Eclipse-bless
距離よし、画角よし、構図よし。
親指と人さし指とで念入りにピントを調節していたところで、突然画面が真っ黒になった。一瞬の間を置いて、電話の受話器のアイコンがでかでかと表示される。さらに少し遅れて、長い振動が指から伝わってきた。
発信元特定アプリのポップアップが開き、都内の固定電話の番号、それにお店の名前と写真が表示される。待ち構えているであろう相手の顔を思い浮かべ、通話アイコンをタップした。
「喂?」
「またどっさり来てるよ、チョコレート」
予想通りの声色で、予想通りの用件が告げられる。吐きかけた溜息を、堪えて飲み込んだ。好意で演奏の場を提供してくれているだけなのに、店の人間でも何でもない僕宛に送りつけられてくる品々を前に、ママの方がうんざりしているはずだ。
「参ったなあ」
「今年もお客さんに配っちゃっていいね?」
「うん。ごめんね、迷惑かけて」
「いいわよ。あたしも美味しそうなのいただくから」
「演奏代一回分で、埋め合わせになるかな」
「いいって。ここにあるチョコレート合わせての方が、絶対お金かかってると思う」
かさ という音のあと、ママはしばらく無言になり、やがて美味しい~ と幸せそうに言った。さっそく堪能しているようだ。
「よかった。無駄にならないのが救いだよ」
「罪な子。自分で受け取り拒否してるくせに」
「どっちもどっちだよ」
人の気持ちを知ろうとせず無視することと、人の気持ちを知りながらはねつけること。
仮にどちらも罪なのだとして、互いが互いをまともに認識してすらいないのに、果たしてどうやって、そして誰の手で裁かれるのだろうか。
「いくらバレンタインデーの起源が“罪”だからって、理不尽に裁かれるのは嫌だなあ」
「何の話?」
「食べ物を粗末にするのが、一番の罪だって話だよ」
「その点なら心配ないわよ。去年も全部捌ききったんだから」
「さすがママ。今年も頼むね」
通話が終わって、再びカメラを起動した。端末を構え、小さな画面をなぞる。ディスプレイに触れる指の動きが、少しずつ冷えて、鈍り始める。
刺すような風が吹き抜ける冬の夜、午前零時が過ぎて、聖なる日はすでに終わりを告げていた。
開け放した窓の外では、ハート型の小さなチョコレートにキスする女の子の顔が、真っ二つに裂かれていた。一方は電話中に撤去されてしまったようで、チョコを摘まんだ指が描かれているポスターが、作業員の手でゆっくりと剥がされている。
明日、このパネルはどんな広告になっているのだろう。
剥がされたポスターの中の女の子は、どこへ行くのだろう。
そんな物思いを経て、突然、一連の撤去作業を真剣に撮影しようと奮闘している自分が、ひどく可笑しくなった。ディスプレイの中の物語が、前触れなく終わる。それまでの操作を全部破棄してカメラアプリを終了し、そのままスマートフォンをソファに放った。
水滴に濡れたガラスの向こうに映っていた広告が何日前からあったのか、ずっとほぼ正面で暮らしていたのに、ほとんど記憶になかった。こうして役目を終えていく姿を残そうと思い立ったのは、この時期特有の浮かれた空気に、どこかで当てられていたからなのかも知れない。だからと言って、僕自身ではない送り先へ届けられたチョコレートを、取りに行こうとは思えなかった。
眠気も空腹も、逆に目の冴えも、相棒を奏でる気紛れすらも起きずに過ぎようとしていたそんな夜更けに、死なない程度に暖のとれる部屋の中で、どうして気づけたのかはわからない。
ポスターのなくなった看板と、ぽつぽつと浮かび広がる街灯りと、遠くまで低く広がる空の隙間に、白いかけらがちらちらと舞い踊っていた。
指に触れたそれは、湿り気や冷たさ、なんて呼べるような間ももたらさず、微かな名残だけを残してすぐに消えた。気のせいかと思うほど儚いその一瞬は、何秒かの時を経て、また同じように、今度は手のひらに届く。いつもより重く近い夜空を見上げると、無表情なその雲は静かに、だけど確かに、白い分身たちを降らせている。
決して無音にはならないはずの街が、静寂に包まれているような、夢の中のような心地だった。退屈も寒さも忘れ、冷えた空気が巡る感触と吐息の白だけを感じながら、音も未練もなく、ただ浮遊しながら落ちていく雪を眺めた。今ここに居るために必要なすべてが揃っていて、他は全部、肌に触れて消える雪みたいに、跡形もなくなっていくような気がした。
禁忌とされながらも結ばれる人々を祝福した聖人も
制御不能な市場に溢れかえる、甘く愛らしく、残酷なお菓子も
時に生命や暮らしを奪い、また時に生命を潤し癒やしながら、こうして降り注ぎ積もる雪も
善か、悪か
裁かれるか、赦されるか
そんな問いに構わず、時は過ぎ、地球は周り、宇宙は巡る。
誰かが、何かがその時の都合で決めることができ、同時に誰にも、何にも、決めつけることなんてできないのだろう。
雪は、いつの間にか見えなくなっていた。ふうっ と天に向かって息を吹いてみても、他に白く色づくものはない。空気が震える遠くの音が戻ってくる。冷たい呼吸の感触が、身体を巡り、沁み始める。
この僅かな時間、限られた範囲の空の下で、ちらついた雪に目を留め、触れた者が、果たしてどのくらい在るのか。
刹那的な、だけども確かにもたらされた偶然は、冬の夜の憂鬱を、静かに溶かしてくれた。
すっかりのっぺらぼうになった広告のパネルを最後にもう一度見て、窓を閉める。部屋にチョコレートは置いてないけれど、なんとなく、甘いものが恋しくなった。もう少し気分が乗ったら、脳と舌への喜びのために、探しに行くのもいいかもしれない。
何も残らなくても、誰に認められなくても、たとえ過ちだと裁かれても
今この時、ここに在るすべてが、
いつか、この世のどこかで、役目を全うし、報われるように。
溶けゆく者たちへ、ささやかな祈りを。
Fin
それが、神の真似事であっても。




