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13、紫乃様に会いに

 

 月乃は紫乃様に会うため隣り街にやってきた。

 自分が左利きだという設定をふと思い出した月乃は試しに自動改札に左手を使って切符を突っ込んでみたが物凄く難しかった。世の中は右利き優先でできているものばかりである。

 紫乃様がバイトしているパン屋の詳細な場所をあかり様が教えてくれたので迷子になることはないはずだし、まだ午後3時なので時間の余裕もあるのだが、月乃は油断しないで早めにバス停に並ぶことにした。

 青い空を気持ち良さそうに泳ぐ白い雲を眺めながら、月乃は小さい頃の紫乃様のことを思い出していた。




「月乃さん、お嬢様たるもの、いかなる時も堂々としてなきゃダメです」

「はい! 紫乃様!」

「心の隙は表に現れるものです。常に堂々としていようとするならば、心のどこかにやましいところがあっちゃダメなんです」

「やましいところ、ですの?」

「そうです。悪いことはもちろん、中途半端な生活習慣も、恋もしちゃダメです。それから、このヨーグルトも食べちゃだめです」

「わかりましたわ!」

「このヨーグルトはお嬢様的観点から食べても害が無いかどうかのチェックが済んでないです。だから私が食べてあげます」

「お願いしますわ!」

 紫乃様は小さい頃からとってもかっこいいおねえさんだった。




 するとその時、月乃のすぐ近くでジャラララーン♪ ジャラララーン♪ という聞き慣れないアラームが鳴り始めた。

「な、なんですの?」

 びっくりしてしまったが、どうやらその呼び出し音はバス停のすぐ左にある電話ボックスから聴こえてくるらしい。誰かが公衆電話に電話を掛けているのだ。

 ちなみにドラマや映画の演出などで電話ボックスに電話が掛かってくる場合があるが、公衆電話に割り当てられた番号が非公開である日本においてそれはほとんど不可能である。

「うう・・・」

 初めは聴こえないフリをしようとしていたが、あまりにも長い時間鳴り続けているし、バス停に並んでいる4、5人の列の先頭にいる月乃は電話ボックスに一番近いのだ。何か緊急の連絡かも知れないし、ちょっと怖いがここは月乃が動くしかない。月乃は列を抜けて電話ボックスに向かった。

 月乃は公衆電話を使ったことがなかったのでまず受話器の巨大さに驚いてしまった。温かいシャワーが出てきそうなサイズである。

「も、もしもし?」

「誰じゃ」

 こっちのセリフである。

「わたくしは細川と申しますのよ」

「なんじゃまたお前か!」

「ま、またあなたですの!?」

「弓奈は隣街じゃと言うからその街の番号に適当に掛けたのじゃ。なんでまたお前が出るのじゃ」

「・・・隣街に用事があって移動してきただけですわ。わたくしはあなたと違って忙しいんですの」

「生意気な女じゃの。それで、そこはどこなのじゃ。メシ屋か」

「これ公衆電話ですのよ」

「なにぃ!? もっと的をしぼった番号にしたほうがよいかの」

「そうですわね」

「ちっ、別の番号を考えてみるぞ。次は電話が鳴ってもお前は出るんじゃないぞ」

「・・・頼まれても出ませんわ」

 電話が切れた。

「もう・・・迷惑な人ですわ」

 街だけなんとなく特定して適当に電話を掛け、目当ての人物が偶然受話器を取ってくれる確率は、道端でちょっとあくびをしたら偶然どこからか飛んで来た焼きたてのクロワッサンが口にすっぽり収まる確率とおそらくほぼ同じである。この街の広さをなめてはいけない。

 変な人との電話も終わったし、月乃はバス停に並び直そうとしたが、先程月乃のすぐ後ろに並んでいた女性が声を掛けてきた。

「あの、前どうぞ」

「え? あ、いえいえ、結構ですのよ。また並びますわ」

「でも・・・これ」

「え」

 女性が指差した先に、見覚えのあるネコがお座りしていた。昨日ずっと月乃に付きまとって時々いい働きをしてくれちゃったあの三毛猫である。

「ニャア」

「な、なにしてるんですの?」

 月乃が列を抜けると同時にこのネコちゃんがやって来てここに座ったらしい。ネコを使ってまで自分の順番を維持するほど月乃はせこくないのだが、ネコのほうは月乃のためを思ってやってくれたらしい。

「前どうぞ」

「す、す、すみません・・・」

 恥をかいてしまった。

「・・・余計なことをしないで欲しいですわ」

「ニャア」

「・・・分かってますわ。昨日のことは感謝していますのよ」

「ニャア」

 ネコちゃんは得意気に胸を張っている。困ったお友達ができたものだ。

 バスが来た時、ネコは当然のように月乃と一緒に乗り込もうとしてきたが、さすがにまずいのでここに残るように注意しておいた。もしかしたら彼女は電車に乗ってこの街へ来たのかもしれない。おそろしいネコである。




 ショッピングモールの前でバスを降りた月乃は、パン屋へ向かう前に連泊中のシャランドゥレグランドホテルに寄ることにした。

「えーと・・・」

 確かベッドサイドの小棚の上に置いておいたはずである。

「ありましたわ」

 サインの依頼の報酬として舞様から貰ったトビアザラシ製菓のチョコクッキー・フルーツケーキその他お菓子の詰め合わせ缶・・・これこそが紫乃様の疲れを取ろう大作戦の正体である。月乃はこのお菓子を食べて寝不足と疲労を撃退した経験があるため、少なくとも彼女にとっては「元気がでるお菓子」という宣伝はウソではない。月乃と紫乃は従姉妹の関係なのでおそらく体の内部のつくりが似ているから同じような効果効能が期待できるのだ。

「これを食べて頂ければ・・・」

 疲れは綺麗さっぱりとれるはずである。もったいなくて実はまだ缶を開けていなかったくらいだが、紫乃様になら全部差し上げてもいいと月乃は思っている。月乃は紫乃を心から尊敬しているのだ。

 現在3時33分なのでまだ少し早い気がするがパン屋へ行くことにした。万が一入れ違いになってしまったら作戦失敗だからである。

 ゴールデンウィーク4日目の巨大ショッピングモールが混雑していないわけがなく月乃もある程度の予想はしていたが、フロアを進み、エスカレーターを上がってパン屋に近づくにつれて人の数が尋常でなくってきた。

「な、なんですの・・・」

 実は、連休で一時的に自由となったサンキスト女学園の生徒たち及びその卒業生たちは、年末の音楽番組でテレビにちらっと映ってしまい今や全国区となった伝説の美少女倉木弓奈ちゃんと、その超クールでかわいい恋人の鈴原紫乃ちゃんのカップルがパンを売ってくれる様子を見に来ているのだ。学園にあまり生徒の影が見られなかったのはこのためであり、みんなきゃあきゃあ言いながら弓奈たちの顔を拝もうと背伸びしたりピョンピョン跳ねたりしている。

「さ、さすが紫乃様ですわ・・・」

 月乃は硬派な紫乃様に恋人がいるなんて夢にも思っていないので、この混雑の理由を少し勘違いしているが、とにかくこの状況では接近は叶いそうにない。バイトの時間が終われば店を出てくるのは間違いないので、変装して顔を隠すなどしているかも知れない紫乃様を見逃さないように月乃は一つ上のフロアに行くことにした。ショッピングモールは吹き抜けになっているので上の階からのほうがパン屋がよく見えるのだ。

「んー」

 お菓子の缶を胸にむぎゅっと抱きしめたまま月乃はどんな感じで紫乃様にお菓子をプレゼントしようか考えていた。この缶を手に入れた経緯を全部話すのはあまりにもややこしいし恥ずかしい部分もあるので、どこかのお土産ということにして渡すのもありかも知れない。この場に舞様がいなくて本当に良かった。

 不意に、背後から知らない女性が話しかけてきた。

「あ、あのう・・・」

「はい?」

 振り向くとそこにいたのはファストフード店の店員さんのようなおねえさんである。

「あの・・・たぶん、お客様にお電話なんですが」

「え・・・? わたくしですの?」

 イヤな予感がする。

「な、なにかの間違いではありませんの?」

「いえでも・・・お客様だと思います」

 思いますとはどういうことなのか月乃にはよく分からなかったが、おねえさんも困っているようなので仕方なくハンバーガーショップのキッチンの脇にある電話に向かうことにした。お店の電話のくせに一般家庭にあるような普通の電話だ。

「も、もしもし?」

「誰じゃ」

 ああやっぱりかと月乃は思った。

「ま、またあなたですの?」

「なんじゃまたお前か! しつこい女じゃのう!」

 お互い様である。

「電話になんか出るつもりありませんでしたのよ。呼ばれたから来てしまっただけですわ」

「ぬぬ・・・さっき電話に出た女に弓奈はおるかと訊いたらそんなスタッフはおらんと抜かすから、ひとまず目標を変更して弓奈の相棒の女を探してみることにしたのじゃ。夏に一度顔を見ておるからその外見的特徴を説明したのじゃが・・・結果、電話口にやってきたのはお前じゃ」

「外見的特徴、ですの?」

「3回電話して3回ともお前に繋がるとは・・・どうなっとるんじゃこの星は」

「・・・それは残念でしたわね」

 月乃もすっかりあきれている。

「ええいもうお前でもよいわ! えー、名はなんと言ったかの」

 もうお前でもよいわと言われると複雑な気持ちになる。

「月乃ですわ・・・」

「よし月乃、実は私は今困っておるのじゃ。大ピンチなのじゃ」

「それはよかったですわ・・・」

「月乃にはリーベおるかの?」

「リ、リーベ? それなんですの?」

「好きなメッチェンのことじゃ」

 分からない言葉を分からない言葉で説明しないで頂きたい。

「たぶん、いないと思いますわ」

「んー、実はさっきリーベを怒らしてしまったのじゃ。仲直りの方法を教えてほしいのじゃ」

 お友達と喧嘩してしまったらしい。生意気なしゃべりをするくせに仲直りの仕方を訊いてくるなんてなかなか可愛いところがある。

「仲直りですの?」

「そうじゃ」

「・・・素直に謝ってみたら、いかがですの?」

「ん? んー」

 電話の少女はしばらく黙ってなにか考えている様子だった。

「やはりお前じゃダメじゃの」

「え!?」

「また別の番号を考えてみるぞ。さらばじゃ月乃。またいつか会った時はよろしく頼むぞ」

「お、おことわり致しますわ・・・!」

 電話が切れた。せっかく月乃が親身になって相談に乗ろうとしていたところだったのにひどい少女である。

「もう・・・」

 店員たちの視線が自分に注がれていることに受話器を置いてから気づいた月乃は、愛想笑いをして場の空気を和ませようとしたがいまいち効果がなかった。このまま店を出て行くのも申し訳ないので何か注文することにした。




 窓際の席からはパン屋がぎりぎり見えるため紫乃様の勤務終了のタイミングをチェックするにはいいポイントである。月乃はアイスレモンティーSサイズを持って席に着いた。月乃はハンバーガーショップに来ることなどほとんど無いので何を注文していいか分からずとりあえずレモンティーにしてしまったのだ。

「レモンティーだけなの?」

「これしか注文しませんでしたので・・・」

「アップルパイも食べてみる?」

「結構ですわ・・・」

「おいしいわよ」

「お腹空いてませんの・・・」

 とても自然に会話が思考に絡んできたので思わずそのままおしゃべりをしてしまった。

「ど、どなたですの!?」

「んもぅ、私よ月乃ちゃん♪」

「あ、小熊様・・・」

「さっきからずっとここにいるのに気づいてくれないんだもの」

「も、申し訳ありませんでしたわ」

 おそらく小熊様は月乃がこの席に着く前からそこにいたに違いない。すこぶる不気味なので人の行動を読む能力も大概にして頂きたいものである。

 月乃は何を話していいか分からずしばらく黙ったままストローをちゅうちゅうしていたが、先程のあかりの決意のことを思い出し、少し小熊様に訊いてみたくなった。

「あの・・・」

「なぁに月乃ちゃん」

 いつの間にか小熊様は着ていた白いカーディガンを脱いで薄着になっている。公共の場で脱ぎ始めないで頂きたい。

「明日のご予定は、何かおありですの?」

「明日? 明日はねぇ」

 小熊様はアップルパイを可愛らしくモグモグしながら少し遠い目をした。まばたきもしているし、あごも動いているのだが、小熊様の横顔がとても美しいので月乃には今見ているものが一枚の絵画であるかのように感じられた。

「私、あかりちゃんの恋人にはなれないわ」

「えっ!?」

 急に話が飛んだ上に月乃の考えていたことの核心部分に関わる発言だったため月乃は言葉を失ってしまった。

「私は今のままで充分幸せだもの。昔ね、倉木弓奈ちゃんっていう子を好きになって、その子の恋を応援してたんだけど、弓奈ちゃんは色んな困難を乗り越えてとうとう大好きな人と結ばれたの。それが私の中で長らく未完成だった大きな青春の絵画が仕上がった瞬間よ。とっても快感だったわ」

 倉木弓奈様・・・そろそろ月乃はこの人のことが気になってきてしまった。月乃に関わった色んな人がどういうわけか彼女のことを話題にしており、何度も掛かってきた妙な電話の少女もたしか弓奈という人を探していた。ものすごくその正体が気になるが、小熊様の語りの途中で水を差すわけにいかないので月乃は黙っていた。

「私の心はまーるく完成して満たされちゃってるから、あかりちゃんと新しい恋を始めるのはきっとむずかしいと思うわよ。明るくて社交的で美味しそうな体をしているあかりちゃんにはもっといい人がいると思うわ」

 自然な流れでエッチな表現を使うあたりさすがである。

「でも・・・あかり様は小熊様に本気ですのよ」

「ええ、わかってるわ。勿論とっても嬉しいの。だからことわる時もちゃんと説明して丁寧にことわるつもりよ」

 これはあかり様の告白が上手くいく望みは薄いなと月乃は思った。あかりに対して不思議な友情を感じている月乃はひどく胸を痛めた。

「ただ・・・」

「はい?」

「ただちょっと、気になることがあるのよね・・・」

 小熊様は綺麗な白い左手をあごに当てて何か考え始めた。

「私は人が何を考えてて次にどう動いてどういう結果になるか、だいたい分かるの。例えば月乃ちゃんが今から26分後にくしゃみをすることなんかも分かってるわ」

「・・・な、なに言ってますの?」

「でも、あかりちゃんだけ・・・妙に予想がはずれるのよね。どこで計算を間違えてるのか分からなくて最近悩んでるの」

 そんな天才の悩みなど月乃には解決してあげられるわけがない。

「そのことを・・・あかり様に直接相談してみるというのは」

「え?」

 小熊様の瞳は綺麗な青い空の色をしている。じっと見ていたら吸い込まれそうだ。

「・・・じゃあこうしましょう」

 小熊様はそう言って立ち上がった。髪から香るのか服から香るのか、あるいは肌から直接香るのかは分からないが、爽やかで甘〜い匂いが月乃の鼻をくすぐった。

「明日、私はある場所であかりちゃんを待ってるわ。そこはあかりちゃんを含めた皆が予想できないはずの場所にしてみるから、協力して私を見つけてほしいの」

「え・・・」

 私は明日の夕方に帰らなきゃいけないんだからそういうミニゲーム的なものは勘弁してほしいなと月乃は思った。

「そうね、15時くらいになったら私からあかりちゃんに会いに行ってあげる。どうしても・・・私の計算が合ってることを確かめたいの。本気で考えて場所を選ぶから、月乃ちゃんもがんばってね♪」

 アンナは月乃の髪をふわふわと二度撫でてから去っていった。

「小熊様・・・」

 アンナの謎めいた精神世界に月乃は翻弄されっぱなしである。

 一人に戻った月乃がレモンティーを飲みながらパン屋のほうを眺めていると、店の外に出たアンナが月乃に手を振ってきた。少し照れながら手を振り返すと、アンナはパン屋のほうを指差して何やら月乃に合図を送っている。

「え?」

 アンナが指差していたのは、パンの袋で顔を隠しながらパン屋を出て来た怪し気な少女だった。あれはおそらく月乃が待ちわびていた紫乃様である。

「し、紫乃様!」

 月乃はレモンティーをぐびっと飲み干して席を立ちトレーを片付け、大急ぎでハンバーガーショップを出た。すでに小熊様の姿は見えなかったが、彼女を探している場合ではない。月乃は紫乃様を見失わないよう必死に目で追いながらエスカレーターを下りた。

 紫乃様はパン屋周辺を人混みを上手く抜けたようだが、すぐに帰宅する様子はなく、ショッピングモールの案内板の陰でパン屋のほうを向いて立っている。誰かを待っているようにも見える。

 月乃は大慌てでカバンから手鏡を取り出し前髪に乱れがないかよく確認した。久々にお会いできる紫乃様の前で恥をかきたくないからである。




 とってもハードなバイトが終わった紫乃は弓奈が店の外に出てくるのを待っていた。

 二人は一緒の時間に終わったのだが、店を出るタイミングを敢えてずらし、それぞれ変装しながら人混みを通り抜ける作戦にしたのだ。二人一緒でそのまま出たら集まった少女たちが家まで付いてきてしまうからだ。

「弓奈さん・・・」

 なかなか出て来ない。また忘れ物でも取りに更衣室まで戻っているのだろうかと思い始めた時、紫乃の背後から意外な人物が声を掛けて来た。

「も、も、もし。紫乃様ですの?」

「え?」

 振り向くとなんとそこにいたのは随分と大きく立派に成長した自分の従妹、細川月乃さんではないか。

「つ、月乃さん!」

「紫乃様! お探し申し上げておりましたのよ!」

「ど、どうしてこんなところに月乃さんが!?」

「その、ついこの前ここの特設会場でピアノの発表会がありまして、その関係でゴールデンウィーク中ずっとこの街に滞在しておりますの。なかなかご挨拶できずにもどかしい気持ちでございましたわ」

「そ、そうですか。おひさしぶりです」

 月乃の身長が意外にも高くなっていたため紫乃は無意識にちょっと背伸びをしてしまった。月乃さんは小さい頃からいつも自分を尊敬していたのでその面目は保たなければいけない。

「実は紫乃様」

「は、はい」

「わたくし最近、アラスカに旅行に行っておりましたの」

「あ、あらすかですか」

 自分よりもグローバルな人生を歩んでいるようで紫乃は少々びっくりしている。

「そこでお土産を買ってまいりましたわ」

「お土産?」

「はい! トビアザラシ製菓のお菓子詰め合わせ缶ですの」

 アラスカまで行ってなぜ日本のお菓子メーカーの商品を買ってきてくれるのかは謎である。

「ト、トビアザラシって何ですか?」

「食べた人がみんな元気で笑顔になれるお菓子ですわ。ぜひこれで、アルバイトの疲れを癒してください」

 紫乃は確かに毎日のアルバイトでへとへとであり、そのことを二日くらい前に紙に書いて目安箱とかいう怪しい箱に入れていた。実は疲労が原因で、夜になってから、あるステキなことを弓奈さんとする前に眠ってしまうことが紫乃の最近の悩みだったのだ。ゴールデンウィークが終わってバイトが落ち着けば解決する悩みではあるが、誰にも相談できない種のものである。

「あ、ありがとうございます。受け取ってあげます」

「嬉しいですわ。必ず今日食べて下さいね。チョコクッキーひとつだけでもいいですから」

「はい。食べてあげます・・・」

「ありがとうございます!」

 紫乃は大きくて平べったい缶を受け取った。月乃のお手々の体温でちょっと温かくなっている。これで本当に疲れがとれるのかどうか怪しいものだが、そもそも紫乃はこういったお菓子が嫌いではないのでそういう嬉しさもある。

「そういえば紫乃様、今どなたか待っておられるんですの?」

「え!?」

 しまったと紫乃は思った。従妹の月乃が自分をここまで尊敬しているのは、自分がとっても硬派でクールなお嬢様であるためである。弓奈さんという恋人がおり、ほとんど24時間一緒にいて、仲良くお風呂に入り、毎日同じベッドで眠ってるなんてバレたら、たちまち「紫乃様・・・わたくしショックですわ・・・」みたいな空気になるに決まっている。もちろん今の弓奈さんとの関係がいかに良好で、互いの心身に良き影響を及ぼし合っているか説明すれば問題はないはずなのだが、今まであまりにも紫乃が月乃の前で硬派ぶってきてしまったためすぐには理解してもらえないだろう。ややこしい事態にならないよう今日のところはなんとかごまかすことにした。

「ま、待ってないです。今から帰るところです」

「そうですの。よかったらご一緒してもいいですかしら」

「え!? は、はい」




 尊敬する紫乃様に久々に会えたのが嬉しかった月乃は、二人で歩きながら色んなことを話した。クラスで成績が一番になったこと、運動靴に砂を全く付けずに100メートル走りきったこと、制服のリボンを2秒で美しく結ぶ方法を考え出したことなどを話した。紫乃のほうも立派な中学3年生に成長した月乃に会えて正直かなり嬉しかったのだが、とにかく弓奈さんのことが気になってしまって会話どころではなかった。彼女のことだからさっきの待ち合わせ場所で紫乃と合流するのをずっと待っている可能性がある。どうしたらいいものか紫乃は悩んでいた。

「紫乃様、そういえば・・・」

 月乃がそう言って正面から目を逸らし、紫乃のほうを見たとき事件は起こった。プラタナス並木にあるコーヒーショップの前の花壇に、ホースで水をあげていた店員のおねえさんが、足元のホースにつまずいて転んでしまったのだ。そしてあろうことか、ホースの先のシャワーから出ていた水が偶然通りかかった月乃に思い切りかかってしまったのである。

「うっ!」

 日なたはちょっと汗ばむくらい暖かいとは言え、やはり急に水が掛かったら「冷たくて気持ちいい〜」とはならないものである。

「も、申し訳ありません! 大丈夫ですか!」

「え、ええ。平気ですのよ」

「すみません! 今、タオルを!」

「いいんですのよ。わたくし、水はきらいではありませんの」

 紫乃様が見ている手前、取り乱してはならないと思った月乃は堂々とした態度をしてみせた。

「月乃さん、びしょ濡れです」

「へ、平気ですのよ」

「仕方ない人です・・・部屋で着替えますか?」

「え」

 紫乃様のお部屋を拝見できるのかなと、一瞬月乃は喜んでしまったが、ここで迷惑を掛けてしまってはいけない。月乃はもう立派なお嬢様なのだから、自分の力で危機から脱してみせる。

「大丈夫ですの。わたくしが宿泊しているホテルがすぐそこですし、着替えも豊富に持ってきておりますの」

「そ、そうですか」

「今日は紫乃様にそのお菓子をお渡ししたかっただけですので、これでおいとまさせて頂きますわ」

「え、ホントですか」

「はい! それでは紫乃様、ごきげんよう」

 月乃は濡れたお顔でお上品に微笑んで挨拶することができた。ここだけ見ると実に爽やかなお嬢様である。

 ちょっと急な展開に気持ちが追いつかなかった紫乃だったが、状況を理解して少し安心した。びしょ濡れになってしまった月乃はとても気の毒だが、あのままではマンションまで一緒に付いてきており、しばらくしたら恋人の弓奈さんともバッタリ、ということにもなりかねなかった。

「あ・・・弓奈さん!」

 紫乃は弓奈のことを思い出して急いでショッピングモールに戻ることにした。胸に抱きしめたお菓子の缶は本日の紫乃の大きな希望である。ここ数日の紫乃は毎晩お風呂から出たらすぐにベッドに倒れ込んでぐっすり眠ってしまっていたが、もしかしたらこのお菓子の力で、今日こそは弓奈さんと・・・紫乃の胸はとってもときめいた。



 無事にお菓子を渡せて紫乃様に喜んで頂けた充実感に月乃はスキップしたい気分だったが、そんなことをすると自分のお嬢様度が下がるので、きちんと背筋をのばして、堂々とした態度でシャランドゥレグランドホテルに戻っていた。肩やスカートが思い切り濡れているので、そよ風がかなり冷たく感じられてしまうが、気にしてはいけない。カッコイイ女性とは、いかなる時も胸を張っているものである。

「・・・くしっ」

 月乃はくしゃみをした。

 

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