21、くす玉
月乃は別に運動が得意なわけではない。
強いて言えば縄跳びの前回しと平泳ぎが得意だが、縄跳びは長い時間跳び続けることになるためあまり涼しい顔で出来る運動ではないし、平泳ぎはその動きがなんとなくかっこわるいという月乃独自の見解から、小学5年生の夏頃からこれらのスポーツにほぼ全く手を出していない。おまけに月乃はお嬢様のイメージを守るため普段から挙動をおしとやかにしようと努めているから、体力は人並みかちょっと劣るくらいの感じである。
なのに、月乃はかれこれ20分以上も走り続けているのだからたまったものではない。
「あ、あかり様っ・・・あかり様っ・・・」
「どうした月乃くん! 色っぽい声だして!」
あかりは月乃の前を走りながら冗談を言う体力的余裕もあるらしい。
「もう少しゆっくり・・・お願いしますわ!」
「私に言われても困っちゃうよ。ネコちゃんに言ってくれたまえ」
あかりと月乃は三毛猫の先導に従って駆けているので速度に関するご注文はネコちゃんへどうぞ、ということである。
「ネコさん! ・・・少しお待ちになってくださるかしらっ! 」
「ニャア」
「きゃあ!」
急にネコが立ち止まったので月乃はあかりの背中に激突してしまった。初めからネコにお願いすればよかったのである。
「い、意外と素直なネコですわね・・・」
「月乃ちゃん、ネコ使いだったのかぁ・・・」
「違いますわ・・・」
シャランドゥレタワーの展望室から走り始めて電車に乗った二人と一匹が辿り着いた先は、なんと午前中に探索した学園前駅であった。その後もネコちゃんは迷うことなく赤いレンガの歩道を駆け続け、あかりたちをどこかに導こうとしていたが、ようやく今立ち止まってくれたのである。ちなみに歩行者用の信号に引っかかった時もその場でぐるぐると回って走っていた。
「あ・・・」
「ネコさん、目的地まではまだ距離がありますの?」
「ニャア」
「ニャアじゃありませんわ・・・」
「つ、月乃ちゃん」
「あら、なんですの」
「ここ・・・」
あかりに促されて顔を上げた月乃の前には緩やかな上り坂があり、その先には見覚えのある小洒落た建物が午後の日差しの中でそっと佇んでいた。
「ここ、もしかして・・・学園ですの?」
ネコが二人をここへ連れてきたのには理由がある。実はこのネコちゃん、今朝駅前のドーナツ屋周辺をウロウロしながら「またあいつに付きまとってやるニャ」などと企みつつ月乃を待っていたのだが、その時にロータリーにやってきたサンキスト女学園直通バスに優雅に乗り込むアンナの姿を目撃していたのである。金髪で脚の長いねえちゃんだったので印象深かったのだ。隣街の高層ビルの最上階まで行ってから、月乃たちがその女性を探していることに気づいたネコはとても驚いたのである。ちなみに電車に乗れるくせに駅前から学園までバスに乗らずに走って二人を案内した理由は、この前バスに乗ろうとした時に月乃に叱られたからだ。普段は月乃の足をわざと踏んだりしてイタズラするくせに意外と人の話を聴いているネコちゃんである。
「あっ」
街路樹の青葉を揺らす風の囁きに紛れてあかりが声をもらした。
「どうしましたの?」
「ニャア」
「・・・あなたじゃありませんわ」
月乃の隣りで校舎を見つめるあかりは口を半開きにしたままシンキングタイムに入ってしまった。
「あかり様・・・考え事する時は口は閉じたほうがよろしくてよ」
「ニャア」
「・・・あなたじゃありませんの」
やがて振り向いたあかりは月乃の肩を正面からがしっと掴んで大声を出した。
「分かったよ月乃ちゃん!」
「な、なにがですの?」
「小熊先輩様の居場所だよ!」
「ええ!?」
そして彼女は並木道を駆け上がっていった。月乃とネコは一瞬顔を見合わせたが、すぐにあかりを追って再び走り始めた。お嬢様が消費していい一日分のカロリーは既に使い果たしているが、今はそんなことを気にしている場合ではないのだ。
あかりはまるで何かに引き寄せられるかのようにある場所へ向かっていた。人生の重要な場面でネコを信じて走ってきたあかりにとって、このタイミングで根拠のないひらめきに従うことに抵抗などない。この先にきっと小熊先輩様はいる・・・あかりはそう確信しているのだ。
「あ、あかり様・・・校舎にネコが入るのは大丈夫ですの?」
「おっけー!」
「おっけーですの?」
生徒会長が言うのだからオッケーなのだろう。ネコの毛にアレルギーがある生徒がいたら実にお気の毒である。二人と一匹は管理棟の階段を駆け上がった。
「あかり様・・・! こっちで本当に合っていますの? この先は・・・」
赤いじゅうたん・・・紅茶の香り・・・この先にあるのは、あかりたちの活動拠点であり本日の戦いのスタート地点でもあった生徒会室である。
「失礼しまぁすッ!!!」
小熊アンナ直筆のルームプレートを揺らして生徒会室のドアは勢い良く開かれた。
「あ・・・」
「あら・・・」
「ニャ」
窓際の会長席のあたりでティーカップを持って立ち尽くすその人の姿を見て二人と一匹は息を飲んだ。
「先輩様!!」
彼女は間違いなく青い瞳の天才少女小熊アンナさんである。アンナは珍しく驚いた表情をしており、ティーカップを持って固まったまま言葉を探している。天才というのは予想外の出来事に弱いという特徴があったりする。
「小熊先輩様ぁ!!」
あかりはアンナに駆け寄った。なんだか邪魔してはいけない空気を感じ、扉のそばで待機することにした月乃は、ネコちゃんが二人の邪魔をしないように素早く足で通せんぼした。ソックスとふくらはぎの境目辺りにネコちゃんのひげが当たってくすぐったい。
「どうして、私がここにいると分かったの」
アンナがようやく口を開いた。
「んー・・・どうして小熊先輩様がここにいると分かったのかは分からないんですけど、ここにいることは分かりました!」
少し間を置いてアンナは小さなため息をつきながら笑った。
「ほんと・・・あかりちゃんにはかなわないわ」
今朝あかりたちはこの部屋でミーティングをした後アンナ探しに出かけたが、同じタイミングでアンナは管理棟の北階段から生徒会室に上がってきたのだ。アンナはあかりたちの行動全てを読んでからこの場所を選んだが、そんな頭脳を使わずともあかりたちがアンナ探しを途中で諦めてここに帰って来るわけがないので、その点から見てもこの生徒会室は絶対安全なはずであった。ところがそんなアンナの作戦もあかりの前では無力だったようだ。
先輩様に大切なお話があります・・・そう切り出そうとしたあかりは、ここであることに気がついてハッとする。あかりは自分と小熊先輩様が結ばれた時のお祝い用にクス玉を作って会長のデスクのすぐ横に天井からぶら下げていたのだが、自分で作っておきながら中の垂れ幕にお祝い用じゃない別の言葉を書いてしまい不思議に思っていたのだが、この時ようやくその謎が解けたのだ。あかりは自分の意味不明な行動にちゃんと意味があったことを後になってから知るケースが多い。
「先輩様に・・・大切なお話があります!!!」
「あら、なにかしら」
自分の読みがなぜ外れたのかまだ理解できず気持ちの整理がついていないが、あかりが自分に告白をしたがっていることはアンナも分かっているのでここは落ち着いて話を聴いてあげようとアンナは思った。
「私・・・私・・・」
「なぁに」
あかりはアンナの空色の瞳に映る自分にエールを送りながら、震える声で言い放った。
「私・・・先輩様のお姉さんになりたいんです!!!」
「え?」
アンナの「え?」に紛れてオーディエンスの月乃も同じような声を出してしまった。今のは緊張したあかりの言い間違いだろうか。
「私、小熊先輩様のお姉さんになりたいんです!!!」
どうやら言い間違いではないらしい。
「あ、あかりちゃん? それって妹の間違いじゃないのかしら」
そもそもこれは愛の告白なので姉妹がどうとかいう議論もおかしいのだが、年齢も外見も性格もどちらかと言えばあかりの方が妹のはずである。
「先輩様・・・」
あかりはアンナに近づいてアンナの白いボレロの真珠のようなチェーンに指先で触れながらゆっくり囁いた。
「私には分かるんです・・・先輩様は・・・本当は・・・本当は・・・とても淋しいんです・・・」
「な、なにを言っているの?」
自分にくっついてうつむくあかりの頭を見おろしながらアンナは動揺した。天才の抱える淋しさについて誰かに指摘されたのは生まれて初めてである。
「みんなで一緒にいる時も、先輩様はほんのちょっと淋しそうにしてます。笑っていても、心のどこかで一人きりだと思ってるんですよね」
「そ、そんなことはないのよ・・・」
「いいえ。分かるんです」
アンナはもちろん可愛い後輩たちのことが大好きなので、あかりたちとの友情に偽りなど全くない。しかし、それでも何か心に隙間風が吹くことがあるのも事実である。誰にも理解されない天才の哀しみだ。
「たしかに私は勉強が苦手で、生徒会長のくせに赤点取りまくって補習受けたりしてます・・・。だから先輩様みたいな頭の良い人の考えとか悩みとかを分かってあげられるかどうか、自信はあんまり無いんです」
ちなみにこの前の学年末試験のあかりは世界史の答案用紙の名前欄に『津久田あかり』と書いたつもりが『津田あかり』としてしまい、自分の名前を間違えた生徒は初めてですと先生からお褒めの言葉を貰ってしまった。
「でも・・・! 私は先輩様の気持ちを理解できるように一番努力しているつもりです! 先輩様の悩みは私の悩みだと思っています!!」
「あ、あかりちゃん・・・」
全く予想外な展開になっているので、いつも余裕があるはずのアンナも先程から素の反応しかしていない。
「とっくにバレてますけど・・・私は先輩様のことが好きなんです・・・。大好きでいつも先輩のこと考えてるから、先輩様の淋しそうな背中が気になって気になって・・・我慢ができないんです」
アンナは言葉を失った。誰にも理解されない、気づかれることすらないはずの孤独が、とうの昔にあかりに気づかれており、彼女を悩ませていた事実にアンナは非常に驚いたのだ。全てが数式で説明できるはずのこの世界の、想定外の出来事の全てが今あかりに帰結しているようにアンナには感じられた。一体津久田あかりは何者なのか・・・アンナの抱く疑問は好奇心を通り越して胸が震えるようなアツい感情にまで達してしまった。
「私が・・・先輩様のお姉さんになって・・・先輩様の淋しさを癒してあげたいんです」
そう言ってあかりは顔をあげてアンナから一歩離れると、クス玉の紐に指をかけた。ちなみにこの紐はあかりが中学の時に使っていた体操服のパンツの紐の再利用である。
アンナには分からなかった。このクス玉はあかりとアンナがもしも結ばれた時のお祝い用に、気の早いあかりが作成したものだとアンナは思っているので、こんなタイミングでパカッと開けて良いものではないはずである。
「先輩様・・・もう一人で淋しい思いしないでください。私をお姉さんだと思って、甘えて欲しいの」
窓に透ける葉漏れ陽が二人の頬でゆっくりと揺れる。
「私が、いつもそばにいて・・・あなたを癒してあげる」
あかりは紐を引っ張った。
折り紙をふんだんに切り刻んだ紙吹雪と共にするするっと降りてきたその垂れ幕には、慣れない筆字でひらがなが三文字記されていた。
『おいで』
あかりは垂れ幕に書いてある通りにそう囁いてアンナの方へ両手を広げた。クス玉はお祝い用ではなく告白用だったのだ。つまり今朝このクス玉を天井の蛍光灯に結びつけた瞬間には既に、この場所が告白の現場になることをあかりは無意識下に察していたことになる。
孤高の天才、小熊アンナの心の防壁はここでとうとう崩れ去ってしまった。つい先程まで世界はアンナの頭の中で回っており、全てが可愛らしく、そして同時にどこか冷たく輝いていたのだが、あかりが提供してくる予想外すぎる展開に世界の姿は幼少の頃見ていたような大きくて温かい姿へ弾けるように広がり、ついにこの瞬間アンナの心を優しく包むに至ったのだ。今アンナにとってあかりはこの新たなスバラシイ世界の象徴であり、女神様のようなものである。
「あかりちゃん・・・」
我慢できなくなったアンナは、ついにあかりに抱きついた。あかりを抱きしめたのではなくあかりに抱きついたのである。ちょっとおじぎするような形で上半身を前に倒し、あかりのほどほどなサイズの胸に顔をうずめて抱きついたのだ。
「よしよし。淋しかったね、淋しかったね」
アンナはあかりに抱きついたまま小さくうなずいた。あかりはアンナをぎゅうっと抱きしめて彼女の頭を優しく優しく撫でてあげた。
「でも、もう大丈夫だからね。私がずっと一緒にいてあげる。私があなたを癒してあげる」
この子の前では天才ではなく凡人になれる・・・そう思った瞬間、アンナの目から涙がこぼれてきた。
実は、近頃アンナがあかりに関する行動予測を外しまくっていた原因は、あかりの第六感の冴えや気まぐれのパワーによるものではない。気まぐれならば気まぐれで、アンナの頭脳ならばちゃんと計算ができたはずなのだ。なのにそれが上手くいっていなかったのは、アンナ自身があかりに対して心のずっと深い場所で好意を抱いていたにも関わらずそれに気づかないまま環境とイベントの計算をしたり、客観的にあかりを見ようとしたりしていたからなのだ。
冷たく凍り付いていた孤独な天才の世界が今あかりの腕の中で解けていき、春を迎えたようである。枯れ木が広がるばかりだと思っていた彼女の心の庭は、一途で温かいあかりの心へと続く桜並木だったのだ。
アンナは泣いているのが恥ずかしくてしばらくあかりのおっぱいに顔をうずめたまま、まるで幼い妹のように甘えていたが、しばらくして顔を上げた。
「えへ、ずっと一緒にいましょうね、先輩様!」
するとあかりがお姉さんモードから急にいつものあかりちゃんに戻ったので、妹状態の自分が恥ずかしくなったアンナは、赤い顔を片手でちょっと隠したまま無言でうなずいた。ここにめでたくアンナ、あかりカップルの誕生である。
「おめでとうございます・・・!」
いつのまにか床に正座をして二人の様子を見守っていた月乃が、拍手をしながら少しかすれた声で二人を祝福した。
「よかったです・・・本当によかったです・・・!」
「ニャア」
「ニャアじゃありませんわ・・・うぅ・・・」
月乃は紫乃に似て涙もろいところがある。
月乃には天才の悩みがどうとか行動予測がなんたらとかそういう話は綺麗サッパリ何にも分からなかったが、とにかく二人が深い愛情で強く結ばれたことは感じられたのだ。
「ありがとう。お茶を淹れるわ。二人とも座って」
アンナが紅茶を作ってくれるらしい。月乃はアンナの紅茶を飲んだことはないが間違いなく美味しいだろうなと思った。
「月乃ちゃん」
「はい?」
あかりがそっと月乃を抱きしめて背中をポンポンしてきた。
「ありがとね月乃ちゃん」
「ま、まあ、当然ですのよ。わたくしが協力しているんですもの」
「そうだよね」
「そうですわ」
そう言って二人で顔を見合わせてから、あかりは飛び跳ねて喜び出した。時間差型歓喜である。
「やったあー!! やったあー!!!」
「おめでとうございますわぁ!」
「先輩様! 私、先輩様のこと・・・アンナ様ってお呼びしてもいいですか!?」
「恋人同士なのよ、もちろんよ♪」
「やったあー!!」
「おめでとうございますわぁ!」
驚くべきことに、月乃がこのゴールデンウィーク中に引き受けた恋の依頼は、これを以て全て無事完了というこになる。もしかしたら愛のキューピッドは月乃の天職なのかもしれない。
ネコがあかりと一緒にジャンプし始めた頃、紅茶のいい香りがし始めた。
「はい、ここのお茶っ葉を勝手に借りてデージリンを淹れたわ」
「ありがとうございますぅ!」
「美味しそうですわぁ」
甘いものが飲みたかった月乃はアンナが出してくれた紅茶をすぐに飲み始めた。月乃が通う中学のカフェにも紅茶が飲める場所があるが、そこの紅茶とは比べ物にならない程深くて芳醇な味わいである。おそらく茶葉だけでなく淹れた人の腕が違うのだろう。
「いただきまーす!」
あかりも紅茶を飲み始めた。アンナと一緒ならば美味しい紅茶が毎日飲めるに違いない。
「それにしてもあかりちゃんはすごいわぁ」
「え、そうですか?」
アンナはあかりの隣りの席に座って肩を寄せた。
「私の恋人になるだなんて、とっても勇気があると思うの」
「え? いやぁ、そんな勇気ってほどでも」
紅茶をもう一口飲もうとするあかりのあごにそっと触れたアンナはそのままグイッと顔を寄せ、先程の妹モードとは打って変わってとんでもない妖艶な眼差しであかりの瞳を覗き込んだ。
「覚悟はできてるかしら♪」
「・・・え?」
どうやらアンナはここへきていつもの調子を取り戻したようである。
「んもぅ♪ 分かってるでしょう?」
「あ、あの・・・アンナ様・・・?」
「いーっぱい、仲良く遊びましょうネ♪ あかりちゃん♪」
「・・・・・・ハ、ハイ」
あかりは全身がゾクゾクしてしまった。
大好きなアンナ様が淋しそうに毎日を過ごしていることに悩んでいるうちに、あかりはアンナに関するある重要な情報をすっかり忘れていた。彼女はこれからアンナと共に末永くとっても幸せで、そしてどんでもなく刺激的な恋人生活を送ることになるのである。
絵に描いたような超セクシーな体を持ち、ほとんど1日24時間エッチなことを考えている最強のドヘンタイおねえさん小熊アンナ19才が、ずっと一人ぼっちだった孤独から解放され、心まで溶け合うような最高に温かくてカワイイ恋人を手に入れた時、一体どんなことになってしまうのか・・・もはや想像することすら困難である。