎない訳で……。さてどう説明したものかと頭を捻る。

「今回の一件ですけどね。私は、このサッカーボールが騒動の原因なのではないかと思っているのです。このボールが憑りつかれた息子さんの物だった。つまり、憑りつかれた時、息子さんが、あの神社で、このボールを使って遊んでいたとすれば、一つの推測が成り立つんですよ」

 そう言うと、ご主人も何かを察したらしい。

 意外、というより、納得いかなそうな顔で口を開いた。

「それは……息子が、その神社の神様に、何か無礼を働いたとか……そういった事ですか?」

 おそらくご主人は、息子に憑りついていたのは性質の悪い悪霊か何かだと思っていたのだろう。

 息子に憑りつき、実の母を襲わせて血を啜り、力任せに暴れまわって多くの人を傷つけた。

 そんな所業が、祟りとしても、真っ当な神の仕業だという事が信じられないのかもしれない。

「……そのボールを見つけた神社、随分と廃れていましてね。長く管理もされずに放置されていたのでしょう。御神体である社も壁や屋根が崩れかけていましたが、中でも特に損傷が激しい部分がありました」

 訪れる者が絶えて久しいであろうあの社の惨状を思い出す。

 建材が腐食して崩れてきていたが、中でも一際大きく崩れた軒。

 自然に崩落したとしては随分と不自然な崩れ方だった。

 まるで何かを強くぶつけでもしたかのように――

「息子さんは憑りつかれた時、サッカーボールを持ってあの神社に遊びに行っていた。草木に侵食されてはいますが、あそこの境内はそれなりの広さがある。一人でボール遊びをするにはちょうどいいくらいの広さです。そして、サッカーボールで遊んでいれば、コントロールを誤ってあらぬ方向に蹴り出してしまうというのもよくある事でしょう」

 明後日の方向に飛んだボールを必死に探し回るのは、少年時代に誰でも一度は通る道だという。

 生憎、ボール遊びと縁が無かった俺には、そういった経験が無いのだが、茂みや植え込みに置き去りにされた野球ボールを何回か見かけた事はあるから、本当の事なのだろう。

「本来であればサッカーボールをどれだけ強く蹴り出した所で、建造物に被害など出るものではありません。精々が窓ガラスが割れる程度でしょう。ですが、あの社は先程も言った通り、長く放置されて酷く廃れている。建材も腐ってきていて、少し強い衝撃を加えただけで崩れそうな有様でした。蹴り飛ばしたボールが誤って社に当たり、一部を損壊させてしまったとしてもおかしくはない」

 少年にとって不幸だったのは、そこが神が居つく場所であったという事。

 そして、その神が自身の存在を失いそうなくらいに弱り果てていた事だろう。

 人々からの信仰を失い悪神と成る一歩手前。

 そのような神にとって自身の御神体、そしてそれを祀る社というのは、残された唯一の拠り所、最後の領地だ。

 それを失うという事は、完全な悪神に成り果てる事と変わりない。

 己が存在を脅かされれば、その時に取る行動は人だろうが神だろうが万物共通である。

 仇為す者に報復し、排斥する以外に他はない。

「今回、息子さんに憑りついていたのは、その神社の祭神でした。おそらく、息子さんが誤って社を損壊させた事で、自身を脅かす存在だと認識して憑りついたのでしょう」

「……そのような事が」

「あくまで状況からの推測ですけどね」

 筋の通った話ではあると思う。

 しかし、神社に落ちていたサッカーボールも、抉られたような社の損傷も、今の話を裏付ける確たる証拠にはならないのだ。

 もしかしたら、俺が単にそうだと信じたいだけなのかもしれない。

 今回の事は、ただの悪意によるものではなく、不幸なすれ違いによるものだったのだと。

「……しかし、だとすれば、私には理解できません」

 ショックで呆けていたご主人が、かぶりを振って言った。 

「確かに、その話が本当ならば、息子は罪を犯したかもしれません。神様のお社を壊すような真似をしたなどと、祟りに遭っても仕方がないのかもしれない。ですが、それも子供の些細なミスではないですか。悪意の無い失敗を犯した子供に憑りつき、母親を手に掛けさせようとするなど……神様というのは、そんなにも恐ろしい存在なのですか?」

 そう言うご主人の表情からは、恐れや不安、怒りや戸惑いなど、様々な感情が渦巻いているように見えた。

 彼にとっては未知の存在であり、理不尽なまでの災禍をもたらした存在。

 それがすぐ近くに祀られる神だなどと言われたら、この反応も仕方ない事か。

「……悪意があったかどうかなんて分かりませんよ」

 縋る様な目を向けてくるご主人に、努めて冷静に答える。

「人間同士であっても、その行いが本心からのものかどうかなんて分からないものでしょう? それが人と神という、異なる存在の間ともなれば尚更です」

 そもそも、力を持たぬただの人間には、言葉が通じないどころか、姿を見る事すらできない存在である。

 そんな相手に悪意は無かったと伝えろというのは、無理難題もいい所だ。

「本来、この国の神という存在は、恵みと災い、両方をもたらす存在です。信心篤い者には恩恵を与え、蔑ろにする者には災いを以て応じます。中には、些細な事で身も凍る様な恐ろしい罰を下す神もいるし、寛大で大らかな神もいる……。その辺りも人間と変わらないです。厳格な人もいれば、ひょうきんな人もいるでしょう? 同じ事ですよ」

 この国は元々、多神教である。

 八百万神と称されるように、万物に様々な神が宿っていると信じてきた。

 多種多様な信仰の中には、人を守護し恵みを与える事を主とする神も、人を律し罰を与える事を主とする神もいるのだ。

 だが、この地で祀られていた神が、そういった気性の荒い神だったかというと――

「ただ、今回に関しては、それとは少し事情が異なった話になります。今回、息子さんに憑りついていた神は、社の廃れ具合からも分かるように、満足に信仰を集められていなかった神なのです。信仰――つまり、想ってくれる人がいるという事が、彼らにとっては存在するためのエネルギーに繋がります。人間で言えば、食事のようなものでしょうか」

 人々の願い、信仰により生まれた彼らにとって、それらの想いは自身の糧であると同時に、存在する理由そのものだ。

 それらが失われた時、彼らは、ただただすべてに害を為す悪となる。

 それは、彼らにとって何よりも忌避しなければならない事だ。

「満足に食事もとれず、餓死寸前のような状態であった所に、トドメを刺すように息子さんのサッカーボールが社を破損させた……。あの神は、別に貴方の家族を害したかったのではありませんよ。生きるために――自身の存在を保つために必死だっただけです」

 害を為したは恐れるがゆえ。

 愚かな人間に下された罰などではなく、窮鼠が必死の一撃を見舞っただけ。

 それが今回の一件の真相だったのだろう。

「今回の事で怒りや不信を抱くのも分かります。家族の命が危険に晒されたのです。相手が神だろうが、悪感情を持つのも当然でしょう。ですが、彼も自身の存在を繋ぐために必死だっただけなのです。だから、今回の事を水に流せなどと、偉そうな事を言う訳ではありませんが……できれば、退治するのではなく、もう一度やり直す事を考えてみて欲しいのです。社を修繕し、たまにで良いので参拝するよう心掛けてあげてください。敬う心があれば、彼は再びこの地を守護する者として、皆を守ってくれるようになるはずですから」

 いつ頃から放置されていたのかは分からないが、かつては確かに、あの神はこの地を守護し、見守る存在だったのだろう。

 かつての神格を取り戻せれば、再びこの地を守護してくれるに違いない。

 俺の訴えを、ご主人はただ静かに、黙り込んだまま聞いていた。

 俯いて、何事かをじっと考え込んでいる風だったが、やがて顔を上げると、空を仰ぎ見て、口を開いた。

「……私は、神様というものは、我々の及びもつかない場所にいる存在だと思っていました。人間の存在など必要としない孤高の存在だと。祈りというのも、一方通行の懇願に過ぎないものだと、そう思っていたんです」

「……そういった神様も、もしかしたらいるかもしれません。ですが、生憎、私は見た事がありませんね」

 俺が知っているのは、人々が思い描いた、神という存在の写し身だ。

 彼らは決して、天上に座す絶対者などではない。

 人間が神を崇める事で、彼らは己が存在を保ち、神が人にもたらす恩恵の元で我々は日々を送る。

 そうやって、お互いに支え合ってきた、良き隣人なのだ。

「今回のような事が起きる原因は、我々の無関心にあります。かつて人々が抱いた信仰。その想いに応えるように生まれ、我々を見守り続けてきた者達……。しかし、いまや我々は彼らを見限り、その信仰を忘れ去ろうとしている。我々を助けてくれていた良き隣人を、一方的に過去の物にしようとしているのです」

 かつて、人と神は、お互いを支え合い、良き関係を築き上げていた。

 だが、技術の進歩、文明の発展。そうした目に見える恩恵が、目に見えない彼らを、忘却の彼方へと追いやっていったのだ。

「ほんの少し……ほんの少しでいいのです。ただ、彼らがそこに居るという事を覚えているだけ。そして、たまに思い出した時に参拝するだけで充分なのです。それだけで彼らは自らの在り方を失わずに済むのですから」

 空を仰ぎ見ていたご主人の視線が、再びこちらに向けられる。

 その顔には、どこか自虐めいた笑みが浮かんでいた。

「……考えてみれば、ここ数年は初詣すら、碌に行った覚えがありません。息子や妻があんな目に遭ったのも、元を辿れば、私のような不信心者に対する罰だったのかもしれませんね」

 力のない笑いを漏らしながらも、その表情はどことなく晴れ晴れとしたもののように見えた。

「……仰られた事、しかと胸に留め置きます。本日は、本当にありがとうございました」

 ご主人が深々と頭を下げる。

 その姿を見て、深い安堵と感謝を覚えた。

 知らず、こちらも自然と頭を下げていた。

「こちらこそ、ありがとうございます」


 おそらく、もうあの神が悪神へと堕ちる事はないだろう。

 願わくば、再び結び直された縁が、双方に取って良きものとならん事を――

 



 仕事は終わった。

 後の事は当事者達が上手くやるだろう。部外者は早々に立ち去るべきだ。

 というか、さっさと帰って寝たい。色々と疲れた。

 荷物を回収してからご主人にお暇の意を告げると、せめて駅まで送らせて欲しいと申し出てくれたので、二つ返事でお願いする事にした。

 今からあの山道を徒歩で戻るのは流石につらい。

「車を表にまわしてきますので、少々お待ちください」

 そう言って、車を取りに行ったご主人を見送り、二人で玄関前で待ち惚ける。

 ご主人の姿が視界から消えた所で、不意に葛花が口を開いた。

「本当に良かったの? 勝手な事して」

 そういう彼女の顔は、まさに人の弱みを見つけて、そこを突つこうとする悪童のそれだ。

「『神であれ妖であれ、人に害を為したのなら、一切の区別なく葬るべし』だったでしょ?」

 葛花が口にしたのは、俺達悪神祓いの大原則だ。


 もはや、人は己の力で生きていける。

 神が人に危害を加えるというのなら、そんな存在の加護など必要ない。

 有無を言わさず、討ち果たすべし。


 組織として発足して以来、悪神祓いが後生大事に守ってきた規則。

 悪神祓いとして活動するなら、心に留めておくようにと、耳が痛くなるくらいに念押しされたルール。

 それを、俺はくだらないと切り捨てた。

「いいんだよ。何でもかんでも切り捨てろなんて、いくらなんでも身勝手だ。あっちだって悪気があっての事じゃない。敬意を持ってきちんと崇めれば、またやり直せるさ」

 悪神になってしまった神は戻らない。

 ならば切り捨てるのも致し方ないのかもしれないが、今回の様にやり直せるものでも、問答無用に壊してしまうというのは、ただの怠慢ではないか。

 人間が生み出し、そして捨てようとしている、神という存在。

 彼らとの絆を、もはや不要と一方的に断ち切ってしまう程、俺は傲慢にはなれないし、なりたくはなかった。

「知らないよ。後で怒られても」

「任せろ。上司に怒られるのとそれを聞き流すのは得意だ」

 横で小さく葛花が吹き出す。

 勝った、と小さく心の中でガッツポーズした。

「……そう言えば――」

 そこでふと、思いついた事があった。

 俺の呟きに、葛花も不思議そうな顔でこちらを覗き込んでくる。

「あの憑りついてた狐って、裏の神社の祭神だった訳じゃないか」

「そうね」

「それで、これから社も修復されて、ちゃんとした神様に戻ってく訳じゃない?」

「……まぁ、ここの人達次第だけど、そうなるんじゃない?」

 それがどうかした? と、若干苛立たしげに先を促される。

「……いや、今更だけど、祓う時に思いっきり顔面蹴り飛ばしちゃった事が気になってさ」

「…………」

 神は人を守護する存在である。人が敬い崇める心を忘れなければ、だが。

 おそらく、地元住人の尽力によって、あの神はかつての神格を取り戻すだろう。

 そんな神様が今日の事を覚えていて、お礼参りに来たりしたら――

「今度は俺が祟られたりして……とか」

「…………」

「…………」

「大丈夫でしょ。わざわざ、お礼参りに出向いてくる程、神様だって暇じゃないわよ」

「だったら、何で目を逸らす?」

「……まぁ、お供え物くらいは持ってきた方がいいかもね」

「それって、絶対大丈夫じゃないよな!?」

 不安にさせる言葉を残して、葛花はさっさと歩き出してしまう。

 見れば、いつの間にか門の前に、如何にも馬力のありそうな車が停まっていた。

 運転席の窓が開き、ご主人がこちらに向かって手を振っている。

(……とりあえず、しばらく枕元には稲荷揚げを置いておくとしよう)

 そんな決意を固めながら、先を行く葛花の背中を追いかけた。

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