6、ワルツ
「つーきーのーちゃん」
遠くで自分を呼ぶ声がするが、月乃は今夢の中で大好きなトビアザラシのチョコクッキーを食べているところなので無視することにした。
「つっきーのちゃーん!」
トビアザラシは明治期創業の高級お菓子メーカーで、その名前の由来はアラスカのツンドラ地帯に生えていたとされるアザラシトバシと呼ばれる伝説の果実である。その実を一口食べたアザラシがあまりの美味しさにテンションが上がり過ぎて空を4、5分飛んだという逸話が残っている。
「つーきーのーちゃーん!」
トビアザラシのお菓子はかなり値段が高いのでそこそこお金持ちな細川家と言えど滅多に買ってもらえないが、一度中学受験当日の朝すごい寝不足だったところをトビアザラシシュークリームを食べて乗り切ったという経験もある。思い出深いお菓子なのだ。
「つきのちゅわ~ん♪」
「も、もう! 一体なんですの!?」
さすがに我慢できなくなって月乃は目を覚ました。
「やあ! おはよう月乃ちゃん!」
ドアの外にいたのは津久田あかり様である。
「あ、あかり様・・・わざわざこんなところまでお越し頂かなくてもちゃんと約束は守りますわ・・・」
波乱のゴールデンウィーク一日目をなんとか戦い抜いた月乃は、タクシーという最終手段を利用してシャランドゥレグランドホテルに到着し、701号室のふかふかのベッドに潜り込んでぐっすり眠っていたのだ。二日目もあかりの目安箱プロジェクトに協力するよう脅されていたので午前中から再び電車やバスを使って学園に行く予定だったのだが、なぜかあかりの方から来てくれたので移動の手間が省けた。
「だって、月乃ちゃんなかなか来ないんだもん」
「そんな・・・今何時だと思っていますの? これから行くところでしたのよ」
まだ朝8時くらいだと思っていた月乃はベッドサイドのデジタル時計を見て愕然とした。
「じゅ、12時ですの!?」
「そうだよ」
「た、大変ですわ!」
今日の午後は芸術鑑賞会でピアノの発表をしなければならないのだ。そのためにわざわざこの街へやってきたのにすっぽかしてしまうのは名門細川家の娘としてあるまじき失態である。幸い会場はここから徒歩数分なのでまだ諦める必要はない。
「もしかして月乃ちゃん、今まで寝てたの?」
「ち! ち! 違いますわ! この後の演奏会のためにイメージトレーニングをしておりましたの」
「イメージトレーニング?」
「そうですわ」
月乃はこれでうまくごまかせたと思ったのだが、彼女はしっかりパジャマを着ているので嘘であることがあかりにバレバレである。
「ご、午前中にそちらにおうかがい出来なかったことはお詫びいたしますわ。集中すると時間を忘れてしまいますの」
「まあ、それはいいけど月乃ちゃん、急がないとまずいんじゃないの?」
「は! そ、そうでしたわ」
月乃は顔を洗って発表会用の服に着替えた。慌てて着替えているところを人に見られるのは恥ずかしいので着替えはカーテンにくるまってその中で行った。さすがのあかりも月乃ちゃんの怪しい行動にビビっている。
「おまたせしましたわ」
「月乃ちゃん・・・すごいね」
「会場まで一緒に来ますの?」
「行くとも!」
正直月乃は会場の場所もよく分からないのであかりが一緒ならありがたいのである。二人はゴールデンウィーク二日目の青い空の下を小走りで会場へ向かった。
演奏のステージは美術フロアに臨時で設置されたものだったので床は歩く度にトントンと軽い音がして高級感は少ないが、肝心のピアノは細川家にあるような立派なものだったので月乃は満足である。
月乃が本日披露するのはショパン作曲の『ワルツ イ短調』だ。月乃はショパンよりもモーツァルトやバッハが好きなのでそちらのオファーの方が欲しかったが、『ワルツ イ短調』もかなり好みだし、小学生の頃から弾いているため自信もたっぷりである。月乃がこのワルツを気に入っている最大の理由は右手の運指にある。「タン♪ タラランランタララーン♪ タラララララララララーン♪」の最後の「ララララーン♪」の部分の指の運びがとても気持ちいいのだ。月乃は小学2年生の時に音楽教室で一番最初にこの「ララララーン♪」ができて先生にベタ褒めされて以来「ララララーン♪」の虜になり、彼女の小学生時代は「ララララーン♪」そのものだったと言っても過言ではない。中盤に右手がかなり鍵盤の端の方に出張する「タララタンタンタンタタン♪」の辺りも好きだが、やはり「ララララーン♪」の魅力にはかなわないのだ。
ミュージアムに集まったのは制服姿もちらほら見受けられるたくさんの児童生徒たちと、お買い物ついでに寄ってくれたおねえさん達だ。ここでひとつ素晴らしい一曲を披露して名を上げようと月乃は思った。
「中学生の部代表、細川月乃さん」
「はい」
大勢の注目を集める場は名門の血が騒ぐ。月乃は結構小心者なのだが、こういう場で緊張をせずに堂々とできる点は大したものである。彼女は出だしにたっぷりと間を置いてから、お澄まし顔でワルツを弾き始めた。月乃の見事な「ララララーン♪」にショッピングモール中がうっとりしてしまった。
「細川月乃さん、ありがとうございました」
演奏は大成功である。やるべきことはきちっとこなすのが月乃ちゃんなのだ。月乃は降り注ぐ拍手の中を背筋を伸ばして、わざとゆっくり歩いて舞台の裏へおりた。ついさっきまで寝ていたとは思えない立派な態度である。
「続きまして、この地域出身として社会人の部を代表して下さいます、石津茜さん」
月乃と入れ替わりでヴァイオリンを持った綺麗なおねえさんが一人舞台に上がっていった。月乃はこの後ヒマなのですぐに客席のあかりと合流しても良かったのだが、しばらくこの舞台裏という隠れた特等席で他のメンバーの音楽を拝聴するのもわるくないと思い、近くにあったパイプ椅子の中から一番新しそうなものを選んでそこに腰掛けた。
心なしか自分がステージに上がった時より石津茜さんというおねえさんを迎える拍手のほうが大きい気がして月乃はちょっと焼き餅を焼いた。月乃はこの石津茜さんがテレビやラジオで超有名な歌手Akaneであることに全く気づいていない。
石津さんは舞台に立つと愛用のエレクトリックヴァイオリン「マリア」でドヴォルザークのユーモレスクを弾いた。石津さんにはメディアの各方面から出演の依頼が殺到しているが、恋人である里歌と夕暮れの川原でセッションしたり、公園で雪乃ちゃんにヴァイオリンを教えたりしているので仕事に対しては相変わらずマイペースだが、今回の芸術鑑賞会の依頼は即オッケーを出した。駅前にある行きつけのドーナツ屋の平日ドーナツ30%割引券をたっぷり貰えるからである。
音楽祭以来、久々に公に顔を出した石津さんの素敵なヴァイオリンの音色に会場は大盛り上がりだが、中でもひとしお感銘を受けて涙まで流している少女が一人いた。
他でもない、それは月乃である。
「う・・・うう・・・」
こんなに素晴らしいユーモレスクは聴いたことがなかった。さっきまで彼女に嫉妬していた自分がバカみたいである。ユーモアの中に隠れた切なさと、切なさの中で芽吹いた優しさが月乃の中で結びつき、まるで一本の映画のように映像となって彼女の琴線の上を駆け回った。たしかこの地域出身とかアナウンスされていたが、この街には素晴らしい人もいるんだなと月乃は思った。昨日ドーナツ屋でオバケみたいな顔をして声をかけてきた怪しい女性がいたが、あのような人ばかりではないことが分かってなんだか月乃は嬉しかった。
石津さんのステージが終わったとき、一番一生懸命拍手をしたのはおそらく月乃である。
「月乃ちゃーん、ピアノ上手かったよ!」
「と、当然ですわ・・・」
涙のあとを消す作業をしていたらあかりと合流する時間がおくれてしまった。月乃はお嬢様のイメージが崩れるとイヤなので人に涙を見せたくないのだ。
「さあ、この後は約束通り昨日続きがんばってね!」
「昨日のつづき・・・?」
「美紗ちゃんだよ。あの子は今日は雪乃ちゃんと一緒に近所の日傘専門店に来てるよ!」
「美紗様・・・? 美紗様のお願いでしたら昨日叶えてさしあげましたのよ」
「え?」
あかりはパッチリお目々をさらに丸くした。
「叶えたって・・・雪乃ちゃんを抱きしめるやつ?」
「ええ。ぎゅうっとしてましたわ」
「ホ、ホントに!?」
「・・・どうしてそんなに驚かれますの?」
あかりはこの時、月乃の隠れたポテンシャルに驚嘆を禁じ得なかった。人生マナーモードの蒔崎美紗ちゃんの胸に、人見知り金メダルの鈴原雪乃ちゃんがすっぽりおさまって優しく抱きしめ合ったなんてにわかには信じ難いファンタジーである。
「月乃ちゃん・・・すごいね」
「あら? あの人・・・」
あかりとのおしゃべりの途中だが、月乃はミュージアムの絵画コーナーの入り口付近に見覚えのある背中を見つけた。あの美しい金色の巻き髪と、すらっと長い脚をもった女性はそうそう多くはない。
「あの人、昨日図書館にいた人ですの」
「ん?」
「あの女性が助言をくれましたのよ」
「おおお! あれは!」
あかりは背後から月乃の肩に手を置いてぴょんぴょん跳ねた。
「あれ小熊先輩様だよ!」
「お知り合いですの?」
「お知り合いの中のお知り合いだよ。私の一代前の生徒会長が紫乃先輩で、その前があの人なんだよ」
「あら、そうでしたの」
「そしてなにより・・・現在私が絶賛片想い中のおねえさんなのだ!」
「そ、そうですの・・・」
どうでもいいから耳元でしゃべるのはやめて欲しいと月乃は思った。耳は凄くくすぐったいのである。
小熊アンナ先輩は絵が趣味なので児童生徒たちの絵画を見に来たに違いない。まだ彼女があかりたちに気づいている様子はないので、挨拶するどうかはあかりの判断に任された。
「ご挨拶しにいきますの?」
「もっちろん! あ、いや・・・待って」
あかりは背後から月乃の首にしがみついたまま何やら考え事をはじめた。自分の唇のすぐ前にあかりの腕がやってきたのでなんとなく月乃は口をきゅっと閉じた。
「作戦変更! 月乃ちゃんだけで挨拶してきて」
「ど、どうしてですの!?」
「訳はあとで話すよ。君が今すべきことは小熊先輩様がどんな人なのか下見してくることさ!」
「ええ? でも・・・私がご挨拶申し上げるのは変じゃありませんこと?」
「月乃ちゃんは紫乃先輩の従妹なんだし、昨日も何かアドバイスもらったんでしょ」
「そ、それはそうですけど・・・」
近くのパン屋に紫乃先輩たちがいるかも知れないから見てくるねなどと言い残してあかりは去ってしまった。仕方が無いので月乃は一人で小熊先輩に挨拶しにいくことにした。