Eclipse - Heat
「お客様にお知らせいたします。ただ今この先の駅で非常停止ボタンが操作され…」
「大丈夫か」
「大丈夫」
身体の前で抱えたリュックのベルトを、ぎゅっと握る。
普段使っている路線が事故で運転を見合わせていて、お昼時にもかかわらず乗客が流れて満員となっている地下鉄に、私たちは揺られていた。乗車率百パーセントを軽く越えている車内は、詰め込まれている人の熱気と容赦なく吹き下ろす冷房がぐちゃぐちゃに混ざって、暑いのか寒いのかすらわからない。それでも、凶器のような陽射しと三十六度の猛暑の中を歩いて帰る気には、到底なれなかった。
暗い地下のトンネルをのろのろと走るそんな缶詰の中、急にブレーキがかかった。バランスをとれなくなった人波に押されて、私も流されるように倒れかけた。情けないくらいによろめいたそんな私を片手で抱き留めてくれたのが、リュックを抱えていなければぴったり密着してしまうほどの距離で向かい合っていた、晃斗くんだった。
「ごめんね」
「いいよ」
支えてくれている彼の腕は、私と、誰かのワイシャツの捲られた腕の間に挟まってしまっている。汗が渇ききらない肌と肌が触れあって、体感温度の感覚がおかしくなっている身体のなか、そこだけが、疼くように熱い。
「痛くない?」
「いや。おまえは」
「平気」
私より三十センチ近く背の高い晃斗くんとは、うんと見上げなければ視線を合わせられない。身動きがとれないまま、お互いの目を探し合う。喉のラインや唇ばかりが目に入ってしまって、わざと瞬きを繰り返す。
「お待たせしました。電車が動きます。ご注意ください」
一本調子な車内アナウンスのあと、もう一度大きく揺れて、電車は走り始めた。隙間ができた一瞬だけあとに、晃斗くんの腕はするり と抜けた。頭がくらくらしていた。目の前の彼のシャツの黒をひたすら眺めながら、背後の扉が開くのを待っていた。
「ちょっとだけ、休んでいい?」
ようやく降り立った駅のホームで、あとからあとから降りてくる人波に、また私は流された。離れずに追いかけてきてくれた晃斗くんの顔をやっとまともに見られたと思ったら、力が抜けてしまった。
ベンチに座って目を閉じ、軽く上を向く。ちょうど顔に当たるように、天井の通気孔から冷たい風が吹いてくる。不思議な心地だった。気持ち悪かったり、息苦しかったりする感じはなく、ただ、頭の中にもやがかかっていて、足の裏の感覚がひどく浮わついていた。
「人酔いしたのかもな」
「たぶん。あんな混んでる電車乗ったの久しぶりだよ」
「朝より酷かったな」
「晃斗くんは?」
「ん?」
「座らなくて平気?」
「平気」
いくつか並んだ椅子のかたちのベンチの端っこにいる私の隣には座らず、晃斗くんは目の前にしゃがんでくれている。さっきまでは遠かったその顔が、今はすぐに触れられるくらい近い。前髪が伸び気味なことに気付く。その隙間から、深い漆黒の眼が、私を覗いている。
「気分は?」
「よくなってきた気がする」
「無理すんな」
ちょっとの背伸びも、すぐに気づかれてしまう。
どうして、そんなに
ゆっくり、脚の感覚を確かめながら、ベンチから立ち上がる。同じように立ち上がった晃斗くんは、やっぱり大きい。
リュックはベンチに置いたまま、一歩近づいて、広い胸元に頬を寄せてみた。いつもの煙草の香りが、頭の奥を優しく刺激する。
晃斗くんは、動かない。両手を背中に回して、ぴったりくっついてみる。どんな顔をしてるのか、見上げたいのを我慢して想像する。
不意に肩に、それから頭の後ろに、晃斗くんの手を感じた。
どくん どくん とどちらのものかわからない鼓動が、二人分の身体に響いている。
さっきとは比べ物にならないくらいに触れあっているのに、疼きに似たあの熱はどこにもない。真夏の暑さも、冷房の冷たさも、全部、どこか遠くにいったみたいだった。
あったかい
無意識に声に出していた、ような気がした。
電車のクラクションが長く、けたたましく響いて、ふわふわ浮いていた意識が戻ってきた。
頭の後ろの大きな手が、ぽんぽん と撫でるように小さく動いてから、離れた。肩と身体からも離れて、最後にまた、煙草の匂いがふわり と香って、宙に消えた。
「もう、大丈夫」
「うん」
「帰ろう」
「ああ」
リュックを背負って、隣で並んで、いつもと違う道を、いつもの家へ帰った。
真夏の熱に浮かされて見た夢は、リアルな感触と鼓動を私に刻み付けて、陽炎のようにいつまでも揺れていた。
8/9、ハグの日の話。




