20、足音
「りんご♪」
少女たちが街を駆け回っている間アンナは何をしているのかというと、のんびり絵を描いているのである。いくら見つからない自信があるとは言え呑気なものだ。
アンナの絵はどれもこれも線が緻密で、尚かつ妙にエロティックであるという特徴があるため、只のりんごを描いてもなんとなくエッチである。上品で頭も良いくせにかなりアウトローなところがある女だから、近くに置いてあったメモ用紙に勝手に落書きをしてしまっても、後で誰かに怒られるのではないかといった心配は一切していない。彼女の心にはいつだって余裕があるのだ。
アンナの読みが正しければ、今頃あかりたち6人は弓奈と紫乃の助けを借りるために彼女たちのマンションへ向かっているはずである。あかりたちが最後の手段として弓奈の幸運と紫乃の知恵を使ってくることをアンナはもちろん当初から予想済みなので、8人の力を合わせても辿り着けないはずの場所に現在身を隠している。天才の計画に隙はないのだ。
「倉木さんたち、いるかな」
弓奈たちのマンション付近はいつ来ても非常に静かだが、とても明るくて綺麗なので緊張感を強いられないリラックスできる場所である。展望室からショッピングモールを通って徒歩でやってきた舞たち4人は、一階エントランスの手前にあるインターフォンの前で立ち止まった。ここから部屋に連絡をして、エントランスへと続くオートロックの扉を開けてもらうのである。
「鈴原が昨日までバイトでヘトヘトだったらしいから、今日は部屋でゴロゴロしてんじゃないの」
舞は随分気軽に弓奈たちを訪ねているが、もしも彼女たちが本当に部屋で休日を過ごしているのだとしたら、かなりラブラブなことになっている可能性が高いので予め連絡を取ってから訪れるのが正解である。
「んあ・・・何号室だっけ」
「私がやる」
舞は数字を覚えられない系女子なので遥が代わりにやるしかない。
そばで先輩たちの様子を見守る美紗の手を雪乃ちゃんがそっと握ってきたので、美紗は小さく「ひゃっ」と声を出してしまった。美紗おねえさんの顔色がすぐにコロコロと変わる様子が面白くて雪乃は美紗の顔をまじまじと見つめてしまった。雪乃は確かに人見知りで大人しい少女だが、年上の美紗のことを心のどこかでカワイイと思っているところがあり、雪乃がこのまま中学生くらいに成長した時の二人の関係が気になるところである。
弓奈たちの部屋にインターフォンを鳴らしてみてもなかなか彼女たちは通話口に出て来ない。少し長めに鳴らして待ってみたがダメなようである。
「いないかぁ」
「おでかけ中みたいだね」
「近所の花屋か喫茶店じゃないの」
アンナ探しでは全く活躍していないくせにこういう時の舞の勘はなぜかとても鋭い。弓奈と紫乃は午前中から買い物に出掛けて花屋と喫茶店へ向かったのである。
「大通りとかショッピングモールとか見に行こうぜ」
「そうだね。小熊先輩探すのが優先だから忘れないでよ」
「わかってまーす」
4人は弓奈たちに会うために足早にマンションをあとにした。
「木星♪」
アンナの手にかかれば惑星すらエッチな物体に早変わりである。直截的な描写を抜きにセクシーな印象を生み出すことにかけてはアンナの右に出るものはいない。ちなみに木星はガス惑星なんて呼ばれているが、中は液体の金属水素やら岩石の核がちゃんと詰まっているらしいので急いでいる時でも木星を突っ切って近道しようなどと考えてはいけない。
さて、アンナの読みが正しければあかりたち6人が探しているはずの弓奈と紫乃はショッピングモールに期間限定で設置されている絵画コーナーにいるはずである。分かり易い場所なので後14分で彼女たちは合流するに違いないのだ。天才の読みに狂いはない。
「紫乃ちゃん」
「な、なんですか」
喫茶店でサンドイッチを注文してお昼ご飯を済ませた二人はショッピングモールの絵画コーナーへやってきていた。本当はパスタなどを食べに行きたかったのだが、弓奈が花屋で時間を使いまくってしまったのでもう喫茶店で何か食べてしまおうということになったのである。せっかくチョコクッキーの奇跡によってゴールデンウィーク最後の一日を元気な状態で迎えられたのだから、もっと計画的な過ごし方をしたほうがいいのだろうが、二人は一緒にいるだけで幸せなのでどんなハプニングもある程度までは歓迎である。
「しーのちゃん♪」
「な、なんですか・・・」
弓奈は特に意味のないタイミングで紫乃の名前を呼ぶことがあるが、ここで弓奈の方を見ても吸い込まれるような綺麗な瞳でじっと見つめられるだけなので、心身共に平静でいたいのであれば弓奈と視線を合わせないほうが良い。
二人がこの画廊にやってきたのには目的がある。先程喫茶店で弓奈たちはお互いの従妹の話をしたのだが、コンクールで何やら賞をとった弓奈の従妹の絵が、もしかしたらここの会場に飾られているかもしれないと弓奈が思い立ったのだ。曖昧な記憶だが確か従妹からの手紙によると、賞を取った絵はしばらく各地の児童生徒向けの芸術イベントで展示されるらしいので、ゴールデンウィークはこの街の特設会場に来ているかもしれないのだ。弓奈も彼女の絵を実際に見たことは無いのでぜひとも探したいところである。
「わー、すごいね。このヒマワリ」
「ちょっと色遣いがギラギラしすぎです」
「これ綺麗。風車だよ」
「風が感じられないです」
「おお、浴衣の女性。綺麗だね」
「目が死んでます」
元気な時の紫乃ちゃんは絵の評価も辛口である。
しかしそんな紫乃が一枚の絵の前で立ち止まった。彼女は何も言わずにその絵をじっと見つめた。
「紫乃ちゃんなにか見つけたの?」
別の絵を見ていた弓奈が紫乃の元へやってきた。ちょっと肩が当たって紫乃はドキッとしてしまった。
「これです」
紫乃が見ていたのは子猫とワンちゃんが描かれた水彩画だった。ネコのような性格の紫乃と、犬歯がチャーミングな舞がなんとなく対抗心を燃やしていることからも分かるように、猫と犬はあまり相性のいい組み合わせの動物では無いらしい。しかしこの絵のネコちゃんとワンちゃんはとっても仲良さそうに寄り添ってお昼寝をしている。見ているだけで心が洗われるような優しい絵に、揚げ足を取っていくモードだったはずの紫乃ちゃんの胸に浄化の光が差したようだ。
「わぁ・・・ステキな絵だね・・・」
「・・・はい」
素直な時の紫乃ちゃんはとてもカワイイ。二人はそのままネコとイヌの絵にしばらく見とれていたが、絵の下に掲げられたプレートを何気なく見た弓奈が急に飛び上がった。
「ええ!?」
「な、なんですか!?」
「こ、この絵だよ」
「弓奈さんの従妹ですか?」
「うん!」
なんとこの絵の作者こそ、弓奈の従妹だったのである。道理で素敵な絵なわけだなと紫乃は思った。弓奈さんの従妹なら間違いなく優しくて良い子に決まっていると紫乃は信じている。
「そっかぁ。あの子こんなの描けるんだぁ・・・」
二人はそのまま寄り添って穏やかな午後のひとときを楽しんだ。音楽が場の空気を変えることがあるように、一枚の絵でとっても幸せな気持ちになれたりもするのである。弓奈は絵を見ながらわざと紫乃のほうにそーっと肩を寄せたりしていたずらをすると紫乃はそれに反応してサッとかわすのだが、また元の位置に戻って弓奈が肩を寄せてくれるのを待った。二人はなぜかこういう感じのイチャイチャが好きである。
「鈴原、なにしてんの」
「わ!」
背後から聞き覚えのある声がして紫乃は心臓が飛び出しそうになった。声の主はもちろん舞である。
「倉木さん鈴原さん! 探してました!」
「こんにちは!」
「こんにちは」
遥に美紗、雪乃ちゃんも一緒である。一体いつから様子を覗かれていたのかと想像すると紫乃は頬が熱くなってしまった。
「みんな何かあったの?」
弓奈も少し照れながら舞たちにそう尋ねた。とにかくみんな仲がいいメンバーなのでしょっちゅう顔を合わせているから別に久しぶりではないのだが、一気に4人もやって来たら何かあったのだろうかと思ってしまう。
「じ、実はお二人の力を貸して頂きたいんです・・・!」
美紗ちゃんは今日も声が高い。雪乃ちゃんがそばにいる時の美紗は声が高くなってしまう場合が多い。
「実は今あかりとはぐれちゃったんだけど、あいつと一緒にさ、小熊先輩探してんの」
「小熊先輩を?」
「そう。すっげえ大事なことだからよく聴きな」
「う、うん」
舞たちは本日のあかりの挑戦について細かく弓奈たちに説明した。かなり困難な戦いには違いないが、共に青春を駆けた仲間たち全員の力を合わせれば奇跡が起こるかもしれないのだ。
「黒板消し♪」
アンナの落書きのチョイスはどれも少しシュールである。リンゴと木星と黒板消しになにか共通点があるなら教えて頂きたいところである。
アンナの読みが正しければ、2分程前にあかりたち6人と弓奈カップルは合流しており、とりあえず移動しながらの真剣な会議の結果、とある場所に向かい始めるはずである。しかし残念ながらそこもハズレなのでこの勝負はアンナの勝ちということになる。
「なるほど・・・」
これは難題だなと弓奈と紫乃は思った。
「でもこれあかりちゃんが一緒じゃないと小熊先輩見つけられても意味ないんじゃないの」
「んー、あの先輩のことだからあかりが一人で探してるわけじゃないのは気づいてるだろうし、うちらが発見すれば告白のチャンスくらい貰えるでしょ」
弓奈の隣りで紫乃は黙ったままじっと考え事をしている。
「時間的にもそろそろ厳しいんだよ。鈴原、どこかいい場所ない?」
みんなの視線が紫乃に集まった。ここはなんとかして正解の場所を導き出して株を上げたいところである。しばらくして紫乃はハッと顔を上げた。
「シャランドゥレタワーの展望室です!」
「・・・もう探したんだけど」
「じゃあ学園前商店街!」
「・・・そこも見てきた」
「ドーナツ屋!」
「・・・見た見た」
「小熊先輩のおうち!」
「・・・んん?」
全員息を飲んだ。
「それだッ!!!」
全くの盲点であった。どこかに身を隠すと聞くと当然マンションから出て別の場所に行くものと思いがちであるが、彼女は自分の部屋でのんびり待機しているのかもしれない。
「よし行くぞ!! さすが鈴原!!」
「当然です」
弓奈たちと同じマンションなので場所はもちろん分かっている。弓奈、紫乃、舞、遥、美紗、雪乃の6人は最後の望みをかけて小熊先輩の自宅に向かうことにした。
お絵描きをやめたアンナはティーカップを持って腰を上げ、窓際に立った。
「あと少しね」
アンナの読みが正しければ、今頃8人はアンナの自宅マンションを目指して駆けているはずである。約束の15時まで残すところ21分なのでこの一手が彼女たちのラストチャンスだ。
思い返してみれば、アンナが自分の持つ才知を自覚し有効な使い方を身につけ始めた時期と、自分が女の子に恋をするタイプの人間であることを知り、それが世間ではちょっぴり珍しい指向なのだと気づいた時期とはほぼ同じタイミングだった。以来アンナは様々な場面で冴え渡る頭脳を使い、女の子にえっちないたずらをしたり、女の子の幸せを応援したりしてきた。力が及ばない範囲はあったが、不可解な事物になど一度も巡り会うことなく生きてきたのである。最近あかりに関わる読み外れたり、彼女の行動が予想外だったりしたが、それにも必ず根拠があって計算によって対処可能な、なんてことない小さな誤差だとたった今判明したのだ。
「ふー・・・」
アンナはダージリンの湯気を小さなため息でそっと揺らした。自分の読みが正しかったと分かったはずなのに、胸に吹くすきま風のようなこの心細さはどこから来るのだろうか。アンナのような天才少女は精神世界が他人と1オクターブずれているので、言葉は通じても話が通じないことが多いから自然と孤立していき、友人に恵まれているように見えても胸の奥で小さな小さな孤独を抱え続けることになってしまうのだ。それが天才の持って生まれた宿命である。この孤独を打ち破ってくれる存在は今後もおそらく現れないのだ。
アンナは風に揺れてきらめく桜の若葉を黙ったまましばらく見つめていたが、やがて食器を片付けるべくテーブルの上のソーサーを手に取った。ソーサーはティーカップの下の受け皿である。
しかしその受け皿にカップを重ねた瞬間、アンナの手は止まった。
「あら」
聞き間違いかと思ったアンナはもう一度ソーサーの上にカップを乗せ直した。どうやら聞き間違えではないらしい。食器が触れ合うカチャンという音に紛れて、部屋の外の廊下から誰かの靴音が小さく聴こえてくるのだ。誰かが走ってこちらへ向かってきているらしい。
「え・・・?」
そんなはずは無かった。8人は間違いなくアンナのマンションに向かったはずであり、ここへ来られるわけがないのである。しかも、少しずつ大きくなって響いてくる足音はどうやら二人分の靴音らしい。
「二人・・・?」
石津茜さんはラジオ局で香山先生も学園長に監視されていて仕事から手が放せず、あの8人はマンション・・・まさか京都の二人組だろうかとも考えたがそのはずもなく、アンナはこの足音の主の姿が全く浮かばずすっかり混乱してしまった。しかも靴音を含めた全ての気配に占める割合はごく僅かだが四つ足の小動物が伴走している様子もある。アニマルまで出てきてしまったら完全にお手上げだ。自信満々で解いていたテストの最後に、全く勉強したことがない難問が急に登場してペンが止まり、ちょっとしたパニックになる感覚に似ている。
「一体・・・一体・・・誰なの・・・」
動揺によって極端に長く感じられた足音タイムは、アンナがいる部屋のドアが勢い良く開くと同時にようやく終わりを迎えるのである。