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11、果汁100%

 

 月乃は悩んでいた。

 先程はついアツくなって一人で飛び出してきてしまったが、遥様と舞様を結びつける方法に心当たりなどない。恋なんかに協力するような柄じゃないとかそんなことを言って格好を付けている時間もないので、真剣に作戦を練ることにした。

 学園からバスに乗ってまもなく駅前に着くのだが、なかなかいい案が浮かばない。駅前のドーナツ屋で何か美味しいものを買ってお二人にティータイムを開かせ、いい感じのムードを作っていったらどうか・・・いや、あの舞様のことだからミニドーナツを小指に何個通せるかみたいなくだらない事を始めて雰囲気を台無しにしてしまうに違いない。ならば月乃お得意のピアノ演奏でロマンチックな世界を作ってしまうのはどうか・・・いや、あの舞様のことだから「なんかうっさくない?」などと言ってとっとと移動してしまうだろうし、そもそも運動公園なんかにピアノを運んでいるうちにゴールデンウィークが終わってしまう。

「んー・・・」

 ともかくバスが駅前に到着したので降りることにした。

「・・・あら?」

 バス停のすぐ前に噴水があるのだが、その傍らの石のベンチに見覚えのある女性を見つけた。

「こ、小熊様・・・!」

「あら月乃ちゃん、偶然ね♪」

 絶対偶然じゃないなと月乃は思った。小熊アンナ様は天才なのでおそらく月乃の行く先を読んでここで待っていたに違いない。

「・・・わたくしに何のご用ですの?」

 月乃は以前この金髪のねえちゃんにエッチなことをされているので警戒している。

「このネコちゃんがね、月乃ちゃんを探してたらしいの」

「ニャア」

 よく見ると小熊様の横に先程の三毛猫が寝そべっており、やあまた会ったニャみたいなふてぶてしい顔をして月乃を見上げているではないか。

「このネコ、小熊様のネコでしたの? 野良猫にしては妙にキレイで毛並みも良いと思いましたわ」

「いいえ違うわ。この子は日本じゅうを歩き回ってあなたを探してたみたい」

「・・・そ、そんなことを言ったって、わたくしの家ではネコは飼えませんのよ。い、いえ、一匹飼ってますけど、その一匹で手一杯ですの」

「ニャア」

「・・・ニャアじゃありませんわ」

 アンナはくすくす笑いながら立ち上がって、おもむろに月乃の髪を撫でた。

「・・・やめて下さいます?」

「学園の大浴場に置いてあるファイブハーブのシャンプーの香りね」

「うっ・・・」

 学園でのお風呂の一件まで小熊様に見透かされているらしい。シャンプーの香りというのは本人が感じているよりも長時間残るものである。

「わたくしは忙しいんですの。もう失礼させて頂きますわ」

「これから安斎さんたちのところへ行くんでしょう? うまくいくといいわね♪」

「あ・・・」

 ここで月乃はひらめいた。

「そ、そうですわ・・・小熊様、少しお知恵を貸して頂けませんかしら」

 あかり様が言っていたようにどうやらこの小熊様は天才らしいので、彼女の協力を仰げば今回の依頼も容易に達成できるに違いない。

「恋なんかに興味がないクールなお嬢様の月乃ちゃんが、恋する乙女たちを応援するのね?」

「べ、べ、別にそんなつもりはありませんわ! ・・・わたくしにはわたくしの事情がありますのよ」

「あらあら」

 小熊様は上品に笑いながらどさくさに紛れて月乃の腰のあたりを触ってきた。このように息をするようにボディタッチをしてくる不埒な女性のどこらへんが良いのか、月乃はあかり様のセンスの理解に苦しむ。

「そうね、私が手伝ってあげられることはないわ」

「そう・・・ですの」

「でも、代わりにいいものをあげるわ」

 小熊様は大人っぽい白いハンドバッグからビニール袋を取り出した。これはドーナツ屋の隣りにある101円ショップの袋である。101円と聞くと微妙だと思われるかもしれないが、税込みで101円なのでなかなかお得だ。

「なんですの?」

「困った時に使ってね。きっと役に立つわ」

「あ、ありがとうございますわ」

 一応お礼は言ったが、袋の中身を見てみるとなんと習字に使う墨汁であった。よっぽど喉が乾いていない限り本来の使い方以外では活躍してくれそうにない代物である。

「こんなもの・・・どう使ったらいいんですの?」

「それじゃ、私は帰るから。頑張ってね、月乃ちゃん♪」

 夕焼けが近い午後の日だまりの中で美しい巻き髪をふわふわ揺らしながら小熊様の後ろ姿が遠ざかって行く。なぜかこの時、月乃の頭の中にあかり様の顔が浮かんできた。

「あの・・・!」

「あら? なにかしら」

 小熊様は振り向いてくれた。

「あかり様のこと・・・どう思っていらっしゃいますの?」

「え?」

 不思議な間が空いた。変なタイミングでおかしな質問をしてしまったかなと月乃は思ったが、もう言ってしまったものは仕方が無いので回答を待つことにした。

「そうね・・・・・・不思議な子かしら」

 そう言って小熊様は笑うと美しい白い手を優雅に振って去っていった。

「・・・小熊様はあかり様のこと嫌いじゃないみたいですわね」

「ニャア」

「わっ! あなたまだ居ましたの!?」

 ネコはあくびをしながら伸びをすると、当然のように月乃の足元にやって来た。同行するつもりらしい。

「・・・どうなっても知りませんわよ」

 こうして月乃はネコちゃんと共に運動公園へと向かうことにした。駅の裏手へ回れば5分ほどで到着である。




 遥は舞に恋をしている。

 高校に入学したての頃は舞があまりにもおバカで無礼だったため保護者みたいな心境で近くにいたが、いつしか舞の胸の中のささやかな良心や天然な正義感を目の当たりにし、すっかり惚れてしまったのだ。舞は「守ってあげなきゃいけない存在」であるが、それと同時に「いざという時は自分のことを守ってくれる存在」でもある。しかしそんな遥の気持ちに舞が気づいている気配はない。

「うち気付いたんだけど」

 ラケットの上でボールをぽんぽん弾ませながら舞が語り始めた。

「やっぱ名曲ってのはさ、印象的なフレーズとかメロディを繰り返すんだよ」

 舞は暗記している事典以外の知識は皆無だがどういう訳か原始的な感覚は冴えているので案外芸術を語り出すと話が長い。

「そのメロディが単純であればあるほど作曲者の能力が高いと思うね。複雑な曲なら極端な話だれでも作れるし、飽きられるのも早いわけよ。単純だからこそ感じられる深みっていうかね、誤摩化す隙間が無いからひとつひとつの音をしっかり吟味してる感じ? たまんないわホント。大人の音楽だわ」

 よく分からないが舞が音楽についてしゃべる時は大抵がAkaneとその楽曲への賛辞である。

「・・・複雑なメロディの名曲だって山ほどあるでしょ」

「あると思うでしょ? それがねぇ、無いんですよ♪」

 どこからその自信が湧いてくるのか。

「単純なサウンドこそが名曲の第一条件、分かった?」

「・・・車のクラクションでも聴いてれば?」

 気が会っている者同士の会話には聞こえないだろうが、舞と遥は正反対の性格をしているからこそ、お互いに助け合ったり、癒し合ったりできるのである。



 月乃は運動公園のテニスコートのそばに辿り着いた。

 ベンチに腰掛けて仲良く談笑する二人の様子が見えるが、お世辞にも今から愛の告白が始めるような環境とは呼べない。もっと景色が良くて飛んでいる花粉も少ないロマンチックな場所はないものか・・・月乃は考えた。

「ニャア」

「あら・・・もしかして、ロマンチックな場所を知っていますの?」

「ニャア」

「お魚屋とかじゃダメですのよ」

「ニャア」

 ネコが何か良い場所を知っているらしい。場所を変えるだけで上手くいくとは思えないが、このままの状態よりは幾分マシになるに違いない。

 が、どうやって二人を誘導するかが問題である。いかにロマンチックな空気を作るかという挑戦であるにも関わらず、第三者がのこのこ登場して「あっちのほうがいいですよ」なんて言ってきたら、二人きりのラブリーな世界など到底生まれないだろう。ここは自然に彼女たちを移動させるしかない。

「今回はネコ様、あなたを信じて上げますわ。さっきやったみたいに舞様のテニスボールを奪ってその場所に運んで行ってください」

「ニャア」

「お二人が付いて来ないと意味がないのでペースはゆっくり目でお願いしますわ」

「ニャア」

 本当に分かったのかどうか怪しいものだが、ネコはとことこと舞たちのベンチに向かって歩いていった。月乃は卯の花の低木の陰に身を潜め、ネコの活躍を祈るのみである。



「なんか来たんだけど」

「ニャア」

「あ、こいつさっきのボール泥棒じゃん」

 ネコは舞が右手に持っているラケットの真下でピョンと跳ね、ラケットの上にあったボールを空高くかっとばした。

「おぉい!」

 さすがは元テニス部部長、すばやく反応してボールを追いかけたが、先にボールを手に入れたのはネコちゃんであった。足の数で負けているのだから仕方が無い。

「ニャア」

「ちょっと、おい!」

 ネコは前足とおでこで器用にサッカーをしながらコートを出ると、そのまま公園の外に向かっていった。

「おーい!」

「舞、遊ばれてるね」

 遥は笑いながら二人分の荷物をまとめてネコと舞の後をついていった。

 作戦の出だしはひとまず成功したようで月乃は胸を撫で下ろしたが、果たしてネコがどこに誘導するつもりなのか分からないので安心はできない。鮮魚コーナーが充実したスーパーマーケットが行き先だった時の対応などを考えながら月乃も彼女たちの後をこっそり追いかけることにした。




 今年一番の美しい夕焼けだった。

 ネコが誘導した先は金色に輝く水面に架かった90メートルあまりの歩行者専用の大きな橋で、その橋の中間には真上から見ると円の形をした2階立てのちょっとした展望スポットがあるようだ。

「わお・・・」

 橋のすぐ脇で解放されたボールちゃんを拾い上げた舞は、空と川面の美しさに思わずため息をもらした。

「舞、ボールあった?」

「んあ? うん」

「きれいだね・・・」

「・・・んー」

 舞はちょっと照れており、素直に「きれいだね」と言えないのである。このような雰囲気を避けてきたから、二人は今まで友達同士のままだったに違いない。ここはもう一歩踏み出してもらいたいものである。

「ちょっと橋渡ってみよっ」

「え・・・」

「行こ!」

 前へ出たのは遥だった。彼女は舞の手からボールを奪って橋を渡り始めた。橋の床には木板が張られており、歩く度にトントンと心地よい音を立てる。



「ニャア」

 橋のそばの雪柳の陰で植物のフリをしつつ二人の様子をうかがっていた月乃の足元にネコが戻ってきた。

「まあ・・・その・・・褒めてあげなくもないですわ。なかなかいい場所ですもの」

 月乃ももう少し素直になるべきだが、これくらいのことを言えるようになっただけでも大きな進歩である。

「しばらくここから二人を観察しましょう。もしかしたら自然に上手くいくかもしれませんわ」

 ネコは返事の代わりに耳をぷるんと振った。



「桃のジュースと緑茶、どっちがいい?」

 展望の二階部分でぼーっとしていた舞の背中に優しい声が掛けられた。

「・・・緑茶」

「めずらしい」

「うっさい」

「果汁100%だよ」

「お茶にする」

 窓があるような立派な展望ではないが、そのお陰で川面を駆けていく気持ちのいい風が吹き抜ける。

 階段の横にあった自販機で遥が飲み物を二種類買ってきてくれたのだが、いつもの舞だったらジュースを選んでいるはずなのに、なぜか今回はお茶を選んでしまった。夕陽をみつめているうちに心がうっとりしてきてしまったため、ちょっと強がってハートのバランスを取ったのである。

「座ろ」

 二人は並んで長椅子に腰掛けた。舞は遥から少し離れて座ったのだが、遥が舞のすぐ隣りにわざわざ座り直した。

 舞ばかりが緊張しているかのように見えるが、遥のほうもこの上ないドキドキを感じていた。自分の人生が大きく動く瞬間が近いという予感が、心臓を駆け足にしているのである。この予感にはちょっとした前触れがあり、遥は最近街で見かけた目安箱とかいう怪し気な箱に、舞に告白をしたいという願いを書いて入れていた。この行為自体は半信半疑の神頼みに近いものであったが、お陰で自分が学園を卒業してからも舞のことを一途に想い続けており、今のままの関係を続けるのでなく本気で結ばれたいと願っていることを自覚できたのである。そして今、このようなロマンチックな場所に意図せず二人きりで辿り着けたのは目安箱の効果か、もしくは運命という奴の仕業に違いない。

「ねえ舞」

「・・・ん?」

「もう私、こうやって舞のそばにいるのやめるね」

「・・・は?」

「だって私、一緒にいても迷惑だと思うし」

「な、なに・・・! えぇ!? あんたなに言ってんの?」

 あまりにも舞があせるので遥は吹き出してしまった。

「うーそ♪ うそだよ。こんな問題児ほっとけるわけないじゃん」

「うっ・・・」

「なんか今の反応で少し自信付けちゃった」

 普段の二人とはすっかり攻守が逆転している。舞は恥ずかしくて頬を染めた。



 一方この頃月乃は二人の会話が聞き取れる位置までの接近を試みていた。遠くから二人の影絵を眺めているだけではサッパリ状況がつかめないからである。

「・・・そーっと歩いてくださる?」

「ニャア」

 橋をこっそり渡り始めたが、床が木製なので足音が心配である。ネコの忍び足を月乃はうらやましく思った。

 なんとか舞たちがおしゃべりをしている真下のエリアにやってきた。夕焼けの美しさに心を奪われてしまいそうだが、今は頑張って耳を澄まし、二人の恋の成就を祈らなければならない。月乃はベンチの陰にしゃがみ込んで意識を2階に集中させた。



 舞は必要以上にお茶を飲んでいた。何をしゃべっていいか分からない間が空くと、すかさずお茶の缶を口にもっていくのである。

「ねえ舞」

「・・・ん?」

「お願いがあるんだけど」

 遥は片手を舞のほうに差し出した。

「手、つないでいい?」

「えっ・・・」

 遥ははっきりと告白する前に、自分の気持ちを相手に分からせるタイプの女らしい。舞はそっぽを向いて黙ったが、しばらくするとそっと手を出してくれた。

 そこに意識が集中していたせいか、やさしく握り合った手のひらからお互いの全身にぞくっとするようなドキドキが広がった。二人はしばらくのあいだ黙ったまま顔を真っ赤にして、お互いの手のひらの温かくて柔らかい感触を味わっていた。思えば長いこと一緒に生きてきたが、このような幸福感を共有し合ったのは初めてである。

 遥は桃の缶ジュースをぐびっと飲んで意を決した。

「立って!」

「うおっ!」

 遥は舞の手を引いてベンチから立ちあがらせた。大切な話なので正面から向き合って話したいのである。

「大事な話なんだけど」

「な、な、なに!?」

 遥は舞の両手を握った。二人の真下の階で耳を澄ましている月乃もこの展開にドキッとしてしまった。

「舞・・・私ね、舞のことかっこいいと思ってる」

 遥の頬が夕焼けに染まる。

「顔も体もかっこいい。テニスしてる時の横顔・・・世界一素敵。そのちょっと尖った歯で噛み噛みされたら幸せだろうなっていつも思ってる」

 遥がまっすぐ見つめてくるので舞はどこを見ていいか分からず目をキョロキョロさせた。

「でもね、舞のこと可愛いとも思ってるの」

 しかし一度視線が交わってしまうともう逃れられず、舞はぴたりと動きを止めた。代わりに激しく動くのは胸の鼓動である。

「別に繊細じゃないけどホントはとっても優しいところとか。悪い事できるほど頭がよくないところとか。知れば知るほど・・・舞のことが・・・愛おしくなっていくの」

 ナチュラルにジョークを織り交ぜていく女である。

「ずーっと前から気づいてた・・・この気持ちが恋だってこと」

「こっ・・・!」

 雰囲気からなんとなく察していたつもりだったが、どうやらこの状況が愛の告白であるらしいことが確定して舞は改めて動揺した。

「ねえ舞・・・」

「は、はい・・・」

「私ね・・・舞のこと・・・」

 胸の一番大切な場所にしまっていたひと言が、とうとうあふれ出した。

「舞のことが・・・好きです」

 風が二人の髪を揺らした。

「舞の彼女になりたい・・・友達じゃなくて、恋人になりたいの。恋人になって、今までできなかったこと、いっぱいしたい。舞の全部を見たいの・・・」

 ずいぶん大胆なことを言う少女であるが、人生に一回くらいはこんなことを言う日があってもいいに違いない。

 で、肝心の舞のほうは石のように固まっており、あほみたいに口を開けたまま遥の瞳を覗き込んでいる。その顔がおかしくて遥は笑ってしまった。

「ちょっと、告白したんだけど。変な顔してないでなんか言ってよ」

「あ・・・その・・・あの・・・」

「あ、ちょっと待って」

 遥が何かを思い出して言葉を遮った。

「返事の前にお願いがあるんだけど」

「・・・え?」

「舞ってさ、ずっと私のこと『あんた』って言ってるけど、私知ってるんだよ。初めて会った頃私の名前が読めなくて誤摩化すために『あんた』って呼んでたら、いつのまにか名前をちゃんと呼ぶタイミング失って、恥ずかしがってるんでしょ?」

「うっ・・・」

 アホらしくて実に舞ちゃんらしいエピソードである。

「私は遥だから。遥って、ちゃんと呼んで欲しい」

「う、うん・・・」

 告白に対してどう返事をするかというのがそもそも非常に大きな課題なのに、お名前の指令までプラスされてしまったら舞にとっては今世紀最大の超難関である。

「がんばって」

「う・・・」

 舞も腹をくくる時である。いつもの鬱陶しいほどの活力を今こそ発揮すべきなのだ。

「あのさ・・・実は・・・う、うちも・・・」

「・・・うちも?」

「うちも・・・あの・・・すき・・・」

「・・・誰を?」

「は、はる・・・・・・遥・・・」

 遥は思わず花が咲くような笑顔になった。

「それ・・・繋げて言うと?」

「うちも・・・遥のことが・・・好き」

「舞ぃ!!!」

 遥は舞に抱きついた。それはもう思い切り抱きついた。フレンドリー越えたラブリーなハグである。

「舞かわいい・・・! 大好き!」

「ちょ、ちょっと・・・やばいって・・・」

 二人はしばらく抱きしめ合った。お互いの欠けていた時間を埋めるようにやさしく、時折つよく抱きしめ合った。初めは遥が舞の体にしがみつくような形だったが、途中からは舞のほうも遥の体に腕を回して、恥ずかしそうにぎゅうっと抱きしめた。ここにめでたく恋人同士の関係が成立したのである。

「ねえ舞」

 舞の胸の中で遥が顔をあげた。遥は嬉し泣きをしていた。

「・・・な、なに?」

「もっと近くにいきたい」

 ささやくような色っぽい声に舞の体の中心がきゅんきゅんした。舞はどうしていいか分からずただ顔を真っ赤にしていた。

「あ、あ、あのさ・・・うち、こういう時、どうするのが正解か・・・分かんないんだけど・・・」

「そういう風にうろたえてるのが正解♪」

 ささやきで舞のことを励ましながら遥はちょっぴり背筋を伸ばし、舞の柔らかい唇にキスをした。お互いの気持ちが高ぶっていたせいか1回では収まらず、小さくて甘いキスをちゅっちゅちゅっちゅと5回も6回もしてしまった。舞は頭がくらくらした。

「どうだった・・・? キス・・・どんな感じ?」

 夢を見ているような感覚の中でそう訊かれたので、舞の口からは非常に素直な感想がもれた。

「桃・・・」

「え?」

「桃のジュース・・・果汁100%・・・」

「・・・おバカ♪」



 応援していた恋とはいえ、こうも見事に成功してラブラブな様子をされてしまっては月乃もどうしてよいか分からない。

「ニャア」

「・・・こ、これ以上は見ていられませんわ。帰りましょう」

 月乃は熱くなった顔を手のひらでパタパタと仰ぎながら渡ってきた橋を戻っていく。

「何かうちわみたいなものでもあればいいのですけれど・・・」

 そうつぶやいて月乃は、丁度うちわみたいなフォルムをした物体をカバンの中に入れていたような気がして立ち止まり、カバンを開けてみた。

「あっ!!」

 月乃は完全に忘れていた。そこに入っていたのは舞から頼まれていたサイン用の色紙である。わざわざ学園まで行って香山先生に会ったのにAkaneのサインを頼み忘れてきたのである。

「あ、あれ鈴原の従妹じゃん! おーい!」

「えっ」

 展望の二階部分から舞が手を振ってきた。遥と二人でラブラブな世界を味わい続けているのかと思いきや、そろそろ日も暮れるということで二人も帰宅しようとしていたところらしい。

「おお! サイン貰ってきてくれたかぁ! サンキュー! 今そっち行くー!」

「え! これは、ち、違いますのよ!」

 手に色紙を持っていたので誤解されてしまった。

「あの子鈴原さんの従妹なの?」

「なんかそうみたいよ。Akaneのサイン貰ってきてくれたみたいだけど、遥にはあげないからね」

「もう・・・」

 名前を呼ばれて照れている遥と一緒に舞が階段を下りてくる。

 素直に「まだサイン貰ってきてません」と言えばいいのだが、それでは自分がいかにも無能な女のように思われてしまうし、サインがまだならなぜここに居たのかという話になってややこしい事態にもなりかねない。ならばいっそのこと月乃が自分でAkaneのサインを書いてしまってはどうか。いやそんなことをすれば後で筆跡鑑定でもされたらすぐにバレてしまう。月乃大ピンチ。残された時間はおよそ30秒である。

『困った時に使ってね。きっと役に立つわ』

 不意に、エッチで賢いあの人の声が頭の中をよぎった。迷うヒマもない月乃はカバンの中から101円ショップの袋を取り出し、墨汁の350ミリリットルのボトルを手に取った。

「これ・・・どう使いますの」

「ニャア」

 ネコが身を乗り出した。何やら彼女には考えがあるらしい。

「え、でもそれは・・・」

「ニャア」

「ほ、ホントにいいんですの・・・?」




「さっすが鈴原一族じゃん、仕事が早いよ」

「あ、ホントに鈴原さんそっくり・・・」

 二人がやってきた。

「ご、ごきげんよう、お姉様方」

「サインありがとさん!」

「は、はい・・・どうぞ」

 月乃はおそるおそる色紙を差し出した。

「やったぜぇ、ありがとう! コレクションに最高の逸品が加わったよ! やっぱねぇ、Akaneの地元に住んでるのもある種の運命だと思うんだよねぇ・・・ファンとしてはサインくらい持ってなきゃ!」

「すごーい、見してよ舞」

「ほら。あ、手ぇキレイ?」

「綺麗だよ。あ、でもさっき舞の手握ったから分かんない」

「は?」

「見せて♪」

 非常に仲良しな様子で結構であるが、月乃は今とてもドキドキしている。

「これ、Akaneのサイン?」

「そうだとも」

「なんか、ネコ感つよくない?」

「は?」

 色紙にはネコのお手々みたいな肉球チックなスタンプがぽんぽんと押されている。Akaneの頭文字のAに見える配置がされているが、基本的にはネコの足跡である。

「遥知らないの? Akaneがこの前発売したシングルの2曲目の『路地裏の伝説』って奴ネコの歌だったじゃん。うちの好きな歌まで察してくれてそれっぽいサインにアレンジしてくれたんだよ。世界に一枚だわこれ」

「へー、それじゃ大事にしないと」

「あったりまえよ!」

 上手く誤摩化せてしまった。月乃は今、小熊アンナという女性の恐ろしさを全身で感じている。自らこの作戦を立て協力に名乗り出た心優しいネコちゃんの前足はこのあと月乃がウェットティッシュでよく拭いてあげた。ネコの手も借りたい忙しい一日はこうして幕を下ろしたのである。

 

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