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狐憑き:起

 懐かしい、夢を、見ていたような気がする――


 窓から差し込む斜陽に照らされて目が覚めた。

 無遠慮に顔を照らす陽の光が酷く鬱陶しい。思わず逃れるように寝返りを打つ。

 身体を動かすと、同時に寝転がっていたソファのスプリングが大きく軋んだ。

 いつも睡眠を取るのに使っているのだが、本格的にスプリングがイカれてきたせいか、最近はどうにも寝起きに身体が痛む。

 そろそろ買い替えの時期かなと考えてしまうのだが、生憎と今月は余計な出費が出来るような余裕が無かった事を思い出して、気が滅入った。

 このまま二度寝に突入する事も考えたが、既に身体の節々が痛み始めている上に、意識も中途半端に覚醒してしまっている。

 何より、窓から見える夕焼け空は、明らかに寝過ごしている事を示していた。

 これ以上、ダラダラと横になったまま、時間を浪費するのはいただけない。観念して身体を起こす事にする。

 くすんだ灰色の天井に埃っぽい空気、遠慮のない西日のせいで寝起きは最悪だ。

 その上、狭い室内に密集するように置かれた棚や机による閉塞感が、一層、気を滅入らせる。

 住めば都、という言葉もあるが、この部屋に関しては住めば住む程、嫌になっていくような気がする。

 とにかく、この埃っぽい空気だけでも何とかしないと際限なく気分が沈み込んでいきそうだ。

 ソファから立ち上がり、先程から容赦の無い日光を送り込んでくる窓に近寄って開け放った。

 気付く間すら無かったくらいに短い秋が過ぎ、まもなく冬が訪れようとしているこの時分。窓を開けると幾分か肌寒い空気が流れ込んでくる。

 過ごしやすい、というにはやや辛い季節だが、初冬の澄んだ空気は、何となく煙草が美味しく感じる気がして好きだ。

 ただ、寒さ自体は非常に苦手としているので、これから訪れる季節を喜ぶべきか悲しむべきかは悩ましい。

 そんな事を考えながら起き抜けの頭をスッキリさせようと懐から煙草を一本取りだして口に銜える。

 そしてライターを点火し、今まさに火を点けようとした所で――

「また部屋で煙草吸ってるっ!」

 ズバンッと、勢いよく扉を開け放つ音と共に飛び込んできた怒声に止められた。

 ライターで手を焦がしそうになりながら慌てて声がした方に振り向くと、そこには開け放たれた玄関口から鬼の形相でこちらを睨む少女の姿があった。

 外から差し込む夕日を受けて銀糸のように輝く白い髪と、その夕日を写し取ったかのような赤い瞳。

 どこか幻想的で儚げな印象すら感じさせる小柄な少女だ。

 もっとも、そんな神秘的な印象も少女が全身から立ち昇らせている怒りのオーラによって木っ端微塵に打ち砕かれてしまっているのだが。

「……私、言ったよね? 何度も何度も。煙草を吸うなとは言わないから、せめて部屋を出て吸ってって」

 怒りと呆れが入り混じったような台詞を吐きながら、少女が部屋に上がり込んでくる。

 ずかずかと部屋を横断して俺の目の前に立った少女は、薄い胸を反らせて、頭二つ分背が高い俺を無理矢理見下すように踏ん反り返った。

 私、怒ってますという意思表示のポーズなのだろう。

 小柄な彼女がやると、滑稽を通り越して微笑ましくすら感じる光景だが、生憎と彼女に責められる立場の俺としては、そんな姿でも地獄の閻魔のように恐ろしく見える。

「あー……いや、これは……だな……」

 自分でも分かるくらいに目が泳いで、声も上擦っている。

 何だか、こんな状態では何を言っても火に油な気もするが、それでも何か言い訳をしなければ、このままでは有罪確定になってしまう。

 下手をすれば夕飯抜きなんて展開すら有り得る。それだけは何としても避けなければならない。

 食は生活の基本。

 悲しい事だが、台所事情を握られている以上、どうしたってこちらは弱者にならざるを得ないのである。

「あー……だから……えーと……」

 あれこれと必死の言い訳が頭を過ぎるが、どれも目の前の小さい閻魔様を唸らせるには程遠い。

 そもそも現行犯で咎められている時点で言い訳のしようもない気もするが、座して死を待つ程、潔くはなれない。

「これはだな……別に――」

「部屋で吸われるとあっちこっちに臭いが染みつくんだって、ちゃんと理由を説明して断ったよね? 間違いなく、何度も何度も」  

「いや、それは……」

 何とか口を開こうとしたところで機先を制されて再び口ごもってしまう。

 狼狽える俺に少女は容赦なく言葉を畳み掛ける。

「言ったね?」

「え、えっと……」

「……言ったよね?」

「あー、だから……」

「言・っ・た・よ・ね?」

「……はい。言いました」

 鬼気迫る怒気に堪りかねてそう答えた瞬間、いきなり下から伸びてきた少女の腕が、咥えようとしていた煙草を掻っ攫っていった。

 氷のように冷やかにこちらを見つめていた少女の瞳に、今度は義憤の炎が宿る。

 それはもう、すべての不義を焼き尽くすと言わんばかりの激しさを伴って――

 そして噴火した。

「分かってるんなら、何をまた平然と部屋で煙草吸おうとしてんのよ、アンタは!? どうせ、私がいないから大丈夫とか軽い気持ちだったんだろーけど、こっちは部屋に残った臭いで、嫌でもすぐに分かるんだよっ!」

 部屋中に響く大音量。

 一体、この小さな身体のどこからこんな大声が出るのかと不思議に思う程の怒鳴り声だ。

 少女が叫んだ瞬間、部屋の窓ガラスが震えたように見えたのは流石に錯覚だとは思うが、それでもこちらの鼓膜を震わせるには充分過ぎる一撃だった。

「分かってる!? 本来なら禁煙させたいんだからね! それを、仕事でストレスも溜まるだろうから、煙草を吸う事が息抜きになるなら仕方ないかなって思って許してるの! なのに、最低限のルールも守れないんだったら、もう一本たりとも吸わせないからね!」

「いえ、それは……勘弁してください。すいません……」

 こうなると嵐が過ぎ去るまで、ひたすら平身低頭で謝り倒すしかない。

 徐々に煙草の事から生活態度や甲斐性の無さに内容がシフトしていく説教を聞きながら、亀のように縮こまって、ひたすら頭を下げて耐え忍ぶ。

 結局、彼女の猛攻が止んだのは、それから十五分近く経った後だった。

「煙草止められないんなら吸うなとは言わないから、せめて言った事くらいは守って吸って! いい!? 繰り返すけど、次にやったら本当に強制禁煙させるからねっ!」

「……はい。すいませんでした」

 最早、言い訳など考える気力もない。

 ただただ、嵐が過ぎてくれたという事実に安堵し、脱力した。

「本当、もうしないから。どうか許してください」

「……その台詞も何回目だっけ? 正直、聞き飽きた」

「ぐっ……」

 せっかく鎮火しだしたのに、再び馬脚を現してしまった事に思わず呻き声が漏れる。 

 思えば、確かに何度も同じ失態で怒られて、その度に必死に謝り倒してきたのだ。

 自分では必死過ぎてはっきりと覚えていないが、「出来心だった」「もうしない」「許してください」の三語辺りは、嫌になるくらい常套句として並び立ててきた気がする。

 それでも懲りずに再犯を繰り返すのだから、我が事ながら学習しない奴だと呆れてしまう。

「……はぁ、もういい。これ以上はただの愚痴になりそうだし」

 もう一噴火行きかねない不穏な空気に身構えたが、そんな怯える俺の姿に愛想が尽きたのか、少女は盛大な溜め息を一つ残して、そのままさっさとキッチンの方へ引っ込んでいく。

 彼女の迫力に圧されて今まで気づけなかったが、その手には買い物袋が提げられていた。どうやら買い物帰りだったらしい。

 キッチンに消えて行こうとする背中に言葉を掛ける。

「悪かったよ。……荷物持ちに付き合ってやれなかった事も含めてな」

 煙草に関しては散々怒鳴られて贖罪を終えた気分だが、そちらに関しては大いに罪悪感がある。

 細身の少女の身体では、日用品の買い出し程度でも、かなり骨が折れる重労働のはずだ。

 しかし、少女はそんな俺の謝罪を背中で受けて、ひらひらと片手を振りながら何でもない事のように言って除けた。

「別にいーよ。昨日は明け方まで書類整理してたんでしょ? 寝坊ぐらいは大目に見るわよ」

 そう言って去っていく彼女の小さな背中は、何とも男気が溢れて格好良い。

 勿論、そんな褒め言葉では逆に機嫌を損ねてしまいそうなので、感想は心の中だけに留めておく事にする。

 しかし、彼女がふと、何かに思い至ったように足を止めて、振り向き様に思いっきりこっちをジト目で睨んできた時には、心の中に留めた感想が漏れ出たのではないかと本気で焦ってしまった。 

「一応、最後にもう一度だけ言っておくけど、煙草を吸いたいなら止めないから、せめて部屋の中でだけは吸わないようにして。部屋に臭いが染み付いて、ユズ姉に怒られるのは私なんだから」

 それだけ言って今度こそキッチンの方に消えていく。

 そして部屋には少女に怒られ、ライター片手に呆然と立ち尽くす男が一人。

「……寒」

 開け放した窓から冷たい風が吹き込み首筋を撫でる。

 思わず身震いしてから、そう言えば窓が開けっ放したままだったと気づいた。

 窓を閉めて、せめて少しでも少女の信頼を回復すべく仕事机に向かう。

 書類仕事は今日の朝方までで一通り終わらせたはずだが、終わってすぐにソファに倒れこんで爆睡してしまったので、そのまま机の上にばら撒かれたままになっていた。

 ひとまずこの書類を片付ける事から始めるか、と作業に取り掛かり始めた所で、先程出ていった少女が戻ってきて、キッチンの方からひょいっと顔を覗かせた。

「そー言えば、ポストにこんな物が来てたよ。依頼じゃない?」

 そう言ってこちらに何か平たい物を投げ渡してくる。

 受け取って見ると簡素な封筒に入れられた便箋のようだった。

 渡した当の本人は、そのまま何も言わずにまたキッチンに消えていく。

 パソコンや携帯で簡単にメールが送れるこのご時世、チラシや明細以外でポストに入っている物の心当たりは一つしかない。

 ……どうやら、書類の片付けの前にやる仕事ができてしまったようだ。

 便箋を開封しながら仕事用の事務椅子に深く腰掛けると、そのまま中身を取り出して目を通すことにした。




「ご飯できたよー」

 そんな呼びかけを聞いて我に返った所で、自分が作業に完全に没頭していた事に気が付いた。

 慌てて時計を確認すると、手紙を開いてから既に三十分もの時間が経過していた。

 呆気に取られる俺の前を、大鍋を抱えた小さな影が通り過ぎようとする。

 実に危なっかしい光景に、慌てて駆け寄って運ぶのを代わると、不満気な顔で小さく「ありがと」と礼を言われた。

 そのまま部屋の中央に置かれた小振りのダイニングテーブルまで運び、既にセットされていた鍋敷きの上に鍋を降ろす。

 蓋を開けると、中には大根やこんにゃく、たまごにはんぺんなどが一緒くたに煮込まれていた。

「ふっふっふー。寒くなってきたし、今日はおでんにしてみましたー!」

 じゃーん、という効果音が付きそうな大仰な身振りで、小さな少女が胸を張る。

 その顔は先程までの剣幕は一体どこに行ったのかと訝しく思う程に満面の笑顔だ。

 あまりよく分からないが、今日の献立は彼女的に結構な奮発ぶりだったのかもしれない。

 しかし、そんな幸福オーラに対して、俺は「おー」と間の抜けた調子で驚いて見せる事しかできない。

 素っ気ないと思われるかもしれないが、店で食べるラーメンとコンビニで買えるカップ麺の味の違いも大して気にしないような人間に、献立に対する感想を期待するのが間違いなのである。

「お椀とお箸持ってくるから、座って待ってて」

 言うや否や、またキッチンの方へと引っ込んでいく。

 スキップでもしそうなくらい軽やかな足取りの彼女の背中を、冷めた目で追いながら疑問に思う。

 何故、彼女はおでんくらいであんなに幸せそうに出来るのだろうか?

 人の嗜好はそれぞれと言ってしまえばそれまでだが……。

 いつか俺にもおでん一つで喜ぶ彼女の気持ちが理解できるようになる時が来るのだろうか……?

「っと、そうだ。葛花(かずら)

 そんなしょうもない事を考えていたら、肝心な事を言い忘れそうになった。

 キッチンの方に声をかけると、二人分の椀と箸を持った少女――葛花(かずら)が不思議そうな顔で戻ってきた。

「明日から少し出掛ける事になりそうだ」

「さっきの依頼?」

「ああ」

 椀と箸をテーブルに並べ終わると、葛花が向かいに座る。

 ひとまず、準備が整ったようなので、先に二人仲良く手を合わせて「いただきます」と挨拶する。

 毎度の事とは言え、実は少し恥ずかしいのだが、やらないと葛花が拗ねる……というか、軽くお説教されるので仕方ない。

 そのまま、二人仲良く鍋に箸を突っ込んだ所で話が戻る。

「それで、どこに出かけるの?」

「隣の県だよ。山の方らしいし、それなりに歩く事になりそうだな」

「うぇえ……山歩きかぁ……」

 会話しながら、どの具を食べようかと箸を迷わせる。

 とりあえず、まずははんぺんでも、と箸を伸ばした所で葛花に横から掻っ攫われてしまった。

 仕方なく隣の大根に箸を付ける。

 まだ味の染みていない大根は何ともコメントに困る味だった。

「嫌なら留守番してても良いんだぞ。無理に付いてくる必要はない」

「駄目。半人前の(かおる)一人に任せておけない」

「半人前って……。これでもこの道十年以上のベテランなんだぞ?」

「うむ。無駄に時間ばっかり重ねて実力が伴っていない分、余計に質が悪い」

「……容赦ないな。まぁ、それでも俺が責任持って何とかするよ。葛花の手を煩わせたりはしない」

「そうやって自分一人で抱え込んで無茶しようとするのが心配なんだけどな……」

 次にこんにゃくに箸を付けた。なかなか上手く掴めずに何度も取り落としながらも何とか口に運ぶ。

 地味に労力がかかった割には随分と味気ないので、何となく損したような気持ちになる。

 ふと、視線を上げると、そんな俺とは対照的に、実に幸せそうにはんぺんを頬張る葛花の姿が目に入った。

 何となく悔しいので、俺もはんぺんでも食べよう、と鍋に目を落としてみたが、はんぺんが見当たらない。

 そう言えば、気のせいでないのなら、先程から葛花ははんぺんばかり食べている気がする。

「そんな事言っても、この寒い中で山道を歩くんだぞ。大丈夫かよ?」

「むー……薫、タクシー」

「無理だよ。今月は余計な出費が厳しいって事は葛花が一番よく分かってるだろ?」

「……甲斐性無し」

「えーえー、すいませんね」

 少し身を乗り出して葛花の椀の中を盗み見てみる。

 三、四切れのはんぺんと餅巾着が二つストックされていた。

 改めて鍋の中身を見る。そこには餅巾着らしき姿は無い。

 そして、先程から箸を迷わせながら具をつついていた間も、それらしき姿を見た覚えは無い。

 つまり――

「……待て。餅巾着は平等に分けるって言ってただろ?」

 何をしれっと全部自分の物にしてるんだ、このちんちくりんが。

 目の前で繰り広げられる暴挙を俺が咎めると、葛花は俺から隠すように自分の椀を脇に抱え込んだ。

「……駄目。巾着は私の。今日の買い出しは大変だった。だから、それくらいの権利はあるの」

 さも大義は我にありと言わんばかりだが、そんな事を言われてはこちらも面白くない。

 確かに、今日の苦労を考えれば餅巾着くらい譲って然るべきと思わないでもないが、そもそも「おでんの餅巾着は平等に分ける」というハウスルールは葛花が定めたものだ。

 自分で決めたルールをあっさり破って、しかもそれを正当化するというのは如何なものだろうか。

「買い出しに付き合えなかったのはさっき謝っただろ。ってか、そんなに食いたいんなら少し多めに買ってこいよ」

「今月、厳しいんだって、薫もさっき言ったばっかでしょ。無駄遣いする余裕なんてありませんー」

「餅巾着くらい、少し多めに買っても大して変わらないだろ」

「何? 普段、台所に立たないくせに、餅巾着の一体、何を知ってるのよ?」

「……いや、確かに知らないけど」

 ……まさか。俺が知らないだけで、実は餅巾着って高級な物なのか?

 葛花の椀にストックされた餅巾着を改めてまじまじと眺めてみるが、とてもそんな高価な一品とは思えないが……。

 それとも、俺の目が節穴なだけか?

「なぁ、ちなみにこの餅巾着っていくらで買ってきたんだ?」

 俺の質問に葛花がつい、と目を逸らす。

「……お徳用パックで十ヶ入り、税込三百九十八円」

「想像以上に安い!」

 一個当たり約四十円。

 自販機で飲み物を買うのを一度我慢すれば、餅巾着が三つは食べられる計算である。

「それくらいならいくらでも自腹切ってやるわ! 十個でも二十個でも満足に食えるだけ買ってこいよ!」

「――ッ! 仕方ないでしょ! 買い置きしてあった分が二つしか残ってなかったんだから!」

「それはお前のミスだろ! 何でそれで俺が割を食う羽目になるんだよ!」

「私が作ったんだから何を食べようが私の勝手でしょ! ボケーっとしてただけのくせに、出てきた食事にケチつけるとか、何様のつもりよっ!」

 勢いに任せて互いに怒鳴りあう。

 餅巾着一つでいい歳した大人二人が激しく言い争う図というのは、冷静に考えれば物凄く情けないものなのだろうが、一度熱を上げた頭ではそんな簡単な事にも気づけない。

「っつーか、マジで巾着寄越せよ! それくらいしか食えるもんがねぇんだからよ!」

「ふーん、私が丹精込めて作ったおでんは巾着以外に食べる価値が無いって言うんだ? 随分と良い度胸じゃない!」

「お前がはんぺん独り占めしてなきゃそんな事も言わねぇよ! 文句があるなら、そのお椀に貯め込んだはんぺん、今すぐ鍋の中に放流しろ!」

「結局、巾着とはんぺん以外は要らないって事じゃない!? まだ大根もコンニャクも昆布も入ってるのにさ!」

「大根もコンニャクもまだ味が染みてねぇし、昆布なんか出汁取りきって何の味もしねぇだろうが! そんなもんで腹満たすくらいならまだ味噌汁の一杯でも啜ってた方がマシだ!」 

「ハッ! 普段は何食べても美味い不味いの一言すら言わないくせに、急にグルメぶらないでよね!」

「どこがだよ! 単に夕飯が味気ない物ばかりだから文句言ってるだけだろうが!」

「食べる物があるだけ、有り難いと思いなさいっ! そんなに味気が欲しいなら汁でも啜ってろ! 汁っ!」

「目の前に不当に溜め込んでる奴が居るから言ってんだよっ!」

 ぎゃあぎゃあとくだらない言い争いは際限なくヒートアップしていく。

 最早、引き下がるとか大人になるとか、そういった思考はお互いに遥か彼方に投げ捨ててしまっていた。

 そこに――


「うるっさい! 静かにしろ!」


 その騒音を上回る怒号と衝撃が、叩き割られるんじゃないかと思う程の勢いで開け放たれた玄関から飛び込んできた。

 餅巾着ごときにひたすら熱くなっていた馬鹿二人を、一瞬で黙らせるほどの凄まじい怒気。

 まるで冷水をぶっかけられたような……というより、冬場の池にでも叩き込まれたかのような衝撃に、二人して物言わぬ石像のように固まってしまった。

 滝のように流れ落ちる冷や汗と際限なく冷えていく思考。

 裏腹に心臓は張り裂けんばかりに早鐘を打っている。

 見たくはない、が、見なければいけない。

 事実として認識したくはないが、現実逃避をしても待ち受けているのは死である。

 石臼か何かのように滑りの悪くなった首を何とか回して、玄関の方を向くと、全身から怒りのオーラを立ち昇らせるスーツ姿の女性が立っていた。 

「こちとら、仕事で徹夜明け。ようやく家に帰ってきて『さぁ、ゆっくり眠ろうか』なんて思ってた所に、上まで聞こえてくるような大声出してギャーギャーと……。頑張ってお勤めを済ませてきた私の、ようやくの休息を妨害するとは……随分と偉くなったもんだなぁ? お前達」

 ……何とも間が悪い話だ。

 彼女が徹夜明けでなければ、あるいは彼女が帰宅できなかった昨夜であれば、こんな状況には陥らなかっただろうに……。

 まさに最悪の状況でやらかしてしまったと言わざるを得ない。

「百歩譲って私の事は良いとしても、他所様の目があるでしょう?」

 絶対、嘘だ。譲る気なんて毛頭無い。

 あの怒りは、ほぼ百パーセント、自分の安眠が妨害された事に因るものである。

「彼らだって、一日の終わりに、お待ちかねの一家団欒。おいしい食事を楽しんでる時分よ? ご近所様の平穏な時間に水を差してしまって、申し訳ないと思わない?」

 湧き上がる苛立ちを必死に抑えつけるような喋り方。

 少しでも突ついたら先程以上の威力で爆発しそうというか、むしろ爆発の為の力を溜めてるんじゃないかと思えて仕方がない。実に不穏な嵐の前の静けさである。

 そんな災厄を目の前にして「騒音を考えるのなら貴方の怒声が一番迷惑じゃないんですかね?」などという世迷い言は、たとえ思っていたとしても口に出してはいけない。

 というか、出せる訳がない。

 怒れる鬼神の前では無力な人間はただただ震えるのみである。

「待って、ユズ姉。これは違うの」

 ――と、少なくとも俺はそう思っていたのだが、どうやら葛花は違ったようだ。

 何事かを決意した面持ちで、今しがた稲光の如く降臨した鬼神の化身に向き直った。

 もしかして、あの怒れる鬼神を静める秘策でもあるのか?

 固唾を飲んで見守る俺の前で、意を決した葛花が再び口を開いた。

「薫が私に家事を全部押し付けた挙句、自分は日が暮れるまで惰眠を貪っていたくせに、私の料理が不味いって怒るから――」

「って、おい!」

 何たる暴挙か。

 あろう事かコイツ、俺にだけ罪を着せて、自分は難を逃れるつもりだ。

「こんな華奢で小さな身体の私が一人で買い出しに行ってきて、やっとの想いで丹精込めて作り上げた料理なのに……。それを、薫が『食えたもんじゃない』の一言で切り捨てて、あろう事か乱暴まで――」

「待て待て! どう考えてもおかしい! いくら何でも誇張し過ぎだ! つうか、こういう時だけ、都合よく自分の身体の話を持ち出すな!」

 しおらしく、さぞ無念そうに顔を伏せて声を絞り出すその姿は、端から見れば完全に被害者だ。

 その演技力には素直に称賛を送りたい所だが、生憎と今回は俺の命に関わってくる事なので断じて見過ごす訳にはいかない。

「お前が意地汚く具材を独り占めしてたからだろ! ちょっと分けろって言っただけで、不味いなんて一言も言ってないだろうが!」

「言わなくてもしっかり態度に出てるのよ、態度に! それに惰眠貪って私一人に働かせてたのは事実でしょ!?」

「それはそうだけど! 昨日は仕事が長引いたから寝坊も許すって言ったのは、お前――」


 ――瞬間、雷が落ちた。

 比喩でも何でもない。

 少なくとも、俺は本当にすぐ目の前に雷が落ちたのではないかと錯覚した。

 それほどに凄まじい音が響き渡ったのだ。

 耳朶を叩くその衝撃に、再び二人して我に返る。

 数秒の思考停止の後、ゆっくりと視線を戻すと、来客用に置かれていたスチール製の靴箱に渾身の一撃を叩き込んだ姿勢のまま、微動だにしない鬼神――もとい、鬼すら慄く仁王様の姿が目に入る。

 ちなみに、彼女の一撃を受けた靴箱は、拳を叩きつけられた中心部分から見事にひしゃげて、まるで半分に折り畳まれたかのような無惨な有様になっている。

 ……成程。あのような惨状にしてしまう程の一撃なら、雷と間違うのも無理はない。

 あまりにも強い戦慄と死の予感を感じながら、頭の片隅で「ああ、また余計な出費が増えた……」などと、早くも現実逃避し始めている自分が居る。

 死を目前にした人間は、得てして目の前の災厄から目を逸らすものらしい。

 あまり知りたくもない、どうでもいい知識だったが、身をもって頭の中に書き加えられる事になった。

「さて――」

 先程の凄まじい一撃など、まるで無かったかのように、ゆっくりと、涼しげに居直る仁王様。

 その顔には、この場には似つかわしくない、背筋が寒くなる程に優しい微笑が湛えられている。

「何か言いたい事は?」

『『……すいませんでした』』

 示し合わせたかのように席を立ち、御前に進み出て平伏する二人。

 散々いがみ合った後だというのに、こういう時には息ピッタリな辺りは、実に業が深い。

 そのまま床に頭を擦り付けて固まる事、約一分。

 頭の上から深く、盛大な溜め息が聞こえてきた。

「ったく……お前達も、もういい大人なんだから。つまらない事でいちいち怒らせないように。私には一応、保護者兼監督役としての責任があるんだから」

 静かな声と共に、差し出した頭にポンと軽く手が置かれる。どうやら許しを得られたらしい。

 顔を上げ……それでもやっぱりちょっと怖いので正座したまま、神妙な顔で二人して待機。

 そんな俺達に、もう興味は失せたのか、件の仁王様――改め、ユズ姉こと姫木(ひめき)(ゆずりは)姉御の視線は、俺達の頭上を素通りして、奥のテーブルに注がれていた。

「おー、今日はおでんか」

 正座する俺達の横を通り抜けると、そのまま勝手知ったる他人の家といった具合に上がり込む。

 ……いや、まぁ、ユズ姉は家族同然の間柄の人なので、別に止めたりする事はないのだけれど。

 そんな我が物顔の侵略者(インベーダー)は、テーブルに置かれた鍋を覗き込み、それから二つの椀を覗いて――

「おっ、巾着あるじゃん。いただきっ」

 あっさりと、騒ぎの元凶を口に放り込むと、最後に「次、騒いだら鉄拳制裁だからな」という物騒な台詞を残して、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 そして後に残ったのは、正座した状態で呆気にとられている間抜けが二人。

「…………」

「…………」

 その後しばらく、互いに何も言う事ができず、ただ嵐が立ち去った入り口を唖然と眺め続けていた。


 ……まぁ、何というか。

 敬愛すべき我らが監督役、楪姉御の大岡裁き。実に見事な喧嘩両成敗だった。




「それで結局、どういう仕事?」

 洗い物を終えてキッチンから戻ってきた葛花が声をかけてくる。

 手にはお盆を持って、その上には湯気を立てている湯呑みが二つ乗っかっている。

 どうやら食後の一杯を淹れてきてくれたらしい。

 本当なら食事を用意して貰っている手前、洗い物やお茶汲みくらいは俺がやるのが筋だと思うのだが、以前にそう申し出た所、葛花に猛反発を受けた。

 当人曰く「これは私の仕事」との事。

 ……それで、よもや家事を押し付けているなどと告発されるとは思わなかったが。

「ん? ああ……狐憑きを祓って欲しいんだってさ」

 食事の際に中断していた作業――明日赴く場所をネットで調べながら、返答を返した。

「依頼人は被害者の父親。息子が憑りつかれて暴れまわるから手に負えない。何とかしてくれって感じだ」

 記載されていた住所を調べた所、思った以上に辺鄙な場所のようだ。

 アクセス方法についてはしっかり調べておかないと。後々、泣きを見る事になりかねない。

「狐憑きか。まーた面倒な依頼を……。そもそも、管轄違いじゃないの? それ」

「管轄違いというか、グレーゾーンだからな。どこにまわせばいいか、ハッキリしないのが憑き物落としだし」

「だからこそ、普通はまず調査をさせて、どっちの管轄かハッキリさせるものなんだけど……その依頼はウチの管轄だって、ハッキリしたものだって思って良いの?」

「……良い訳ないだろ。上のやる事だ。絶対、碌に調べてないだろうさ」

 上の嫌がらせじみたやり方は、既に身に染みて分かっているので、今更とやかく言う事もない。

 というより、とやかく言っても無駄なので、言う気にならないだけだが。

「貧乏くじ引かされるのはいつもの事だし、どうせやる事も変わらないんだ。問題ないさ」

「報酬が一緒ならね。というか、その依頼って、そもそも本当に狐憑きなの? 管轄違いでも問題ないと言っても、精神病とか狂言だったら精神科医やカウンセラーの仕事でしょ? いくら何でも医者の真似事まではできないわよ」

「……どうだろうな。そもそも、この手紙じゃ詳しい状況までは触れられていないから。現地に行って自分で判断しろって事だろうな」

 情報の見落としが無いよう、穴が開くほどに読み込んだつもりだが、五分で放り出してしまった。

 それだけ、書かれている情報が少なく、簡潔だったためである。

「……わざわざ出向かせておいて無駄足だったら、無言電話百件の刑で抗議してやる」

「やめろ、電話代が勿体ない。……まぁ、依頼が来るって事は、一応は確証があるって事だろう。狂言だったとしても報酬は出るから――」

「小学生のお小遣いかと思うような額だけどね。大抵、交通費辺りで相殺されて手元に残らない程度の」

「……言うな。悲しくなる」

 ちなみに、経費の申請などという気の利いたものは当然の権利の如く認められていない。

 仕事の上で掛かった費用や受けた損失はすべて自己負担である。

「……劣悪な労働条件は百歩譲るとしてもさ。依頼を受けて動いているのに、仕事ぶりと関係ない事で報酬減らされるのって、どう考えても完全に詐欺だよな」

「そーね。しかも、原因は上司の怠慢」

「…………」

「…………」

 二人揃って深い溜め息をつく。

 今更とやかく言う事はないと言っても、愚痴くらいは言いたくなるのである。

 とはいえ、どの道、俺達に依頼を受けないという選択肢は無い。

 報酬をピンハネされようが、雑な仕事を押し付けられようが、ただ粛々と依頼をこなすより他にないのである。

 葛花も不満気ではあるがその辺りの事情は心得ている。

 散々、愚痴をこぼして不貞腐れてはいたが、結局はそれ以上何かを言う事はせずに、代わりに持ってきた湯呑みを一つ机に置いていった。

 とりあえず礼を言って受け取り、口を付ける。

 寒い季節の熱い緑茶は非常に美味い。

 冷え切った身体に熱を入れるガソリンのような物だ。

 五臓六腑に染み渡るとはまさにこの事、と深い感慨すら覚える。

 そんな風にほっこりと和んでいる俺の横で、葛花が依頼の書かれた手紙を、険しい顔で覗き込んでいる。

 残念ながら、その行為はさっき俺がしたばかりだ。

 どれだけ睨んだ所で、大して有益な情報が出てこない事は、俺がよく分かっている。

「さっきも言ったけど、嫌なら留守番しててもいいんだぞ。俺一人でも何とかするからさ」

「駄目。私が見てないと薫はすぐに無茶をするから。しっかり監視しておかないと、家に残っても不安で不安で……おちおちドラマの再放送も見てられない」

 それは別に見なくてもいいんじゃないか? とは敢えて言うまい。

 ……しかし、一片の迷いもなく言い切られるとは、実に容赦のない信用の無さだ。

 確かに自分の実力不足は自分自身で身に染みて分かってはいるが、それでも何だかんだここまでやってこれた事は評価して欲しい。

 もう少し信頼というか、こちらの言い分を聞いてくれてもいいんじゃないか、と思うのだが、どうだろうか? 

「……よし!」

 ずずーっとお茶を啜りながら自身の扱いについて思い悩んでる隣で、いきなり葛花が気合の掛け声と共に立ち上がった。

「どうせ受けるしかないなら、せめて準備くらいはしっかりしないとね。薫、準備はちゃんとできてる?」

 気持ちを切り替えたのか、一転してやる気になったようだ。

 こういう時の葛花は仕切り屋というか委員長属性というか、とにかく行動がテキパキとしてくるので、のんびり屋の俺としては微妙に肩身が狭い。

「ああ。前回の仕事が終わってから補充も申請して、ちゃんと届いてる。手入れも一昨日やったばかりだ。何も問題は無い」

 まぁ、準備が万全な事と仕事が何の問題も無く上手くいく事はまた別の話ではあるが。

「ならいーけどね。また、前みたいに本番になってから足りないって泣きつかないでよ?」

「む……」

 何とも意地の悪い言い草だ。

 その事はいまだに俺が気に病んでるのを知ってるだろうに。

「あれは依頼が重なって忙しかったせいだから。今はそこまで忙しくないし。それに、あれ以降は同じ轍を踏まないよう、チェックも週一で厳しくしてるだろ?」

 答える口調も、ついつい拗ねたものになってしまう。

 一時期、依頼が立て続けに舞い込み、毎日の様にあちこちを飛び回る日が続く事があった。

 仕事道具の点検も碌にできずに依頼をこなし続け、ある時、必要な道具が足りないという事態に見舞われたのだ。

 結局、その時は自分一人での解決は不可能だと判断して、色々と思う所があるのをすべて曲げて、葛花に協力を頼む……というより、解決を丸投げする羽目になった。

 結果、依頼自体は無事に――本当にあっさりし過ぎた程に――達成される事になったのだが、その時の事を俺はいまだに後悔している。

 以来、俺は自分の仕事道具の管理を徹底するようになった。

 以前は月一程度でしていた道具の手入れ、在庫チェックを週一で行うようにし、面倒だからある程度減ってきてから纏めて申請していた補充も、最低でも月に一度は行うようにして、細かく数を揃えている。

 すべては、同じ轍を二度とは踏まないため。

 俺にとって、依頼失敗以上の大失態。

 彼女に不要な力を使わせるような真似を、二度としないようにである。

「ついでに煙草の方も同じ轍を踏まないようにして欲しいんだけどね」

「……俺が悪かったから、その話はもう終わりにしてくれ」

 などと言いながらも、こちらはまた同じ轍を踏むような気がする。

 葛花の言い分が正しいのは分かるし、反省する気持ちは確かにあるのだが、こればかりは仕方がない。

 起き抜けの惚けた頭をスッキリさせるのに煙草は最適なのだ。

「まぁ、いーけど。次やったら小遣い無くして煙草買えなくするだけだし」

「…………」

 何やら不穏な呟きが聞こえた気がするがスルー。

 下手に反応すれば藪蛇になるだけだ。

「なら後は着ていくものね。山だと寒くなるだろーし、ちょうどいいから冬物出しちゃおうかな? 薫も、ちゃんと準備しておきなさいよ」

 そう言うや否や、忙しなく自分の部屋に引っ込んでいく葛花の背中をぼんやりと見送る。

 着ていくものの準備も勿論大事だが、目的地の所在とか行き方とか、そういう大事な部分に言及がないのは、俺が調べておくだろうという信頼からか、それとも単に頭から抜けてるだけか……。

 多分、後者だろうな。

「まぁ、ちゃんと調べておくけどね」

 彼女が自室に戻り、静かになった部屋の中で、再びパソコンに向き直る。

 目的地までの公共交通機関の有無、それらの便が出る時刻、所要時間に掛かる金額。

 諸々を、型落ちのパソコンの処理速度にイライラしながら、細かに調べていく。

 一通り調べ終わり、メモを取ったり地図をコピーし終えた所で、改めて先程の彼女の言葉を思い返した。

「しかし、ちゃんと用意しとけって言われてもなぁ……」

 防寒着の持ち合わせなんて、コート掛けに年中掛けっぱなしの薄いコートとマフラーくらいなので、それらを身に着ける以外にできる事などないし、事前に必要な準備なども当然ない。

 ちなみに、これは俺が寒さに強い体質だからとかそういう理由で薄着なのではなく、単に金銭的な理由から新しい衣類の購入を躊躇っている結果である。

 最近は特に冬の冷え込みが厳しくなってきているので、いい加減に厚手のコートくらい新しく買おうと思い続けているのだけれど、何だかんだ金があると他事に使ってしまうせいで、思い続けるだけに留まってしまっている。

 計画性が無いとか思われそうだが仕方ないのだ。

 コートで寒さは凌げても飢えは凌げない。

 コートを買う金があるのなら、日々の質素な食卓に彩りを加える方を選びたくなるのは人の性なのである。多分。

(服に関しては葛花も同じようなもののはずなんだけどな……)

 勢い込んで部屋に引き上げていったが、一体どれほどの準備があるというのだろう?

 一緒に暮らしてる以上、金銭に余裕が無いのは葛花も同じだ。

 特に彼女は俺以上に倹約にうるさい質なので、基本的に新しい衣類を買ったりする事はなく、大抵は実家からこちらに越してくるときに持ち込んだ物を繕ったり、時にはパッチワークしたりしながら着続けている。

 本来であれば、どれだけ手直しした所で、体型が変化すれば着れなくなるのが普通だが、その点は彼女の特殊な体質の恩恵だと言えるだろう。

 衣服も傷む物だし、流石にいつまでも着続けられる訳ではないが、どれもが少なくとも三年以上は着続けられている事を思えば、実に物持ちが良いと言える。

(あまり良い事じゃ無いんだろうけど……)

 財布を共有している身としては、出費がかさまないのは有り難いのだが、葛花も一応は女の子だ。

 敬愛すべき我らが監督役のユズ姉様も「女という生き物は多かれ少なかれ、誰でもお洒落に興味があるもの」と言っていた事だし――もっとも、言った本人がズボラというか無頓着というか、お洒落とは縁遠い生活をしているのでイマイチ説得力に欠けているのだが――もう少し、こちらが気遣うべきなんじゃないかと思ったりもする。

 いずれは日頃の感謝も込めてプレゼントの一つでもしたい所だ。

「その為には、まず目先の仕事をしっかりこなさないと、ってな」

 所在地周辺の地図や、行き方のメモを改めてまとめて、家の鍵と一緒に机の上に置いておく。

 こうすれば、いくら俺が寝惚けていたとしても、置き忘れる事はないだろう。

 自分の迂闊さには割と自覚があるので、こういう行いは実に重要である。転ばぬ先の杖という奴だ。

 それから念のために、もう一度仕事道具を鞄から取り出して点検する。

 一つ一つ取り出して、不備が無いか簡単にチェックするだけのものだったが、それもひとしきり終わって、ようやく完全に準備が整った。

(さて、後は――)

 となれば、後は明日に備えて、英気を養うだけだ。

 部屋に戻ってしまった葛花はまだ戻ってこない。

 後でまた膨れられるかもしれないが、今日はこちらで風呂に湯を張らせて貰おう。

 時間がかかるようなら、一番風呂を貰ってしまってもいいかもしれない。

「何せ、しっかり英気を養わないといけないんでねー」

 ついでに買い置きの入浴剤でもなかったか探してみようか、などと思いながら風呂場へ向かう。


 こうして、夜は段々と更けていく。

 いつもの事とはいえ、明日に仕事を控えるとなると、やはり僅かながら緊張するものだ。

 あの後、すぐに戻ってきた葛花に一番風呂を取られ、それでも何とか日付が変わる前に床に就いた俺だったが、結局日付が変わってからも、なかなか微睡めずにいた。

 仕事を始めたばかりの頃は、緊張で一睡もできないなんて事も珍しくなかった。

 もっとも、現状眠れない理由は、どちらかと言うと夕方まで寝過ごしていた事と、身体の下で不快な音を立てるイカれたスプリングのせいなのだが。

(……ダメだ。ちゃんと身体を休めておかないと)

 毛布に包まり、無理矢理にでも意識を落とそうと試みる。

 下手な状態で仕事に臨むような真似は、絶対にできないのだ。


 俺の仕事――『悪神祓い』は、文字通り、命懸けの仕事なのだから。

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