act3
八年前───
「生か死か、それが疑問だ。一体どちらが立派と言えるのか、残忍な運命の矢玉をじっと耐え抜くのか、それとも、押し寄せる苦難をものともせず戦い抜いて、根だやしにするのか───」
叔父に父親を殺され、母親までも奪われたハムレット。
自分の命さえ叔父に狙われる可能性がある今、彼は皆の前では狂気を装う。
だが独りの時には、そんな自分に葛藤する。
ハムレットに於いては最も有名な台詞だ。
そこにやってくるのはオフィーリア。
ハムレットの恋人だ。
演じているのは、一つ下の後輩。
小鳥を思わせる高めの声、体育館の舞台でもよく響く声で彼女は僕に言う。
「ハムレット様、この頃お体は?」
「優しい言葉に恐れ入った。元気、元気、大いに元気だよ」
恋人の言葉に、ハムレットはそう言って微笑みかける。
オファーリアはほっとしながら。
「あの以前に頂いたものをお返し申し上げようと思って。どうぞお受け取りくださいませ」
「いや、それはできぬ。何もやった覚えはない」
「なぜそのようなことを……よくご存じの筈。優しい言葉があってこそ、大切に思っておりましたのに。そのような思いが失せたのであれば、もはやどんな贈り物も蝋細工同然」
オフィーリアは胸の内から、宝石を取り出しハムレットに差し出す。
ハムレットを演じる僕はその時、敵方が彼女を使い、自分に探りを入れていることを思い出す。
「オフィーリアよ、お前は嘘がつけぬ女か?」
くすりと、皮肉っぽい笑みを浮かべ僕は問いかける。
「え……?」
思わぬ恋人の反応に戸惑うオフィーリア。
「それとも器量自慢か?」
「な、何故そのようなことを」
「なまじの美しさが貞淑な女を不義に陥れる。美人の操を守ることは容易ではない。時代がれっきとした見本を示している……そう、お前を愛おしいと思ったことはある。」
「ハムレット様、その時は本当に」
「そう信じ込んでいたのなら大間違いだ。愛しいなどは大嘘だ」
僕は震えるオフィーリアの顔をのぞき込み、愛を囁くかのような口調で最も残酷なことを言う。
「そ……そのようなことは」
首を横に振るオフィーリア。
そんな彼女にハムレットはこう、罵る。
「尼寺へ行け!」
あれ程までに気高く、優しかった恋人なのに。
すっかり人が変わってしまったハムレットに、嘆き悲しむオフィーリア。
舞台はそこで暗転となる。
舞台の周りでは拍手が起こった。
ふと気づいたら、舞台の周りにはギャラリーがいた。
ここの所、稽古を見学しに来る生徒が増えている。
あ……布結花ちゃんや、それに田賀崎先生もいる。その隣には、顧問の原石先生がいて。
汗を拭こうと、舞台から降りて、体育館の隅に置いてあるベンチに近づいてきた時、田賀崎先生と布結花ちゃんがこっちに近づいてきた。
「はい、イチ君」
田賀崎先生がスポーツドリンクをくれた。
よく見ると部員全員分なのだろう。
布結花ちゃんも籠の中に何本かもっていて、僕の傍にやってきた後輩の女の子にドリンクを渡していた。
それに他の女の子たちも籠をもっていて、舞台の上にいる大道具係の子なんかに渡していた。
へぇ、バスケ部とかバレー部だとこういった差し入れとかあったりする光景見られるんだけどなぁ。
でも一体誰が?
布結花ちゃんの方を見ると、彼女が。
「田賀崎先生からの差し入れ」
と言った。
「うわ……ど、どうもありがとうございます」
僕は田賀崎先生にお礼を言った。
「いいのよ。この前バスケ部の差し入れがあるの見た時に、そういえば演劇部にはそういうのないなって思ったのよ」
彼女はそう言って僕の肩に手を置いた。
う……嬉しいかも。
あ、僕としたことが、布結花ちゃんの前でデレデレしてしまったよ……って、後輩の女の子と話していて全然こっち見てないし。
そりゃそうだ。
彼女が好きなのは僕じゃなくて、アキだもんな。
「イチ君」
不意にしっとりとした声が耳に掛かる。
「は……はい」
僕はどきりとして胸を高鳴らせた。
あう……た、田賀崎先生もいいよなぁ。
美人なんだけど、小首を傾げてこっちを見ている目がなんかまだ少女みたいで。
「な、何ですか?」
「明日の放課後、少し時間開いてるかしら?」
「え……」
「視聴覚室に来て欲しいの。一人で」
な、なんと!?
これはもしかすると、もしかして……。
彼女はにっこり笑って僕に言った。
「中間テストの補習。あなただけまだなの。三十分だけ時間ちょうだいね」
「……………………はい」
束の間、甘い空気が周囲に醸し出されたと思ったのに、どうもそれは幻だったらしい。
僕は少しテンション下がりながらも、がっくりと項垂れた。
「じゃ、稽古がんばってね」
片目を閉じて、手を挙げる田賀崎先生。
つられて手を挙げる僕は、半分ローテンション、半分は彼女のお色気にノックダウンされた状態で、ボウッとしていた。
「あーあ、いいよなぁ。主人公様は美人先生直々にドリンクもらえるんだからよ」
「……田野」
現在、ハムレットの友人ギルデンスターンを演じている後輩。
同時に僕の代役としてハムレットの稽古もやっている。
自分の出番が無いときはハムレットとして、他の部員と台詞あわせをしたりもして。
ここ、明王学園高校の理事長の孫にあたり、原石とは従兄弟の間柄。
彼は、当然の如く主役は自分がなるものだと思っていたようだ。
しかし部員の多数決により、主役は僕になった。
それが悔しくて仕方がなかったらしく、田野はことあるごとに僕に嫌みを言うようになった。先輩後輩という概念は彼の中にはないようだ。
田野は顔はいいけど、演技力はもう一つだ。
ハムレット代役の時は、彼専用の短いハムレットの台詞が書かれた台本が用意されている。それは、従兄弟である顧問の原石先生が用意したらしい。僕にだけ密かに「これ、中学生用のなんだけどね」と苦笑い混じりで言っていた。
田野は貰ったスポーツドリンクをごくごくと一気に飲み、ふたを閉めると、まだ残っているそれをぽいっと体育館の隅に投げた。
もちろん、そこにゴミ箱があるわけじゃない。
演劇部の女の子がそれに気づいて、ペットボトルを拾い、傍にある椅子に置いておいた。
そんことがありつつも、その日も無事に通し稽古は終わった。
文化祭本番まであと一週間のことだ。
そしてその日、僕は委員会で遅くなったアキと共に、家路を歩いていた。
学校の校門を出て、二十分。
僕とアキの家は方向が違うのでここで別れることになる。
「今日はウチに寄っていかないのか?」
「うん、家でいろいろやることがあるし」
努めて明るい笑みを浮かべて、僕は言った。
正直、自宅には帰りたくない。
家には継母と異母弟しかいない。
ま、異母弟はまだ可愛いからいいんだけど、継母がね。
僕は父の後妻であるあの女と、うまくいっていなかった。
特に異母弟と一緒にいると、継母はそれを凄く嫌がった。
何故だか分からない。とにかく僕を敵視する。
そして父親も、そんな継母に釣られるかのように僕から遠のいていた。
家に居づらい環境なので、しょっちゅうこいつの家に寄っては遅く帰ったり、あるいは泊まったりしていた。
そういった家庭の事情はこいつには話したことがない。
こいつは母子家庭で。
父親という存在にすごく憧れていて。
少しでも僕が自分の父親の愚痴を言うと怒るぐらいだったから。
そんなこいつに今の僕の状況を話して、悲しい気持ちにさせたくないと思ったから。
僕はなかなか家に帰らないワガママ坊やを演じていた。
でも、時々はちゃんと自宅に戻らないとね。
あんまり帰らないと、体裁を気にする父親に文句を言われるのは面倒だから。
「じゃあ、また明日」
「またね」
僕とアキはそこで別れた。
空は黄昏。
一瞬、風が冷たく感じた。
アキの背中をしばらく見送ってから、僕は歩き出した。
薄暗くなった歩道を歩いていた時。
車が凄いスピードで走ってくるのに気づいた。
でも歩道を歩いていたので関係ない、とその時の僕は思い振り返らなかった。
あの時、何事か振り返れば事態は変わっていたか。
振り返っても事態は変わらなかったか。
耳をつんざくようなブレーキ音。
僕が振り返った時、黒い車が歩道を乗り上げこちらに向かってきていた。
ライトがまぶしいと感じた時、身体が宙に浮いていた。
何が起こったのか分からない。
気づいた時、僕の身体は宙に浮いていた。
あと記憶に残っているのは、車が走り去る音。
静かだった住宅街が、にわか騒がしくなって。
そしてサイレンの音が聞こえたのが最後の記憶だ。
「あの事故以来、イチ君って演劇部に顔出さなくなったって、布結花が言っていたよ?」
「うん、実はあの後、今所属している劇団の主宰者と出会ったんだ。最もその時は、まだ劇団の主宰者でもなんでもなかったんだけど、その人の元に通い詰めるようになっちゃってさ」
「へぇ!イチ君ってどこの劇団所属だったけ?」
「KONだよ」
「あら!結構有名じゃない。特にあの人!ほら!名前思い出せないけど」
「名前思い出したら、サイン貰っておくよ」
僕は苦笑しながら言った。
あれから翌日。
僕らは今、川村の自宅兼整備工場の裏手にある山を登っていた。
佐島は昨日、某シティーホテルの部屋で何者かに刺殺されている所を、ホテルの従業員が発見。110番通報したのだという。
死人から話が聞けない今、もう一度川村に話を聞こうと思ったのだけど、一足遅かったらしい。
警察は佐島殺しの容疑者として、川村を連行した後であった。
カオルの話によるとどうも佐島に借金をしていたとか。
とりあえず、車の整備をしていた父親に話を聞くことにした。
彼は息子が連行されたというのに、随分と無関心に作業を淡々と続けていた。
「あれのことはよく分からんよ。なにやら悪い人間とつるんどったようだがな。まぁ、人殺し出来るような性格じゃない。すぐに戻ってくるさ」
父親として子供を信じているのか?
はたまた、やっぱり無関心なのか。
平然と喋る父親に異様さを覚えながらも、僕はふと工場のから見える小さな山の方をみた。
山のような、丘のような……微妙な所だがやはり山と呼ぶべきであろう。麓の雑木林が鬱そうとしている。
「あの、あの山って川村さんの持ち物なんですか?」
「ん?ああ……まぁな。地盤が悪いとかで、大した高値にはならないらしくてな。売ることも出来ず、あのまんま放置よ。昔は馬鹿息子どもが、あそこでタバコ吸ってやがったな。火事になるからやめろ、と注意したが聞きやしねぇ」
「あんな暗いトコでタバコ吸っていたんですか?」
信じられないと言わんばかりの夕紀に、川村の父親は肩をすくめた。
「何、あの山は登るとちょっとした広場になっていてな。悪ガキが何かするにはもってこいの場所だったわけだ」
「……」
僕と夕紀ちゃんは、顔を見合わせた。
もしかしたら、佐島もここに来ていたのかもしれない。
そう思うと、何だか無性にあの山が気になりだした。
僕らは川村父に許可を貰って、山を登ることにした。
なだらかな坂だけど、舗装していない為足下が悪い。
雨だったらかなりぬかるんだ状態になるんじゃないだろうか。
時々落ち葉で滑りそうになりながらも、最後にある急な坂を乗り越えてから僕らは頂にたどり着いた。
山の頂上に着いたというよりは、雑木林から出た、という感覚がした。
川村の父親の言うとおり、頂はちょっとした広場になっていたのだ。
しかも───
「うわ……」
「す、凄い」
僕らは一瞬視界が白になった。
その広場は、なんと一面の蒲公英畑だったんだ。
しかも白い蒲公英だ。
それはふわりと風に乗って、無数の綿毛が雪のように広場を舞っていた。
「白い蒲公英か……思い出すなぁ」
幻想的にも見えるその光景にうっとりとしながら、僕は呟いた。
「思い出すって何が?」
「昔、布結花ちゃんにあげたんだ。白い蒲公英が珍しかったから……」
「私、白い蒲公英って初めてみた」
「こんな所にも生えていたんだなぁ」
僕はその蒲公英を一つとった。
黄色い蒲公英ほど花びらの数は多くない。真ん中はもしゃもしゃとした黄色の雄しべがある。
僕が布結花ちゃんにこの花をあげた時には、既にくったりとなっていた。
でも三日後、何をどうしたのか、彼女は元気になった白い蒲公英写真を僕に送ってくれた。蒲公英は、彼女の家の庭に植えられていた。
しばらくして綿毛になったそれを僕に見せて言ったんだ。
「この種、庭に飛ばしてみるね」
彼女は蒲公英の種をテッシュにくるんで、制服の胸ポケットの中にいれたんだ。
……そういえば、その翌日だったな。
彼女が学校に来なくなったの。
唐突に消えた布結花。
彼女はどこに行ってしまったのか。
一体、どこに───
……あれ?
何だろう?
何かひっかかる。
『イチくん……』
不意に思い出す、布結花の声。
突如、僕の目の前は真っ暗闇になった。
『イチくんってば』
もう一度、僕を呼ぶ声。
とっても澄んで可憐な声だった。
合唱部だった彼女は、歌もそれはそれは透き通るような声だった。
振り返ると、黒のキャンバスの中に白い光をみたような気がした。
『ふ、布結花ちゃん……』
声の主、布結花ちゃんはにっこりと笑う。
僕はどきりと胸を高鳴らす。
やはりいつみても彼女の笑顔は魅力的だ。
何とも言えない愛らさが、そこにはあった。
彼女の手には白い蒲公英の花束。
『布結花ちゃん、それ』
『うん。イチ君がくれたもの。もうこんなにたくさん増えたのよ』
白い蒲公英の花は、闇の中異様なほど真っ白に映えていた。
僕は目を見張る。
蒲公英はやがて、つぼみのように花を閉じた。
そして再び開いたときには、それは綿毛となって空へ飛んだ。
『綺麗でしょ?イチ君』
くすくすくすくす、彼女の鈴の音を鳴らしたような笑声が空間に響き渡る。
白い綿毛は、闇の中光る灯火のようにもみえた。
ふわりふわり舞う白い灯火。
しかし、次第に増えてゆく綿毛の異様な多さに、僕は訝しげに布結花の方を見た。
「……!?」
なんと布結花ちゃんの手足もまた綿毛となって、次第にその姿を消そうとしているのだ。
くすくす、くすくす笑う布結花。
布結花ちゃんの姿はみるみると綿毛に変わって、闇の空間を漂うことになる。
イチ君……
イチ君……
どこからとも無く聞こえる声。
「イチ君ってば!!」
先ほどの布結花ちゃんとは180度違う、気の強そうな声。
この声には聞き覚えがある。
布結花ちゃんの友達、夕紀ちゃんだ。
「……あ、あれ?」
「何ぼーっとしてんのよ?」
「……あ、ごめん」
「ねぇねぇ、イチ君。今、白い蒲公英のこと調べていたんだけど、この花って関東地方じゃ珍しいらしいよ?」
携帯の植物サイトにアクセスしたのであろう。
「シロバナ蒲公英って、西の方に多く分布しているんだって」
「うん、僕が布結花ちゃんにあげたのも岡山で採ってきたものだったんだ」
「へぇ、そうなんだ。もしかしたら布結花が植えた蒲公英が、ここまで飛んできたりしてね」
「そんなまさかぁ」
「そうだったら、ちょっとロマンがない?」
いいながら彼女は蒲公英の綿毛を手にとって、ふっと飛ばした。
……本当にそうだったら。
この花が昔、僕が布結花ちゃんに送った花の子供たちだったら。
……。
……。
……。
僕は、その瞬間。
ゆっくりと目を見開いた。
……まさか。
いや、そんなことは。
僕は、恐る恐る、もう一度夕紀ちゃんに尋ねた。
「この花……関東では珍しいって、今言ったよね」
「うん。この辺は殆ど黄色い蒲公英だって」
「……行こう」
僕は夕紀ちゃんの手を引いた。
「行くって、どこに!?」
突然山を下りだした僕に、目を白黒させる夕紀ちゃん。
……まさか、そんなことはあり得ないだろう。
……でも、布結花ちゃんが行方不明になったのは、あの後。
……決して、あって欲しくはないけど。
僕は祈るような思いで下山し、もう一度川村の家の戸を叩いた。
「何だね?昼飯中に」
あからさまに嫌そうな顔をしながら出てきた川村の父親に、僕は頭を下げてから尋ねた。
「あ、あの、この花って、以前からあの広場に咲いていたんですか?」
僕は先ほどとった白い蒲公英の花を川村の父親に見せた。
「あん?……いいや、そんな花は最近まで咲いてなかったよ。ここ、5、6年ぐらいじゃないか。あんなに増えだしたのは」
「じゃあ、もっと前は?」
「さぁ?その数年前ぐらいだったら、まだちょこちょこ咲いていた程度かな。俺もしょっちゅうあの山に登る訳じゃないし。ガキどもがゴミを散らかすものだから、それを片付けに行ったぐらいだ」
「そう……ですか。ありがとうございます」
僕は川村の父親にもう一度頭を下げた。
「ちょっと!イチ君、どうしたの?」
川村の家を後にし、ふらふらと歩く僕に夕紀ちゃんが叱咤するかのように声を掛ける。
「……」
僕は立ち止まり、夕紀ちゃんの方を振り返り。
「カオルの所へ行こう」
「え……カオル君の所って、警察ってこと?」
「うん」
僕が頷いた時、丁度携帯電話の着信音が鳴った。
カオルからだ。
「もしもし!?」
『……イチか?』
「う、うん。実は君に聞きたいことが……いや、君じゃなくて川村に聞きたいことが」
『それは後にして、その前に俺の話を聞いてくれや。さっき、死んだ佐島の部屋を調べとったらな、とんでもないもんが出てきたんや』
「……とんでもないもの」
『パソコンなんやけどな。データーが消されとった形跡があったから、データーの復旧を頼んだんや。そうしたら出てきた映像が布結花の映像やった』
「布結花ちゃんの……どんな映像だったの」
『口では言えない映像や』
「そんな」
絶望に近い予感。
いやもう、予感ではない。
僕が考えていたことと、カオルが言っていることがつながろうとしているんだ。
『夕紀はそこにおるんか』
「うん」
『……あんまり聞かせたないんやけどな。だけど、あの性分じゃ納得もしないか』
「……」
僕は夕紀ちゃんの方を見る。
布結花ちゃんの名前が僕の口から出てきた時点で、彼女はこっちをじっと睨むように見ていた。後で電話の内容を教えろ、という構えだ。
それに、どんな辛い事実でも彼女は知りたいと思うだろう。
何しろ今、彼女は新聞記者なのだから。
僕は電話を切って、夕紀ちゃんの方を見た。
「何……布結花がどうしたの!?」
「……」
「イチ君!!」
「夕紀ちゃん、凄く辛い事実を聞くことになるかも知れないけど、それでも知りたい?」
「それが事実なら、私は知りたい」
迷いのない眼差しで、はっきりと答える。
思った通りの答えだ。
「じゃあ、行こう。カオルの所へ」
「イチ君……」
「僕もまだ詳しくは聞いていないんだ。だけど、これだけは分かる。八年前、布結花ちゃんが消えた理由が分かるかも知れない」
K署
僕らは捜査一課の隅にある応接間に案内された。
そこには、カオルともう一人。
初老の刑事が待っていた。
「こちらは俺の上司で、警部になる西賀さんや。一族全員、警察ファミリー、K署のサラブレッドや」
「余計な紹介するな」
西賀と紹介された刑事は、カオルを軽くこづいてから僕らに頭を下げた。
優しそうな顔つきのその刑事さんは、にこやかに笑って僕らに席を勧める。
「現在、丹生には捜査からは外れて貰っているが、被害者の同級生として聞きたいこともあるのでな。それで君たちにも色々話を聞こうと思い、ここに来て貰ったんだ」
「あ、あの……私、布結花の……結城布結花の同級生なんです。イチ君から聞きました。
佐島君の部屋から布結花がうつっている映像が出てきたって」
尋ねる夕紀ちゃんの声は震えていた。
何となく彼女にも想像がつくのであろう。
佐島が持っていた布結花の映像。
隙あらば自分たちにからんでは、人気のない場所に連れ込もうとしたりしていた連中だ。想像がつかないわけがない。
西賀さんはカオルと顔を見合わせてから、辛そうな面持ちで言った。
「結城布結花さんの映像は、数人の男たちに取り押さえられ、乱暴されかかっている所でした」
「───」
嘘であって欲しい、と思っていた想像が現実の言葉となった。
夕紀ちゃんはぐっと拳をにぎりしめ、泣きそうになる声を押さえながらも西賀さんに尋ねた。
「それで……布結花は」
「彼女は必死に抵抗していました。あまり抵抗がひどかったので、誰かが彼女をなぐりましたが、それでも抵抗は止まず、一人が彼女の頭を強く床にたたきつけました……彼女の頭からは血が流れ、映像はそこまでです」
「……」
「ビデオに映っていた三人……一人は川村、一人は佐島やった。そして後一人……信じられんのが写っておった」
「信じられない?」
「ああ。俺が考えるにもしかしたら、アキもそいつに殺されたんかもしれん」
「───」
「あいつは、なんらかの機会でこのことを知ったんちゃうやろか?曽根ちゃんが言うてたやろ?アキと佐島が言い合っていたって」
「……」
僕の目がゆっくり見開かれた。
アキを殺した犯人。
絶対に、絶対に許せない犯人だ。
「しかし……佐島殺しの疑いで連行は出来るが、村瀬暢秋に関してはそもそも殺されたという証拠がない」
西賀の言葉に僕は唇を噛んだ。
真犯人を捕らえられたとしても、あいつを殺した事実が浮かばなければ意味がない。
「ねぇ……カオル君。それじゃあ、布結花は、その人たちに殺されたってこと」
「ああ、恐らく。死体は恐らく村瀬のように海に捨てられたか、あるいはどこかに埋められたか」
「……」
僕は両目を閉じた。
白い蒲公英
最初に見たあの夢は、布結花ちゃんからのメッセージだったのかもしれない。
僕はあの時から真実を見ていたんだ。
だからこそ、僕はここまで来たんだ。
君に導かれるかのように。
「カオル」
「なんや、そういえばお前も何か聞きたいことがあった言うてたな」
「聞きたいことは、今ので殆ど聞けたよ。カオル、僕……布結花ちゃんの居場所分かったかもしれない」
「え───」
誰もが驚いて僕の方を見た。
「居場所が分かったって、イチ、それホンマなん?」
僕は頷いた。
そして一度夕紀ちゃんの方を見てから、僕は二人に向かって言った。
「布結花ちゃんは、川村の家の裏山に埋められていると思います」
夕紀ちゃんはその時、初めて気づいたように「あっ!」と叫んだ。
「そういえば……あの山の頂にたくさんの白い蒲公英が」
「関東ではきわめて珍しい花だよ。僕はそれを布結花ちゃんにプレゼントした。しばらくして綿毛を僕に見せて、彼女は言ったんだ。これを庭に飛ばす、と。彼女はそれからその綿毛を自分の制服の胸ポケットに入れたんだ…………彼女が居なくなったのはその翌日……いや厳密に言うと、その日の放課後だったわけだ」
「そういえば川村君のお父さんが、あの花が群生しだしたのはここ五,六年で、昔からあったわけじゃないって」
「僕が彼女に蒲公英の花をあげたのが八年前。奇跡的に蒲公英の花が咲いて、年々増えていったのだとしたら」
西賀がその時立ち上がり、刑事部屋にいる刑事さんたちみんなに命じた。
「大至急、川村整備工場の裏山を調べろ」
「警部、俺も一緒に」
立ち上がりかけるカオルに、西賀は首を横に振った。
「お前は捜査から外されていることを忘れるな。今回も遺体の確認をしてもらうのに呼んだだけだからな」
「……」
「お前は同級生の力になってやれ」
西賀はそう言って、カオルの肩を叩いた。
3-2の教室にてお待ちしております。結城布結花について大切な話があります。
村瀬暢秋
放課後───
自分のデスクに戻ったその人物は、一枚の紙が乗っているのに気づいた。
そして書かれている内容を目にしたとたん、目を見開き紙を握りつぶす。
あり得ない。
何故、この名前がここで出てくる!?
まさか、あのことを知っている人間がまだいたのか。
いや……いるにはいるだろう。
しかし、彼は今警察に拘束中のはず。
その人物は、紙に導かれるまま、3-2の教室に駆け込んだ。
黄昏時。
あるいは誰彼時というべきか。
人の見分けがつきにくい時分だ。沈み掛かった西日の逆光が邪魔で、教室に立っているのが誰だか分からない。
薄暗い教室の中教室の中、その人物は訝しげに声を掛けた。
「川村か?……もう、警察から釈放されたのか」
穏やかな声で尋ねる。
暗闇の中、立っている人物は黙り込んでいた。
「何故、村瀬の名で俺を呼び出した?いくら欲しい」
さらに問いかける声に、人影は口を開いた。
「やはり……あなたが殺したんですね。布結花を。そして口封じに佐島も殺したわけだ」
川村の声ではない。
聞いたことがある声だ。
その人物は信じられない、と言わんばかりに首を横に振る。
「そ、その声は馬鹿な」
この世にはあり得ない声だ。
誰かが真似ている?
でも誰が?
「馬鹿?どうして馬鹿なことがあるんです。俺は生きていますよ?」
声の主がゆっくり近づいてくる。
薄暗闇の中でも見えるぐらいに。
「……あ……あ……」
その人物は蒼白になる。
声だけじゃない。
顔も本人そのもの。
この手紙の差出人、村瀬暢秋そのものだ。
「そ、そんな……確かにあの時お前は死んだ筈」
「死んでませんって。俺はこの通り生きていますよ?」
村瀬暢秋はにっこりと笑う。
そして囁くようにその人物に言った。
「本当は生きていたんですよ」
「嘘だ……あの崖から落とした……助かるわけがない……どうやって助かったんだ?」
「打ち所が良かったのでしょう」
「あり得ない!!……そうだ……お前には大量の睡眠薬を飲ませていたんだ。目が覚めるわけがないし……あの時点で死んいたはずだ!!」
既にそこにいるのが何者だか分からない。
夢か幻を見ている心地なのであろう。
「それに死体は佐島が……佐島が部下と一緒に海に棄てた……確かに棄てた筈だ!!お前が生きている筈がない。貴様ぁぁぁ、何者だ!?」
もはや正常な判断ができないのであろう。
闇雲に村瀬暢秋に飛びかかろうとする、その人物をを後から羽交い締めにし、思い切り腰を強く蹴る男がいた。
その人物が痛さに叫び跪いたと同時に、教室の電気がつく。
電気をつけたのは、夕紀ちゃんだ。
そして、犯人であろう人物を取り押さえたのはカオルだった。
「今の言葉、自白としてしっかりビデオに収めてもらいましたわ。後で否認してもかまわんけど、どちらにしてもあんたは、佐島殺しで逮捕される。佐島の爪には犯人に抵抗したであろう血液が付着しとったしな。明らかな物的証拠や」
「……」
「それと、佐原の部屋にあったパソコンの中に、あんたと佐島が布結花を」
「……!」
「HDにはあんたが抵抗する布結花を殴り、彼女床に頭をぶつけて倒れる所まで写っていました。恐らく、DVDハンディカムのディスクから落としたものやろうね。あなたはこれをネタに今後も布結花を脅す予定やったが、逆に佐島から脅されるネタになってもうた。あんた、佐島から随分お金を無心されていたみたいやな?」
「……」
「だんだん金銭的に苦しくなってきた、あんたは金を渡すといって、佐島を呼び出し殺した。それから奴の自宅に行き、DVDを処分した。パソコンのデータも消したつもりでいたみたいやけど、普通の削除ツール程度だと、すぐに復旧するんですわ」
僕は教室に蹲る犯人の名を呼んだ。
「須藤先生」
「!」
教室に蹲る犯人、須藤は顔を上げた。
その目は恐怖に見開かれていた。
「お前は一体誰なんだ……?」
震える声で問いかける。
僕は……いや、今まで村瀬暢秋に扮していた僕は、いつもの黒縁眼鏡をかけた。
そしてセットした髪もざんばらに。
「市藤……お前」
「ええ、市藤です。俺の演技力もなかなかのものでしょ?」
驚きを隠せない須藤に、僕は低い声で問いかける。
「先生……アキ……いや村瀬暢秋を殺しましたね?あいつはなんらかの形で、布結花ちゃんが行方不明になった事件の真相を知ってしまった」
「偶然だったんだろうよ。あいつは聞いていたんだ。俺と佐島のやりとりを。それで俺たちを問いつめだしたから」
「殺して海に棄てたのか……アキを」
怒りに震える僕の問いかけに。
須藤は叫んだ。
「殺すしかなかったんだ!あいつ、正義面して警察へ行け!とかぬかしやがって。結城のことは……あれは事故だったんだ」
「何が事故だ!あんた……布結花ちゃんを呼び出して佐島と川村とで」
「ちょっとした遊びのつもりだったんだよ。彼女だって男の良さを知れば、そのうち一緒になって楽しむようになると踏んでいたしな」
引きつった笑みを浮かべる須藤の言葉に、夕紀ちゃんはかっと目を見開く。
そして憎しみを込めた眼差しを向け、震えた声で言った
「あんたみたいな最低最悪な人間、見たことがない……!!」
「ふん、結城の次はお前の予定だった」
「───」
須藤の言葉に、僕の中で何かが切れた。
コイツ生徒を何だと思っている?
人を、何だと思っているんだ!?この男は!!
僕は須藤の胸倉を掴んだ。
「よくもアキを……アキを……」
「い……市籐……」
「殺してやる!」
「俺を殺したら……お前は現行犯で逮捕だ」
せせら笑う須藤。
だが、僕もその時ふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
「……!?」
僕は一方の手を胸倉から外し、胸ポケットからナイフを取り出す。
そして胸倉を掴んでいた手で須藤を壁際に追い詰める。
ゆっくりと須藤の顔をのぞき込む。
「幸い、あんたが僕らと会っているのを知っているのは、ここにいる三人しかいない」
くすりと笑みをこぼす僕に対し、須藤は絶句する。
「な……」
須藤は目を見開いたまま、僕の目を見る。
狂気に彩られた殺人鬼の眼差しを僕は須藤に突き付ける。
その目を見ただけで、人間を恐怖のどん底へたたき落とすことも可能だ。
僕はありったけの憎しみを、この男の目に注いでやった。
そしてナイフを振り上げる。
胸に刃を突き立てる。
「ひ……」
その瞬間、須藤は白目をむいてその場に卒倒した。
警察がこの学校に駆けつけたとき、須藤は意識を取り戻したものの、まだ呆然としていた。
「しかし、よう出来てるな、そのナイフ」
「舞台用のナイフだからね」
僕がナイフの先っぽを推すと、刃はそのまま柄の中に収納される。マジックとかでも使われるオモチャみたいなもんだ。
でも、須藤は本気で殺されると思ったみたい。
ま……僕の演技も満更じゃないってことだろう。
カオルがは須藤を立たせ、手錠をかけた時、彼はわずかに自嘲めいた笑みをうかべて言った。
「まさか、お前みたいな奴に逮捕されるとはな」
「嫌だったら俺の先輩に連れて行って貰います?俺ほど優しくないですけど」
嫌み混じりに尋ねるカオルに須藤はうなだれた。
さんざん馬鹿にしてきた生徒が、よもや自分を逮捕することになるなど、八年前だと想像もしていなかったことであろう。
「このことは、毎読新聞でも書かせていただきます」
夕紀ちゃんの言葉に須藤は、肩を震わせて笑った。
「友人の恥を世間に晒すというわけか」
「真実を伝えることが仕事ですから。それと友人の恥ではなく、あなたの罪を書くつもりです」
「……」
こうして須藤はカオルの言う、厳しい先輩刑事たちに連行されていった。
警察が去るのを見送るカオルに僕は問いかける。
「一緒に行かなくていいの?」
「ああ」
「でも……」
「それよりも、もう一人来てもらわなあかん人間がおる」
「え……」
僕は眉をひそめた。
まだ犯人がいるというのだろうか。
須藤だけが犯人じゃなかったのか?
するとカオルは僕の顔をじっと見て言った。
「そいつは布結花とアキの事件には直接は関わってはいない。だけど……偽証した罪だけは償ってもらわんとな」
「偽証?」
「ああ、偽証や」
学校の屋上に、その人物はいた。
手すりに凭れて、ほどんど沈んでいる夕日に目を細めていた。
僕とカオル、そして夕紀ちゃんはその人物に近づく。
彼は穏やかに笑って僕らの方を見た。
「須藤君、逮捕されたみたいだね……自業自得、というべきかな」
「何故、嘘をついたんですか?アキが殺された日、あなたは須藤と同じ当直だったと言っていた……でもその時須藤はいなかった」
「……」
「原石先生!」
僕はその人物の名前を呼んだ。
原石は空を見上げ、しばらく黙っていた。
けれども。
「……僕も脅されていたんですよ。佐島に」
「……え?」
「最初は八年前の事をバラされたくなかったら、一千万よこせとか言ったかな?」
「八年前?」
「うん。僕は別にバラされても良かったんだけどね。事件は既にもみ消されている。証拠もない君の戯言なんて誰も信じないって言ったら、彼はすぐに引き下がったよ。ただ噂を立てられるのは嫌だろう?ちょっとした頼み事だけでも聞いてくれないか?って言われたんだ」
「八年前の事件……」
布結花ちゃんの事件とは、また別の事件ということだろうか。
「ちょっとした頼み事だったらかまわないよって言ったら、須藤君のアリバイを証明してくれって」
「……どうして、そんな」
その時原石先生は初めて僕の方を見た。
彼は。
皮肉っぽい笑みを浮かべていた。
「……まさか、あの事故が君にとって、さらなる高みを歩ませるきっかけになるとは思わなかったな」
───あの事故。
僕はまさか、と思った。
歩道に乗り上げ、僕を引いた車。
そして逃げていった車。
「あんたがイチをひき逃げした真犯人だったわけや」
既に知っていたのであろう。
カオルはさして驚いた様子ではなかった。
「あのひき逃げに関しては、原石財閥からの圧力があったって交通課の人間が嘆いていたからな。おおかたの犯人の見当はついとったらしいが」
「原石先生、どうしてイチ君を……?」
問いかける夕紀ちゃん。
原石先生は、穏やかに笑みをたたえたまま俯いて言った。
「ユウヤがね、泣き言ばかり言うんだよ」
「ユウヤ?」
一瞬首を傾げたけれども、それが後輩の田野のことであるのを思い出す。
田野ユウヤ……そういえば、原石先生とあいつは従兄弟同士だった。
「どうしても主役を演じたいって。何とかならないか?って」
「まさか、それだけで?」
怪訝な顔をする夕紀ちゃんに、原石先生は首を横に振る。
「それは一つのきっかけ。僕はね、市籐君。君にずっと嫉妬していたんだ。昔役者を夢見ていた僕……だけど夢と実力が伴わなかった。けれども君には夢を追う実力があった。それが死ぬほど羨ましかった」
「そんな……」
首を横に振る僕に対し、原石先生の笑みが消えた。
「それに君は、僕が結婚を考えていた女性の心まで奪ってしまった」
「え」
「田賀崎響子と僕は付き合っていたんだ。僕がプロポーズした時、彼女泣きそうな顔でこう言ったんだ。自分にはその資格がない。別の人に心を動かされてしまったって」
「……」
「それが君だって分かった時、どんなに激しい嫉妬に駆られたことか。君は夢を追いかける実力もありながら、僕の最愛の人の心まで易々と奪ってしまった。……君を消してしまいたいという衝動にかられたんだ」
拳を手すりにたたきつけながら、彼はその時初めて悔しそうな表情をした。
僕は───
まだ信じられない思いと、徐々にわき上がる悲しい思いに声が出なかった。
だってこの先生は、演劇部の先輩に疎まれていた中、僕の実力を誰よりも買ってくれた人だった。ロミオとジュリエットの代役に僕を薦めてくれたのもこの人。
そんなふうに思われていただなんて。
「ユウヤは君が事故にあったと聞いて、凄く喜んでいた。あの事故以来、君は演劇部に顔を出さなくなった。そしてついには学校を辞めてしまった。あの子はね、天下をとった気分でいたよ」
「……」
「ところが数年して、ある劇団が頭角を現しだした。君が所属する劇団KON。しかも君はそこの看板スターとして脚光を浴びることになった」
「……」
「か……看板スターって確か……」
夕紀ちゃんはびっくりしたように僕の方を見ていた。
「工藤潤」
原石先生が僕のもう一つの名前を呼んだ。
市籐の名前は使いたくなかったから。
僕は当たり障りのない芸名を名乗っていた。
「舞台ではそう名乗っていたけれども、君の写真を見て僕にはすぐ分かった───そしてユウヤにもね」
「……」
「ユウヤは凄く悔しがって、なんとかあいつを陥れられないのか?ウチの力でなんとかならないのか?とまた泣きついたけれども、さすがの原石も小さなこの町では顔が利いていても、芸能界となるとね。もっと大きな財団や財閥が絡んでくるし……それに、君自身市籐グループという大きな組織の人間の一員だ」
「市籐には勘当されていますけどね」
「けれども無関係じゃない。あの時みたいに事故を装うことが出来たら簡単だったろうけど、そう何回も出来る事じゃない。あの事故をもみ消すのだって、祖父がどれだけ尽力を注いだことか」
「……」
原石先生は肩肘を屋上の手すりに付け、その手で額を覆った。
「君のような人間を陥れるには、自分はあまりに小さな人間で……そして自覚したんだ。僕はこの学校の中でしか生きられない鳥にすぎなかったことを」
「……」
「……」
僕と夕紀ちゃんは何も言えず、そんな教師を見つめることしかできなかった。
カオルは原石先生に歩み寄り
「……行きましょう」
と、言った。
原石先生は頷いて、素直にそれに従う。
日は完全に暮れていた。
西の空だけはまだ茜色だけど。
薄暗くなった屋上だけど、原石先生の横顔だけは僕の目に鮮明に焼き付いた。
カオルに連れられた彼の横顔は、何となく安堵したようなそれに見えたのだ。
そして。
裏山の蒲公英畑からは、白骨死体が埋まっているのが発見された。
殺された結城布結花のものであった。
八年前───
家路を歩いている時だった。
アキと別れて、一人閑静な住宅街を歩いていた時、耳をつんざくようなブレーキ音が背後から聞こえた。
後ろから車が来ているのは分かっていたけれども。
まさか歩道を乗り越えて、僕に向かってきているなんて思わなかったんだ。
気づいた時、僕の身体は宙に浮いていた。
あと記憶に残っているのは、車が走り去る音。
静かだった住宅街が、にわか騒がしくなって。
そしてサイレンの音が聞こえたのが最後の記憶だ。
次ぎに意識を取り戻した時には、僕は入院ベッドの上にいた。
足にはぐるぐる包帯が巻かれ、肩にも包帯が巻かれて。
思うように動かない手足に、僕は絶望感を覚えた。
(嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!)
何度も首を横に振って、これは夢だ、早く醒めてくれ!と願った。
もうすぐ文化祭当日なのに!
今まで練習してきたハムレットを演じる時がきたのに。
それなのに、どうして腕が上がらない?
どうして足が動かない!?
今まで積み上げてきたことが、こんなことで無に消えてしまうなんて!
何で?
どうしてこんなことになってしまったんだ!?
三日後 文化祭当日。
僕は看護婦さんに内緒で、ベッドから抜け出して病院の屋上にいた。
空は雲一つ無い快晴だ。
文化祭日和だなって思った。
結局ハムレットは代役の後輩が演じることになった。
二回も代役が演じることになるなんて、ウチの学校の文化祭は呪われているのかもしれない。
去年、僕自身も急病の先輩の代役で、主役を演じたのだから。
何の因果なんだろう……って思わずにはいられない。
僕はすっと深呼吸をしてから、空に向かって言った。
「おお、満天の星!この大地!その他に何があるというのか?地獄?ええい、馬鹿な!しっかりしろ、気を確かに持て!五体を支える筋肉ども、萎えるなよ……」
ハムレットは、亡霊となった父親から自分は弟に殺されたこと。しかも王位と妻まで奪われたことを告げられる。
叔父と母の裏切りに、狂おしく嘆き跪くハムレット。
今の台詞はそんな状況から、自らを奮い立たせ立ち上がるシーンだった。
言いながら僕は自分の足を見る。
今は松葉杖でたてるけど……それでは舞台には立てない。
それができないもどかしさに口を噛みながら、僕はさらに言った。
「忘れるなと?哀れな奴、心配するな、このひっくり返ったおもちゃ箱の中に、少しでも記憶力が落ち着く余地がある限り大丈夫だ。忘れるなと?よし、本から本から覚えた金言名句、幼い目に映ったものの形や心の印象、一切合財、今まで記憶の石版に写し取っておいた愚にもつかぬ書き込みは、綺麗さっぱりぬぐい去り、ただ貴様の言いつけだけを、この脳中の手帳に書き込んでおくぞ。その他の由なしごとは消えてしまえ───うむ、きっとだ!おお!何という非道の女!それにあの悪党……悪党めが!あの男は微笑みながら、大悪党だ!手帳にはっきりと書き込んでやる!」
僕は手帳に呪いを込めて、叔父の悪行を書き連ねる仕草をする。
散々練習してきたハムレットの台詞だ。
シェイクスピアの台詞はとりわけ長い台詞が多いけど。
ハムレットはその中でも名台詞が多く、なおかつ演じるのが難解な役所だ。
と、その時だった。
バン!
屋上の扉が勢いよく開かれた。
僕はぎょっとして、演技を中断し、そっちの方を見る。
その人物が現れたのを見て、僕はさらに驚いた。
右手には松葉杖を持っていたけれども、その機能はあまり果たされていない。
杖の足の方を掴んでいて、その人自身は壁伝いに這いずるかのように屋上に出てきたのだ。
その人物は、ものすごく鋭い目で僕を睨んで一言言った。
「ヘタクソ」
……一瞬。
何を言われているのか分からなかった。
両足が効かないのか。
その人は立ち上がろうとするけれども、すぐに跪いてしまった。
「く……っ!」
憎らしそうに両足を睨みつける。
明らかに僕より不自由な身体の持ち主が、何故這ってまでここまで来たのだろうか。
しかも「へたくそ」って……。
そ、そりゃ自分が旨いとは思わないけど、今まで稽古を重ねて積み上げてきたハムレットを見知らぬ他人に、その一言で終わらされる覚えはない。
僕はかまわず続けることにした。
「微笑して、微笑をたたえながら、しかも悪党になり得る。この国ではどうやらそんなことができるらしい……クローディアス、もう逃れられぬぞ。さぁ我が身の守り言葉だ。
“父を忘れるな、父の頼みを”」
僕は松葉杖を剣に見立て、その場に跪いた。
すると。
「何だ、それは。それで復讐を誓ったつもりなのか?てめーは」
せせら笑う声に僕の眉がぴくりとあがる。
じろりとそいつを睨んでやると、その人物は壁に背を預けあぐらを?いて座ってにやにやと笑っていた。
「そうだよ、その目。今の目にもっと力を入れて、憎しみを漲らせろ」
「───」
僕は、一瞬息が止まりそうになった。
その時になって初めて、かの人物の顔をハッキリ見たのだ。
有名な舞台俳優だった。
舞台だけじゃない。
映画やドラマでも活躍していた人物だったけれども、不慮の事故で下半身不随になったという。
「い……伊東成海さんですか?」
「あ?」
「あなた、伊東成海さんですよね!?」
問いかける僕に対し、その人物は肩をすくめるだけだった。
改めて見たら凄くカッコイイ人だ。
鋭く切れ長の目に、よく鍛えられた肉体……それに今は座っているから分かりづらいけど、足も長い。背丈は180は優に超えている筈だ。
「舞台の上ではそんな名前名乗らされていたけどな」
「こ……ここに入院していたんですね」
「ああ、実家から近かったしな」
し、知らなかった。
伊東成海の実家って、僕の家の近くだったんだな。
「伊東さん、あの……」
「俺は今 泰介。伊東成海は芸名だ」
「じゃあ、今さんって呼べばいいですか」
「そっちの方がいい」
「今さんは、どうして屋上に?」
僕の問いかけに、今さんは両手で片膝を曲げ、片膝を立てた姿勢になりながら答えた。
「俺は真下のロビーにいたんだよ。そしたらへたくそなハムレットが上から聞こえてきやがったからな、イラっと来たから、注意しに来たんだ」
「す……すいません、うるさかったですか」
ヘタクソという言葉は傷ついたけど、屋上とはいえ病院で大声を出していた行為は迷惑行為他ならない。
「別にうるさかねぇよ。隣の病室のおっさんのいびきの方がうるさいぐらいだ……俺が言いたいのは、そんなんじゃねぇ。お前、何であんなところでハムレットやってたんだ?」
「それは……」
僕は文化祭の演劇の為にずっとハムレットを練習していたこと。
やっと練習の成果を出す時がきた時に、交通事故に遭ってしまったこと。
当日は代役の後輩が出ることになり悔しい思いをしたこと。
今までの努力はなんだったのか、そう思うと気づいたらここでハムレットを演じていた。 僕の話を聞いた今さんは、くだらんこと聞いたとばかりに、大きなため息をついた。
「……で、やけっぱちになって、ここでハムレットをやってやがったのか」
やけっぱち。
そうだ、僕は自棄になっていたかもしれない。
苛立ちをぶつけながら、ハムレットを演じていた。
「そ、そうです」
「自分の感情に偏っている時点で、まともに演じているとは言えねぇな」
「……」
「悔しいなら、その悔しい思いをハムレットの中に織り込んでみろ。これが悔しい思いだ、だがハムレットの悔しさはこれの何倍だ?何十倍だ?」
「……」
確かに、叔父と母に裏切られ、父親を殺されたハムレットの悔しさに比べたら、今の僕の悔しさはちっぽけなものだった。
「俺が注意したいのは、そこんとこだ」
「でも……僕はもう、舞台に出られるわけじゃないし」
「そら今回は諦めるしかねぇな。だけど、役者になるんだろ?」
今さんの問いかけに。
僕はびっくりしたように目を見開いた。
まだ役者になりたい、とこの人には一言も言っていないのに。
「ど、どうして……」
「見りゃ分かる。んな足で、まだハムレットを演じているてめぇを見ていたらな。こいつは、舞台の上で生きる人間なんだっってことぐらい」
「今さん……」
「無駄なことなんか一つもねぇ。特にこれから役者になるんだったら尚更だ。もう一回、ハムレットを演じてみろ。さっきとは違う演技ができるはずだ」
「……」
「ああ、そうだな。あのシーンからやれ。ローゼンクランツとギルデンスターンがハムレットのトコに来るだろ?あのシーンからだ」
また長い台詞のシーンからだ。
でもハムレット……いやハムレットだけじゃなくてシェークスピアの作品はそんな長い台詞だらけなのだ。
演じる側としては最もしんどい演目。
だけど役者として、身体の隅から隅まで、全能力を惜しげもなく発揮できる演目でもある。
僕は頷いて、立ち上がった。
「言ってやろう、そのわけを。こちらが先手を打ってわけを言えば、王や妃を裏切って泥を吐いたという汚名を着ずにはすむからな」
僕は皮肉っぽい笑みを
久方ぶりに自分の元にやってきた学友二人に言う台詞だ。
「最近、自分でも分からないのだが、すっかり明るい気持をなくし、日頃の運動もやめてしまった。とりわけ、気持がふさいで、地球という素晴らしい建物も、自分にとっては荒れ果てた岬のように見える。大空という極上の天蓋、頭上に広がる美しい蒼穹、黄金の光をともなった壮麗な大屋根も、自分には、毒気を含んだ蒸気の集まりとしか見えない。人間とはなんという傑作だろう!崇高な理性、無限ともいえる肉体の働き、かたち、動き、ともに驚くほど的確、行動は天使のごとく、こころの働きは神のごとく。人間は、まさにこの世の美、万物の手本。だが、自分とってはそれが何だというのだ?」
ああ、何だろう?
なんか気持ちがいい。
何のわだかまりもなく、ただ演じている自分が。
そうだ。
僕の舞台は何も文化祭だけじゃない。
だって、僕はこれから役者になるのだから。
今まで積み上げてきたものが無駄だったことなんか、何一つなかったんだ。
事故に遭って良かったとは思わないけど。
不幸だったと思われたその事態は、僕にとってのターニングポイントとなった。
今泰介との出会い。
それは僕を役者の道へ確定づける、運命の出会いでもあった。
須藤が逮捕されてから、一週間後───
僕とカオル、そして夕紀ちゃんは例の裏山にいた。
布結花ちゃんの死体が掘り出されてからも、あちらこちらに蒲公英が咲いていた。
風に舞う綿毛を見ながら、夕紀は目に涙を浮かべながら言う。
「布結花がポケットに入れていた綿毛が芽を出して、それが蒲公英になって……それがまた綿毛になって広がって、こんな蒲公英畑になったんだね」
「うん……そうだね。この白い蒲公英畑は、これからもずっと広がっていくんだろうな」
きっと僕は、この花を見るたびに思い出すだろう。
布結花ちゃんのことを。
ううん、アキやカオルや夕紀ちゃん。みんなと過ごした青春時代のこともきっと。
カオルが蒲公英の綿毛をとって、それをふっと飛ばした。
綿毛は風に乗って空を舞う。
落下傘のように舞い降りる綿毛を見ながらカオルは僕の名を呼んだ。
「なぁ、イチ」
「ん?」
「最後にお前に聞きたいことがあんねんけど」
「何?」
「お前ってアキと中学一緒じゃないよな?」
「うん、そうだけど。でも、何で?」
「いや、俺思い出したんだわ。お前らと最初に出会った時、お前ら前からの知り合いみたいに仲良かったよな?俺、ずっとお前らが同じ中学だと思い込んどった」
「……!」
僕は息を飲む。
カオルがこれから何を言おうとしているのか。
それが分かったから。
「中学も違うし、近所でもない。俺……ずっと前から、どことなくお前とアキが似ているなぁって思うことがあったんや。雰囲気というか、背格好というか。よくお前のことアキって呼んでもうたことあったし」
「……」
「アキのこと調べていたらさ、思わぬ所に、お前の名前も出てきたんや」
「……っ!」
夕紀ちゃんはぎょっとして僕の方を見た。
僕は俯いて、カオルの話を聞いていた。
「市藤巳春……お前、村瀬暢秋の」
「兄、ってことになるのかな」
僕は空を見上げながら言った。
「……!!」
夕紀ちゃんは驚きに口を押さえる。
僕もカオルの真似をして、蒲公英の綿毛をとってそれを吹いた。
舞い上がる綿毛を見ながら、僕は口を開く。
「厳密に言えば異母兄弟ってことになるね。僕の父親はどうしようもない男だったから。僕やアキの母親の他にも愛人がいたんだ。中学校の時に、僕の兄弟だと言ってアキの方から会いに来たんだ」
「……」
「……」
「最初は凄く変な気分だったけどさ、話している内に馬が合っちゃってさ。僕たち、同じ高校へ行こうって約束した。僕、勉強大嫌いだったけどさ。それにぐれていたし……でも、あいつと同じ高校に入るために必死に勉強したんだ」
「……」
「合格した時、ホントに嬉しかったなぁ。でも兄弟なのに一方は優等生、一方は劣等生。そんなコンプレックスもあったし、布結花ちゃんに振られちゃった時が一番悔しかったなぁ。同じ兄弟でも、どうしてこんなに違うんだろう?って。あいつは成績も抜群で、顔もいいし、女の子にももてたし。それに控え僕は……ってとこもあったけどさ。でも僕には誰にも負けないと思っていたものがあったから」
「演劇か」
「うん!演じることが三度の飯よりも好きだったからさ!だから女の子に振られても、アキが学校で目立っていても、僕は平気だった。舞台がなかったら、優秀な兄弟持っていた僕はまたグレていたトコさ」
「そうだな、お前舞台の上では最高やったもんな」
「分かる。あたし舞台は見たこと無かったけど……でも、昨日アキ君演じていたイチ君、凄くかっこよかった」
「辛口高見に褒められると照れちゃうなぁ」
「あーあ、何でこんなカッコいい人が傍にいること気づかなかったんだろう?しかも工藤潤がイチ君だなんて、私全然気づかなかった」
夕紀ちゃんの言葉に、カオルは呆れる。
「ほんまかいな?原石ですら気づいたのに……写真見たら分かるやろ?」
「だって眼鏡かけてなかったし」
「かけて無くても分かるやろ?」
「えー、全然印象ちがうよー」
言い合う二人だけど、考えてみれば夕紀ちゃんの前で眼鏡を外す機会ってそんなになかったかもしれないな。委員会で忙しくて舞台も見に来られないとか言っていたし。
体育の時なんかも女子とは違っていたし。運動会も夕紀ちゃん忙しかったしなぁ。
ま、いいんだけどね。
あの辛口の夕紀ちゃんが僕のことをカッコイイと言ってくれただけで、何だか満足って感じ。
八年前、あんな事がなかったら、今頃ここには布結花ちゃんも、アキも、ここにいたかもしれない。
白い蒲公英畑も、もっと別の場所にあって。
アキ……
布結花ちゃん……
僕は君たちに会いたかった。
あの頃のように笑い合いたかったよ。
だけど、もう……
……
……
本当にありがとう。
そして、アキ、本当にごめんなさい。
僕は出来ることなら、君の想いに答えたかった。
だって君は、僕にとって大切な親友で、兄弟だったから。
封印していた過去が開封される。
あの日、外は雨だった。
僕は教室の中、一人教科書やノートをそろえて鞄の中に入れていた。
大概は置き勉をしているけど、今日はもう全部持って帰らなきゃならない。
今日でこの学校ともお別れだからね。
先ほど担任に自主退学の届けを出した。
「思い直せ」、と止められたけど、僕は一刻も早く自分が決めた道を歩きたかったから。
全ての学用品を詰め込み、鞄を閉めた時だった。
アキが教室に入ってきたのは。
見たこともない形相だった。
「お前……学校辞めたって、本当か!?」
「うん、さっき退学届けを出してきた」
「何馬鹿なことをしてんだ!?あと半年……あと半年待てば卒業できるだろ!?」
「半年も待てない」
僕がそう言うと、アキは大股でこちらに歩み寄り胸倉を掴んできた。
「あいつについて行くつもりなのか!?」
「今さんをあいつ呼ばわりするのはやめろって。あの人は、僕を認めてくれた人だ。あの人が劇団をやるというのなら、それについて行くだけの話さ」
劇団主宰の今泰介氏と出会ったのは一年前のことだった。
今さんは、名高い天才役者として世間では知られていたが、映画の撮影中大きな事故に巻き込まれ、病院で療養していた。
一方僕は交通事故で今まで練習してきたハムレットが演じられなくなり、文化祭本番も代役の田野が出ることになった。
悔し紛れに病院の屋上で、自分が演じるはずだったハムレットを演じていた。
その声を聞きつけた今さんは不自由な足を引きずってまで屋上にやってきて、僕に一言言ったのだ。
「ヘタクソ」、と。
それが今さんと僕との出会い。
彼は何かと僕に演技の指導をするようになった。
僕は病院に通うたびに今氏の病室を訪れ、骨折が完治した後も毎日のように病院へ通った。
厳しい中にも的確な演技指導。
そこがどんな場所でも。
演じることは楽しいと教えてくれたのは今さんだった。
僕は舞台の上に立たなくても。
たとえば病院の屋上でも、そこを舞台に見立て、演じるという楽しさを覚えていた。
今さんは今さんで、僕に教えることで何かを見いだしたのであろう。
退院する際に、彼は言ったのである。
「決めたぞ!俺は劇団を作ることにした!!」
「え!?」
僕は、ずっと怖い顔だと思っていた今さんの顔が、笑顔で輝いているのを見た。
「お前の演技指導していく内に思いついたんだ。俺は演出家に向いているかも……ってな。お前のおかげだ!お前がいなきゃ、こんなこと考えやしなかった」
「……!」
僕はこれ以上になく、きつくきつく今さんに抱きしめられていた。
「役者の他にも、もっともっと俺には秘められた可能性があるに違いない。俺は俺に秘められた可能性を全部引き出してくれる!」
僕を抱きしめたまま、今さんは病院の窓から見える空を見上げる。
自信にみなぎったその眼差しに、僕は完全に魅了されていた。
そうだ。
この人は足が動かなくなった時でも、ずっとこんな目をしていた。
決して絶望することなく。
何が何でも這い上がってやるといばんばかり。
炎のような勢いを感じたけど。
今はその炎の勢いがより増したかのように見えた。
僕は思う。
これが役者なんだと思った。
全ての人を引きつけずにはおれない、主役という華を持った男。
病院の窓に差し込む太陽の光を浴びて、今この人は、強烈な輝きを放っているのだ。
今さんは僕の顎をひっつかみ、その顔をのぞき込んできた。
「お前も来るだろ、当然」
当然と言い切ってしまうあたりがこの人の凄いところであった。
けれども僕の胸の内を分かった上での問いかけだったのだ。
「はい!もちろんです」
僕は迷うことなく返事をした。
今さんについて行きたいと思った。
どこまでも、どもまでもついて行きたいと。
けれども、アキは今さんのことをよく思ってはいなかった。
友人を、兄弟を、役者という不安定な職業に就かそうとしている、と思っていたのであろう。
演劇はあくまでお遊び。
部活だけにしておけ。
アキはそれとなく、僕に言って聞かせてきた。
故に高校の後半になってから、よく遊びに行っていたアキの家にもよりつかなくなってしまった。アキ自身、布結花の捜索で他の友人たちを構うことが少なくなったというのもあるだのけど。
「役者になろうなんて馬鹿なこと考えるなよ!!あんな食えもしない職業についたら、泣くのはお前の方なんだぞ!?」
「泣かないよ、僕が決めた道だからね。君にも泣き言は言わないから安心してくれよ」
「馬鹿野郎!!」
泣き声混じりで怒鳴られて、それで殴り飛ばされた。
胸倉は捕まれたままだ。
予測はしていたことだけど、やっぱり痛いや。
僕は頬を押さえて、アキを睨んだ。
「酷いな、役者は顔が命なのに」
するとアキは目を剥いて、僕の後頭部を教室の壁に叩きつけた。
そして俳優みたいな綺麗な顔をのぞき込み、囁くような声で言う。
「いっそのこと、その顔無茶苦茶にしてやろうか?誰もお前なんか振り向かないぐらいに、無茶苦茶に」
「な……何だよ、お前、前は僕のこと応援してくれていたじゃないか!?」
「あれは文化祭や部活動だったから良かったんだよ!演技で飯が食えるんなら、俺だって止めやしねーよ!!」
「…………」
確かにその通りだ。
役者になって、食べられるようになる人間はごく一握り。
アキの言うことはいちいち正しかった。
「役者なんてやめろよ。ちゃんと進学して、就職して……それに会社だって跡継ぎがいるじゃないか」
「会社?ああ……あいつがやってる会社ね」
「自分の父親をあいつ呼ばわりか!?」
アキは拳を握りしめた。
「お前はちゃんと父親がいるんだぞ……俺なんか父親はいるようでいないものだ。認知してるとはいえ、結局はいないと同じだ」
「……」
アキの父親。
それは僕の父親でもあった。
親友であり兄弟だったのに、父親のことについて話すのはお互い禁句だと思っていた。
僕には分かっていた。
父親の存在を人一倍求めていて、だからこそ父親にある種のあこがれを抱いている。
僕はそんなアキに対し、冷笑した。
「あいつで結構だよ。あいつは俺を名前で呼んだことなんかないんだよ?“これ”とか“おい”とか、“おまえ”とか。君はどうなの?ちゃんと名前で呼んでもらえた?」
嫌みなことを言っているのは、僕自身分かっていた。
あいつは、アキのことは認知しているけど、会ったのは数えるほどしかないという。
アキが辛そうに目を伏せる。
「ああ、ごめん。愚問だったね。ま、僕はどっちにしても会社を継ぐことはないよ。継母が弟に会社を継がせるよう、ありとあらゆる根回しをしているしね。それと対抗してまで会社を継ぎたいなんて思わないし」
「……」
「知らなかった……みたいな顔してるね。ま、僕も話さなかったしね。君は僕のこと、金持ちのお坊ちゃまにしか思っていなかったみたいだけど、お坊ちゃまも実は苦労してんだよ。やな親父にもいい顔しなきゃいけないし、僕を憎んでいる継母にも愛想よくしとかなきゃいけないしね」
僕の父親は会社社長で、僕自身は何不自由なく育っていた。
しかし、家族はいるようでいない。
血のつながった父親は継母を溺愛し、その子供も可愛がっていた。
継母が僕を疎んじる分、父親もそれに吊られて僕を寄せ付けなくなった。
それだけ継母が可愛かったのだ。
だから中学生の時、僕はあちこちで喧嘩したり、学校をサボっては、バイクを乗り回したり、繁華街をふらふらしたり。
凄く荒れていた時期もあったんだ。
「だからあの会社を継がなきゃいけない理由はないし、僕は早々と家を出た方がいいわけ。
でも、家から逃げたいから役者になりたいわけじゃない。役者になりたいから家を出るんだ。ただそれだけさ。僕はどんなに貧しくても役者として生きていく」
「……お前みたいな世間知らずが、夢だけで生きていけるのかよ」
「生きていけなくてもいいさ。役者をやって死ねたら本望」
「馬鹿野郎!」
「どうせ馬鹿だよ!だけど、どんなに止めても無駄だからね。僕は絶対役者になる」
「勝手にしろ!どうなっても絶対助けないからな!!」
「君にだけには絶対助けなんか求めるもんか!!」
僕は重ねたノートを乱暴に鞄に詰め、机を蹴飛ばしてから教室を出て行った。
いや
出て行こうとしたのだ。
アキが僕の肘を捕らえ、それを妨げていた。
「行かせない……!!」
教室中に、その声は響き渡っていた。
鬼気迫るその眼差しに、僕はびくりと肩を震わせた。
「アキ?」
「俺から離れるな!俺を置いていくな!ハル!!」
……アキだけは。
そう。
アキだけは僕のことをいつもハルって呼んでいた。
最初に出会った時、お互い季節の名前が入っているからそれで呼び合おうって言って。
次の瞬間。
僕はアキに引き寄せられ、きつく抱きしめられていた。
何が何だか最初は分からなかった。
そのまま教室の机の上に押し倒されていて。
アキが僕の頬を両手で挟み、唇を重ねたときに、ようやく分かったのだ。
異母弟の想いを。
自分たちは親友で、兄弟だった。
これからも、ずっとそうだと思っていたのに。
「や……アキ……やだ……」
アキの舌が僕の中に入り込んできた。
やめるように訴えても。
抵抗しようとしても。
信じられない力で僕を押さえつけていた。
アキの舌は容赦無く、口の中にあるもの全ての物を蹂躙するかのように蠢いて。
さらに押さえつけていた手は僕の制服のボタンを外した。
「……!」
アキが何をしようとしているのか。
それを考えただけで、僕の目の前は真っ暗になった。
ワイシャツのボタンが引き裂かれる。
アキの手が僕の胸を這って、その先端に触れてきた。
「やめろ!!」
僕は渾身の力を込めて、アキの胸を押し、束縛から逃れる。
唇を手で押さえ、引き裂かれたワイシャツを手でたぐり寄せながら、僕は信じがたい眼差しを向けた。
「どうして……アキ」
「これが俺の本当の気持ちだ。初めて出会った時からきっと」
「……!」
アキの好きな人。
それは布結花ちゃんでもなく、夕紀ちゃんでもなかった。
他にもアキのことを思っていた女の子たちもいたけど、その子たちでもない。
特に、布結花ちゃんを振った時、僕はあいつのことを責めたこともあった。
あんなに想っている子を振るなんて!
自分が惚れていただけに、余計に腹が立ったのだ
そんな僕に対し、あいつはとても悲しそうな顔をした。
『ごめん、どうしても好きな人がいるんだ』
『誰だよ、それ!?そんな話、僕には一度もしたことなかったじゃないか!?』
最初は布結花ちゃんを振ったことに怒っていたくせに、いつの間にか、なんで相談してくれなかったのか、その水くささの方に腹が立っていた。
『この思いは永遠に報われない……だから誰にも知られたくないんだ』
エイエンニムクワレナイ……
僕は首を横に振る。
涙がこぼれた。
「何で……何でよりにもよって僕だったんだ?」
アキはうなだれて、力なく傍の椅子に座った。
「俺だって自分が信じられなかったよ……最初は遠くから見ているだけで良かった。
自分の兄弟がどんな人なのか、少しだけ見たいと思ったんだ」
じゃあ、アキは声を掛けてくる前からずっと?
「その時のお前は髪は金髪だったし、耳にピアスもあけていて……俺だったら絶対に仲良くなりたくないタイプの人間だった。でも、それを差し引いても、お前は凄く綺麗な顔をしていた。今にして思うと、一目惚れだった」
「……」
「ずっと見守っているウチに、声を掛けたいと思うようになった。勇気を出して声をかけて……その時は随分驚かれたけど、俺たち、すぐに打ち解けたよな?」
そうだ。
突然、声を掛けられて僕はびっくりした。
だけど、アキの澄んだ目を見ていたら、邪険にすることも出来なくて。
元々、僕はグレていたと言っても、学校サボったり、喧嘩したりする悪さをしていたぐらいで、人を寄せ付けなかったわけじゃなかったし。
それに、心許せる身内がいなかった僕にとって、アキの登場は神様からの贈り物みたいに思えたのだ。
「それからお前は心を入れ替えて、髪も染め直して、喧嘩もしなくなって、学校にも真面目に通うようになった。高校に入る頃には、普通の高校生に変身していた」
変身って……。
でも変身だったかもしれないな。
金髪ピアスのスタイルから、黒縁眼鏡の真面目スタイルになったのだから。
「高校に入って、カオルと仲良くなり、布結花や夕紀とも仲良くなって……五人で遊んだりしたよな。凄く楽しかった」
「うん……」
「でも、お前が布結花のことが好きだと相談された時、俺は面白くなかった。何が面白くなかったのか、その時は自覚出来なかった。しばらくして、布結花に振られたって聞いて、ほっとした時も、自分の気持ちがよく分からなかった」
「……」
「そして二年前の文化祭。お前は初めて俺たちの前で自分の演技を見せてくれた。その圧倒的な演技力に俺はしばらく魅了されていた。だけど、お前がジュリエット役の先輩とラブシーンを演じたときにな、俺は胸が掻きむしられるような想いにかられた」
「───」
アキの目が僕を捕らえる。
その眼差しは、憎しみにも似ていた。
鋭く抉るような上目遣い。
だけど憎しみと呼ぶにはあまりにも切ない。
苦しげに眉をひそめていた。
「そう、俺はジュリエット役のあの先輩に嫉妬したんだ」
アキは自分を制するように、自分のネクタイを、ワイシャツを掴んでいた。
その目はやがて伏せられ、彼は一度深呼吸をしてから言った。
「お前は確かに凄いよ。誰もがお前に魅入っていた。俺もそんなお前に魅入られていた。
自分の想いを自覚しだしたけれども、俺自身、その想いを認めたくなかった。あくまでお前の事は兄弟として、親友として好きなのであって、こんな想いはあり得ないって……だけど、体育で着替えているお前の身体を見て落ち着かなくなったり、お前にキスしたい衝動や、抱きしめたくなる衝動は、日に日に強くなっていった」
「アキ……」
「役者になんかなって欲しくなった……お前の存在が世間に知れ渡ったら、よりたくさんの人間がお前を求めるようになって、俺の手の届かない存在になってしまう。これ以上誰にもお前の事を知られたくなかったんだ!!」
それが役者を反対していた本当の理由なのか。
収入が不安定で食べていける職業ではないという心配も、なきにしもあらずだったのだろうけど。
項垂れるアキに、僕は背を向けた。
異母弟の想いに応えることは出来ない。
自分はもう歩むべき道を決めていた。
もし道を定める前に、彼の思いを知っていたら自分はどうしていただろうか。
親友で兄弟だった彼の思いに応えていたかもしれない。
本当に、親友として大好きだったし、弟として愛しかった。
家族がいるようで居ない自分にとっては、本当の家族が出来たと思ったのだ。
きっと僕はアキの想いに応え、彼を一人の人間として愛することもできたであろう。
だけど、もう道は定まってしまっていた。
「さようなら、暢秋」
最後にアキのことを本名で呼んでから教室を出た。
もう二度と会えない……そんな予感はしていたのだ。
それでも、自分はもう、その道を歩むしかなかった。




