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狐憑き:承

 翌日。

 初冬にしてはやや大袈裟な装いでしっかりと身を固めてから、葛花と二人で家を出た。

 冬も訪れたばかりのこの時期。街中では少し奇妙に見える格好かもしれないが、向かう先が幾分か気温の低い山間地帯と考えれば、決して大げさな備えではないだろう。

 俺は年季の入った愛用の茶色のロングコートと、同じく愛用の白いマフラーを首に巻いて、念のためにと葛花に持たされた使い捨てカイロをポケットに忍ばせた出で立ちだ。

 コートはこの仕事を始めたばかりの時に購入して使い続けている一張羅だが、長年着続けてきたせいか所々擦り切れていたりシミができていたりとやや見すぼらしい。

 愛着もあるし、金も無いのでまだしばらく着続けようと思っていたのだが、近いうちに買い換える事も視野に入れるべきかもしれない。

 一方のマフラーは、昨年の冬頃に編み物を習い始めた葛花が、練習も兼ねて編んでくれたものだ。

 手編みのマフラーなどと言うと何だか気恥ずかしくなってしまうのだが、柄の無い白一色というシンプルさと、何より首に巻くと格段に暖かくなる防寒性がお気に入りの一品である。

 対して、葛花の方は、首元などに白いファーのついた子供用の赤いダッフルコートに、白のニット帽の組み合わせ。

 それと、コートと同じく赤に白のファーをあしらった手袋をはめている。

 こちらも冬が来る度に何度も目にしている葛花のお決まりの衣装だ。

 自分の赤い瞳にコンプレックスを持ってるくせに、好きな色が赤という複雑な嗜好をしている彼女のお気に入りの一つである。

「何度見ても、ちっちゃいサンタクロースみたいだな。その服」と見たままの感想を述べてやったら、思いっきり脛を蹴り飛ばされた。かなり痛かった。

 玄関に鍵をかけ、二、三度ドアノブをガチャガチャと回して、戸締りが万全な事を確かめてから、二人並んで駅へと歩き出した。

 分厚い雲に覆われた灰色の空の下を足早に歩いていく。

 陽がしっかりと遮られているせいか、ただでさえ寒々しい初冬の空気が一層冷え込んでいる気さえする。そのうち雪でも降るかもしれない。

「山歩きするのに雪に見舞われたら最悪だな」

「その時は諦めてタクシー拾ってよ。雪の山道なんて歩いてたら死んじゃう」

「いや、流石に虚弱過ぎるだろ。そんな簡単に死んでたまるか」

 などと言ってはみるが、正直、俺も流石に雪に埋もれた山道に挑むような真似はしたくない。

 流石に死ぬ事は無いと思うが、仕事に取り掛かる前にへばってしまうようでは本末転倒も良い所だ。

 さらに幾らか今月の生活費を切り詰める事になるだろうが、その時は葛花の言うように、大人しくタクシーで目的地まで乗り付けるとしよう。

「本当、冬は嫌だよなぁ……。雪が降ったら邪魔だし、寒いし」

 心底うんざりしながら重々しい溜め息を吐き出す。

 吐き出された白い吐息は、あっさりと空気に紛れて消えてしまったが、生憎、胸の内のどんよりとした気分はそう簡単には消えてくれなかった。

 容赦のない寒気に身体を震わせながら駅へと急いでいると、すぐ脇をランドセルを背負った数人の少年少女が駆けていった。

 この寒さの中でも元気なもので、「雪降らないかなー」「降ったら雪合戦やろーぜ」などと、はしゃぎながら走り去っていく。

 そう言えば、ここは近所の小学校の通学路だったか。

 こんな朝早くから勉学に励みに行くとは、小学生も大変だ。自分にもそんな時分があったなどとは到底信じられない。 

 楽しそうな子供達が曲がり角に消えるのを死んだ魚のような目で見送る。

 朝っぱらからマラソンをしていた意味は分からないが、彼らの会話から察するに、雪が降るかもしれないという期待が暴発してテンションが弾けた結果かもしれない。

「いいよな。子供はいつも楽しそうで」

「……そこでどうして、こっちを見るのよ?」

 何気なく視線を送ったら、じろり、と葛花に睨まれた。

 いや、別に他意があった訳ではないんだが……どうにも葛花は子供扱いされる事に関して過敏過ぎると思う。

「いや、ふと疑問に思っただけさ。この寒さの中であんなに元気に、しかも雪が降るのが楽しみだなんて、何でそんな事が言えるのかなって」

 寒いのは最悪だ。

 暑いのも最悪だが、寒いのは輪をかけて最悪だ。

 手足はかじかむし、ひび割れ、あかぎれに悩まされるし、朝はなかなか毛布から出られなくて葛花に叩き起こされるし、良い事など一つもない。

 まして、雪なんか降ろうものなら最悪を通り越して絶望だ。

 道が歩きにくくて滑るし、視界は悪いし服も濡れる。

 外出しなければならない予定の日に、窓の外を雪が舞っていたりすると、軽く死にたくなってくる。

 そんな雪が降るのが待ち遠しいと話している子供達。

 とてもではないが、正気の沙汰とは思えない。

「知る訳ないじゃん。私は別に雪が降って喜ぶよーな子供じゃなかったし」

「それは今も?」

「……どーいう意味?」

「……いや、何でもない」

 刺すような視線が飛んできて、思わず言葉を呑む。

 現在進行形で子供のようなものだから、などと言ったら、脛を蹴られる程度では済まないかもしれない。

「というか、そーいうのはどっちかと言うと薫の方でしょ。子供の頃は雪が積もる度に、私を引っ張り出して、外で遊んでいたじゃない」

「……何?」

 突然出てきた、あまりにも想定外な言葉に耳を疑う。

「かまくら作って秘密基地にするんだーって、そりで何度も雪を運ばされたり。勝手に雪合戦を始めて、家の中にいる私に雪玉投げつけてきたり」

「…………」

「お陰で私は雪が積もる度に風邪をひくハメになってね。家族の間じゃ、雪が降った後に私が寝込むのが一種の風物詩みたいな扱いだった」

「……マジで?」

 記憶にない。

 それは本当に俺の話か? よく似た別人の話とかじゃなくて?

「へぇ……なるほどね。私は幼少期の苦い思い出としてしっかり記憶に残ってるけど、当の本人は綺麗サッパリ忘れ去っているという訳だ」

「……いや、なんか、ホントすいませんでした」

 沸き上がる葛花の怒りに身の危険を感じて、即座に一礼。

 野外なので流石にしないが、心の中では土下座する勢いである。

 いや、しかし、雪の中で遊びまわるという行いもそうだが、何より葛花の怒りを買う真似をするとは……。ホント、何でそんな命知らずな真似をしたんだ、昔の俺。

 とにかく、このままでは、何が切欠で葛花の怒りが爆発してもおかしくない。虎の尾の傍でタップダンスを踊るような真似は御免だ。

 何とかして、話題の関係ない方向へ逸らさねば……。

「ま、まぁ、でもよく考えてみれば別に子供に限った話でもないよな。大人でもクリスマスに雪が降ったらホワイトクリスマスだとか騒いでるし。案外、子供も大人も大差ないのかもしれないな」

 クリスマスという、一年に一度のイベントに雪が降るというのは、人々に何か特別な感慨を抱かせるものらしい。

 俺としては寒くて邪魔で鬱陶しいとしか思わないが、そういう日に道を歩いていると、カップルや親子連れがはしゃいでいるのをよく見かけるのだ。

 正直、彼らが何をそんなに喜んでいるのかまったく理解できない。

 きっと彼らは寒さに凍えるのが好きな変人か何かなのだろう。

 ……ちなみに、これは決して僻んでる訳ではない。断じてない。

「何を悟ったよーな事言ってんだか。似合いもしない。どーせ雪が降ったくらいで騒がない俺は大人だーとか、しょーもない事考えてんでしょ」

「…………」

 そんな事は考えていない。

 考えていないが、雪が降った程度で騒いでる人を見ると子供っぽいなぁとは思う。

「そーいう所が子供なのよね」

「……言ってくれるな」

 見た目完全に子供の葛花にそんな事を言われたくない。

 勿論、口には出せないが。

「でもまぁ、もうじきクリスマスかぁ……」

 ふと、目線を空に向けながら葛花が呟くように言った。

「ねぇ、偶にはクリスマスにどこか出かけてみない? 最近、仕事以外の外出なんて碌にしてないしさ」

「……お前もか」

「……?」

 まさかこんな身近にクリスマスに出かけようとか言い出す輩がいたとは。何となく裏切られた気分だ。

 まぁ、見方によってはクリスマスに女性と出かけるお誘いとも言える訳だけど……。

 生憎だが、葛花と二人で並んで歩いていた所で、傍目には歳の離れた兄妹にしか見えないのである。

「止めようぜ。寒いし、人多そうだし。仕事でもないのなら、家でゆっくりしていたいよ」

「またそーいう事言う。いつもいつも面倒だとか疲れてるとか言って仕事以外では引き籠ってばっかりじゃん。たまにはレジャー的な事もするよーにしないと、老後に生きがい無くしてボケるわよ」

 余計なお世話だ。

 というか、お前が老後とか言うな。色々と洒落にならん。

「レジャー、ねぇ……」

 とは言え、彼女の言葉に思う所が無い訳ではない。

 今の生活を始めてから約二年。

 最初の頃は少ない収入や新生活に不慣れな事など、脆弱な生活基盤のせいでレジャーなど考える余地も無かったが、ここ最近はそれも安定してきた。

 収入は相変わらず少ないが、少ないなりに節約して慎ましく暮らす事にも慣れたし、仕事も経験を積んで効率も上がってきている。

 葛花も最初は右も左も分からなかった家事を、今では一手に引き受けて切り盛りして、家計の助けとなってくれている。

 そろそろ、互いの苦労を労うような事を一つくらいしてみても罰は当たらんだろう。

「……まぁ、そうだな。だったら、そのうち適当に都合つけてちょっとした旅行でもしようか」

 クリスマスは寒いので御免だが、暖かくなってくる春先くらいなら遠出するのにも丁度良いだろう。

 普段の生活でお互いに疲れも溜まっているはずだし、一日くらいゆっくりと羽を伸ばす時間が欲しい。

 と、そんな事を考えていると、何故か隣で目を丸くしている葛花に気が付いた。

「……何だよ。何か変な事言ったか?」

「……いや、うん、変な事って言うか。自分から振っておいて何だけど、まさか本当に薫がどこかに出掛けよーなんて言い出すとは思わなかったから」

「……お前な」

 誠に以て遺憾である。

 俺だって別に出不精という訳ではないのだ。

 確かに仕事以外では引き籠りがちかもしれないが、それは裏を返せば、仕事がある度にどこかに出掛けているという事でもある。

 計った事は無いが、恐らくは家の中より外で過ごしている時間の方が長いくらいだろう。

 しかし、だからと言って勿論、外をうろつくのが好きだという訳でもない。

 単に、外回りの毎日の中で、たまに取れる休みの日くらいは家で過ごしたいと考えているだけなのだ。

 毎日、家族のために外に働きに出ている世のお父さん方だって、きっと俺と同じように思っているはずなのだ。

 そして、毎日、主婦業を全うして、家からあまり離れない生活を送っているお母さん方と意見の食い違いから対立するのだ。


 ――休みの日ぐらいゆっくり休養させてくれ。

 ――休みの日ぐらい家族でどこかに出掛けよう。


 嗚呼、互いの主張はどちらも正しい。

 ただ、それを主張する二人の立場が異なるだけ。

 だから議論はいつまでも平行線を辿り、やがて互いに罵り合うだけの喧嘩に発展するのである。

「……夫婦って大変だよな」

「……何の話よ?」

 ぼそりと呟いた言葉に葛花が怪訝な顔を返す。

 ……いかんいかん。少し思考が脱線していた。

「何でもない。まぁ、たまにはらしくない事をしてみるのもいいかなって思っただけだ。家を空けてる時に仕事が来ると困るから、日帰りか……精々、一泊が限度だと思うけど。どうだ? 旅行」

 聞き返すと、葛花は真面目な顔で黙り込んでしまった。

 先の発言から、てっきりノリノリで即決同意してくるものだと思っていたのだが、その真剣な表情からは明らかな迷いが見て取れた。

 そもそも、家の炊事、洗濯、掃除、買い出しを一手に引き受ける彼女は、どちらかと言えば世のお母さん方に近い立場ではある。

 しかし、今回のように依頼があれば必ず付き添おうとするので、実はあちこち飛び回っている頻度は俺とそう変わらなかったりするのだ。

 思いつきの勢いでレジャーだの勧めてみたはいいものの、冷静に考えたら家でゆっくりした方が良かった、とか思っているのかもしれない。

「嫌なら別に無理しなくていいぞ。俺もお前に乗せられて思いつきで言っただけだしな。冷静になって考えてみると、いつも通り家でゴロゴロしてる方が良い気もしてくるし」

「それこそ嫌。仕事や家事以外で家から出ないよーになったら人間お終いよ」

「……ああ、そう」

 ……そうですか。お終いですか。 

 世の中にはきっとそういう大人の人も大勢いると思うんだけど、そういった人達の立場を失くしそうな発言は止めて貰いたいなぁ。

「そういう事じゃなくて……ちなみに、旅行ってどこに行く予定なの?」

「ん? いや、それは帰ってから色々と調べてみて――」

「色々って、例えば?」

「…………」

 その色々が分からないから調べるのだが……。

 生憎、レジャーというものと限りなく縁遠い人生を送っている俺なのだ。

 学生時代の遊び盛りの時分ですら、友達と買い食いしたような経験もなく、強いて言えば仕事で山に来たときに紅葉を見たのが人生で唯一のレジャーらしい記憶である。

 近場のレジャースポットなどまったく知りもしないし、大型休暇が近づいてくるとテレビでよくやってる、そういった特集も全部自分には関わりない事だと思って見流していた。

 そんな人間にいきなり聞かれても、旅行先など思いつくはずがないではないか。

「あー、そうだな……。例えば……ほら、温泉くらいなら山の方に行けばいくらでもありそうじゃないか?」

 乏しい知識の中から、何とか無難な選択肢を汲み上げる。

 疲れを癒すレジャーの定番。一時間ばかりの入浴で深い満足が得られるから、日帰りでも問題なくリフレッシュできる上に、気分だけでなく身体の疲れも十二分に癒せて、良い事尽くめだ。

 咄嗟の思いつきにしては上々……というより、もはや理想の外出先と言っても過言ではないとすら思えたのだが、対する葛花の反応は殊の外悪い。

 彼女も日頃の主婦業などで疲れが溜まっているだろうし、良いと思ったのだが……。

「……気に入らない?」

「別に気に入らないって訳じゃないけど……」

 どこか歯切れの悪い感じで葛花が呟くように言った。

「観光地とかならいーけどさ。単に温泉って、なんかレジャーって言うより慰安旅行みたいだなーって気がして……」

「…………」

 それは違う。

 慰安旅行『みたい』なのではない。

 慰安旅行『そのもの』なのである。

「そもそも、山なら仕事で行き飽きてるじゃない。今日、これから行くのも山だし」

「……まぁ、そりゃ、な」

 信仰や伝承、神秘に属する物は、文明の発達した都市部よりも人里離れた場所の方が根強い。

 必然的に、俺達が仕事で赴くのは人の少ない田舎が多くなり、山間部などはその最たるものなのである。

「何かもうちょっとレジャーって感じの所に行きたい」

「レジャーって感じって……」

 慰安旅行はレジャーではないのだろうか?

 正直、葛花の言う、温泉以上にレジャーらしい場所というのが俺には思いつかないのだが……。

 何だろう? 例えば、遊園地とかだろうか?

 生憎と、この辺りにそういう場所は無かったと思うが……。

 一応、大して賑わっていないらしいアミューズメントパークが、片道二時間くらいの場所にあったという記憶が、薄らとではあるけれど……。

 掛かるコストと見返りを天秤に掛ければ、釣り合っているとはお世辞にも言い難い。

 何より、せっかく珍しく日帰り旅行をしようという気になったのだ。

 その機会を有意義な休暇として締め括るためにも、できればそんな場所に訪れるのは却下したい。

 ちなみに、だからと言って全国的に有名人気のテーマパークまで足を伸ばそうという発想は論じるまでも無く却下。

 そうなるともう普通列車で行ける範囲を越えている。どう考えても新幹線のお世話にならなければいけない距離だ。

 ウチの金銭事情は決して裕福では無い。というか、貧乏だと言って差し支えない。

 たかが二、三百メートル程度の移動でいちいちタクシーを拾う人間を見て、腹立たしくなる程度にはお金に縁遠い生活を送っているのである。

 勿論、多少の蓄えくらいはあるし、せっかくのレジャーなのだから少しくらい散財しても良いという気持ちはある。

 しかし、ただの合間の移動のために、あんなクソ高い乗り物を利用するのは、何というか負けた気になるではないか。

 何に負けるのかは分からないけれど。

「というか、この歳になって遊園地って楽しめるのか……?」

「……何? 遊園地がいーの?」

 またしても口を衝いて独り言が出ていたらしい。

 考え込むと思った事がすぐに口に出る癖は直したい所である。

「いや、別に。……というか、諸々の事情でむしろ行きたくない」

「そう? ならいーけど。本気で遊園地に行きたいなんて言われても、その……何て言うか、反応に困る」

 ……困るのか。

 レジャーっぽい場所と言われて真っ先に思い浮かんだ場所だったのだが……。

 どうやら葛花的には、レジャーっぽい場所というのは遊園地ではないようだ。

 そうなると、どこに行けばいいのだろう?

 映画館? ショッピングモール? それとも洒落たレストランやバー?

 少し頭を巡らせてみたが、どうにもしっくりこない。

 レジャーと言うよりは、どちらかと言うとデートスポットとでも言う方が正しいような気がする場所ばかりだ。

 ……まぁ、それもレジャーと言えば、純然たるレジャーに違いないのだが。

 しかし、ご要望の「レジャーっぽい場所」と言うのとはまた違う気がする。

「駄目だ。思い浮かばん」

 経験値の乏しい俺には荷が重すぎる難問だ。白旗を上げて矛先を葛花に向ける。

「そういう葛花は、どこか行きたい所があったりするのか?」

 こういう場合は言い出しっぺに任せるが吉だ。

 問われた葛花は、しばしの間目を伏せて考え込んでいた。

 それから天を仰ぎ見て、再び足元に視線を落として、そして再び前を向いてから、ようやくポツリと呟いた。

「……モン・サン・ミッシェル?」

 ……何故、疑問形?

「……せめて国内にしろ」

「じゃあ、ノイシュバンシュタイン城」

「だから日帰りだっつってんだろ!」

 じゃあって何だ!? じゃあって! 一ミリたりとも妥協してねぇよ!

「あーいう場所って憧れるのよね。ガラスの靴を置いてきたりしてみたい」

「……誰が拾うんだよ、そんなの」

 残念ながら、今のご時世でそんな事をしても、遺失物として管理されるのがオチである。

 あと、ついでに言っておくなら、モン・サン・ミッシェルは王子様のお城なんかではなく修道院だ。

 仮に置いてきたガラスの靴を主が拾ってくれたとしても、相手が神様では、それを持って迎えに来る事など、期待できるはずもない。

 そして、何よりも当然の話だが、俺達にはヨーロッパまで行くような時間も金も無いし、ガラスの靴なんて高価そうな品を用意する事も当然ながらできないのである。

「もう少し現実的な案にしろよ。こっちにはお前の言うレジャーっぽい場所ってのがいまいち分かってないんだから」

「んー……まぁ、私もハッキリと、こういう場所、ってイメージがある訳じゃないんだけど……。ただ、せっかく薫が重い腰を上げる気になったんだし、思い出に残る様な旅行にしたいなーってね」

「……思い出に残る、ねぇ」

 温泉旅行でも思い出は作れるだろう、と思わないでもないが、言わんとする事がまったく分からない訳でもない。

 身体を労わる事よりも心動かされるような体験を。

 休息より感動を求めるような旅行にしたいという事だろう。

「……まぁ、何となくだけど分かった気がする。お前のお眼鏡に叶う手近な旅行先が見つかるよう、こっちでも探しておくとするよ」

「ん。お願いね。さて、それじゃ――」

 曲がり角を曲がった所で葛花が前方を指差す。

 横断歩道を一つ挟んだその向こうに馴染みの駅の姿が見えてきていた。

「まずは今日の仕事を無事に終えないとね。生きて帰るまでがお仕事です」

「……縁起でもない事言うなよ」

 割と洒落にならない葛花の軽口に苦笑いを返しながら、時計を確認する。

 到着まで残り五分程度に迫った電車に乗り遅れないよう、足を早めるのだった。




 数台分しか駐車場が無い、小さなロータリーを備えた駅に到着すると、ちょうど通勤の時間と重なったのか、ぽつりぽつりと足早に駅に吸い込まれていくサラリーマン達の姿が見えた。

 傍から見ればお揃いにも見えるスーツに、皆一様に陰鬱な表情を浮かべているので、まるで葬儀の参列のようでもある。

 そう言えば、今日は月曜日だったか。

 休日明けで、またこれから一週間頑張らなければと思えば、誰だってあんな顔になるものなのかもしれない。

 会社勤めの経験は無いし、俺の仕事は基本的に不定期なので彼らと心情を共有はできないが、一家のために頑張る大黒柱のくたびれた背中を見ていると、自然と「お疲れ様です」とエールを送りたくなるものである。

「ホント、お父さんは大変だな」

 まぁ、今、見送った人に妻子がいるのかは知らないんだけど。

 馬鹿な事を考えていて電車に乗り遅れては堪らないので、こちらもそんなサラリーマン達に紛れるようにして駅へと入っていく。

 それなりに乗客が居る様なので、切符を買うのにも手間取るかと思ったが、券売機の前にはまったくと言っていい程に人の姿が無い。

 ふと隣を見てみると、ホームへと急ぐ人達は、懐から取り出したパスケースを機械に押し付けるだけで、スムーズに改札を通り抜けていく。

 成程。あれが噂の交通系ICカードという奴か、と妙な感心を覚えながら、それを尻目に券売機の前に立った。

 便利だろうし興味が無い訳ではないのだが、何となくハイテクな物はブルジョワが持つものという謎の強迫観念というか、被害妄想があるせいで苦手意識がある。

 電車自体はよく利用するが、彼らの様に毎朝乗る訳でもないし、利用は不定期だ。

 必要ないというか、無くて困る事もないだろうと、いつものように券売機に紙幣を滑り込ませた。

 目的の駅までの運賃を確認し、大人二人分のボタンを押して購入する。

 ふと、葛花なら子供料金でも通用するんじゃないか、などと魔が差しかけたが、僅かに指先が迷っただけで隣から寒気を覚える程の威圧感を感じたので断念した。

 たかだか百円ちょっとのために身の危険を犯してまで不正をする程、俺は愚かではないのだ。

 出てきた切符の片方を葛花に渡し、二人で改札をくぐってホームで電車を待つ。

 先程は乗り遅れてはいけないと足早に歩いてきたのだが、いざ到着してみれば、まだ三分程の時間の猶予がある。

 微妙に手持無沙汰になったので、近くの自販機に寄って温かい飲み物を購入してきた。

 俺にはホットコーヒー。葛花にはお汁粉である。

 この缶のお汁粉が葛花はどうやらお気に入りらしく、いつも寒くなってくるこれくらいの時期になると、毎年のようにせがまれるので流石に覚えてしまった。

 案の定、戻って葛花にお汁粉を渡すと、ご満悦の表情で懐にしまい込んでいる。

 あんな甘ったるい汁の何が美味いのかは俺には理解しかねるが……人の嗜好はそれぞれか、なんて思いながら缶コーヒーのプルタブを開ける。

 葛花のように電車が来るまでのカイロ代わりにしてもいいのだが、まぁ腹に入れて温まるというのも一つの手だろう。

「ところで――」

 お汁粉の缶に幾分か気を良くしたのか、どことなく上機嫌な葛花が口を開いた。

「今回の狐憑きって、悪神だと思う?」

 口を付けたホットコーヒーを一口飲み下して、ほっと吐息を漏らす。

 初冬の空気に微かに白く尾を引いた吐息は、すぐに紛れて見えなくなった。

「どうだろうな。あの手紙だけじゃ、判断材料が少なすぎて何とも言えないし。とりあえず現地で直接見てみない事には、な」

「悪神だったら、大した事は無いと思うけど。万が一、神様の祟りとかだったら、それなりの大物の可能性もあるよね」

「それも見てみない事には何ともなぁ……」

「もし、相手が大物だったら――」

 葛花の顔がいつになく真剣な面持ちになる。

 何かを決意するような、揺るぎない意志を感じさせる、そんな表情だった。

「私がやるから」

「…………」

 その決意表明に、俺は何と返すべきか分からなかった。

 本音を言えば、俺は葛花に関わって欲しくない。そのために、俺はこの道を選んだのだ。

 俺の仕事を葛花が手伝うというのは、それこそ本末転倒なのである。

 昔の俺ならば、人目を憚らず怒鳴り散らしてでも、葛花が仕事に関わるのを止めただろう。

 でも、それはただの独り善がりなのだ。彼女を助けたいと思う、俺の身勝手な。


 俺が彼女を助けたい、と思うのと同様に――

 彼女も俺を助けたい、と思っているという事を、今の俺は知っている。


 だから何も言えない。「関わるな」とも「助けてくれ」とも言えないのだ。

 手の中にあるホットコーヒーをもう一口呷る。

 さっきよりもコーヒーの味が苦くなっているような気がした。

「……俺じゃどうにもならないって思ったら、真っ先に言うよ。それまでは、俺を信頼して任せておいて欲しい」

 これが最大限の譲歩。俺が見せられる誠意の限界。

 ――ホームにアナウンスが流れる。電車の到着を告げる物だ。

 線路の彼方からライトの灯りが見える。それは徐々に近づいてきて、やがて一陣の風を伴って電車がホームに到着した。

 扉が開き、乗り込もうとする俺の前を遮るようにして、葛花が電車に乗り込む。

 そしてくるり、とターンを決めると、俺の方を見て不敵に笑った。

「成長したじゃん」

 にひひ、と笑いながらそんな台詞を吐く。

 ……まったく、こいつは。

 葛花に続いて電車に乗り込むと、頭の上にポン、と手を置いてやる。

 そのままぐしゃぐしゃと頭を撫でてやった。

「何様なんだよ。このお子様め」

 お返しとばかりに今日二度目の脛蹴りを貰った。やっぱり、かなり痛かった。




 唐突だが、「貴方は神を信じますか?」と聞かれた場合、何と答えるだろう?

「信じる」と答える人も居れば「信じない」と答える人も居るだろう。

 この手の質問は個人の自由。どちらが間違っているという事もない……と、個人的には言いたい所なのだが、残念な事に、俺の立場としては、この質問に対しては明確な答えを突きつけねばならないのだ。


 ――結論から言ってしまえば、神は存在する。


 別に怪しい宗教家気取りではない。

 また、少なくとも俺が知っている神と呼ばれる存在は、世界の創生に関わったりだとか、天地万物を司る全知全能の存在だったりとか、そういう派手な存在では無い。

 もう少し、こじんまりとした存在なのである。


 そもそも、神とは何なのか?

 これも言ってしまえば、至極単純な話である。


 ――これまた結論から言ってしまえば、神とは人間が造り出した存在である。

 

 今となっては大分薄れてしまった考え方ではあるが、かつてこの国には『八百万の神』という考え方があった。

 それは「自然のすべてには、それぞれ神が宿っている」という考え方だ。山には山の、川には川の、田には田の、稲の、雨の、空の、雲の……。

 森羅万象すべてにそれぞれ神が宿っている、と昔の人は考えたのである。

 実際に森羅万象に神が宿っていたのかはさて置いて、重要なのは昔の人が「そう考えた」という事だ。


 ――人の意思には力がある。


 こんな事を言われても、実感として頷ける人間はそう居ないのではないかと思う。

 だが、多くの人々の「そうあって欲しい」という欲望。「そうあるべき」という強迫観念。そういった強い思念が一つに合わさると、時に世界の在り方すら歪ませる程の力を持つ事があるのだ。

 何を馬鹿な事を、と思うかもしれないが、人の意思が現実に作用するという考えは、そこまで突飛なものでもない。

 例えば、これも古い信仰だが、言霊という物がある。

 これは『言葉には何らかの力が宿っており、実際に口にした言葉が現実に影響を及ぼす』という考え方だ。

 口に出すのと考える。

 僅かな違いはあれど、根本にある物は変わらない。

 言霊とはつまり、言葉にする事で、より自分に思い込ませる一種の自己暗示だ。

 言葉自体に力が宿っている訳では無い。

 言葉を聞く事で、人が抱く想いこそが力そのものなのである。

 

 まぁ、意思の力の是非は、語り出すと長くなるので、この際、横に置いておくが。

 重要なのは、人々の思い描いた神が、その信仰を拠り所として生み出されたという事だ。

 瓢箪から駒という訳でも無いが、彼らは人々の信仰に後追いする形で、神として生まれ出でたのである。


 こうして、しばらく神と人は共に歩む事になる。

 何か困難な事態に見舞われた時、人は神に供物を捧げて祈り、神がその願いを聞き届け、人々を救う。

 両者は実に良い共生関係を築いていたと言えるだろう。

 しかし、時が経つにつれて、人間は技術を発達させ、科学を進歩させ、数多の困難も自らの力で切り開けるようになっていった。

 神に頼る事態は徐々に減っていき、名立たる神への信仰こそ揺るがなかったものの、八百万とまで言われた多くの神々は、徐々にその存在を忘れ去られていった。


 ――神とは、人の信仰が作り出した存在である。

 信仰とは、彼らにとって、己が存在意義。自分を神として留めてくれる重要な要素だ。

 それが無くなれば、彼らは己の「神としての存在」を保てなくなる。

 信仰を失った数多の神達は、いつしか己の存在意義を忘れ、ただただ厄災を振りまくだけの存在に成り果てた。


 既に『神』としての原型を持たない、すべてに仇なすだけの存在。

 そんな存在を、我々は『悪を成す神』として、『悪神』と呼ぶようになった。

 

 悪神による被害が確認され始めたのは、明治時代から大正時代にかけてと聞いている。

 文明開化によって西洋の技術、文明が流入した事により、徐々に土着の神への信仰という文化が薄れ始めたせいだろう。

 当初こそ、野盗やならず者の仕業だと考えられていたようだが、徐々に人間の仕業にしては不可解、もしくは有り得ないとされる事態が起こるようになった。

 当然、そういった話は瞬く間に広まり、妖怪や悪霊など、様々な犯人像が人々の間で噂されるようになったのだ。

 西洋の文化の流入により、土着の神が怒って祟りを起こしている、と言う者も居たそうだ。

 こうなると困るのは、時の権力者達である。

 せっかく文明開化で欧米列強に追いつこうと努力している大事な時期なのだ。

 そんな得体の知れない物に邪魔されるなど――まして、これから近代文明として発展していこうという時に、霊だの妖怪だのといった非科学的な風聞を立てるなど、看過できるはずがない。

 一連の事件は緘口令が敷かれ、同時に、そういった不可解な事件を秘密裡に解決するための極秘部隊が組織された……。



(――と言ってみると、ドラマや映画の主人公みたいで格好良いんだがなぁ……)

 電車の中、ボックス席に葛花と向かい合わせで座りながら、頬杖をついて窓の外を眺めている。

 先程の駅で買ったお汁粉を上機嫌で啜っている葛花と、徐々に緑が多くなっていく窓の外の風景を交互に眺めて退屈を紛らわしていたが、流石に飽きてきてしまった。

(……別に、ヒーローを気取りたい訳じゃないけどさ)

 それでも、男としては、やはりそういう存在に憧れる気持ちが少なからずあったりするものなのだ。

 だが、自分の現状を改めて整理してみると、残念ながら、物語の中のヒーロー像には程遠い気がする。


 先に言った通り、俺達の前身は、時の政府から密命を受けて構成された極秘部隊だ。

 だが、その構成人員は、別に戦闘のプロフェッショナルでも、名のある陰陽師の末裔でも、ジャパニーズニンジャの技を受け継ぎし者でもなかった。

 ある条件に合致した、一般市民で構成されていたのである。

 では、その条件とは何か?


 そもそもの発端は一本の御神木。

 古くから崇め奉られ、守り神として言い伝えられてきた一本の樹の存在まで遡る。


 樹齢一万年だの二万年だの、酷い時にはこの星が生まれた時から存在しているだのと滅茶苦茶な尾ひれを付けられているが、実はこの樹にはそんな尾ひれに負けないくらい胡散臭い力が備わっていたのである。


 ――曰く、その樹には悪神を祓う力があるという。


 何故、その樹にそんな力があるのかは分からない。

 それを知っているという人間も、見た事は無い。

 そもそも、悪神だの、それを祓う力などという物自体が、科学とは対極にあるような、オカルトの極致なのだ。技術がどれだけ進歩しようとも、解析の取っ掛かりすら碌に掴めないブラックボックスなのである。

 だが、遥か昔から、そういった力がこの樹にはあると言い伝えられてきた事。

 そして、その力と言うのが、単なる与太話でなかったという事だけは事実らしい。

 何せ、そんな得体の知れない話を古くから言い伝えてきたであろう、この樹に寄り添うように暮らしてきた者達――即ち、俺や葛花の御先祖様なのだが――にも、この御神木と同様の力が宿る様になっていたのだから。

 この事を知った当時の権力者達は渡りに船だと思ったのだろう。

 政府は正式に依頼を出し、こうして俺達の先祖は、晴れて悪神撲滅の極秘機関の中心として働く事になった訳だ。

 現在では、当時の取り決めも、政府公認の極秘機関という立場も、ほとんど形骸化してしまった……というか、完全に風化しかかっているのだが、それでも残り続けている悪神の脅威に対抗するため、細々と子孫である俺達が今も戦い続けているのである。


 つまり、ある条件とは、得体の知れない樹の側で長年暮らしていた者達、という事である。

 ……ヒーローのバックボーンとしては、どうにもパッとしない話だ。

 そんなヒーローでは頼りなさそうと言うか、守られる側も不安に思ってしまうのではないだろうか。

 しかし、ここまでは、まだいい。

 理由がどうであれ、不思議な力を得て、人々を護るために、人知れず戦い続ける者達。

 これなら、まだ充分にヒーローっぽい。

 本当に切なくなるのは、ここからである。


 何せ、現在では雇用主であった政府との繋がりが消えたも同然となっているのだ。

 公的機関として諸々のバックアップを受けて活動していたのに、それが無くなったのである。

 それによって、存亡の危機に立たされるくらい様々な問題が出たのだが、その中でも特に大きかったのが金銭の問題だ。

 率直に言って、今の悪神祓いの組織は貧乏なのである。

 一応、何とか資金繰りをしようと八方手をまわしているらしいが、それでも破産せずに済むだけで精一杯という有様らしい。

 世知辛い話だが、人の世で活動するのならば如何な組織と言えど金が要る。それがたとえこの世ならざる者共を相手取る組織であったとしてもである。

 そして、そうした組織の窮状というのを末端の人間が帳尻を合わせる事になるというのも、ある意味この世の摂理と言える。

 ……まぁつまり、何が言いたいかというと、悪神祓いは限りなく薄給なのである。

 正確にはそこらのバイトよりは幾分か割が良い程度の給料は出るのだが、それで場合によっては命懸けにもなり得る仕事をさせられるとなれば、どう考えても割に合わないと感じるのが普通だろう。

 政府という上役がいなくなり、強制力も福利厚生も消えて、その上、仕事自体は薄給な上に危険ときている。

 そんな中で、敢えて悪神祓いに就きたいと思う者など、普通はいない。

 結果として、現在の悪神祓いは深刻な後継者不足に悩まされている。

 実にやるせない負のスパイラルだが、人間側の事情がどうであれ、世の中にはいまだに悪神は存在しており、被害を出し続けている。

 人命に関わる仕事である以上、やりたい人間がいないからと言って後継者を絶やす事はできない。

 使命感と世知辛い事情とに板挟みにあった結果、妥協案として悪神祓いは、家業として長子が継ぐというのが暗黙の了解となった。

 長男か、それがいなければ長女が継ぎ、他の者が就くかどうかは各々自由としたのである。

 当然、次子以降で悪神祓いになる者はほとんどおらず、貧乏くじを引かされた長子達も涙を呑んで耐え忍んでいたのだが、中には夜逃げ同然にお役目を放棄する者達もいた。

 所詮はただの暗黙の了解。同調圧力に過ぎず、完全な強制という訳ではないのだ。

 役目を放棄するなどと言うと、頭の固い老人連中から嫌味や嫌がらせは受けるだろうが、それも別の土地に移り住んだのを探し出してまでやる程ではない。

 結果として、先祖代々悪神祓いを続けてきた我らが一族は、資金不足と人材の流出に悩まされ、現在進行形で存続の危機に立たされているのである。

 そんな有様の中、物好きにも悪神祓いとして働き続けているのが俺という訳だ。

 ……改めて、自分の現状を見つめ直すと、頭が痛くなってくる。

 ヒーロー像を語るどころか、自分の行く末すら満足に守れなさそうな惨状だ。

 人々を守る前に、まずは自分の胃袋を守りたいものである。

(……まぁ、いいけどね。ヒーローってガラじゃないし)

 そもそも、俺が悪神祓いをやっているのは、人々を守りたいからでも、人からチヤホヤされたいからでもないのだから。


 そう。俺が守りたいのは――



「――る。薫!」

 物思いに耽っていた所を葛花の声に引き戻された。

「話、聞いてた? ていうか、聞いてなかったよね?」

「ああ……うん。聞いてなかった」

 事実なので誤魔化しても仕方がない。素直に白状すると葛花が呆れたように盛大に溜め息をついた。

 ……何だか、唯でさえ低い俺の評価が、また下がった気がする。

「……ホント、今から仕事だっていうのに緊張感の欠片も無いんだから」

「いやいや、過度な緊張は身体を強張らせて実力を発揮できなくさせる毒だよ。リラックスして平常心を保ってこそ、良い仕事ができるってものなのさ」

「過度な緊張なら、でしょ? 私には『どうせいつも通り』と油断してるようにしか見えない」

「……それこそ、まさかだな。『いつも通り』だったら、油断する理由にはならない」

 先月は全身打撲、先々月は……危うく片腕を失う所だったんだっけか? 

 何にせよ、仕事でピンチに陥った事例なら枚挙に暇がないのだ。

 俺にとっての『いつも通り』は、九死に一生と同義と言っても過言では無い。

「そーいう事を言ってるんじゃないの。というか、自慢げにするような話じゃないから。それ」

「……ごもっとも」

 まぁ、葛花の言いたい事も分かる。

 人間なら誰であれ何であれ、同じ事を繰り返していれば、徐々に慣れてきて気が緩んでくる。

 例えそれが針山の上に通した一本の糸を渡り切る様な命懸けの曲芸であっても、である。

 仕事の度に大なり小なり命を懸けている俺ではあるが、それでも毎月平均十件程のペースで仕事をこなしていれば、命を張る事にもある程度慣れてきてしまうのだ。

 だからこそ、初心忘るべからず。気を引き締め直して事に当たれと言いたいのだろう。

「って言うけど……そんなに気の抜けた顔してるか? 一応、少しは緊張してるし、気も引き締めてるつもりなんだけど……」

「……寝てたのに?」

「いや、寝てないから。寝てない。ちょっと考え事してただけだから、ホント」

「何? 今回の相手に対する対策とか、ちゃんと考えてたの?」

「いや、それは全然……」

「…………」

「…………」

 あっ、痛い。葛花の視線がすごく痛い。

「……分かってなさそうな薫に一応、言っておくけど、今回みたいな中身の分からない憑き物は危険なんだからね? 何が出てくるか分からないんだから」

 失敬な。いくら何でも、これから自分が相手にするものがどういったものかくらいは心得ている。



 狐憑き。

 人に何者かが憑りつく現象というのは、古来から様々な例が報告されており、それに見合って様々な名で呼ばれているのだが、狐憑きというのはその中でも最たるものではないかと思う。

 この国では、古来から稲荷信仰が盛んであったためか、あるいは憑かれた者が本当に狐のように見えたのかは定かではないが、『急に人が変わったようになるのは狐に憑かれたから』という論は、古くから多くの者に信じられており、実に根強い信仰となっているのである。

 ――人の想いは力を持つ。

 先にも述べた事ではあるが、多くの人間に共有され、深く信じられた事柄というのは、例えそれが虚構であったとしても、真実になり得る力を持つものなのだ。

 最初に狐憑きだと言われ始めた者達が本当に人ならぬ者に憑りつかれていたのか、あるいは脳や精神に障害を負って奇行を繰り返したせいなのか……。

 それは分からないが、彼らを『狐に憑りつかれた』と多くの人間が信じる事で、結果として本当に『人に憑りつく狐』という存在を生み出す事に繋がってしまったのである。

 そうして生み出されたのが、人に憑く『狐憑き』の名を冠された者。

 人々の『狐が人に憑りつく』という不安を現実のものとするためだけに存在するまやかし。


 人々の希望や願望によって形作られ、それを失う事で自らを見失った『悪神』と、同質でありながら対極に位置する者達。

 人々の不安や恐怖によって形作られた『妖怪』に類する存在である。



「まぁ、妖怪も悪神も本質的な所では何も変わらないから、仕事の上では問題ないんだけどな」

 楽天的な俺の言葉に、葛花が嗜めるように口を挟む。

「それは中身が、本当にただの『狐憑き』だったらの話でしょ。何度も言うけど、中身の分からない憑き物は――」

「分かってるよ。中身の分からない憑き物は怖い、だろ?」



 憑き物と言われれば、恐らく真っ先に名が挙がるくらいに有名な狐憑きではあるが、当然ながら憑き物というのは何も狐憑きだけではない。

 狗神憑きは狐憑きと並んで有名だし、他にも蛇や狸、猿や馬など、人に憑りつくという伝承が残されるものは多岐に渡る。

 また、人に憑りつくのは、何もそういった妖怪の類だけではない。

 俺達が本来、相手取るべき悪神も人に憑りつく事はあるし、悪神に堕ちていない神であっても、祟りという形で人に憑りつく事がある。

 そこらの雑霊程度なら片手間にでも祓えるが、それなりの神格を持った神の祟りともなれば、生半な実力で挑めば、あっさりと返り討ちに遭うくらいに手強い。

 憑き物落としの依頼というのは、実際に調べてみるまで文字通り鬼が出るか蛇が出るかも分からない、一種のびっくり箱なのである。


 そんな、ある意味では非常に危険な憑き物落としの依頼だが、ここで問題になるのが『狐憑き』の知名度だ。

 地域によって著名な憑き物に差はあれど、中でも狐憑きは全国区であり、その存在は広く知れ渡っている。

 狐憑きの被害や伝承というものは、日本全国至る所で確認されているのだ。

 それだけに、他の様々な憑き物が、狐憑きと混同されるケースというのが非常に多い。

 そもそも、何も知らない一般人に憑き物の種類を見分けろというのが無理な話なのだが、彼らが正体不明の憑き物を狐憑きだと言って依頼を持ち込み、それを信じて祓いに行ったら、中からとんでもないものが現れて返り討ちに遭った、なんて事故は、古くから往々にして起こっている事らしい。

 なので、そういった事故を防ぐためにも、憑き物被害の時は、被害者の様子や被害規模、その他、どんな細かい事でもいいから、とにかく少しでも多くの情報が必要になる。

 詳しい情報があれば、憑りついている物がどれほどの力を持つ物なのか、はっきりとは分からなくてもある程度は予想できるからだ。



(なのに今回……というか、いつもだけど。依頼文に書かれていたのは、依頼者の住所だけ、と) 

 俺が上に嫌われているせいか、はたまた葛花を――『巫女』を連れているから不要だろうという嫌味なのかは分からないが、毎度上から送られてくる依頼文は、必要最低限どころか必要な部分すらも省いた簡素な物だ。

 これで命を張れというのだから、ブラック企業もビックリである。

「死んでもいい……どころか、むしろとっとと返り討ちに遭って死んでくれないかなぁー、くらい思ってそうだな。上の連中」

 まぁ、葛花を便利に使いたい連中からすれば、俺は邪魔者以外何でもない訳だから、仕方ないと言えば仕方ないか。

 全部承知の上で自分で決めた事ではあるけれど……一応は同じ目的のために働いている同僚には違いないのだから、最低限のバックアップくらいしてくれないものかと思わないでもない。

「……ゴメン」

「……ん?」

 物思いに耽っていると、急に葛花が謝ってきた。

「何だ、いきなり? 昨日のおでんの事なら別にもう怒ってないぞ」

「違う、馬鹿。私のせいで……薫が、上に睨まれてるから……」

「…………」

 ――ああ、成程。

 先程の独り言を聞いて気に病んだのか。

 何の気無しに口を衝いただけだったので油断していた。

「やめろって。前々からずっと言ってるだろ? 葛花は何も悪くないし、俺が上に嫌われてるのは俺が勝手にやってる事が原因だ。葛花が気に病む事は何もない」

 我ながら口調が刺々しくなっているのが分かる。

 もう少し、何でもない事のように気楽に言って聞かせてやれば葛花だって安心できるかもしれないのに。

 案の定、葛花もそのまま難しい顔をして黙り込んでしまった。

 情けない。何度も繰り返して、その度に後悔しているやり取りなのに、いまだに俺は上手く切り返せた例が無い。


 分かっている。葛花が俺にすべてを背負わせたくないって事は。

 でも、同じように――

 葛花が俺にすべてを背負わせたくないように――

 俺も葛花にすべてを背負って欲しくはないのだ。

 

 重苦しい沈黙に包まれ始めた空気を破ったのは、電車の車内アナウンスだった。

 どうやら、間もなく目的の駅に到着するらしい。

「……ほら、行くぞ。いつも通りだ。とっとと終わらせて家に帰ろう」

 足元の、やけに大きく角張った鞄を片手に提げ、もう一方の手を葛花に向けて差し出す。

 暗い表情で黙り込んでいた葛花だったが、やがて、フッと小さく笑みを零すと、こちらの手を取って立ち上がった。

「……そーね。薫がヘマして、私が助けてる。いつも通り」

「違うね。俺がキッチリ仕事をこなして、葛花様のお手を煩わせない、そんないつも通りだ」

「はいはい」

 互いに冗談を飛ばしながら車内を歩く。先程までの重苦しい空気も幾分か和らいでいた。

 扉の前に二人並んで駅に着くのを待つ。

 外に広がっている風景は、当然ながら見知らぬ街だ。

 分厚い雲に覆われた灰色の空のせいか、その下を足早に過ぎていく人々が、まるで人形か何かのように生気を失って見える。

 先程の重苦しい空気をまだ引き摺っているのか、その光景に何か不吉な予兆のようなものを感じてしまって仕方がない。


 ――大丈夫。いつも通りだ。

 いつものように悪神を退治して家に帰ってソファで眠る。いつも通りだ。

 喉元に刺さった小骨のような不安を飲み下して気を持ち直す。

 灰色に染まる街の中を、電車は何事も無く進む。やがて目的の駅に辿り着き、到着を告げる単調なアナウンスと共に、ゆっくりと音を立てて扉が開いた。


 

 

 乗り込んでくる人間が誰もいない代わりとでも言うように、開いたドアから思わず身震いするほどの冷たい風が車内に流れ込んでくる。

 締め切った車内が暖かかった分、その破壊力は凄まじい。

 一瞬、降りるのを躊躇ってしまったが、早く行けと言わんばかりに、後ろから葛花に押し出されてしまった。

 閑散としたホームに降り立ち、やがてドアを閉めた電車が走り去っていくと、途端に寂寞感に襲われる。

 住み慣れた街を離れ、未踏の地を訪れるのは、いつだって居心地が悪い物だ。仕事だから仕方のない事ではあるのだが、出来る事ならあまり遠出はしたくない。

 たった一日でもそんな憂鬱な気分になるのだから、一体、世の転勤族の方々の心労は如何ばかりなのだろうと、家族のために一人頑張るお父さん達に思いを馳せつつ、ホームを抜けて改札を通った。

 駅を出て、本格的に遮るものも無く吹き付ける寒風に身を晒しながら、ひとまず目的地へのバスを探す。

 前もって調べた情報では、駅前のロータリーから、目的地付近へのバスが出ていたはずなのである。

 それほど広いロータリーでもないので、大して時間を掛けなくても見つかるだろうと葛花を引き連れながら辺りを歩き回っていると、目論見通り目当ての停留所はすぐに発見する事ができた……のだが――

「一時間後……」 

 次の便がいつ来るのかを時刻表と腕時計を見比べながら確認した所で、予想外の待ち時間に思わず呻いてしまった。。

 一時間。一時間である。

 寒空の下で待たされる一時間など、苦行を通り越して殺人の域だ。十分、二十分くらいならば近場のコンビニで物色したり立ち読みしたりで時間を潰す事もできなくはないが、一時間ともなると流石に持て余してしまう。

「……まぁ、いつもの事ではあるけど。むしろ一時間で済んだだけマシか」

 時刻表によると目当ての路線を走るバスは二時間に一本しか来ないらしい。

 半分の待ち時間で済んだというのは幸運なのか不幸なのか。

「とりあえず、何か時間を潰す方法を考えないとなぁ……」

 一時間もここで突っ立っているのは暇だし、何より寒い。

 ここは手近な暖房の効いた建物に退避するべきだろう。

 加えて、一時間という長い時間を潰すとなれば、喫茶店のようなある程度の時間を居座る前提の場所がベストである。

「という訳で、喫茶店にでも入ろうと思うんだが、どうだ?」

 そう提案すると、葛花はウンザリといった顔をした。

「さっき、お汁粉飲んだばかりなんだけど」

「…………」

 そう言えばそうか。

 俺自身は甘ったる過ぎて胸焼けがするので滅多に飲まないのだが、大好きな葛花であっても、お汁粉は別腹という訳にはいかないようだ。

 しかし、だからと言って他に何の選択肢があるというのか? 

 駅前をぐるりと見回してみたが、入って時間を潰せそうな店はコンビニと喫茶店だけである。

 となれば、待ち時間も考慮して喫茶店を選ぶのは自明の理というものではないだろうか。

「まぁ、何だ。ちょっとした軽食とか頼めばいいじゃないか。小腹、空いてたりしない?」

 お汁粉という、食べ物なのか飲み物なのか、微妙に判断に困る物で腹が満ちている相手に軽食を勧めるというのもおかしな気がするが、この際、葛花が少しでも納得すればそれでいい。

 喫茶店に行くという方針さえ固めてしまえばこっちのものだ。

 どうにかその気にさせようとする俺の前で、葛花がぽつりと呟いた。

「……パフェ」

「ん?」

「パフェが食べたい」

「…………」

 お汁粉を飲んだ後にパフェ、か。

 考えただけで胸焼けしそうな食い合わせだ。

 摂取カロリー的にもとんでもない事になってそうだが、その辺りは縦にも横にも大きくならない体質の葛花だから問題無いのかもしれない。

「……まぁ、パフェぐらい、別に構わないけど」

「…………」

 不機嫌な仏頂面を崩さないようにしているが、どこかソワソワしているというか……期待を隠し切れない、そんな雰囲気がありありと見て取れる。

 甘い物が好きなのは知っていたけれど、そこまでパフェに期待を抱く程だとは知らなかった。

 次に何か怒られるような事があった時は、コンビニで小さめのパフェでも買って手土産にしよう。

 上手くいけば買収できるかもしれない。

「……まぁ、あれだ」

 しかし、それはそれとして一応、これだけは釘を刺しておかねばなるまい。

「ちゃんと歯磨きしろよ。虫歯になったら大変だぞ」

「子供扱いすんな」

 そしてやっぱり蹴られて怒られるのだった。



 

 駅前にあった喫茶店には葛花ご所望のパフェが置いてないようだったので、結局、十分程歩いて別の喫茶店を探すハメになった。

 幸い、時間は有り余っていたし、それほど時間もかからずに別の店を見つけられたので問題は無いのだが、パフェ一つのために無駄に寒い中を歩かされたのかと思うと、少し面白くない。

 適当に読みたくもない朝刊を手に取って、案内された席に座る。

 暖房の効いた店内は外に比べれば天国のようで、ようやく人心地といった感じだ。

 対して、向かいに座る葛花は、先程からどうにもソワソワと落ち着きが無い。

 普段から割と節約節制の毎日なので、パフェという嗜好品にあまり縁が無かったせいだろう。

 喫茶店に入るのも、ユズ姉に奢ってもらう時くらいが精々で、そういった時にはユズ姉の手前、大人ぶって、碌に飲めないブラックコーヒーなんか注文しちゃったりする葛花さんである。

 余程、待ち遠しいのか、注文を通してからの僅かな待ち時間ですらもどかしくて仕方がないらしい。

「そんなに慌てなくてもちゃんと来るよ」

 あまりに微笑ましい姿に思わず口が緩んでしまった。

 迂闊な発言に、凄い形相で睨み返されたが、その顔は薄らと赤くなっている。

 普段から少しでも大人っぽく見せようと悪戦苦闘しているような奴だ。

 パフェが待ちきれなくてソワソワしてるなんて子供っぽい姿を見られるのは我慢ならないらしい。

 まぁ、葛花には悪いが、葛花の事を大人っぽいと感じた事などほとんど無いので、パフェを待ち侘びて、尻尾をばっさばっさしてる犬みたいな様子を見せられても今更である。

 しばらく、ソワソワしてる葛花を眺めながら待っていると、注文品が運ばれてきた。

 葛花待望のストロベリーパフェと、俺が頼んだブレンドコーヒーである。

 テーブルに置かれた色鮮やかなパフェを見る葛花の目が、心なしか輝いているように見える。本人は必死に平静を装ってるつもりだろうが、さっきから口の端がピクピクと動いている。ニヤけそうになるのを何とか堪えているといった感じだ。

 そんな状態でパフェと俺に交互に視線を送っている。

 ……何だか、飼い犬にお預けをしているような気分だ。

「あー……えっと、どうぞ」

 いや、別に俺が作った訳でもないし、何が「どうぞ」なのかは自分でもよく分からないのだけれど。

 そんな間の抜けた俺の勧めの言葉で、葛花はようやくといった具合にパフェに手を付けだした。

 柄の長いスプーンを突き刺して、掬い取った一口目を口元に運ぶ。

「…………」

 そして、目の前まで持ってきた一杯を見つめて停止。

 何かおかしな点でもあったのかと気になったが、結局、その一杯は何事も無かったようにそのまま口の中に運ばれていった。

 先程の行ために一体、どんな意味があったのかは分からないが、もしかしたら何か本人にしか分からない感慨でも噛み締めていたのかもしれない。

 ……たかがパフェにそこまでの想いがあるのかは知らないけれど。 

口に運んだスプーンを銜え、そのまま石像のように固まってしまった葛花を観察する。

 よく見ると、ただ固まっている訳では無く、口元がもぞもぞと動いているので、どうやらゆっくりと時間をかけて味わっているらしい。しばらくすると、やがてゆっくりと二口目、三口

目と、徐々にペースを上げ、口に運んでいった。

 その間、視線はずっとパフェに釘付けである。

 その後も四口、五、六、七と口に運んでいき、やがて一定のペースで黙々とパフェを口に運ぶ機械と化してしまった。視線が変わらずパフェに注がれたまま、微動だにしないのがそれに拍車を掛けている。

 ……何というか、少し怖い。

「えっと……美味いか?」

 空気に耐えかねて口を開いてみたが、こちらの声など聞こえていないのかパフェを食べる動作に淀みが出る事さえ無い。

 一応、視線がこちらに向きはした事から、本当に聞こえていない訳では無いようだが……。

 もっとも、視線は向けても、手と口はパフェを食べるために動き続けているし、こちらに向けた視線もすぐにパフェの方に戻ってしまった。

「…………」 

 ……まぁ。

 間違いなく、お気に召したようではあるので、問題は無いだろう。

 会話は諦め、自分の前に運ばれてきたコーヒーに口を付ける。

 程良い苦味と、微かな酸味が何とも言えぬ深い味わいをもたらした。

 コーヒーの味など碌に気にした事が無い俺ですら感じ入るとは、なかなかのものだ。

(……この店は当たりだな)

 美味いコーヒーと葛花が夢中になるパフェ。

 駅から歩かされた見返りとしては充分だ。

 しばらく、夢中でパフェを食べる葛花を眺めながら、コーヒーの味を楽しんだ。

(……まぁ、あれだな)

 ――月一くらいでなら、こんな風に甘味を食べに連れて行ってやるのも悪くない。

 そんな事を思いながら、黙々と食べ続ける葛花を眺めて、コーヒーを楽しむのだった。



「そー言えば――」

 黙々とパフェを食べ進める機械と化していた葛花が、完食し終えてようやく人間に戻った頃、ふと思い出したように口を開いた。

 幾分か機嫌が良さそうなのは、紛れもなくパフェの功労だろう。

「忘れてたけど、ユズ姉が『近いうちに仕事を一つまわすと思うからヨロシク』だって」

「……えぇー」

 既にコーヒーを飲み終えて、暇潰しに眺めていた新聞から、苦々しい顔を上げる。

「どうせ、また血生臭い感じの奴だろ? こっちに処理させないでくれよ……」

「文句言わない。ユズ姉は忙しいんだから。というか、ユズ姉関係なくても、私達の仕事は血生臭くなったりするでしょ?」

「……まぁ、そうなんだけど」

 悪神の依頼が来るという事は、大抵の場合、何らかの人的被害が既に出ているという事だ。

 怪我や病、何らかの精神異常。最悪の場合、死傷がセットになってくる事もある。

 確かに葛花の言う通り、元から血生臭いのだが――

「あの人が絡むと、ほぼ百パーセント、血生臭くなるのが嫌なんだよ……」



 ユズ姉。改め、姫木楪女史。

 俺達二人の小さい頃からの姉貴分であり、彼女もまた悪神祓いの一人だ。

地元からこちらに出てきた右も左も分からぬ田舎者に、あれこれ世話を焼いてくれる大恩人であると同時に、決して頭が上がらない恐怖の存在でもある。

 何せ、俺達の暮らしは彼女のお陰で成り立っているといっても過言ではないのだ。

 現在の住居はユズ姉が所有するテナントビル(どういう経緯で手に入れたのかは不明)の一室を、格安で借り受けているものだし、その格安の家賃ですら払えなくて、納めるのを待ってもらった事も一度や二度では足りない。

 食費が尽きて、飢えに苦しみかけた俺達を見かねて食事に連れ出してくれた事も何度かある。

 早い話、彼女がいなければ、俺達はとっくの昔に野垂れ死んでいてもおかしくないのである。

 そんな恩人からの要請となれば、日頃の感謝を示すべきと喜び勇んで馳せ参じる所ではあるのだろうが、残念ながら彼女からの依頼というのはそんな気軽に受けられる類のものではない。

 

 姫木楪。職業、警察官。


 俺達は悪神祓いを生業としている人間だが、生憎、そんな仕事は社会的に認められていない。

 というより、悪神に関しては秘すべし、という不文律のせいで、認めさせる訳にはいかないのだ。

 なので、俺達が社会に混じって暮らしていくためには、他に真っ当な職に就く必要がある。

 悪神祓いとしての活動を阻害しないために、ある程度自由が利く自営業のような形を取る場合が多いが、最近では会社などの組織に属して、悪神祓いの方を副業として手が空いた時に、というケースも多い。

 ちなみに、俺の場合は、悪神祓いとしての活動に集中したいので、表の仕事はあくまで仮初めのものとして、実体のない探偵事務所を営んでいる事にしている。

 一応、現在の住居を事務所として、届け出もしている正式な探偵事務所ではあるが、碌に宣伝もせず看板も掲げていないので、経営していると言っていいものかどうかは微妙な所だ。

 元々、表の肩書きを探偵にしたのも、あちこち飛び回ったり、何か調査をする際に聞き込みをしたりした時に怪しまれにくいだろうという、悪神祓いとしての実益だけを考えた選択である。

 ……なのに、何故か、そんなやる気0の探偵事務所にも、稀に――具体的には四、五ヵ月に一件程度、探偵の仕事が舞い込んでくるのだから、不思議なものだ。

 流石にそのまま追い返すのも体面が悪いし、ユズ姉に「格好だけとはいえ、正式な事務所なのだから仕事のイロハくらいは抑えておけ」と、最低限のスキルは強制的に叩き込まれたので、探偵業をこなす事に支障はないが……お陰でやりたくもない浮気調査やペット捜索に駆り出される事がしばしばある。

 年中金欠に喘いでいる身としては副収入があるのは有り難いが、幽霊事務所が自分の知らない所で認知されているというのは流石に不気味なので、いずれは情報の発信源を突き止めねばなるまい。

 さて、俺の話はともかく、肝心のユズ姉についてである。

 先にも言った通り、彼女は警察官という立派なお仕事に就いている。

 組織に属する勤め人ではあるが、彼女に限っては警察官ではなく、あくまで悪神祓いが本業という事らしい。

 曰く、「警察であれば街の異常や事件などの情報が集まってくる。その中には少なからず悪神祓いの領分である事件も紛れ込んでいるものだ」との事。

 何とも頭の下がる職業意欲だが、その紛れ込んだ領分の事件をこちらに丸投げしたりするのは、できる事なら止めていただきたい。

 ちなみに楪刑事の所属は刑事課。

 交通課や生活安全課であれば、穏やかな仕事も期待できたのかもしれないが……。

 残念な事に、今までの彼女からの依頼では、死人が出ていなかった例が無い。

 ……死体に頻繁に接する探偵など、漫画やドラマの中だけで充分だと思うのだ。

「ユズ姉って、もう完全に俺達の事を部下か何かと思ってない? 俺達は警官じゃなくて、あくまで一般市民なんだけど……」

 最近では、事件現場に立ち寄っても顔パスで通してくれるようにすらなってきた程である。

 一般人を通すだけでもおかしいのに、そのうちの一人は見た目十歳の少女なんだが……それでいいのか、警察。

 しかし、そんな俺の疑問にも、葛花はさして気に留めた様子はない。

「一般市民の前に悪神祓い。元々、私達の管轄の事件に警察が出張ってきてたから、代わりに仕事を引き継いで解決する。それだけの話でしょ」

「……まぁ、そうなんだけど」

「大体、本当にユズ姉の部下になったら、今よりずっと酷い扱いになると思うよ。ユズ姉の事は好きだし、尊敬してるけど、久瀬(くぜ)さん見てると絶対に部下にはなりたくないって思うもん」

「……ああ。まぁ、そうだな」

 久瀬というのは、ユズ姉の部下として働いている刑事だ。

 ユズ姉はノンキャリア、しかも女性の身でありながら、二十代半ばにして警部の階級に上り詰めた傑物である。

 警察官の階級にはあまり詳しくないのだが、普通ならばこれは有り得ないレベルのスピード出世なのだそうだ。

 妬みややっかみ、あるいは「不当な手段で出世した」と疑う者も多いらしいが、そんな者達でも表立ってあれこれ言う事ができないのは、彼女が群を抜いて警官として優秀――いや、警官としてはともかく、事件解決にかけて、彼女の右に出る者はいないから、らしい。

 曰く、署内の最終兵器。

 彼女が勤める警察署内において、解決が難しい事件が発生した時の最後の選択肢は「迷宮入りさせるか、姫木楪を頼るか」というものらしい。

 そこで捜査打ち切りとの二者択一にされる辺り、何かがおかしい気もするのだが、別の謳い文句として「事件放棄の失態か、書き切れない程の始末書の山か」という言葉がある時点で、概ね事情は察せるというものである。

 とにかく、彼女は犯罪者だけでなく、身内にも色んな意味で恐れられる鬼の警部殿という事らしい。

 そんな彼女に付き従うのは余程厳しいのか、彼女の下で一緒の捜査に当たる事が多い久瀬さんは、会う度に死んだ魚のような目をしている。

 彼を見ていると、一体どんな捜査を行っているのかと怖いもの見たさで興味が湧いたりもしたものだが、以前に久瀬さんが「警部の捜査に付き合ってると、自分もいつ刑務所に入る事になるか分からない」と語っているのを聞いてからは、極力彼女の仕事とは関わらないようにしようと心に決めた。

 君子は危うきに近寄らない。

 虎穴に入って虎子を得ても、虎に食い殺されては意味が無いのである。

「……久瀬さん。そのうちノイローゼになったりしないかな? ちょっと、心配になるくらいやつれてるんだけど。異動届けとか出せば良いのに」

「既に何度も出してるらしいぞ。ただ、ユズ姉が久瀬さんの事を気に入っちまってんのか、何回出しても尽く握り潰されるんだと」

 もっとも、あくまで久瀬さん自身が証言しているだけなので、本当にユズ姉が握り潰しているのかどうかは分からないのだが。

 もしも本当だった場合、署内の人事すら自由自在にできる事になる訳で……いやはや、恐ろしい限りである。

「……確かに、本当にユズ姉の部下になるのだけは勘弁だな。給料全部を胃薬に使うハメになりそうだ」

「本当にね。普段はカッコ良くて優しくて、大好きなんだけど」

「…………」

 昨日、ユズ姉の鉄拳によってスクラップにされた靴箱を思い出し、優しいという言葉にやや疑問符を浮かべる俺であった。 

「まぁ、とりあえず、近々仕事を任されるって事は了解した。どうせ任されたら、受けるしかないしな。……後が怖いし」

 ユズ姉の事だから、こちらに舞い込んだ仕事のスケジュールを全部把握していたとしてもおかしくない。

 暇を持て余してる時に仕事をバックレた、なんて知られた時に受ける仕打ちを考えれば、大人しく任された依頼を解決した方が、精神的にも肉体的にも幾分かマシである。

「まぁ、いーじゃん。どうせユズ姉が拾い上げなくても、遅かれ早かれ、上に依頼が行って、こっちにまわってくる案件なんだし」

「……確かに、その可能性は高いけど」

 本当に悪神絡みなら警察の手に負える事件じゃない。

 様々なツテから巡り巡って上に依頼が行き、それがこちらに降りてくるのは充分に考えられる話だ。

 結局は遅いか早いかだけの違い。むしろ時間が経って余計な被害を生む事を防げると考えれば、ユズ姉から直接依頼が来るというのは、実に理に適っていると言えるだろう。

 ……極稀に、悪神絡みだと思ったら普通の人間による犯行だった、なんてケースが混じってるのが怖い所だけど。

「まっ、変に気負わなくても、万が一の時は私が助けてやるから、安心するが良いよ」

「……そうしたくないから気負うんだって言ってんだろ」

 何とも楽天的な発言に、苦笑交じりにそう返しながら時計を確認する。

 思ったよりも長居し過ぎたかもしれない。

 そろそろ店を出ないと、バスに乗り遅れる事になりかねない時間になっていた。

「ユズ姉からの依頼も気になるけど、それよりまずは今からの仕事だな。そろそろ行くぞ。その口の周りのクリームは拭いとけよ」

 パフェを食べ終えてから、ずっと気になっていた事を指摘してやると、きょとんとした顔をしてから、見る見るうちに顔を真っ赤にした葛花に、またもや脛を蹴られたのだった。




 店を後にして、来た道を戻り、停留所まで辿り着くと、ちょうど目的のバスが到着した所だった。

 乗客がいない事を確認すると早々に出発しようとするバスに、慌てて駆け寄って乗る旨を伝える。

 閑散とした車内。俺達の他に乗り合わせた乗客は二人だけで、実質貸し切りのような状態だった。二時間に一本という本数の少なさを考えれば、人気の無い路線なのかもしれない。

 事前に調べた限りだと、目的地まではしばらくバスに揺られる事になりそうなので、何にせよ車内が空いているというのは有り難い。

 手近な席に葛花と揃って腰を下ろす。

「間に合って良かった。さらに二時間待つような事になったら、今度こそ持て余す所だったよ」

「仕事に取り掛かる前から躓くとか、流石に呆れるからやめてよね」

「はいはい。どっかのパフェに舞い上がって時間を見てなかった人も同罪だと思うんですけどね」

「…………」

 葛花がどことなく悔しそうに口を引き結ぶ。

 口喧嘩は基本的に劣勢なので、たまに言い負かせると少し嬉しい。

 ドアが閉まり、車体を微かに震わせながら、バスが走り出す。

 徐々に後ろに流れていく風景をぼんやりと眺めていたが、当然の事ながら窓に映るのは知らない景色だ。

 知らない街、知らない人々、知らない空気。

 そんな中を澱み無く進んでいくバスに乗っていると、何だか自分がどこかに攫われていっているような錯覚を覚える。

 どことも知れない場所に連れていかれて、強面の集団に囲まれながら、惨めな環境で危険な仕事を強要されるのだ。 

 そんな悲惨な自分の姿を思い描いて身震いしたりしたが、冷静に考えてみれば、今の自分も大して変わらない境遇だという事に気づいて、一気にどうでも良くなった。

「……暇だな」

 バスに乗り込んでから約十分。

 風景を眺めるのと、くだらない妄想で暇を潰すのにも飽きてきた。

 そもそも、このバスに乗る前に一時間という膨大な暇を潰してきたばかりである。

移動時間は仕方ないとはいえ、手持無沙汰にうんざりしてくる事だけはどうしようもない。

 ただ、窓の外の風景がいまだに人里な辺り、まだ折り返しにすら差し掛かっていないようで、何とももどかしい。

「……こういう移動時間とか、何かの待ち時間とかで無駄にしてる時間を省いたら、人生ってのは劇的に長くなると思わないか?」

 何気ない呟きが思わず口を衝く。

 一応は返答を期待しての呟きだったのだが、言葉を向けられた当人は、逆側を向いたまま、足をぶらつかせるだけだ。

 何となく肩透かしを食らった気分になったが、単なる雑談なので、まぁいいかと思い直し、先程の自分の呟きに思いを巡らせる。

 何かをする度に必ずと言っていい程に発生する大小のロスタイム。

 それらすべてを合わせると、果たして人生の一体何割を占める事になるのだろうか?

 仮にそれらすべてを有意義に使う事ができたとしたら――

 常識的に考えれば、無駄な思索だ。

 ワープ装置でも発明しない限り、移動に時間がかかる事実は覆せないし、多くの人間と共に社会で生活している以上、何かをするのに待ち時間が生じてしまうのは、最早必然だ。

 しかし、それでも、誰もが一度は思う事ではないだろうか?

 もしも、通勤、通学の時間を省く事ができたなら、もっと朝の惰眠を貪れるのに、と――

 少なくとも、学生時代の俺は結構な頻度で思っていた。

 というか、今でも依頼で遠くに出掛ける時などは強くそう思う事がある。

 朝早くから電車の時間に合わせて家を出るのは、朝に弱い俺としては辛いのだ。

 何かの間違いでもいいから、画期的なワープ装置が発明されたりしないものだろうか?

 こう……青い狸が持っているドア的な何かみたいな感じで。

 ちなみに、以前にユズ姉にそう言った所、「馬鹿、移動時間は大事なものだぞ。道中すっ飛ばして、すぐに目的地に着いてしまう旅行とか情緒もへったくれもないだろうが」と言われた。

 成程なぁと納得したかった所だが、生憎と旅行に縁が無かったので、まったく共感できなかったけども。

「もしも――」

 その時、顔を背けて黙り込んでいた葛花が口を開いた。

「移動時間が短縮できるんなら、日に三件くらいは依頼を受ける余裕が出そうね」

「…………」

「どんどん依頼をまわしてもらえば、収入も増えて、生活も楽になる。確かに素晴らしいわね」

 訂正。やはり移動時間は大切だ。

 こう……仕事に臨む前の精神統一とか、そういう感じで。

「勘弁してください。身体が持たないです」

「分かってるわよ。そんな事」

 心底つまらなそうに、そう切り捨てると、背けていた呆れ顔をこっちに向けた。

「くだらない事考えてる暇があるなら、降りる場所くらい、ちゃんと確認しておいてよ? 乗り過ごすのは嫌だからね」

 自分はどこで降りればいいかも知らないくせに、と思ったが、言い返しても機嫌を損ねるだけなのでやめておこう。

「へいへい、仰せのままに。ええと――」

 車内を見回すと、壁に取り付けられた路線図が目に入った。

 降りる場所の名前は調べてあるので、後はそれがいくつ目なのかを確認するだけだ。料金を払う時に手間取りたくはないので、いくら掛かるのかも確認して、財布に小銭があるかどうかも――

「あっ」

 何かに気づいたように、急に葛花が声を上げた。

「なっ、何だよ?」

 唐突な「あっ」という言葉ほど、人を不安にさせるものも無い。

 何かやらかしてしまったかと、内心ドキドキしていると――

「いや、ふと思い出したんだけど、そーいえばトリートメントが切れかかってたなって。薫、帰りにスーパー寄って」

 ……何事かと思えば、買い出しを思い出しただけらしい。

「……あの妙に高い奴か? シャンプーなんて、どれも一緒だろうに」

「シャンプーじゃなくてトリートメント。それに、どれも一緒なんて事もない。髪は女の命なんだから。雑な扱いをする訳にはいかないの」

「……はぁ」

 基本、趣味娯楽にも金を使わず、日々質素倹約を旨としている葛花だが、そんな彼女が唯一金を惜しまないのが髪に関してだ。

 こだわって選んだ銘柄の洗髪剤で毎日丁寧に洗い、風呂から上がるとドライヤーで丹念に乾かして櫛を通すのが彼女の日課である。

 お陰で彼女の長風呂っぷりは尋常じゃない。

 彼女が湯船に浸かった後、俺が湯船に浸かれるようになるのは最速でも二時間後となる。

 その気になれば、石鹸で髪を洗う事も厭わない俺からすればまったく理解できない話だが、中でも洗髪剤に関してはかなりのこだわりがあるらしい。

 よく覚えていないが、何でもコラーゲンだの保湿成分だの、色々と重要な成分が含まれた銘柄らしく、葛花は基本的にその銘柄以外で自分の髪を洗うのを良しとしていないのだ。

 そんなこだわりの品だが、以前に買い物に付き合った時に、隣に並んでいた別の銘柄の三倍以上の値で売られているのを見て、言葉を失った。

 当然、そんな高級品を俺が使う気にはなれず、我が家の浴室には、その隣に並んでいた銘柄よりもさらに安物の俺用シャンプーと、葛花専用の高級なシャンプーだのリンスだのが置かれる事になっている。

「髪は女の命、ねぇ……。そうは言っても、髪だけ必死にケアした所で、こんなちんちくり――いっ!?」

 失言を言い切る前に、足を思いっきり踏みつけられて、黙らされた。

「うるさい。大体、これだって薫の煙草代よりは安く済んでるくらいなんだから。文句があるなら禁煙してから言ってよね」

「っっ、それを、言われたら、言葉も、無い、けどっ、だからって、小指、踏みつける事はっ……!」

 痛い所を突かれたのと肉体的な苦痛で、二重に言葉に詰まる俺を尻目に、葛花がぷいっとそっぽを向く。

「大体、私はもうほとんど髪が伸びないんだから。傷んでも放っておいたら、新しい髪が生えてくる薫と一緒に考えないで」

「…………」

 言われて気が付いたが、確かに一緒に暮らし始めてから、葛花が散髪に出掛けた記憶は一切ない。

 改めて葛花の真白い髪を眺める。

 染めた物でも年経た末の物でもない、もっと純粋な白色。

 まるで、彼女の髪からは色彩という概念が抜け落ちてしまったのではないかと錯覚する程に、混じり気のない白髪である。

 彼女自身にとってはコンプレックスになっているようだが、俺としては幻想的で美しいとさえ思う。

 そんな髪がこれ以上伸びないというのは、何だか少し勿体ない。

「……いつものスーパーでいいんだよな?」

「……ん。あそこが家の近くで一番安く売ってる」

 さらりと抜け目ない葛花の発言に苦笑する。

「了解。付き合うよ」

 あの綺麗な髪を保つためだというのなら……まぁ、俺のタバコよりは有益な金の使い方かもしれない、なんて事を思うのだった。



 禍祓(まがばらい)の白巫女。

 俺達の里で代々、女性にのみ受け継がれてきた役割。

 そして、それを受け継いだ者――現在では葛花がそう呼ばれている。

 巫女などという大仰な名こそ付けられているが、その実態は神に仕えるどころか、神を滅する人間兵器だ。

 人為的に優れた悪神祓いを生み出そうという試みの元に生み出された、悪神祓いの最終兵器である。


 俺達、悪神祓いは神通力と呼ばれる力を使って悪神を祓う。

 だが、その力の容量は生まれ持った時点で、既に決まっているのだ。

 一応、努力して増やせない事もないのだが、後天的な努力で増やせる分量など、生まれ持った容量に比べれば微々たるものである。

 どうすれば力の強い人間が生まれてくるのか?

 また、力の強い人間には共通する法則性があるのか?

 俺達の先祖は色々考えて試行錯誤したらしいが、得体の知れない力ゆえか、力の強い人間を産ませる方法も、力の強い人間の共通点も、碌に見つける事ができなかった。

 このままでは、万が一、才の無い者ばかりが生まれるような事があれば、悪神祓いというお役目そのものが途絶えてしまう危険すらある。

 そんな危惧を抱いたご先祖が、それを解決するために作り出した存在。

 それが、禍祓の白巫女だ。

 白巫女となった者は、後天的に膨大な神通力を宿す事ができる。

 その量は、一般的な悪神祓いのおよそ百倍以上。

 悪神相手など、もはや触れるだけでも祓ってしまえるくらいの圧倒的な力を有するのである。

 まさに最終兵器の名に恥じない存在という訳だが、勿論、ただの人間がそんな力を簡単に持てる訳もない。

 それに見合った、あるいはそれ以上の、大きすぎる代償が存在するのである。

 そもそも、それだけの神通力を、白巫女はどうやって生み出すというのか――



 そっぽを向いてそのまま、ぼうっと窓の外に視線を投げている葛花の横顔を見る。

 真白い髪。そして紅い瞳。

 所謂、アルビノというものに近い特徴だが、彼女の場合は後天的、そして人為的な変貌の末に、あのような姿になった。

 これらは禍祓の白巫女になった者に共通する特徴であり、『白巫女』という名で呼ばれる所以でもある。

 そして、もう一つ。

 彼女の場合、特に顕著に表れている特徴がある。


 ――白巫女となった者は、身体が成長しない。

 彼女は、白巫女となった十歳の時の姿のまま、十年以上の時を過ごしている。



 白巫女が宿す膨大な神通力。

 その源は、白巫女となった者の生命力そのものだ。

 本来、身体の成長、保護に使われる諸々の要素。それらのほぼすべてを神通力の生成に費やす事で得られた力なのである。

 先人が作り出した禍祓の白巫女とは、詰まる所、人の命を神通力に変換する法に他ならない。

 ゆえに、葛花は今でも、巫女となった当時の姿のまま、生きている。

 身体を成長させるような余分があるなら、神通力の生成にまわす。

 身体の保護も必要最低限。

 人として生きられる最低限だけを残し、それ以外は余分として神通力の生成にまわす。

 それが禍祓の白巫女なのだ。

 そのせいで、彼女達は悪神に対する無敵ぶりと反比例するように虚弱体質となっている。

 ちょっとした事で体調も崩しやすく、傷を負えば常人より遥かに治りも遅い。

 また、俺達のような通常の悪神祓いであれば、力を使い過ぎても一時的に力が使えなくなるだけで、時間を置けば回復する。

 だが、白巫女の場合は事情が違う。

 彼女達の神通力は、先に言った通り、命を変換したものなのだ。

 力を消費すれば、その穴埋めのために自らの身を削って神通力を作り出す。

 そんな体質をしている彼女達にとって、力を使うという事は、そのまま寿命を縮める事と同義なのである。


 そんな彼女達を、悪神への切り札として前線に送り出す。

 まさに、使い捨ての特攻兵器だ。

 彼女達はその命が尽きるまで、悪神を祓い続ける事を強いられ、やがて力尽きる。

 その扱いは最早、人ではなく物に等しい。

 白巫女の任に就いた者は、早ければ三年、遅くとも十年以内に、その生涯を終えると言われる。

(だから、彼女だけは、そうはさせない)

 他の悪神祓いと違って、白巫女の力は強大で、重要だ。

 だから村長達は、そんな人身御供じみたお役目を、今でも必ず誰か一人が受け継がなければならないものと定めている。

 そして、一度任を引き継いだが最期、白巫女となった者に一切の自由を認めず、道具として使い潰される事を求めてくるのだ。

 俺は、それが許せなかった。

 そんな勝手な事で、彼女を失わせたくなかった。

 だから、俺は村長達と一つ、取引をしたのだ。


 彼女の代わりに、俺が悪神を祓う。

 だから、俺が死ぬまで、彼女に悪神祓いの任を与えるな、と。


 きっと、彼らは童の戯言だと思ったのだろう。

 大口叩いても、どうせすぐに野垂れ死ぬ。

 白巫女に任される仕事には、悪神祓い数人でかからねばならない様な相手も含まれるのだ。

 そんな相手に童一人で立ち向かうなど、虎の前に野兎を放るようなものだ、と。


 実際、何度も死ぬ目に遭った。

 だが、俺は死なず、今もこうして生きている。

 彼らにとっては致命的な誤算だったに違いない。

 そんな彼らの内心の苛立ちを思う度に、絶対に死んでやるものかという気持ちになる。


 葛花に力は使わせない。

 悪神を祓う道具として使い潰された挙句に死ぬ。

 そんな結末を辿らせるような真似だけは、絶対にさせない。

 だから、彼女を悪神祓いから遠ざける。

 それこそが、俺の目的。

 俺が悪神祓いをやっているすべて。

 

 そのために、生きようと思った。

 そのために、生きたいと思えたのだ。

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