その1
ここは、とある街の大きな公園。たくさんの遊具が並び、芝生が広く生えているこの場所には、楽しく遊ぶ子供たちやのんびりくつろぐ大人たちを見守るかのように、たくさんの木が植えられていました。その名は『ソメイヨシノ』、日本で一番親しまれている、美しい花を咲かせるサクラの品種です。
そして今年も、公園が綺麗なピンク色と人々の賑やかな声に包まれる時期がやってきました。
「「「「「かんぱーい!」」」」」
そう、お花見真っ盛りの『春』が訪れたのです。
普段は静かな公園も、この日ばかりは人々でごった返し、あちこちに敷かれたシートの上には様々なお弁当や飲み物、中には長家まで並べられ、老若男女様々な笑顔で満ち溢れていました。彼らは皆、公園に植えられた300本ものソメイヨシノの美しさに酔いしれいているのかもしれません。
ですが、中には――。
「おい、こっちに飲み物くれよー♪」あたしポテチおねがーい♪」お握り無いのかよお握りー」
「ちょ、ちょっと待って……えーと……」
――喜ぶ人々の中で、苦労を強いられる人もいました。とある大学のサークルに所属する、Cと言う男子学生です。
いつも優しく自然を愛する彼でしたが、その優しさに付け込まれたせいで、いつもサークル内では同級生や先輩、さらには後輩にまでにパシられる毎日を過ごしていました。頼まれては断れないと言う押しの弱さも加わってしまい、無茶なお願いをされてもつい従ってしまっていたのです。同級生が恋人と盛り上がる中でも、Cだけはそれとは無関係に食べ物を用意したり飲み物を注いだりしていました。それどころか、そもそもこの場所も、Cがサークルの他の皆に『お願い』されて昨日からたった1人で確保していた場所なのです。
「え、えーと……これだよね……」
「なんだよー、麦茶じゃーん」「ジュースはねーのかよー」
「え、で、でもさっき飲み干したはずじゃ……」
じゃあ買ってくれば良いじゃん、と急かされてしまったCは、この場所を後に近くのコンビニまでわざわざジュースを買いに行く羽目になってしまいました。腕っ節もさっぱり、根性もさっぱりな彼には、断るという選択肢は無かったのです。
「あいつバカだよなー」「ほんとほんと、言えばすぐ従うし♪」「便利だよねー♪」
人々の賑わいの中で聞こえてきた、サークルの面々からのからかいや侮辱の言葉にも、彼は何も言い返すことが出来ませんでした。
そして、混み合うコンビニの中でようやくジュースを購入する事ができたCが元の場所に戻ってみると、そこには目を疑う光景が広がっていました。
「え……そ、そんな……」
先程まで他の面々がいたはずの場所には、食い散らかされた食べ物や放置された飲み物、そして大量にばら撒かれたゴミと共に、置き手紙が置かれていました。いつまでもジュースを持ってこないのでもう飽きてしまった、『二次会』へ行くからここにある食べ物や飲み物は好きにして良い、とそこには書かれていました。
そう、Cに全ての責任を押し付け、他のサークルの面々はどこかへ行ってしまったのです!
幾らなんでもここまでされては、流石のCでも理不尽さから来る苛立ちを隠すことが出来ませんでした。でも、もし自分もここで帰ってしまっては、たくさんの食べ物や飲み物、そしてゴミを放置する事になってしまいます。美しく咲くソメイヨシノを汚してしまう訳にはいかない――仕方なく、Cはたった1人でお花見をする事にしました。
「あははは♪」「うふふふ♪」「はははは♪」「ぎゃははははは!」…
「……はぁ……」
周りの人々が相変わらず楽しそうに賑わうのを見ながら、Cはため息をつきました。
食べ物や飲み物は流石に全部は消化しきれていませんが、辺りの地面に散らばり、公園の景観やソメイヨシノの成長を阻害する原因となるたくさんのゴミは何とか片付け終わりました。大きなビニール袋がいっぱいになるほどの量でしたが、彼は無事に美しい木々を助ける事が出来たのです。ですが、今のCには喜ばしいという気持ちは浮かびませんでした。
いつもこうやって、誰かのためを思ってやっていても、結局は馬鹿にされてばかり。褒められたいとは思ってもいませんが、それでも何をしても報われないという日々は、彼にとっては非常に辛いものだったのです。ですが、押しの弱い彼はこのままサークルをやめる事も出来ませんでした。これからもずっと、こうやって1人寂しく過ごす事になるのだろうか。そんな事を考えているうち、つい目から涙が出てしまうほど、彼は思い詰めていたのです。
それでも、Cは何とか自分の心を奮い立たせようとしました。自分がゴミをしっかり掃除すれば、その分ソメイヨシノの美しさが目立つのだ、と。しかし――。
「……やっぱり、僕って駄目だなぁ……」
――何もする気が起きなくなってしまった彼は、そのまま銀色のシートの上で寂しく横になりました。
そして、静かに眠りに就こうとした時でした。突然の風と共に、一斉にソメイヨシノが花びらを散らしたのは――。
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「……はっ!」
――眠りから目覚めたCは、辺りの様子が今までとは全く違う事に気がつき、飛び起きてしまいました。
いつの間にか辺りは星空に囲まれ、真っ暗闇になっていたのですが、それ以上に異様だったのは、あれほど人々で賑わっていたはずの公園に、自分だけしかいないという光景でした。
「え、ど、どうなってるの……?」
たった1人、公園の中央のシートに座る彼の周りには、満開のソメイヨシノが何百本も咲き乱れているだけと言うこの光景、まさかこれは夢なのか、と頬を抓ってみた彼でしたが、驚いた事に、Cの頬にははっきりとした痛みが走ったのです。一体何がどうなっているのか、と唖然としていた、その時でした。誰かが弁当を漁るような音が聞こえてきたのです。ネズミか、それとも虫か、と慌ててそちらを振り向いた彼が見たものは――。
『うーん、美味し……あ、ごめんごめん』
――1人の美しい女性が、Cのシートの上に残されていたお握りを、美味しそうに食べている光景でした。
何の気配も無く突然現れた女性に唖然としていた彼は、何も言わずに突然食べてしまって申し訳ない、と謝る女性に固まったまま大丈夫です、と言う事をあらわす頷きを返すことしか出来ませんでした。
『ねえ、このお弁当、勝手に食べちゃっていい?私お腹がすいちゃって……』
「だ、だ、大丈夫……です……」
ありがとう、とその美女はCにウインクを返しました。
突然現れ、お弁当を食べ始めたこの女性は一体何者なのか、どこから現れたのか。様々な疑問があっという間にCの頭を包み込み始めましたが、それ以上に彼の心を惑わしたのは、自分より年上に見える、その女性の美しさでした。
背中まで伸びる長い髪は鮮やかな桜色に包まれ、顔立ちも美人そのもの。衣装は丈の短い純白ワンピースに、ソメイヨシノの幹を思わせるような茶色のカーディガン、そして桜色の靴下や白のハイヒールと言った、お嬢様のようなスタイルでした。そして、体のスタイルも大きな胸、整った腰つき、そして綺麗なお尻と抜群、まさに絶世の美女と呼んでも良いほどの存在だったのです。
そんな美女が公園の中に突然現れ、自分の隣で美味しそうにご飯を食べる――辺りを取り囲む300本ものソメイヨシノの美しさ以上に、Cは彼女に見惚れてしまっていました。そして、勇気を振り絞って彼女に話しかけようとした、その時でした。
『ねえC君、このお握りも食べちゃっていい?』
何故自分の名前を知っているのか、と尋ねようとした彼でしたが、直後さらなる驚きに包まれました。先程現れた美女は彼の右隣にいるはずなのに、全く同じ声が何故か左隣からも聞こえてきたのです。そして、その方向を見た彼は――。
「え、え、ええええええ!?」
『『ふふふ♪』』
――自分の両隣に、全く同じ姿形の美女が笑顔を見せていることに気づきました。髪形も服も、顔も胸も、さらには声まで何もかも全く同じ女性が、Cの座るシートの傍に突然現れたのです。
「あ、あの……双子さん……ですか?」
何とか自分の疑問をぶつける事に成功した彼でしたが、返ってきたのは何故か否定の言葉でした。一体どういうことなのか、と慌てるCでしたが、事態は彼の予想を超えるものでした。
『ふふ、双子なんかじゃないよ♪』
Cの後ろからも、全く同じ姿形の3人目の美女が現れ――。
『まだまだ「私」はいっぱいいるんだから♪』
――Cの目の前にもさらに4人目の美女が現れ――。
『『『『『そうそう♪』そうだよ♪』ねー♪』ねー♪』ねー♪』
――5人、6人、7人――気づけばCの周りは、桜色に包まれた髪を持つ、全く同じ姿形の10人の美女で埋め尽くされてしまったのです!そして、あまりの事態に言葉も出ない彼を見つめながら、美女は一斉に優しい笑みを見せてきました。
『ふふ、C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』C君♪』
「ふえぇ……あ、貴方達……い、一体誰なんですか!?」
つい大きな声を張り上げてしまった彼でしたが、10人の美女がつい黙り込んでしまったのを見て、慌てて謝り始めてしまいました。すると美女たちは彼に大丈夫だと返した後、自分の髪の香りを嗅いでみて欲しい、と告げました。彼の目の前にいた1人の彼女が、Cに向けて頭を近づけてきたのです。最初は遠慮していた彼でしたが、彼女の頭から放たれた香りは、彼にとって非常に馴染みのあるものでした。多くの人々を癒し、心地よい気分にさせる、ソメイヨシノの香りそのものだったのです。
そして、美しい香りが辺りを包み始め、Cが何かに気づき始めたその時、突然公園中のソメイヨシノの花びらが風も無いのに一斉に舞い散りました。すると、それらの花びらは各地で不自然に集まり始め、公園のあちこちに何十、いえ何百もの塊を作り始めたのです。よく見ていて、と10人の美女に言われてじっと見据えるCの前で、それらの塊は次第に複雑な形を帯び始めました。やがて、それは人間に良く似た形になり、色も次第に複雑になり始め――。
「……ま、ま、まさか……!」
――目を見開いたまま驚く彼の目の前で、桜の花びらの塊は、桜色の髪を持つ何百人もの美女――自分の周りに居る10人と全く同じ姿形をした美女へと変わったのです!
そして、美女の大群は一斉に自分たちの正体を告げました。
彼女たちこそ、春を代表する花『ソメイヨシノ』の精霊である、と……。