梟を彫る男
こんな寒い夜は、ガウの事を思い出す……。
あれから10年、私は相変わらずこの店のカウンターで、客に珈琲を出し、無駄口を叩き、夜が更ければ気の合う常連が集まって、古いレコードを聴きながら、珈琲にブランデーを垂らしたりしている。
棚の上にはコーヒーカップが一つ、揃いの皿に伏せて置いてある。
いつか、ガウが戻って来た時、このカップで珈琲を淹れてやるつもりだ。
ガウがこの店に初めて足を踏み入れたのは、11年前の冬だった。
ドアのカウベルを鳴らし、粉雪を店の中に招き入れた張本人は、ギスギスに痩せて、背が高く、黒いコートを無理やり着せられた案山子みたいに突っ立っていた。
店を手伝いにきていた私の娘が、小さく悲鳴をあげた。
そんな雰囲気も小一時間もすれば跡形もなく消え、常連を含めた私たち全員が、まるで昔からの知己のように、打ち解けて話をようになっていた。
売れない芸術家だと名乗ったガウは、無口で多くを語らなかったが、街の外れにアパートを借りて、一人で暮らしていると教えてくれた。
そして、ガウは大事な常連の一人になった。
三ヶ月ほどして、ガウが店の壁に飾って欲しいと、一枚の絵を持ってきた。
包みを解くと、出て来たのは、夏の日差しを受けて咲く大輪の向日葵の花だった。
「ボクにとってこの店はこの花のようなものだから……」
ガウはそう言うと照れたように、ちょっと肩をすくめてみせた。
北の壁に飾られたその絵は、手をかざすと暖かさまで感じとれるようで、実際、この10年、この絵の下のテーブルは客の絶えない人気の場所になった。
「芸術は、感情を切り取って埋め込むことなんだ。多くをを注ぎこめば注ぎこむほど、より本物に近くなり、観る者、聴く者、触れる者にその感情を体感させることが出来る。だけど、それと引き換えに、作り手側はどんどんその感情を失っていくんだ……」
それを『昇華』と呼ぶんだろう、と私が答えると、ガウはその絵を見上げ寂しそうに笑った。
絵の中の向日葵が、乾いた夏の風を受けて、フッと揺れたような気がした……。
娘の死を語る言葉は、そう多くはない。
大学の入学式を間近に控え、友人と遊びに出かけた帰り道、暴漢に襲われ、辱められ、近くの林に置き去りにされた。
加害者は、地元の有力者の息子で、捜査への圧力、店へのいやがらせが相次ぎ、凄腕の弁護団に守られたその息子は執行猶予を勝ちとった。
そして、私はわずかな示談金で口を瞑ることになった。
しばらく休んだ後、店を開けると、いつもより頻繁に常連たちが集まり、必要以上に肩を叩かれたり、無駄口に誘われたりした。からっぽになった私の心を、皆が優しさを持ち寄って、少しづつ埋めていってくれた。
ただガウだけが、事件以来、一度も顔を見せなかった。
事件から二ヶ月がたった頃、ひょっこりガウが現れた。
その姿を見て、私は驚いた。痩せていた身体は益々枯れた枝のようになり、髪と髭は伸び放題で、熱を帯びたような潤んだ瞳だけが、じっと私を見つめている。
何か言いかけた私を手で制して、見せたいものがあるんだ、とガウは言った。
ガウの部屋には、人の背丈ほどもある木彫りの梟……らしきものがあった。
顔は扁平で、目は中央に寄って大きく、嘴が尖っている。
翼のようなものはなく寸胴で、鉤爪は異様に長い。尾羽根のかわりに蛇のように鱗のついた太い尻尾が長々と垂れていた。
「これはフクロウかい?」
「いや、………だよ」
ガウは聞き慣れない異国の言葉でその梟の名前をいった。
その名前を聞いた途端、私は何か禍々しく不浄なものに触れたような気分がした。
「昔、一度だけ彫ったことがある……」
ガウは部屋の隅にある椅子に腰掛けると、床を見つめ、ポツリポツリと話し始めた。
「ボクには妻がいた。愛していたんだ。心の底からね。そしてその妻を見知らぬ男に奪われた時、ボクはその男のためにこれを彫った」
かすれて、切れ切れにつぶやく声が痛々しい。
「今度は、あなたとあなたの娘さんのためにこれを彫るよ。それを知っていて欲しかったんだ、それだけだよ」
ガウは立上がると、もう私の姿など目に入らないという感じで、小刀を手に一心に梟を削り始めた。
ガウは自分の妻を奪った男と、娘を殺した犯人とを重ね合わせ、心の奥にまだ消え残る、遠い昔の怒りや憎しみを、この梟に刻みつけているに違いなかった。
私は何も言わずその部屋をあとにした……。
しばらくして、ガウはその梟共々、部屋を引き払い、突然私たちの前から姿を消してしまった。
後日、テレビの報道で、娘を殺した若者が、夜中に何か得体の知れない動物に噛み殺されたことを知った。目撃者はなく、わずかに、鳥の鳴き声らしきものを聞いた者がいるだけだった。
死因は身体中についた無数の噛み傷による、ショック死だった……。
そして10年経った今も、私はこの店で常連に珈琲を出し、無駄口を叩いている。
ガウがあの時のように、不意にドアを開けてこの店に現れることがあったら、娘が焼いた陶器のコーヒーカップに、熱い珈琲を淹れてやるつもりだ。
そして、その時はきっと、話すことが、お互い、山ほどあるに違いない……。
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