1、いとこ
本作品は番外編ですので、本編のネタばれにご注意ください。
紫乃は紅茶を飲んでいた。
今日のような爽やかな五月の午前中にはファーストフラッシュのダージリンの香りがよく似合う。茶葉のみならず水の硬度や含有空気量にまでこだわった小熊先輩の紅茶にはかなわないが、この喫茶店の一杯もなかなかのものである。紫乃はオープンテラスに日だまりの香りを運んで吹き抜けるゆるやかな風に髪をふんわり揺らしながら、ティーカップから溢れる芳醇な香りの向こう側にいるその人の姿をこっそり見つめていた。
その人は紫乃の向かい側の席に腰掛けているわけではなく、そもそもこの喫茶店に入ってすらいない。彼女はすぐ隣りのガーデニングショップでお買い物中で、かれこれ30分もキレイなポニーテールを揺らしながら園芸用品を吟味しているのだ。紫乃は別に彼女と一緒にお買い物することが嫌いではないし、むしろ大好きで大好きで仕方が無いのだが、近頃あのガーデニングショップの店員のおねえさんに紫乃たちが恋人同士であることがバレ始めているので紫乃は恥ずかしいのだ。外出先の紫乃は決して恋人にベタベタしないクールな少女なのである。
「300円のおつりです!」
「ありがとうございます」
「あ・・・ありがとうございました!」
お買い物が終わったらしい。紫乃はレジの人に毎回お礼を言う彼女のことが本当に大好きである。まもなく正面入り口のカウベルをカランカランいわせて彼女が喫茶店に入ってくるはずなので紫乃はさっと背筋を伸ばし、スカートの裾や前髪の揃い具合をしっかり確かめた。すべて完璧である。
「待たせちゃってごめんね」
天使と32分ぶりの再会だ。
「弓奈さん、おそいです」
「えへ、ちょっと買うもの迷っちゃって」
弓奈は紫乃の恋人である。花も恥じらう奇跡の美貌とコタツもたまげるあったかハートを兼ね備えた最高の美少女である弓奈の全てが、今は紫乃のものだ。お互いこの関係に至るまでに様々な艱難をしのいできたが、今となってはどれもこれも良き思い出である。
弓奈はリボン付きの小洒落た紙袋を空いている椅子に載せて自分は紫乃の真向かいに腰掛けたが、紫乃の顔を見たとたん少し頬を染めて再び立ち上がった。
「紫乃ちゃん・・・」
弓奈はテーブルに据えてある紙ナフキンを一枚手にとって紫乃の隣りの椅子をそっと寄せ、紫乃に密着するように腰掛けた。
「な、なんですか・・・」
体がとろけてしまいそうな弓奈の甘い香りに包まれて、紫乃の小さな胸はきゅんきゅんと締め付けられた。毎日一緒の部屋で同じように暮らしているはずなのになぜ弓奈からはこんなにもいい香りがするのか紫乃には大いなる疑問である。
「紫乃ちゃん、クリームサンド食べた?」
「え・・・た、食べましたけど」
この喫茶店では各種紅茶を注文すると日替わりでビスケットやクッキーが付いてくる。今日はイチゴのクリームがたっぷり挟まったクリームサンドビスケットだった。
「・・・ついてるよ。クリーム」
弓奈は周囲の視線が自分たちに向けられていないことを確認してから、紫乃の柔らかいほっぺを左手の小指の先でそっとぬぐった。そして少し恥ずかしそうにうつむいたあと上目遣いで紫乃を見つめながら自分の小指をちゅっと吸ったのだ。紫乃が外出先でラブラブなふれあいをしたがらないのは弓奈もよく分かっていたし弓奈だって恥ずかしいのだが、紫乃のおいしそうなほっぺを見ていたら我慢ができなくなったのだ。
「あっ・・・う・・・」
紫乃は一瞬自分がなにをされたのか分からなかったが、状況を理解したとたん火が点いたように顔が熱くなった。視界がぼんやり桜色にほどけていくような熱に耳まで真っ赤に染められてしまったのだ。恥ずかしい・・・すごく恥ずかしい・・・でももっとさわってほしい・・・弓奈さん大好き・・・頭の中は恥ずかしさと幸せがアツアツとろとろに混ざり合ったミルクティー状態だ。
「紫乃ちゃん・・・大丈夫?」
「だ、だいじょうびゅです・・・」
前髪やスカートはしっかり整えたのに口元をチェックし忘れてしまった。紫乃は毎日こんな感じである。
「そういえば弓奈さん」
「ん? なぁに」
注文した紅茶を弓奈が半分程飲み進めた頃にようやく落ち着いてきた紫乃は弓奈とおしゃべりを楽しむことにした。
「今日はそこのお店で何を買ったんですか」
「あ、これ? これはね」
弓奈はそこそこ常識人であり、いかなる時も度を越えることをしないが、花のことになると夢中になりすぎる時がある。二人は現在母校の生徒会長をしている財閥のお嬢様の紹介によって超高級マンションに住んでおり、部屋には10帖近いベランダがあるのだが、そのほとんどが弓奈のガーデンスペースに改造されてしまっている。弓奈の実家は花屋なので紫乃が知らないマニアックな園芸用品が続々と部屋に揃いつつある。
「ラフィアリボン付きガラスドームのピンクローズとガクアジサイのプリザーブドフラワー」
何を言っているのか紫乃には全く分からない。
「ぷ、ぷりざーぶ・・・なんですかそれ」
「んー、これは育てる花じゃなくてお部屋の飾りにするやつ。贈り物用に買ったんだけど」
「え!?」
まさか人にあげるものだとは思っていなかったので紫乃は思わず立ち上がってしまった。
「だ、だ、だ、誰に贈るんですかっ!?」
紫乃は身を乗り出した。優しい弓奈さんのことだから小熊先輩みたいなエッチなおねえさんにだまされていないとも限らない。
「い、従妹の女の子だよ」
「いとこですか・・・」
紫乃は弓奈のことになるとつい熱くなってしまうのだ。
弓奈には中学生の従妹がいる。弓奈に顔がよく似た美少女で、なおかつ程々に常識を弁えた心優しい少女だが、とにかく遠くに住んでいるため弓奈が彼女に直接会えたのは小さい頃のお盆やお正月の数回だけである。
しかし彼女からは年に何度かお手紙が届くことがあり、先週もひかえめで可愛いウサギ柄の便箋が薄桃色の洋封筒に入れられて弓奈たちのマンションに送られてきたところだ。
「その子が絵のコンクールで金賞とったんだってさ」
「なるほど、今日はそのお祝いを買ったんですか」
「うん。こういうの気に入ってくれるといいけどなぁ」
自分だったら弓奈さんからのプレゼントなら何でも嬉しいのになと紫乃は思った。
「まあ、喜ぶと思います」
「そう思う?」
「はい」
「えへ、ありがとう」
「は、はい・・・」
なぜか紫乃が照れてしまった。朝日のように眩しく清々しい弓奈の笑顔の前で、紫乃は赤くなった顔を紅茶を飲むふりして隠すしかなかった。
二人は今のんびりお茶をしているが、このゴールデンウィークはとても忙しかった。紫乃たちはシャランドゥレタワーショッピングモールの「なないろかまど」というパン屋でアルバイトをしており、5連休の最終日である今日以外はほとんどの時間を焼きたてパンの芳醇な香りの中で過ごすことになったのだ。あの有名な美少女がパン屋で働き始めたと聞いて全国津々浦々からファンの少女たちが押し寄せ大盛況となってしまったため、弓奈と違って体力に自信がない紫乃は倒れる寸前だったのだが、昨日とある珍しい人物から疲れもふっとぶ嬉しいお土産を貰えたおかげで本日は元気いっぱいである。
「紫乃ちゃんは従妹とかいるの?」
「へ?」
弓奈のきれいな桃色のくちびるをぼんやり眺めながら昨夜のことを考えていたら急に質問をされたので紫乃は小さな肩をビクッと震わせた。
「い、いとこですか?」
「うん」
「いとこは・・・ですね」
紫乃にも従妹はいる。
「いると言えば、いますけど・・・」
彼女の名は細川月乃である。