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狐憑き:転

 目的地に到着した旨を告げるバスから二人分の料金を支払って降りる。

 そこに広がっていたのは、まさに異次元の世界だった。

「うあ……」

 言葉も出ないとは、まさにこの事か。

 待合所として設けられた小さなあばら屋。バス停である事を示す錆びついた標識。山陰に消えるまで蛇行しながら伸びていくコンクリートの道路だけが目に見える人工物のすべて。

 停留所の裏手は背の高い針葉樹が乱立する鬱蒼とした森になっていて、道路を挟んだ向かい側は崖下に川が流れ、さらにその向こうに目を向けると裏手と同じような森が広がっている。

 時折、思い出したように通る自動車の音を除けば、聴こえてくるのは、せせらぎというより濁流といって差し支えない川の流れる音と、時折吹き込む風が揺らす、どこか不安を煽るような木々のざわめきだけ。

 まもなく本格的に冬を迎えようとするこの時期では虫の声すら聴こえてこない。実に虚無感漂う大自然の真っ只中であった。

 果たして、何故、こんな場所にバス停が必要なのだろう?

 そして何故、俺はそんな場所でバスを降りているのだろう?

 せっかく、築き上げてきた仕事に対する意欲が急速に減退していくのを感じる。

 もう仕事とかどうでもいいから、家に帰って薄い毛布と軋むソファに挟まれて惰眠を貪っていたい。

 そんな妄言すら本気で言いたくなるほどに、その光景は衝撃的だった。

「……帰りたい」

「先月も同じ事言ってたね」

 俺の後に続いて、バスから降りてきた葛花が呆れたように答える。

 ……確かに先月も似たような田舎に出向いて、似たような台詞を言った覚えがあるけど。

 しかし、それも仕方がない事だと思う。

 文明人である俺は、緑豊かな大自然とは相性が悪いのだ。

「ここ以上に辺鄙なド田舎出身のくせに、文明人……ねぇ?」

「うるさいよ。田舎出身でも現代文明にどっぷり浸かれば文明人になるんだよ」

 訛りのきつい地方の出身者でも、長く標準語に接する生活を送るうちに自然と標準語を話すようになるという。

 生まれがどこであろうと、郷に入って郷に従えば、もうそこの住人なのだ。

「そーいうのをかぶれるって言うのよ」

「……うるさいよ」 

 笑わば笑え。徒歩五分以内に二十四時間営業しているコンビニがある有り難さを知ったら、緑と虫の声くらいしかない田舎の生活に戻る事などできないのである。

「というか、そういう葛花はかぶれてないのかよ? もしかして田舎暮らしが恋しいとか?」

 そんなはずはない、と高を括った上での発言だったが、帰ってきたのは意外な答えだった。

「どーだろ? でも、確かに実家の素朴さが恋しくなる時もあるかなぁ……」

「……嘘だろ?」

 あんな、必要な物は自給自足。楽しみと言ったら森林浴くらい。電波はバリ三どころか、届くかも怪しいようなド田舎の何を恋しがるというのか?

「選挙が近くなって、毎日何度も選挙カーが大音量流しながら家の前を通り過ぎるようになった時とかね。何もない故郷の静寂が恋しくなるのよ」

「……ああ、まぁ、そうだな」

 うるさいもんなぁ、あれ。

 窓を閉め切った程度では防げない、問答無用の音の暴力。

 あんな騒音を撒き散らされて票を入れてやろうと思う奇特な人間が果たしているのか、いつも疑問に思うものである。

 しかも、耳に入ってくるのは大抵の場合、自己紹介と「頑張ります、応援よろしく」の言葉だけだから投票すべきかどうかの判断材料にもならないという、やる側にもやられる側にもマイナスしかもたらさない不毛な行為だ。

 特に夜勤で、昼間に睡眠を取ってるような人達には非常に迷惑極まりないだろう。

 そういった方達の心穏やかな安眠の為にも、即刻廃止すべきではないだろうか?

 ……というか、朝方まで仕事してて、ようやく横になった所を、家の前で演説された実体験があるから、廃止して欲しいと切に願う。

「綺麗事並べ立てて、あんな車で騒音撒き散らしてさ。どーせ横領と不祥事しかしないんだから誰に入れた所で同じなのに」

「……いや、それは流石に偏見が過ぎるだろ」

 政治家=汚職というのは、あくまで一部の悪徳政治家から生まれたイメージであって、言わばオタク=性犯罪と同じくらい偏見に塗れたレッテルだ。

 国の為に身を粉にし、日夜この国の将来を憂えて頑張っている、そんな政治家達も沢山いるのだ。

 ……というか、そうであって欲しい。

「この前だって、週五でレディースデーを全国企業に実施させるとか言うから投票したのに……。結局は不倫やセクハラで問題起こして辞職したし」

「それは、そんな戯言を言う奴に投票したのが間違いだな」

 というか、後に辞職したって事は、そいつは当選したのか?

 普段、社会情勢に興味を示さない俺だが、割と本気でこの国の行く末が心配になってきたぞ。

「経済再生とか景気回復とか耳障りのいい事ばかり言ってるけど、私達の生活は一向に良くなっていかないし……。何もかも政治が悪いのよ、政治が」

「……もう言いたい放題だな」

 世の政治家達も、碌に社会経験の無いこんなチビッ子に政策批判されたくはあるまい。

 そもそも、ほんの数年前まで天皇を国会議員の元締めだと思っていた奴が政治を語るな。

 それと、ついでに言っておくと、悪神祓いは社会的な経済活動とはあまり縁のないお仕事なので、景気が良くなっても我々の給料が上がったりするような事はほぼ無い。

 なので、俺達が貧乏なのと政治云々には大して関係がなかったりする。

 ……まぁ、少し前に消費税が上がったのは家計にダイレクトに響いたけれど。

「政治家は不祥事ばっか。お互いの粗探しばかりで、まともに政策を話し合ったりしないし。芸能人は不倫だの麻薬だのスキャンダルだらけ。『あの人、好青年だけど、どうせ裏で色々やってんだろーな』って思うと応援する気にもなれないし。世間は暗いニュースが溢れてて、夢も希望もないし……。ホント、嫌な世の中よね」

 ふふふ、と力無く笑う葛花の目が死んでて怖い。

 気丈でしっかり者な葛花だが、彼女は彼女なりに、毎日の主婦業の傍らで、色々とフラストレーションを溜めているのだろう。

「ワイドショーの見過ぎだ。暗い話ばかり切り出してきてるからそう見えるだけで、明るいニュースだって世間にはいっぱいあるさ」

 報道で暗いニュースが多いのは、他人を非難できる、そういった話題の方が、視聴者の関心が高いからという話を聞いたことがある。

 嘘か本当かは知らないが、それが本当だとすれば、世の中には注目されていないだけで、明るい話もいっぱいあるのだろう。

 しかし、そんな俺のフォローに、葛花はハッとニヒルな笑いを飛ばした。

「お目出度いよね、薫は。大体、世間にどれだけ幸せが溢れていたとしても私には関係ないじゃない。むしろ目障りなくらいだし。というか、世間に幸せが溢れている分、釣り合いを取るように私が不幸になってるんじゃない? 馬鹿どもが馬鹿面晒して馬鹿やれてるのは、私の幸せを代償にしてるからじゃないの? だとしたら、あちこちで幸せそうにしてる奴らの首を一人残らず斬り落としてしまえば、私の幸せは守られるって事よね……」

 何か妙なスイッチが入ってしまったらしい。

 重油のように濁った眼で、被害妄想全開なリア充虐殺計画を垂れ流し始めている。

 普段は明るくポジティブに、を心掛けているらしい葛花だが、色々と過去の薄幸な経験のせいか、今でも一度ネガティブ入ると思いっきり引きずって、際限なく沈み込んでいってしまう悪癖があるのである。ヤンデレモードならぬ病んでるモードである。

 こうなるともう色々と面倒くさいので、そろそろ話を本筋に戻すとしよう。

「まぁ、あれだ。政治談議はいい加減置いておいて、そろそろ目的地に向かうぞ。いつまでもここで立ち尽くしてても凍えるだけだからな」

「……やっぱり、歩くの?」

 歩き出そうとした俺の方に、ぎぎぎっと音がしそうな感じで振り向いた葛花が、その濁り切った眼を向けてくる。

 頼むから、もはや重油どころかブラックホールか暗黒空間ばりに光を失った眼でこちらを見つめるのはやめていただきたい。夢に出そう。

「昨日、言っといただろ? 地図見た限りだとほんの二、三kmくらいらしいから――」

 ああ、葛花の顔から一層、生気が抜けていく……。

 ホント、ネガティブ入ると面倒くさいな、こいつ。

「これくらい、いつもの事だろ。歩きたくないなら大人しく留守番してればよかったんだ」

 今更こんな事を言っても後の祭りなのだが……そもそも付いてくると言ったのは葛花だし、自己責任というものだろう。

 既にこうして来てしまっている以上、ここで待たせる訳にもいかない。

 錆だらけで年季の入った時刻表によれば、次の帰りの便が来るのは三時間後なのだ。

 田舎特有の運行本数の少なさはともかく、そんな長時間、寒空の下に葛花を放置しておいたら、冗談抜きに凍死してしまいかねない。

 葛花も流石にそれくらいは分かっているらしい。

 恨み辛みを凝縮したような深い溜め息をついて、ぽつりと呟いた。

「……だから田舎は嫌いなのよ」

「……おい。さっき、田舎が恋しいとか言ってなかったか?」

「坂道ばかりで疲れるし。虫が多くて鬱陶しいし。コンビニすら無いくせに土地だけは無駄にあるから、住宅がどれも無駄に広くてムカつくし……」

 聞いちゃいねぇ。

 あと、最後のはどう考えても三十平米、1LDKで二人暮らしをしている人間の醜い嫉妬である。

「最近、急にめっきり冷え込んできたから水仕事が辛いし。指先がひび割れたりあかぎれになって痛いし。天気も崩れがちだから洗濯物も乾かないし……」

 それはもう完全に田舎関係ない、ただの主婦の愚痴だな。

 というか、やっぱり水仕事辛かったのか。言ってくれれば食器くらい、代わりに洗うのに……。

 家事は自分の仕事だと言って譲らない葛花だが、皿洗いやお茶汲みくらいは、こちらにも手伝わせて欲しいと思う。何というか、申し訳ない気持ちになる。

 ひとまず、薬局に寄ってハンドクリームを買って帰るのを忘れないように、脳内にしっかりメモしておくとしよう。

「愚痴は後で聞くから、とにかくさっさと行くぞ。できれば早く仕事を片付けて、次の便で帰れるようにしたいからな」

 次は三時間後。それを逃せば、その次はさらに四時間後になるらしい。

 今から七時間後となれば、もう日も落ちる頃合いだ。

 こんな山中で日暮れまで留まるような事は何としても避けたい。暗くて危険だし、何より寒い。

 俺が歩き出すと、葛花も観念したのか、渋々といった具合に横に並んで歩きだした。

「……薫もそろそろ車を持つ事を考えるべきだと思う。私達の仕事だと、公共交通機関では限界がある」

 散々、愚痴を吐き続けたお陰か、少し活力を取り戻して――でも、やっぱり不満なのか、どことなく拗ねた感じで、葛花がそんな事を言う。

 能面のような無表情で恨み節を吐き続けるのが無くなったのは良いが、これはこれで面倒くさい。

「馬鹿言え。タクシー代すら出せないのに車が買えると思うか?」

「……自分の甲斐性の無さを棚に上げて開き直らないでよ」

 辛辣なお言葉だが、こればかりは仕方ない。日々を過ごす事すら精一杯の人間に自家用車など、過ぎた贅沢なのだ。

「まぁ、ほら、あれだ。健康の為には毎日のウォーキングが欠かせないと言うし、健やかな日々の為に少しくらい苦労して歩くのも悪くないだろ? こうして緑に囲まれながら歩いていると、ちょっとしたハイキングみたいだしな」

「……本音は?」

「金のかからない車が欲しい」

「………………」

「………………」

 葛花の呆れたような視線が突き刺さる。

 果たして、その視線は、心にも無い下手なフォローに対してか、それともあまりにも頭が悪い欲望に対してか……。

「まぁ、ともかく――」

 刺さる視線に耐えかねて、話を無理矢理に打ち切る。

「どちらにしろ、今は歩くしかないんだから。余計な事ばっか言ってないで、きりきり歩くぞ」

 いい加減、無駄話で時間を浪費するのも勿体ない。

 歩調を上げて先を急ぐと、すぐ後ろから盛大な溜め息が聞こえてきた。

「帰りにお汁粉、一本ね」

「……まだ飲むのかよ」

 呆れる俺の横を、葛花が駆け足で追い抜いていく。

 腹を括ったのか、何だか自棄気味に走り出した葛花を見て、慌てて呼び止めた。

「待て待て。どっちに行けばいいかも分からないのに、先に行ってどうする?」

「だったら、薫がさっさと先を歩いてよ。きりきり歩くんでしょ?」

 肩越しに振り向いて挑発的に笑う葛花が、そのまま足を止める事無く、先を駆けていく。

(まったく……さっきまで死人みたいな顔してたくせに)

 何にせよ、見失う訳にはいかない。

 山中で迷子の捜索までさせられるのは御免だ。

 二度、三度とこちらを振り返りながら、前を走る葛花の姿に苦笑しつつ、後を追って駆け出すのだった。




 山の間を縫うようにして走る道路を辿る事、約三十分。

 ひたすら緑の情景を眺めながら一本道を辿っていくと、ようやく初めての分岐路に差し掛かった。

 永遠に一本道を辿り続けるんじゃないかという妙な錯覚から解放されつつ、その分岐路を曲がり、本道から逸れる。

 間道に入ると、先程よりも道が細くなり、道路の舗装も所々ひび割れていたりと粗が目立つようになってきて歩きにくい。坂の勾配も急になったように感じる。

 そのせいか、黙々と歩き続けていた葛花の息が、端から見ても分かるくらいに乱れてきていた。

「大丈夫か?」

「…………別、に」

 心配ない、と返すが、その言葉も途切れ途切れだ。どう見ても苦しげである。

「一度、休むか?」

「………………」

 気遣う俺に返事をする事なく、なおも黙々と歩き続ける。

 何事も中途半端を嫌う彼女なので、変に意地になってしまっているのかもしれない。

 休憩を挟むくらいは別に構わないと思うのだが……こうなると梃子でも動かないのが葛花である。

(やれやれ……)

 内心、肩を竦める。

 一度、こうと決めたら一直線な所は、彼女の長所でもあるが、同時に大きな短所でもあると思う。

「もうすぐ着くはずだから」

 諦めて、そんな気休めをかけるだけに留める。

 葛花は相変わらず返事をしないが、微かに頷いたようにも見えた。

 彼女の体力が続く事を願いながら、さらに黙々と歩く事、さらに十分。

 ついに目的の民家の前に到着した。

「ここか」

 広い家だった。古めかしい門を抜けて十数メートル程進んだ所に立派な日本家屋が見える。

 その隣にはそこそこの大きさの庭があり、その手前には奥の物よりやや小さい家屋。

 おそらく奥が母屋で手前が離れになるんだろう。

 離れの方だけでも、俺達の居住空間の何倍あるのかと、考えるほどに悲しくなるような事を思ってしまう。

(……ある所にはあるんだよな。土地って)

 いや、俺も実家はド田舎だし、この屋敷程ではないけれど、それなりに大きな家だったので、そんな感想を抱くのもどこかおかしい気はするが。

 何分、仕事場と食事場と寝室を同じ部屋で賄っているような生活をしていると、どうしても不公平だと世の非情さを嘆きたくなるものなのである。

(だからと言って、こんな場所に住む気にはなれないけどな)

 街中で広い家を持てれば最高だが、それができるのは極一部の限られた特権階級だけなのだ。

 間違っても日々の食費にすら悩む人間が願ってはいけない夢なのである。

 しかし、だからと言って、広い住居のために田舎に引っ越すような真似もしたくない。

 車も持てない貧乏人には、徒歩数分で生活に必要なものが揃えられる生活環境は何物にも代えがたいのだ。

(そもそも、葛花と二人じゃ、こんな広い家があっても持て余しそうだしな……。分不相応にも程があるか)

 何事にも分相応。大は小を兼ねるともいうが、それも場合によりけりだ。

 羨ましい気持ちを拭い去るのは難しいが、何とかそう納得しておく事にする。

「着いたぞ、葛花。……葛花?」

 隣にいるはずの少女の方を見ると、そこにはアスファルトの地面にへたり込んで、肩で息をしている相棒の姿があった。

「……大丈夫か?」

「…………」

 返事は無い。無視している訳では無く、単純に返事をする余力すら無いのだろう。

 流石に心配になってきたので、隣に屈んで様子を窺う。

 呼吸は荒く、一向に収まる気配が無い。心なしか、顔色も青くなっている気がする。

 近くに売店や自動販売機でもあれば飲み物でも持ってきて落ち着かせてやれるのだが、田舎の当然の権利とでも言うように、そんな物は一切見当たらなかった。

 依頼人の家は目の前なのだから、言えば飲み物くらいは恵んでくれるだろうが、依頼人と接触して第一声が「水ください」と言うのも何となくバツが悪い。

 どうしたものかと悩みながら、葛花の呼吸が整うのを待っていると――

「あの……大丈夫ですか?」

 控えめな声に振り向くと、ちょうどこれから伺う予定の家から出てきたらしい男性の姿が目に入った。

「そちらのお嬢さん、体調が優れないのですか? 宜しければ、お医者様をお呼びしましょうか?」

 見ず知らずの通りすがりに対して、何とも丁寧で優しい対応である。

 これが田舎の人情というものかと、妙な感銘を受けた。

「ああ、いえ、大丈夫です。バス停からここまで歩いてきたもので、少し疲れてしまったみたいで」

 そう告げると、男性は目を丸くした。

「バス停からここまで……? あの、貴方がたは、もしかして……」

「ええ。こちらのお宅で、狐憑きを祓う様に、と依頼を受けた者ですが」

 そう名乗ると男性は随分と驚いた顔をしていたがが、すぐに気を取り直したようで、頭を下げてきた。

「これは大変失礼致しました。お話は窺っております。悪霊祓いの専門家だとか」

「ええ……まぁ、そんな所です」

 正確に言えば悪霊ではなく悪神祓いなのだが……。

 一般人にわざわざ違いを説明する必要もないだろう。特に訂正せずに話を進める。

「わざわざこんな辺鄙な所までお越し頂きありがとうございます。正直、どうすればいいのか困り果てていたものですから……。専門家の方に来て頂けて、これ程心強い事はありません。ささっ、どうぞ上がってください」

 救いの神を見たかのように興奮する男性が、逸るように家の方に戻ろうとするのを慌てて呼び止めた。

「すいませんが、少しお時間を頂けますか? 連れがこんな状態なものですから」

 そう言って隣で蹲ったままの葛花の方を示す。

 先程よりは大分落ち着いてきたようだが、まだ呼吸を整えるには至っていないようだ。

 男性も俺の言葉で彼女の存在を思い出したらしい。どことなく気まずそうに頭を下げた。

「これは……気が利かず申し訳ありません。つい気が急いてしまいまして。すぐに何か飲み物でもお持ちしましょう。落ち着かれたらあちらの母屋の方に入ってお待ちください」

 そう言って家の方に駆けていった。

 初対面からこの体たらく。怒られやしないかと内心ではビクビクしていたのだが……優しそうな依頼人で良かった。

「さて……。そろそろ立てるか?」

「……何とか」

 今にも倒れそうな感じは相変わらずだが、それでもやっとといった具合に顔を起こして葛花はそう答えた。

「歩けるか?」

「……あと……三十秒」

 いやに具体的なハーフタイムを告げて、再び俯いた。

 果たして宣言された三十秒という猶予が正確なのか、少し興味が湧いたので、口に出さないようにカウントダウンをしてみたら、残り四秒の時点で葛花が顔を上げた。

「……よし……バッチリ」

 そう宣言する葛花の顔はいまだ青白く、どう贔屓目に見てもバッチリといった風には見えない。

 むしろ、今から死地に向かう兵士のような悲壮感さえ感じられる。

 フラフラとよろけながら、歯を食いしばり、拳を握りしめて必死に立っているような有様だ。

 何とも見事な決意だと褒め称えたい所だが、残り十数メートルを移動するだけの事で、そこまで思い詰められても困る。

「……手を貸すから、何とか家の玄関まで辿り着いてくれ。休むにしても、ここよりそっちの方が良いだろう」

「分かってる……心配ない……大丈夫」

「………………」

 手を貸そうとする俺を押し留めて、年老いたヤギのような頼りない足取りで歩き出す。

 その姿には、どこにも大丈夫な要素は無かった。

 何というか、酔っぱらいの「酔ってない」発言レベルに安心できない。

(……仕方ないなぁ)

「よっと」

 ふらふらと千鳥足で歩く葛花を、後ろから膝裏と背中を支えるようにして担ぎ上げた。

 所謂、お姫様だっこという奴である。

「なっ――!」

 絶句する葛花を他所に、抱え上げたその身体は、想像以上に軽かった。

 子供の頃に葛花を背負った時は、思わず「重い」と口にして背後から首を締められたりしたものだが……。

 まぁ、あの時に比べたら、俺も大人になったし、対してコイツは太りも伸びもしないのだから、そこまで驚く事でもないか。

 これならここに来るまでの道中でおんぶでもしてやれば良かったかな、なんて事を思いながら、とりあえずこのまま家まで運んでやろうとしたら、顔を赤くして小刻みに震えていた葛花が急に暴れだした。

「馬鹿! 降ろしてっ! 離せっ!」

「おっ、おい! 暴れんなよ! 危ないだろ!」

「知るかっ! 馬鹿! 離せぇ!」

 さっきまでふらついてたくせに、どこにそんな力が残っていたのかと不思議に思うくらいにばったばったと暴れ回る。お陰で二、三度落としそうになった。

「いいから、離してっ! 人に見られたらどうすんのよっ!」

「大丈夫だって。どうせ歳の離れた兄弟だと思って微笑ましく見守るだけさ」

「どういう意味だコラァ!」

 なおも暴れる葛花から渾身の右ストレートが放たれた。

 彼女を抱えた体勢の俺は避ける事もできず、まともに右頬に食らってしまう。だが、腰が入ってないせいか、あるいは既に力を使い果たした後のせいか、殴ると言うより撫でると言った方が正確なへなちょこパンチだった。なんか、ぷにって感じの効果音が鳴りそうなレベルの。

 そのまま二発、三発と繰り返されるが、まるで痛くない。

 嵐のような連打、と言うよりも、じゃれついてくる猫といった具合だ。

「はっはっは。これこれ、暴れるでない。危ないだろう」

 葛花に反撃能力が無い事が分かると、こちらの対応にも余裕が出てくる。

 暴れ続ける葛花を抱えながら、そんなどこか間違っているような気がする大人の余裕を見せつけて――

「ガウッ!」

「痛ぇっ!」

 調子に乗った所で肩口に噛みつかれた俺の悲鳴が、寒空に響き渡ったのであった。




 ぎゃーぎゃーと喚き暴れる葛花を抱え上げて、何とか玄関前まで運んできた。

 幸い家の人には見られなかったようで、葛花の機嫌がそれ以上に悪化する事は無かった。

 そのまま玄関口に入ると、丁度、先程の男性がお盆の上に湯呑みを二つ乗せて戻ってきた所だった。

「粗茶ですが、まずはこれで一息ついてください。ああ、それとも先に客間にお通しした方が良いですか?」

「ああ、ええと……ここで一息つかせて貰えますか? 連れが、どうやら限界みたいで……」

 ただでさえ限界だったのに、最後の力を振り絞って暴れたせいだろう。そのまま倒れて動かなくなってしまうんじゃないかと心配になるくらい、疲れ果てている。

 ご主人がお茶を差し出すと、ひったくる様に受け取って一気に飲み干そうとするのだが、猫舌の癖に熱いお茶を乾いた喉に一気に流し込むという愚行に、盛大にむせて自爆している。

 咳き込む葛花の背中を擦ってやっていると、ご主人が済まなそうに口を開いた。

「すみません。もう少し冷ましてからお出しするべきでした。何とも気が利かずに、お恥ずかしい限りです……」

「いえ、そんな……。こうしてお茶を頂けるだけでも有り難いくらいですので、どうかお気になさらずに」

 何とも腰の低いご主人に釣られて、こちらも丁寧な受け答えになる。

 あまり堅苦しいのは得意ではないので、本音を言えば、もう少し気さくに接してくれた方がやりやすいのだが……。

 これもご主人の真面目さと誠実さの表れだと考えれば無下にはできないだろう。

 せめて失礼にはならない程度には丁寧な応対を心掛けよう、と決意した。

 背中を擦っているうちに葛花も落ち着きを取り戻したようなので、こちらも玄関先に腰かけさせて貰って、頂いたお茶を飲む事にする。

 寒空の下を歩いてきた身には、暖かいお茶がなんとも心地よく染み渡っていく。

 葛花ほどではないが、俺もここまで歩いてきたせいで疲れていたし、身体も冷え切っていたのだ。

 ほっこりと人心地がついた俺達を眺めながら、ご主人は苦笑いを浮かべている。

「しかし、ここまで歩いてくるのは大変だったでしょう。連絡いただけたら、すぐに駅まで迎えに行きましたのに……」

「…………」

「…………」

「…………?」

 湯呑みを傾ける手をピタリと止めて、固まった俺達を見て、ご主人が首を傾げた。

「……あの、何か?」

「……ああ、いえ、ご心配なく。その様な気遣いは無用ですよ。依頼主の方のお手を煩わせる訳にはいきませんから」

「そんな! 私どもがお願いして来て頂いているのですから、どうかお気遣いなさらずに。それくらいはお安いご用ですから」

「……いえ、本当に、大丈夫ですから」

 そうですか、と主人が残念そうに言葉を切る。

 実に謙虚で人の良いご主人だ。

 普段ならば感じ入る所ではあるのだが、生憎と今の俺の胸中はそれどころではないのだった。

(……そうか。迎えに来てもらうって手があったのか)

 バスの乗車賃、掛かった時間、山道を歩いた疲労。

 それらすべてが電話一本で解決する手段があった事に、今更ながら気付かされて打ちのめされる思いだった。

 いや、冷静に考えてみれば、こっちは依頼人の連絡先すら教えてもらえていないので、どう足掻こうが不可能な手段ではあったのだが。

 ただ、それでも当人からそんな申し出を受けてしまうと、どうしたって失敗したという気持ちが湧いてくるというもので。

 そして何より――

(あー……やっぱ睨んでる)

 つい今し方、死にそうなくらいにへばっていた所から、何とか息を整えて余裕を取り戻した葛花から、刺々しい視線を感じる。

 気持ちは分かるが、何となく損をした気分になるのは俺も同じだ。

 八つ当たり気味に、こちらを睨むのはやめて欲しい。

「えー……連れも落ち着いたようなので、まずはどこかで詳しい話を伺いたいのですが、よろしいですか?」

 これ以上、この話題を続けると理不尽な火の粉が降りかかりそうな気がしたので、早々に本題の方に逃げさせてもらうとしよう。

 ご主人も、飲み終えた湯呑みを受け取りながら、神妙な顔で頷いた。

「ええ。それでは、どうぞこちらへ……」

 勧められるままに、靴を脱いで玄関に上がる。

 フラフラだった葛花も、お茶を頂いて何とか持ち直したらしい。

 割としっかりした足取りで後ろに続いているので大丈夫だろう。

 そのまま、ご主人に先導される形で廊下を歩いていく。

 1DK住まいがそれなりに長くなっている身では、廊下を歩くという事自体が何だか新鮮だ。

 まして、目的地に辿り着くまでに、二度も曲がり角に差し掛かるとなれば尚更である。

「広いお家ですね」

 思ったままの感想を述べると、ご主人はバツが悪そうに笑った。

「元々、父の物だったのを、父が亡くなったので私が継いだだけですよ。田舎なので土地が余っているせいか、私達も持て余すくらいに広くて……。手入れも行き届かずに困っております」

 ……やっぱり、持て余すのか。

 一世帯でも持て余す家なら、俺と葛花の二人でも持て余す事は間違いないだろう。

 やはり、何事も分相応というものがあるという事らしい。

 ……あの狭き我が家が、分相応だとは思いたくはないけど。

 そんな事を考えながら歩いていると、前を歩くご主人が足を止めた。

「この部屋です。どうぞ」

 そう言って、襖を開けてくれたご主人に軽く会釈をして、部屋に入った。

 中央にテーブルが据えられた八畳間の和室。

 特別豪奢な感じはしないが、床の間に飾られた掛軸や壺。長押の上の部分に飾られた水墨画など、高そうな品が所々に置かれており、それとなく高級感を演出している。

 骨董や絵画の目利きはさっぱりなので、あくまで気がするだけだけれど。

「ささっ、こちらにどうぞ」

 ご主人が座布団を敷いてくれたので、そのまま勧められるままに座る。

 俺と葛花が隣に並び、ご主人が向かい合う形だ。

 こういう小綺麗な場所だと、家主に勧められた席とはいえ、今座っている場所が上座という事に少しばかり落ち着かない思いをする小市民な俺。

「さて、どういった事からお話するべきか……。何分、私もいまだに何が起こったのか正確に理解していない有様でして……」

 やや戸惑った具合にご主人が呟く。

 何があったかは知らないが、それが本当に悪神らの仕業なのだとしたら、こういう反応になるのも仕方ないだろう。

 一般人に悪神の所業を正確に理解しろという方が無理な話なのだ。

「そうですね……。まずは、基本的な事実確認から、よろしいですか?」

 だからこそ、彼らの話から俺達が状況を正確に分析する必要があるのである。

 改まって確認する俺に、ご主人も居住まいを正して頷いた。

「私は、こちらに狐憑きに遭ったという方がいらっしゃると聞いてきました。間違いありませんか?」

「はい。あっ、いえ……私には狐憑きという物がどういった物かよく分からないのですが……知り合いの住職に伺った所、恐らく狐憑きではないかと。それで、その方が専門家の方に連絡してくれるという話になりまして……」

 それで呼ばれた専門家が俺達だった、という訳か。

 一般人の見立てだとあまり信用できないが、寺の住職であれば、そういった事にいくらかの心得がある場合も多いので、多少は信頼できるかもしれない。

 彼らも元を辿れば、ほとんどが力を持たない一般人に過ぎないのだが、坊主に対する『心霊現象のエキスパート』というような、世間に流布する一種の信仰とも言える思い込みが影響を与えて、彼らも俺達のような力を持つに至っている者が多い。

 とは言え、中には並の悪神祓いを凌ぐ程の力を持つ者もいるにはいるが、大半はちょっと霊感が強い程度、一般人とそこまで差がある訳でもないレベルだ。

 だからこそ、確かな見立てだと確証を得られる訳ではないのだが、少なくとも素人の判断で呼び出されたと言うよりは安心できる。

「なるほど。では次に、その狐憑きに遭われた方がどういった様子をだったか伺ってもよろしいですか? ご主人から見た主観で結構ですので」

「様子……ですか」

「ええ。狐憑きに遭われたというからには、何らかの奇行が見られたのだと思います。四つん這いで走りまわるとか、凶暴になって襲い掛かってくるとか。そういった豹変した様子がないかと思いまして」

「…………」

 俺の言葉に、ご主人は口元を手で覆い、まるで吐き出しかけた物を必死に飲み下そうとするような、重く苦しい顔を見せた。

「……何か、あるんですね?」

「ええ……いや、その……」

 言い淀むご主人だったが、一つ重い溜め息をついてから、ぼそりと呟くように答えた。

「実は……狐憑きに遭ったのは、私の息子なのですが……」

 言葉が途切れ、俯く。

 余程、思い出したくもない光景なのだろう。言葉の端々に苦悩が滲み出ている。

「その、息子に……妻が襲われまして。現在、入院中なのです。……酷い有様で。下手をすれば、死んでいてもおかしくなかったと……」

 絞り出すように、あるいは噛み締める様に、ゆっくりと言葉を吐き出していく。

「お医者様は大型の野生動物にでも襲われたのではないかと仰っていました。流石に言う訳にはいかなかったのですが、まさか息子が―― 十一歳の少年が喰らいついた傷だ、などとは思いもよらなかったみたいです」

 はは、と乾いた笑いを漏らすのは自嘲のそれか。あるいは自棄か。

 これ以上、話をさせるのも気が引けるが、こちらとしても何があったのかは把握しておきたい。

 心苦しく思いながらも、先を促した。

「……無理にとは言いませんが、差し支えなければ、その時の事をお話し頂けますか? こちらもまだ詳しい事情は聞いていないものですから」

「……ええ、勿論。大丈夫です。そのために来ていただいたのですから。少し長くなるかもしれませんが、お話しします」

 そうしてご主人はゆっくりと話し始めた。

 彼にとって忌まわしい記憶であろう、起こった事の顛末を。




 ちょうど、一週間くらい前の出来事になります。

 日も傾いてきて、幾ばくもしないうちに辺りも真っ暗になるであろう時分の事です。

 遊びに出ていても、いつもなら夕焼けで空が染まるくらいには家に帰っていた息子が、いつまで経っても帰ってこないのです。

 特にこの辺り一帯は山ばかりで、野生動物に襲われる危険もありますから、息子には日頃から厳しく言い含めていたんです。

 それが帰ってこないとなれば、もしかしたら何かの事故で動けなくなったりしているのかもしれない。

 日が完全に落ちてしまえば、息子を探し出すのも困難になります。心配になった私と妻は、すぐに二人で手分けして探す事にしました。

 ……お恥ずかしい話なのですが、息子の居場所には心当たりがなかったものですから。

 私と妻は農家を営んでおりまして。日中は畑に出張りっぱなしなので、息子にもなかなか構ってやれず、どこで遊んでいるのかも知らなかったのです。

 なので、探すと言っても周辺を闇雲に歩き回る事しか出来なかったんですが……。

 探し始めてから三十分は経っていた頃でしょうか? 

 近所の旦那さんが――ああ、実は息子を探している時に近所にも聞き込みをしまして。それで皆も一緒に探してくれるという事になったんです。

 そのうちの一人の方が血相を変えて私の所に走り込んで来ました。

 何事かと話を聞くと、妻が大型の獣に襲われて倒れていると言うのです。

 すぐに男数人で――大型の獣となれば危険もありますから、農具などで武装してから、妻が倒れている場所に駆けつけました。

 辺りも薄暗くなってきていて、はっきり見通す事はできなかったのですが、何かを啜る不快な音が聞こえた事はよく覚えています。

 ……ええ、目を凝らすと、血に塗れて倒れ伏している妻の姿と、その妻の身体に喰らいついて喉を鳴らしている何かが居ました。

 野犬にしては大きく、しかし、熊にしては小さい。

 得体のしれない不気味な存在に気後れしてしまったのですが、とにかく私は妻を助けねばと慌てて駆け寄って――

 そこで気づいたんです。妻に喰らいつき、喉を鳴らしている者が獣などではない事に。


 息子です。

 息子がおよそ正気とは思えない有様で、妻に馬乗りになって喰らいついていたのです。

 ……恐ろしい光景でした。

 初めは、その妻に喰らいついている獣が息子だとは分かりませんでした。

 いえ、分かりたくもなかった。

 あんな……人の血を啜る様な真似を、息子が妻になんて。

 ………………。

 ……いえ、すいません。

 とにかく、そこからは皆を集めて、なおも妻に喰らいつく息子を何とか引き剥がして家に運び入れました。

 恐ろしい力で暴れまわるので、人を呼び集めて十数人掛かりでようやく抑え込んだ次第でして……。

 息子に噛みつかれたりして怪我を負った者も大勢出ました。中には何針も縫う事になった人もいて。幸い、命に関わるような怪我を負った者はいなかったのですが……。

 あっ、すみません……。それより息子の話ですね。

 ええと……その後はひとまず、息子の事は近所の方達に任せたんです。

 心配ではあったのですが、それよりも重体の妻に付き添わなければなりませんでしたから。

 救急車を呼んで病院に付き添って、翌朝になって妻の容体が安定してから家に戻りました。

 息子の様子を見張っていてくれた方達に話を聞いた所、何とか家の中に押し込む事はできたけれど、客間の一つに立て篭もって動かなくなってしまったと言われました。

 近づこうとすると威嚇したり襲い掛かってきたりするので手が出せない。

 逃げ出されると困るから見張っていたが、たまに暴れまわるような音が聞こえるだけで部屋から出てくる様子もない、と……。

 私も息子の様子が心配ですし、何とか落ち着かせられないかと近寄ってはみたのですが、その時は腕に噛みつかれましてね。

 ええ、ここの二の腕に巻かれている包帯がその時の傷です。

 凄まじい力でしたよ。腕を喰いちぎられるんじゃないかと本気で思いました。

 ……いえ、あの時、私の悲鳴を聞いて駆けつけてくれた人達がいなかったら、実際に喰いちぎられていたでしょう。

 あの時の息子はまるで巨大な野犬か何かのようで……とても恐ろしかったですよ。

 それで……あまりの変貌ぶりに、これはもう尋常な事ではないと思いまして。

 そこで、知り合いの住職に見ていただいた所、狐憑きではないかと言われて、あなた方に来て頂いたという訳です。

 お願いします。どうか、息子を救ってください。




 お願いします、と沈痛な面持ちで絞り出すように言ってから、そのままご主人は顔を手で覆って黙り込んでしまった。

 話していくうちに当時の情景を鮮明に思い出してしまったのかもしれない。

 一方、俺は今のご主人の話から状況を整理していた。

(血を啜る……か)

 母親に喰らいつき血を啜る。十数人掛かりでないと押さえ込めない。腕を喰いちぎる程の力で噛みつく……。

 どう考えても尋常な話ではない。

 少なくとも、単なる精神病の類で片づけられる話ではないだろう。

 彼の話が確かならば、その少年には、ほぼ間違いなく何者かが憑りついていると考えられる。

 このまま放っておけば、さらに多くの怪我人――最悪、死人も出かねない。

 早急に事態を解決する必要がある。

(しかし……大人が数人掛かりで押さえ込まないとならない程の怪力。それと、人間に喰らいついて生き血を啜るという凶暴性か……) 

 葛花の危惧通りというか。

 ちょっと気が触れた程度の相手をサクッと祓って終わり、とはいかないらしい。

 手に負えないレベルかどうかは実際に見てみないと判断できないが、少なくとも凶暴性は折り紙付きのようだ。

「お話は分かりました。危険な相手のようですし、すぐに取り掛かる必要があるでしょう。早速、憑りつかれている方の所へ案内して頂けますか?」

 そう言って立ち上がると、ご主人も俯いていた顔を上げて立ち上がった。

「ええ……どうぞ、こちらへ」

 そう言って、先導して部屋を出ていくご主人の後に続いて部屋を出ようとすると、ふと、彼の腕に巻かれた白い包帯が目に入った。

 先程見せてもらった、息子に喰いつかれたという傷跡を覆っている包帯だ。薄らと血が滲んで見えているのが、何とも痛々しい。

「……油断しないでよ」

 後ろから続いて部屋を出ようとする葛花が、俺にだけ聞こえる様に小声でそう言ってきた。

「分かってるよ」

 言われなくても、あんな状態を見せられて、気を緩められるような図太い神経は持ち合わせていない。

 二、三度、小さく深呼吸をしてから、薄暗い廊下をご主人の後に続いて歩き出した。




 ゆっくりと、音を立てないように注意して襖を開く。

 部屋の中を覗ける程度の僅かな隙間を開けてから、ゆっくりと中を覗き込んだ。

 案内されて辿り着いたのは、随分と広い部屋だった。

 室内が薄暗いせいで、僅かに開けた隙間から覗き込んだ程度では部屋の全体を把握する事はできないが、恐らくは間の襖を取り払って二部屋を繋げているのだろう。

 目測だが、十二畳程の大きさの部屋を二つ。合わせて二十四畳程の空間だと思われる。

(二十四畳……。この部屋だけで俺の家より広いな)

 部屋一つ(実際は二つだが)に自分の生活環境がスッポリ収まるというのは、それなりにショックな事実だ。

 いや、そんな事はどうでもいい。それよりも問題の少年である。 

 改めて部屋を注意深く見渡すと、奥側の部屋の丁度中心に位置する辺り。畳の上にうつ伏せに寝ている少年らしき影を見つけた。

 四肢を四方に突き出し、まるで地面に大の字にへばりつくトカゲのような姿。

 随分と寝苦しそうな体勢だが、そのまま身動ぎ一つ見せる様子もなく、気味の悪いオブジェのように固まっている。

 もしかしたら死んでるのではないかと不安に思うくらいに、本当にピクリとも動かない。

 そんな奇妙な寝相も異質だが、それ以上に異質で目を惹くのが――

(凄いな。チェーンソーでも振り回したみたいだ……)

 影の周囲の畳、壁、果ては天井に至るまで刻まれた凄まじい切り裂き痕。

 巨大な鉈を尋常でない力で振り下ろしたような、およそ人の手によるものだとは思えない異様な爪痕が、よくよく見れば部屋中を覆うように、所狭しとつけられていた。

 およそ少年一人、しかも素手でできるような事ではない。何かが取り憑いていると確信させるには、それは充分過ぎる爪痕だった。

 となれば、次はそれがどの程度の脅威となるかを測らねばなるまい。

 憑りついている事は分かっても、それがどの程度の力を持っているかを知らずに手を出すのは愚行に過ぎる。

 そして、それを探るには、直接自分の『肌で感じ取る』必要があるのだ。

(……さぁて。一丁、気合入れてやりますか)

 本音を言えばかなり疲れるのであまりやりたくないのだが、下手に手を抜いて命を落とすような間抜けな真似をするよりマシだ。

 必要な事だと割り切って、意識を研ぎ澄ませて集中させる。


 音、匂い、色といった外界からの一切の情報を遮断。

 目に見えぬ存在を捉える為、全知覚をフル動員して対象を探知する架空の触覚を構築する。

 想像するのは糸。あるいは枝。

 互いに絡み、解れながら目標までの空間を侵食する感覚の網。

 自身の脳内にのみ存在するその領域を、対象の影まで伸ばす様にイメージする。

 やがてその網は対象を包み、あるいは絡め捕る様に覆った。

(……さて、どうかな?)

 包み込んだ網を、ゆっくりと探る様に、撫でる様に動かす。

 すると、影のすぐ傍らに巧妙に隠された脆弱な歪みを感じ取った。

 まるで影に寄り添うように、あるいは影を取り込もうとする様に。

(――見つけた)


 意識を外す。

 空間に張り巡らされた想像の網が一瞬にして解れ消え、周囲の世界が色彩を取り戻す。

 否、世界を知覚できる感覚を取り戻し、そして俺は現実に帰還した。

「……ふぅ」

 呼吸する事すら忘れていたために、乱れた息を軽く整えて、気持ちを落ち着ける。

 意識を極限まで集中させるというのは、口で言うよりも遥かに難しく、そして疲労を伴うのだ。

 力のある者なら、一目見ただけで易々と看破して除けたりもできるのだが、俺のような落伍者が姿を隠している彼らを見る為には、生憎とこれくらい気を張らねばならない。

 仕方ないことだとは言え、もう少し楽に探れるようになりたいものだ。

 とは言え、成果はあった。

 おおよそではあるが、憑りついている得体の知れない存在がどの程度の危険性を持っているか把握できた。

 確かに凶暴な相手のようだが、俺でも充分に太刀打ちできる程度ではありそうだ。

「どうやら――」

「黒ね。確かに何かが憑りついてるわ。部屋は御覧の有様だけど……そこまで力がある存在じゃないみたい。薫でも充分やれる相手ね」

「…………」

 その時、スッと脇から覗き込んた葛花が、俺の代弁をするかのように簡潔に言ってのけた。

 俺の様に『肌で感じ取る』必要など無い。軽く一瞥しただけで、あっさりと情報を見て取ったのだ。

 ……そう言えば、すぐ隣に俺よりもずっと優れた悪神祓いが居たのだったか。

「……何?」

「……いや、別に」

 何となく俺の苦労が台無しにされた気がするけど、彼女にそれを言っても仕方がない。

 全身全霊で探りを入れていた自分が何となく気恥ずかしくなって、部屋を覗き込みやすい位置を葛花に譲って、後ろに下がった。

 入れ替わる様に襖の前に立った葛花が部屋の中をじっと窺う。

 できる限り彼女を仕事に関わらせないようにする事が俺の信条ではあるのだが、こうして付いてきてしまっている以上、敵の見立てを頼むくらいは信条の外だろう。

「……それで。大した相手じゃないって事は、あれは悪神なのか?」

 悪神とは、力を失った神の成れの果て。

 ただただ周囲に害を為す厄介な存在ではあるのだが、その力自体は神であった頃と比べて、見る影もないくらいに衰えてしまう。

 葛花が大した相手ではないと言った以上、おそらく中身はそこらの雑多な魑魅魍魎か、でなければ悪神で間違いないだろう。

 そんな風に考えての質問だったのだが、部屋を覗いていた葛花は、やがて歯切れ悪くぽつりと呟いた。

「ん……悪神、じゃない。多分、妖怪とも違う。ほとんど悪神同然ってくらいに弱ってるけど、ギリギリの所で踏み止まってる、何かの神様だと思う」

「…………」

 そんな事まで読み取れる辺り、流石だと称賛したい所ではあるのだが、それよりも気になったのは、その発言の内容だった。

「……ギリギリ?」

「そう、ギリギリ。放っておいたら今日か明日にでも、本当に悪神堕ちしても不思議じゃないくらい、ギリギリ。だけど、まだ悪神じゃない」

「…………」


 一度悪神へと堕ちた物は、たとえ信仰を取り戻したとしても、二度と元の神格には戻れない。

 それが通説だ。

 悪神とは神としての在り方が崩れて、ただ周囲に害を為すだけの力へと変貌した物。

 一度変わってしまった物は、条件を元に戻した所で直らない。覆水は盆に返らないのである。

 だが、葛花はギリギリと言った。

 ギリギリ。だけど、まだ悪神ではないと言ったのだ。

 つまり、それは――


「悪神じゃないって事は、まだ元に戻れるって事だよな?」

 静かに、けれど確固たる意志を秘めて、葛花に問う。

 問われた葛花は部屋の中を覗いていて表情は窺えないが、その肩が僅かに震えた気がした。

 悪神に堕ちる間際の神。

 何とも奇妙なタイミングに居合わせたものだが、取り返しがつかなくなる前に俺達が来れたというのは、不幸中の幸いかもしれない。

 まだ悪神ではないのならば、やり直す事ができる。

 問答無用に滅ぼす以外に、取れる道があるという事である。

 だったら、それを諦めるような事はしたくない。

「……人的被害が出ている以上、それがどういった物であれ殲滅すべし、じゃなかったっけ? 勝手な事すると、また報酬減らされるよ」

 言葉自体は軽口のそれだが、その言葉からはこちらの身を案じているのが見て取れた。

 大した力も無いくせに、また自分から面倒事を背負い込んで、より危険な道に飛び込もうとしている。

 そんな俺を叱り、諫め、引き止めたい。

 必死に抑え込みながらも僅かに漏れ出た、そんな想いが伝わってきた。

 だからこそ、俺も同じく軽口の体で、こう答えるのだ。

「勝手な事しなくても、どうせ何かと理由を付けてピンハネされるんだ。一緒だよ」

 何でもない事の様に、しかし自分の意志は曲げない、としっかり伝える。

 そんな俺の言葉に、葛花は何も言わず、顔も背けたまま、ただ一つ、溜め息をついた。

 仕方のない奴だ、と言わんばかりに。

 それは葛花なりの承諾の意だったのだろう。

 折れてくれた葛花に心の中で礼を述べて、改めて状況の把握を始める。

「それで、悪神じゃないのなら、意思の疎通はできるのか? 交渉の余地があったりとか……」

「それは無理。さっきも言ったけど、ほとんど悪神同然ってくらいに弱ってるから。ほとんど存在が崩れかかってて、自分がどういう存在なのかすらも分からなくなってきてるんじゃないかな?」

「交渉の余地は無いって事か。だったら、仕方ないけど、ある程度は力づくでいくしかないな。っと――」

 持ってきていた仕事用の鞄を床に降ろして開く。

 葛花の見立てが確かなら、あまり時間は無いだろう。

 今、この瞬間に手遅れになってもおかしくないのだ。

 悪神として討ち祓うのではなく、神として救うつもりなら、早急に準備を済ませて取り掛からねばなるまい。

「と、なると、まずは身体から追い出さないといけないから……これかな?」

 取っ散らかった鞄の中をゴソゴソと漁って、紙幣を一回り小さくしたような四角い紙片を手に取った。

 表面には如何にも呪術的な幾何学模様が描かれた、何とも怪しげな

「お祓い札ね……。まぁ、退治するつもりじゃないのなら、それが一番か」

 隣から覗き込んできていた葛花が、俺が手に取った物を見ながら同意の言葉を述べる。

 ダメ出しされたらどうしようかと思ったが、葛花のお墨付きが貰えたので、ひと先ずは安心だ。

 ちなみに、葛花がお祓い札と呼んだ、この紙片。

 正式な名を『祓荒魂(はらえあらたま)の符』と言う。

 悪神に憑りつかれたりした対象に貼りつけて、俺達のような存在が力を流し込めば、立ちどころに憑りついた存在を外に追い出してくれるという、まさに憑き物落としに最適な道具なのである。

 ただ、あくまで魔除け程度の効力なので、追い出すだけでそのまま祓ったりはできないし、そもそも憑りついている相手の力が強すぎたりすると効果自体を発揮してくれなかったりする。

 使いやすい様で案外使いにくい道具なのだが、少なくとも今回のケースに至っては最適の道具と言えるだろう。

 そんな祓荒魂の符だが、正式名称が長ったらしく名前から効果がイマイチ分かりづらいという理由で、俺達はお祓い札と呼ぶようにしている。

 捻りも何もないストレート過ぎるネーミングだが、簡潔さと分かりやすさこそが重要なのだ。

「ところで、いつもの木刀はいいの? 手ぶらは流石に危ないでしょ」

「ん……そうは言っても、人間相手に鈍器使う訳にはいかないし。追い出したら追い出したで、今回は退治目的じゃないだろ? だから、必要ないかなって」

「札で追い出した所で、行動パターンは悪神のそれと変わりないんだから、間違いなく襲い掛かってくるわよ。素手で抑え込めるの?」

「…………」

「…………」

「……ちょっと厳しいな」

 思慮の足りなさを責めるように、葛花が大きな溜息をついた。

「でっ、でも、先に押さえ込んで札使わないといけないだろ? 手が塞がるのはマズいというか――」

「だったら、持ち込んで部屋のどこかにでも置いておきなさい。どうせ必要になるだろーし、部屋の外まで取りに戻るよりマシでしょ」

「……はい。そうします」

 言い負かされる感じになってしまったのが、何となく悔しい。

 とはいえ、葛花の言う事はもっともだ。

 非殺目的とはいえ、一戦交える事はほとんど間違いないのだから、丸腰では流石に厳しいだろう。

 内容物に対して、随分とサイズが大きい鞄の中から、そんなサイズの鞄を持ち歩くハメになった元凶とも言える年季の入った木刀を取り出した。

 白木でできた、見た目的にはやや長めなくらいの、特に変哲のない普通の木刀。

 強いて挙げるとすれば、それなりに使い込んでいるはずなのに、欠けるどころか傷一つすら見当たらないのは特異な点だろうか。

 それでも傍から見れば、土産物屋で売っているような普通の木刀と大差がないように見えるだろう。

 しかし、当然ながら俺は、この木刀を単なる不審者からの護身用などの理由で持ち歩いている訳ではない。先程から葛花とも話している通り、これもれっきとした悪神祓いの道具である。

 この木刀は、悪神祓いの原点にして力の源である御神木を、直接切り出して拵えた一品物だ。

 源泉そのものを切り分けた、神木の分身のような物であり、切り離された今になっても強い神通力を宿し続けている。それこそ、この一振りで俺の力の総量を軽く上回る程度には強力な品だ。

 力が弱いのなら道具で補え。

 非力を省みず無謀な戦いに挑み続ける息子を見かねて、親父が用意してくれた俺の切り札であり、もう一つの相棒とも言えるものである。

 そんな愛刀を携えて、心配そうに事態を見守っていたご主人に向き直った。

「では、これより取り掛かります。危険ですので、私が入った後は部屋を閉ざして、こちらからは決して開けないようにしてください」

「はい……。それは心得たのですが……あの、それは?」

 一応の了承を示したご主人だが、俺が手に持った物に対しては流石に無視できなかったらしい。

 ちなみに俺が持っている物とは、言うまでもなく特攻服着たヤンキーが抗争にでも使いそうな木刀である。

 息子から得体の知れない者を追い出すのに、鈍器が持ち出されてきたりすれば、口を挟みたくなるのも当然だろう。

「ああ、これですか? ご心配なく。何もこれで息子さんを叩く訳ではありません。これは……あー、除霊の触媒です。こう見えても神聖な品でしてね。この木刀の聖気によって、悪しき者どもを退散させるのです」

 薄汚れた鞄の中から無造作に取り出された鈍器が神聖な触媒だとは、流石に苦しい言い分かとも思ったが、深く追及してはならないと思ったのか、あるいは俺の言い訳に納得したのか、ご主人はそれ以上は何も言わなかった。

 咄嗟の出任せとは言え、神聖かどうかはともかく、妙な力が宿った一品である事に変わりはないし、息子さんを叩くつもりじゃないというのも真実なので、どうか大目に見て欲しい。

 叩くのは彼の息子ではない。叩くのは神様である。

「それでは始めます。重ねて言いますが、例えどのような物音が聞こえても決して開けないように。万が一の場合は、彼女を残していくので、彼女の指示に従ってください」

 そう言って葛花を指し示す。

 息子と同じくらいの歳に見える少女に任せて大丈夫なものかと不安がられるかとも思ったが、こちらに対してもご主人は意外にすんなりと納得してくれた。

 自分のような素人が口を挟むべきではないとでも思ったのかもしれない。

 何にせよ、すんなりと事が運ぶのは、こちらとしては有り難い限りである。

 葛花に目配せして、ご主人の護衛と――念の為、本当に覗かないかどうかの監視を任せるという旨をアイコンタクトで伝える。

 こういう時の葛花は実に察しが良いので、すぐに「言われなくても分かってる」とばかりに足の小指を踏みつけるという形で返答が来た。

 これで返事が地味な痛みを伴う形でなければ完璧だったのだが……。

 とりあえず、こちらの事は葛花が面倒を見てくれると了承してくれたので、こちらも仕事に取り掛かろうと襖を開けて、部屋に入った。



 昼だというのに室内は妙に薄暗い。

 唯一の光源である窓からの光が、一面の障子貼りのせいで障子紙越しにしか届かないからだろう。広い部屋全体を照らすには随分と頼りない。

 件の影は部屋に入り込んだ侵入者に対しても一切反応しない。

 変わらず妙な体勢で布団の上に伏せたままだ。

(部屋に入っても、警戒する様子は無し、と。広い部屋だし、まだ警戒網に引っかかってないって事かな?)

 流石に無警戒に手が届く範囲まで近寄らせてくれる事はないだろうが、ひとまず部屋に入っただけでは襲われないと分かった事は収穫だ。

 持ち込んだ木刀を、入ってすぐの壁に立て掛けて置いておく。

 欲を言えば、もう少し近い場所に置いておきたい所だが、彼がどれくらいの距離で臨戦態勢に入るかも分からない。

 場合によっては、ここから数歩も行かないうちに敵意を剥き出しにして突っ込んでくる事も考えられる訳で。そうなったら足元に木刀を転がしておくというのは非常に邪魔だ。

 後々、面倒な事にはなりそうだが、こうして部屋の隅に立て掛けておくのが最も無難で安全だと思う。 

 それから、持ち込んだお札を手に構え――何となく、手が塞がる事に不安を覚えてポケットに押し込み――いざという時に取り出しにくいのではないかと悩んだ挙句、口に咥える事にした。

 傍から見れば少々間抜けに見えるかもしれないが、すぐに取り出せて手も塞がらない持ち運び方を考えた末に行き着いた結論だ。

 ……後になって冷静に考えてみれば、力んだ拍子に噛み千切ったり、逆にウッカリ口を開いた時に落としたりとリスクだらけな気もするけど、この時の俺は最善な方法だと自負していたのである。 

 一先ず、武装は整えた。次は呼吸を整えて周囲を改めて観察する。

 薄暗い部屋の中には俺と布団の上に伏せる影が一つだけ。目標までの距離は目測でおよそ六メートル半。俺の歩幅に直せば十歩分くらいか。

 俺がこの部屋に入ってからも、あの影は一切、微動だにしていない。

 まだある程度の距離が開いているとはいえ、気配も音も断っていた訳ではないのだ。気づいていないという事もないだろう。

 単純に興味がないだけか。それとも、脅威だとすら見られていないという事か。

(近付くと暴れるって話だったが……さて、どれくらいまで近づけるかな?)

 何にせよ、相手の姿すらおぼろげな位置から眺めていても仕方がない。 


 ――武器は用意した。追い出すための手段も持った。状況も改めて把握した。

 準備はできた。

 そろそろ本番を始めるとしよう。


 警戒は最大限に。目標の僅かな動きすらも見逃さないよう神経を集中させて足を踏み出す。


 ―― 一歩。


 影の塊に過ぎなかった目標の輪郭が僅かに見て取れるようになる。


 ――次いで二歩。

 ――三歩。


 対象の姿がよりはっきりとしてくる。暴れ回っていたせいだろうか、遠目からでも分かるくらい無残に切り裂かれた衣服を纏っている。


 ――四歩。

 ――五――


 五歩目を踏み出そうとしたその瞬間、今まで一切微動だにしなかった影が、勢いよく起き上がった。

 いや、起き上がったと言うには少し語弊があるかもしれない。

 四方に伸ばしていた四肢を引き寄せ、両の手足を畳に突き刺さんばかりに突き立てている。

 両肘は鋭角に曲げられ、上げられた顔は地面に接する程に低い。

 それはまさしく獲物を見定め飛び掛かる寸前の肉食獣の姿そのものだった。

 そして同時に、今まで蹲った姿しか分からなかった「それ」の姿が明確に見て取れるようになる。

 年若い少年。ご主人の話では十一との事だったが、傍目から見れば、それより幼く見えるような気もする。おそらくは小柄な体格に見合うような童顔の美少年なのだろう。

 だが、今の少年はそんな顔立ちだとは微塵にも思わせない程に歪んだ相貌で、凄まじい殺気をこちらに向けてきている。

 吊り上がった双眸は薄暗い部屋の中で不自然に思えるくらい不気味な光を宿しており、その瞳孔は縦に細く、さながら肉食の獣を思わせる。

 左右に引き絞られたかの如く吊り上がった口角は、両の耳元まで裂けたのかと見紛う程だ。

 力一杯食いしばられたその口からは、涎と低い呻り声が漏れ出ている。

 両肘を曲げ、得物に狙いを定めるかのような前傾姿勢で伏せながら、そんな顔でこちらを睨んでいるのである。

(……やる気満々って感じだな)

 あからさまな敵意を向けられて、こちらも警戒のレベルをさらに引き上げる。

 相手の動きに対応できる、という『警戒』から――

 いつでも飛びかかれる、という『臨戦』へ――


 ――五歩。

 ――六歩。

 ――七歩。


 少年に動きは無い。

 変わらず鬼のような形相で睨みつけながら、低い姿勢を維持している。


 ――八歩。

 少年との距離が二メートルを切った。

 互いに一息で踏み込める程の間合い。

 しかし、少年は動かない。


 ――九


 少年の姿が消えた。

 比喩でも何でもなく、まるでコマの抜け落ちた映画のように、布団の上に伏せていた少年の身体が突如として消えたのだ。

 ――否、消えたとしか思えなかった。

 刹那、遅れて反応した視線が空中に居る少年の姿を捉える。

 両腕を突き出し、大口を開けてこちらに飛びかかる姿は、得物に襲い掛かる獣そのものだ。

 限界まで引き延ばされた時間感覚の中、目まぐるしく廻る思考がようやく現状を理解した。


 別に手品でも何でも無い、単純な話。

 彼は跳んだのだ。

 四足で伏せた状態から。

 瞬き一つの隙も見せていないはずの俺の視界から、一瞬にして消えるように。

 最大限に集中させた意識すら振り切る程の速度で垂直に跳び上がったのだ。


 これ以上無い程に警戒した状態で、なおも不意を衝かれるという失態。

 伏せた体勢から弾丸の如き速度で突進してくるぐらいの事は予測していたが、まさか垂直に跳び上がり――

「なっ!?」

 如何な魔法か。

 跳び上がった状態から中空を蹴り、まさに予測した通りの弾丸の如き突進を繰り出してこようとは、誰が予測できようか。


 こちらが視界にその姿を収めた時には、既に影は目前にまで迫っていた。

 獲物を前にした捕食者の前では、僅かな虚ですらも致命的だ。

 眼前に迫る危機に対して無防備な身を晒すという己の状況に悲鳴を上げるように、暴走した脳が限界を超えた処理速度を叩き出す。

 世界の全てが引き延ばされ、一秒が永遠に置き変わる。 

 人の域を飛び越えた知覚が、襲い来る敵の姿を鮮明に捉えた。

 突き出した両の手には、まるで刃物のように鋭く尖った爪が並び、こちらを噛み砕こうと開かれた口にも、磨ぎ上げたのかと見紛う程の鋭利な刃歯が並んでいる。

 あの爪や歯の一本一本がこちらの生命を奪うに充分に足る殺傷力を持っている事は疑いようも無い。

 一瞬、先の未来で襲い来るのが確定した脅威。

 暴走して稼働している意識は、相手の姿を捉える事に必死で、対処するための方法を導き出してはくれない。

 為す術の無い憐れな獲物は、迫る凶刃によって切り裂かれ――


 右足を半歩後ろに下げ、右半身を後ろに引いて上体を反らすようにして身体をずらす。

 紙一重で攻撃を避けられた少年の身体が、俺の眼前を横切るように空を切った。

 必殺の爪を備えた腕、必殺の牙を備えた口も、虚しく前を通り過ぎようとした、その瞬間。

 無防備に伸び切った右腕、無様に隙を晒している首根っこを引っ掴む。

 敵は空中。為す術はない。

 掴んだ両手に力を込め、飛びかかってきた相手の勢いそのままに――


「ハッ――!」

 短い掛け声と共に、そのまま地面に向けて投げ落とした。




 薄暗い部屋に凄まじい音が響き渡った。

 床が抜けるのではないかと思う程の衝撃だったが、日本の伝統工芸の底力か、床面の畳は抜けるような事もなく、しっかりと少年の身体を受け止めていた。

 大の字で倒れ伏しながらピクリともしない少年を、投げ落とした形で押さえ込んだまま、きっかり五秒。

 停止していた思考が、ようやく再起動された。

 不意の一撃。自身の意識の外から行われた絶好の奇襲。

 身体の方は長年の鍛錬の賜物か、忠実に、むしろやり過ぎなくらいに的確に迫り来る脅威に対処してくれたが、対して思考の方はまるで追いつかず、事が終わる今の今まで、靄がかかったように真っ白なままだったのだ。

 自分が押さえ込んでいる相手とその現状、一瞬前に起こった出来事とそれに対して自分がした行動。それらを冷静に、落ち着いて、順番に思い出していき――

 そして俺の全身から冷や汗を噴き出させる事になった。

(……やっちまった)

 動かない少年の首と腕を掴んだ姿勢のまま、事態を把握した俺の思考は、まるで冷水を浴びせられたかの如く、際限なく冷え切っていた。

 首投げ。首投げである。

 それも格闘技などで技として定められているような物ではなく、単純に「首を掴んで力一杯叩きつけた」という実に原始的で凶悪な力技。

 咄嗟の事で反射的に行われたからと言い訳するには、あまりに野蛮で筆舌に尽くしがたい所業である。

 と言うか、下手をすれば死んでいてもおかしくない。

(いっ、いや、俺だって殺されかかった所を無我夢中で反撃した訳で手加減とか気遣いとか世間体とかそんなの気にしてる余裕なんて無かったし、だから咄嗟にいつもの悪神相手にしてるノリが出ちゃっても不可抗力と言うか、つーか本当に死んじまったのか? 正当防衛とか主張できんのかなコレ……)

 言い訳、弁解、自己弁護。プラス、幾らかの隠蔽主義が頭の中を高速で走り回っている。

 無意識の内に自分がしでかした事の大きさに、全身からの冷や汗は止む事無く滝のように滴り落ち続けている。

 氷の塊を飲み込んだような不快な悪寒は、抑え込んでいる少年が息を吹き返した事でようやく止まった。

 死んでいなかった事に安堵して、思わず気を抜きかけたが、意識を取り戻すや否や暴れ始めた少年を見て、それどころではないと思い直した。

 馬乗りになるような体勢で、暴れる少年の身体をガッチリと押さえ込む。

 普通の人間ならばそう簡単に逃れられないくらい、しっかりと押さえ込んでいるはずなのだが、少年の力は凄まじく、単純な膂力だけでも、気を抜けばあっさりと跳ね飛ばされてしまいそうだ。

(さっさと済ませた方が良さそうだな)

 口に咥えていた札を手に取って、暴れる少年の額に押し付ける。

(ちゃんと効いてくれよ、っと)

 上手くいくように祈りながら札に力を流し込んだ。

 あまり長く拘束していられる自信も無かったので、なかなか効き目が出てこなければどうしようかと思っていたのだが、果たして効果の程はすぐに表れた。

 それまで跳ね起きようと足掻いていた少年の動きが、まるで電流を流されたように痙攣するような、異様な動き方に変わる。

 様子を伺いながら少年の上から退くと、やがて札を貼り付けた部位が、まるでその下から何者かが這い出てこようとしているかのように盛り上がり始めた。

 見るからに異様なその瘤は瞬く間に大きくなり、限界まで膨らんだ所で、弾けるようにして少年の身体から何者かが這い出てきた。

 煙のような、あるいは粘液のような、何とも言えない不思議な物質。

 俺達のような人間にしか見えず、触る事もできない仮想と現実の境界の存在。

 少年の身体から吐き出されたその『何か』は、空中で寄り集まる様に密集して塊となると、やがて何者かを形作るように形状を変化させ始めた。

 まず、下部に四本の突起が現れ、それと同時にこちらに向いた側にも一つ、大きな突起が現れる。

 頭と足だ、と理解する頃には頭部らしき突起に裂け目が入り、同時に反対側には波打つような突起が形作られ始めた。

 四足の獣。加えて大きく立派な尾を持っている何者かだ。

 目の前で徐々に形を成していく異形の粘土細工。

 あまりに非現実的で禍々しいものでありながら、どこか美しさを感じさせる。

 そんな造形に、不本意ながら、少しばかり目を奪われて――

「ッ――!?」

 それが失敗だった。

 目の前のいまだ形も定まらない不出来な粘土細工。

 それがまるで放たれた矢のような速度で迫ってくる。

『形が整うまでは動き出すことは無い』などという勝手な思い込みが仇となった。

 裂けるように開かれた不細工な口、そしてそこに生え並ぶ牙らしき突起の群れが目の前に迫るまで、まるで反応ができなかった。

 ほんの数分前にした失態を繰り返す自分の愚かさに、内心で毒づきながら必死に身を躱す。

 紙一重で襲い来る大口からは逃れたが、僅かに掠めた牙が脇腹と上腕の肉を抉った。

 鋭い痛みに顔が歪むが、度し難い程の失態の咎としては安いものだ。

 痛みを無理矢理意識の彼方に押しやって、後方へ突き抜けていった敵の方に向き直る。

 部屋の端まで走り抜けて、悠々とこちらを振り返るその姿は、もはや不細工な粘土細工などではなく、しっかりとした形を伴っていた。

 下部の突起は美しさと力強さを感じさせる足となり、不明瞭なただの裂け目であった口には鋭利に尖った牙が生え揃っている。

 頭部の耳も、一切の物音すら聞き漏らさんと言わんが如く真っ直ぐに天を衝く三角耳へと変わり、胡乱だった双眸もこちらを射殺さんばかりの視線を放つ切れ長のものへと変貌している。

 そして背後に伸びる尻尾。

 九股に分かれ、各々が意思を持つかのようにうねるその姿を見れば、正体が何かなど論ずるまでもない。

 ――狐である。

 この国で神の使い、神獣と崇め奉られる中でも最もメジャーと言えるであろう動物。

 そして同時に、憑き物の代名詞、狐憑きの首魁とされる存在。

 狐憑きを祓いに来て狐が出てくるという、当たり前でありながら物珍しい状況に、思わず感嘆したくもなったが、生憎とそんな悠長な場合ではない。

 葛花はアレを神だと言った。悪神堕ち間際ではあるが、歴とした神である、と。

 文字通りの狐憑きならば苦戦する事もないだろうが、アレは言ってみれば狐憑きが囁かれ、その名を冠する妖が生まれるより前。その大本ともなったであろう、神の憑き物だ。

 それも九尾。稲荷明神か白面金毛気取りかは定かではないが――

「悪神堕ち間際の場末の神がっ、随分と大きく出たもんだな!」

 姿や肩書に気圧されそうになったが、既に相手の力の程は測ってある。

 何を臆する事があろうかと、萎みかけた闘志を、悪態をつく事で無理矢理に奮い起こした。

 こちらのあまりにも無礼な物言いが伝わったのかは定かではないが、そんな俺を見据える大狐の双眸には、明らかな殺気が宿っている。

(……武器が要るな)

 何はともあれ、まずはそれだ。

 奴をどうするにせよ、丸腰のままではこちらが危険すぎる。

 目の前の異形から視線を外さないまま、置き去りにした己の『武器』の位置を探る。

 部屋の入口。その壁に立て掛けておいた愛刀。

 位置的には背後に当たるので、目測で距離を測る事もできないが、大凡で六メートル程度といった所だったはずだ。

 ほんの数歩で取ってこれる位置ではあるが、当然ながらそう単純な話ではない。

 背後にある木刀を取りに行くという事は、こちらに向かって純然たる殺気を向けている化け物狐に対して背を向けるという事だ。獲物が無防備に背中を見せれば捕食者がどうするかなど、想像するまでもなく分かり切っている。

 追いつかれれば無事には済むまい。最悪、深手を負わされる事にもなりかねない。

 入口まで駆けて、木刀を手に取って、振り向き様に一撃を叩き込む。

 俺なら、全力で駆ければ一秒も掛けずに完遂できる。

 対して、狐とこちらの距離は現状三メートル半程。

 先程の突進の速度から鑑みて、同時にスタートを切った場合――

 頭の中で目まぐるしく状況が思い起こされる。

 平時の数十倍はあろうかという処理速度で脳をフル回転させてのシミュレート。

 今、俺の脳内には精巧に複製されたもう一つの世界が存在していると言っても過言では無いだろう。

 その脳内の世界の俺が、振り返って木刀を取りに駆けだす。それを追って走り出す巨大な化け狐。

 命懸けの追いかけっこ。熾烈なデッドヒートが脳内で繰り広げられ――

 頭の中のもう一人の俺がその争いを制し、もぎ取った木刀で狐を叩き伏せたのを見届けてから、俺は背後に向けて駆けだした。

(届く。ギリギリだけど……何とか届く!)

 倒れ伏すくらいに上体を沈み込ませて、駆けだすというよりも水平に跳び上がるように。

 後先すら考えず、とにかく全力のスタートダッシュを切った。

 初速から一気に最高速まで辿り着き、そのままの勢いで入口まで駆ける。

 同時に、背後に感じる脅威が、凄まじい速度で迫ってくるのを肌で感じた。

 やはり速度ではあちらが上。しかし、スタート地点のアドバンテージと六メートル程度、三歩半で届く程度のスプリント勝負なら勝算は十二分にあった。

 畳を踏み抜かんばかりの勢いで蹴りつける。

 たったの三歩。三回足を踏み出すだけの道行きが随分と長く感じる。

 飛ぶように駆け抜け、目前に迫る壁を無視し、とにかく全力で疾走する。

 果たして、俺のシミュレートは正しかった。

 迫る凶爪がこの身に届くよりも早く、木刀に手が届いた。

 背後に迫る気配は、最早こちらに跳びかかる寸前だ。

 だが、こちらは得物を手に取った。僅かとはいえ、こちらが勝ったのだ。

 肩口から壁に激突して、身体を反転させながら無理矢理に勢いを殺す。

 身体を打ちつけた衝撃で肺の中の空気が押し出されたが構うものか。

 そのまま背後に、こちらと同じように勢いそのままに突撃してくるであろう狐に向けて、振り向き様に渾身の横薙ぎを、先程脳内でシミュレートした通りに叩き込み――

(……あれ?)

 シミュレートとは違う、手応えなく盛大に空振ったその一撃に頭の中が真っ白になった。

 確実に。絶好のタイミングで放たれた一撃。

 追い縋る獣を叩き伏せるはずだった一撃。それが空振りに終わった。

 唖然とする俺の目に飛び込んできたのは、空振った己の一閃の向こう。

 こちらの間合いギリギリの所でピタリと足を止めて、無様に隙を晒した獲物に向けて腕を振り上げる異形の姿――


 元より、彼らは現世の理の外の存在である。

 人の身に憑りつき、現世の理に縛られてなお、空中で跳ぶという離れ業をやって除けた。

 人の身から抜け出て、完全な理外の存在となった今。例え音速で走っている最中だったとしても、危険を察して即座に足を止める事ぐらいは造作も無い。


 この時の有様を、俺は一体どう悔やむべきか。

 彼らの事を嫌という程に知りながらも、それを失念していた迂闊さか。

 それとも、こちらの攻撃を読んで足を止めるような知性など持ち合わせていないだろうという驕った考えか。

 いずれにせよ、本日何度目かの失態を、俺は心の底から呪った。

(ッ!! いい加減に学習しろよ、俺!)

 凶爪が迫る。

 まるで先程のこちらの一撃を模したような横薙ぎの一閃。

 真一文字に盛大に振り抜いた後の無防備な体勢では避ける事も叶わない。

 反射的に身体を捻り、伸びきった腕を無理矢理に引き戻す。

 振り抜いた木刀を何とか身体の前まで引き寄せ、寸での所で攻撃に木刀を合わせた。

 並みの刀剣すら凌ぎそうな程に鋭利な爪と、木刀。

 普通ならば易々と両断されるなり、貫かれるなりしそうなものだが、そこは流石に強い力を宿した特別製。折れも欠けも、どころか傷の一つすら付かないままに、刃物同然の爪を食い止めて見せた。

 だが、身体が引き裂かれる事は回避できても、不自然な体勢では、その衝撃まで殺し切る事はできない。

 踏み止まる事すらできず、俺の身体はまるで風に吹かれた木の葉の如く、木刀諸共に撥ね飛ばされてしまった。

 盾となって身を守ってくれた木刀が、手元から弾き飛ばされ明後日の方向へと飛んでいく。

 同じように弾き飛ばされた身体も不格好な体勢のまま、畳の上に投げ出されようとして――


 倒れ伏そうとした身体を、畳に衝いた左腕一本で押し留める。

 全身の重量、弾き飛ばされた衝撃のすべてを左腕だけで受け止める愚行に腕と肩が悲鳴を上げたが、些細な事だと一蹴した。

 弾き飛ばされた勢いそのままに、畳に衝いた左腕を軸にして、身体を独楽のように回転させる。

 そのまま狐――ではなく、今まさに手元から離れて、弾き飛んでいった得物に狙いを定めた。


「調子に――」 

 弧を描く回し蹴りで木刀を捉える。

 同時に視界に映ったのは、こちらに止めを刺そうと再び迫り来る獣の姿。

 無様に弾き飛ばされた獲物を前に、今が好機とみたか、今度は足を止める様子は無い。

 ただ真っ直ぐに、こちらを噛み殺そうと突き進むのみである。


 ――こうなれば、御しやすい。

 足先に力を籠め、甲で木刀を受け止めた足を弓の様に引き絞り――


「――乗んなっ!!」


 見事なボレーシュートで、狐の顔面に向けて木刀を蹴り放った。


 手に携えて振るうべき得物が、唸りを上げて飛来する。

 乱雑に回転しながら撃ち出された木刀は、こちらに向けて疾走していた狐の眉間に、吸い込まれるようにして命中した。

 強烈なカウンターヒットに、天を仰ぐように獣が仰け反る。

 勢いよく疾走していた足が止まり、隙を晒した。

 この機を逃す手は無い。

 蹴った勢いそのままに身体を一回転させて立ち上がると、そのまま目の前の獣に向かって地を蹴る。

 仰ぎ見るように突き上げられていた顎先が、目の前に降りてくる。

 絶好の位置とタイミング。

 いまだ隙だらけの右側頭部へ向けて、今度は左足を軸に、半円を描くように右足を振り上げた。

 前進の勢い、回転の遠心力、すべてを乗せた回し蹴りが、またもや吸い込まれるように、今度は狐の頬面を捉えた。

 渾身の力で降り抜いた右足の踵に、まるでゴムの塊を蹴り飛ばしたような何とも言えない手応えを感じる。

 先程のお返しとばかりに蹴り飛ばされた狐は、空中を滑る様に壁まで吹き飛び――

 そして、壁をすり抜けて部屋の外まで吹き飛んでいってしまった。

「あっ、やべっ」

 会心の手応えに思わず勝利の余韻に浸りかけたが、すぐに現実に引き戻された。

 相手は実体を持たぬ存在。彼らに触れられるのは、有機無機を問わず、神通力を宿した物のみである。

 密室内とは言っても、そんな相手を全力で蹴り飛ばしたりすれば、簡単に場外になる事は容易に想像がつくだろう。

 格闘技か何かであれば判定勝ちをもぎ取れる所だろうが、残念ながらこれは試合ではない。

 目の前の標的を襲う事に集中していた獣を外に放り出す。

 どう考えても、相手に逃げる隙や、他の誰かに憑りつく隙を与えるだけの、最悪の一手である。

 つい熱くなってしまった己の迂闊な行動に、慌てて縁側に降りて相手を探してみるが、当然のように巨大な狐の影などどこにも見当たらない。

(あー……。やっちまったかも)

 無駄と分かっていながらも、再度ぐるりと辺りを見渡してみる。

 やっぱり空中に浮かんでいる狐の姿など影も形も無い。

 先程の様に意識を集中して気配を探る手もあるが、今いるのは薄暗い室内とは違い、見通しが良い庭だ。

 感覚で探るよりも肉眼で確認した方が、遥かに早く広範囲を確認できるので意味が無い。

 こうなってしまった以上、俺に残された手立てと言えば、闇雲に探し回るくらいの事しかないのだが、それが下策な事くらいは素人であっても分かりそうなものだった。

 沸き立つ焦燥が冷や汗となって頬を滴り落ちる。

 逸る思考を何とか押し留めて、現状を打破する最良の手を模索する。

 思考時間、およそ二秒。

 結局、行き着いた結論は実にシンプルで、酷く情けない物だった。

 今の状況を俺一人で何とかする事は不可能だ。

 ならば、彼女に協力を仰ぐ他あるまい。

(……またお説教コースかな、これは)

 相棒である少女の呆れと不満が入り混じった顔を思い浮かべて頭を痛めながら、先程飛び出してきた縁側に向けて駆け戻った。

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