Eclipse~a wandering night
Eclipse - a wandering night
「作戦終了、撤退」
右耳のインカムからの無機質な声を確認し、コンクリートの壁に背を預けた。髪を乱す強い風が、開いた左耳を掠めて、通りすぎていく。
ライターは相変わらず不機嫌で、暗闇に何度も火花を散らせてからようやく煙草を灯す。くすんだ夜空を流れていく灰色の雲に向けて、煙を吐き出す。
数日前から直撃確実とされていた台風が太平洋へ追いやられ、東京都心は強風が吹き荒れてはいるものの、穏やかな夜を迎えていた。例えばこの台風が昨日のうちに通過していたら、あるいは未だに南海に留まっていたら、距離や風速、タイミングと、あらゆる計算のうえで放たれた一発の弾丸が、世界のマーケットを動かす財界人の眉間をぶち抜いていたかも知れない。夜間の狙撃は、余程の腕と運がなければ成功しない。それでも、確率がゼロとなる可能性もまた、ありえない。
揺られる間もなく風に紛れて消えていた紫煙が一瞬、天へ昇る。追った視線は、霞の奥に現れた月へと吸い寄せられ、奪われる。満月だった。煙と一緒に、短い息が洩れた。
目を背けても、瞼を閉じても、遠ざけて忘れようとすればするほど、その姿は鮮明に映り、心臓を握りつぶすような痛みと熱と、そして身体中を満たす、麻酔を打たれたような心地をもたらす。
あの日も、月に誘われた。
魅せられて、狂わされて、時が経った今でもこうして、惑わされている。
あの頃は、ことあるごとに疑っていた。二人で飯を食って、並んで歩いて、走って、くだらないことで腹を立てて、喧嘩して、笑う。確かに五官で感じていたその一時一時は、噛みしめて焼きつけなければ消えてしまいそうで、夢の中での出来事のようだった。
皮肉な話だ。こうして腰に拳銃を携え、闇夜に一人きりで物陰に潜んでいるこの時のように、手放して離れてはじめて、ようやくあの日々が、感じたすべてが、現実だったのだとわかった。
そして今、好き勝手に暴れる風も、冷えこみはじめた空気も、遠いざわめきに混じる鈴の音に似た虫の声も、雲の隙間にぼんやりと霞む星も、月も、間違いなくこの身体で認識し、脳が処理している。
やがて過去になるであろうこの時を、忘れることはあっても、消し去り、無に返すことはできない。
気付かず、気に留めずにいた時よりも、どん底のさらに底へ沈みながら、重い身体を持て余している。
あてのない未来への期待も、変えられない過去への後悔も殺しきれないまま、膨大な情報と、渦巻き絡み合う欲望や思惑、憎悪、そして血にまみれて、日の当たらない世界で生かされている。
季節二つ分のあの日々を経た今を、同じ空の下を、生きている。
「聞こえるか、JET」
右耳からの呼び掛けで、飛びかけていた思考が引き戻された。煙草を一吹かししてから、返事をする。
「ああ」
「ポイントDからの合図は」
「まだだ。確認したら連絡する」
「他は撤収済だ。月見でもしながら待っていてくれ」
「月見?」
「今夜は、十五夜だ」
だからか と、勝手に言葉が洩れていた。追及される前に無線を切る。短く縮んだ煙草の最後の一服を、もう一度天へと吐き出した。押し流された雲から丸い影が覗き、露になる。完全な円形ではなかった。ほんの僅か、斜めに欠けている。
叫ぶ代わりに、目を閉じて空を仰ぐ。
瞼の裏に浮かんだ姿に、汚れた空気で満ちた肺が、静かに痛んだ。
予報の外れた、秋の夜に。




