Act.05
ようやく打ち込み仕事を終えて、由香里は両手を上げて大きく伸び上がる。普段であればそんなことはしない。これだけ自由にしているのは、既にフロアに由香里以外誰もいないからだ。
プリントアウトした書類をクリップでまとめると、碓井のデスクに近づき未決済用の箱に入れた。ようやく仕事が終わり、最後にパソコンの電源を落としている最中、誰もいない筈の廊下から足音が聞こえてきた。
訝しく思いながら部屋の入り口を見つめていれば、入ってきたのは松本だった。由香里と目が合った途端、一瞬ためらうように松本は足を止める。
けれども躊躇したのは一瞬で、すぐに部屋に入ると自分のデスクに向かう。どうやら出先から戻ったらしく、鞄の中から幾つかの書類を取り出している姿が見える。
既に由香里は仕事を終えているから、これ以上ここにいる理由はない。どうするか、少し悩んだ末、由香里はこちらを向くことのない松本に声を掛けた。
「松本さん」
名前を呼んだだけなのに、目に見えて背を向ける松本の肩が揺れた。そして振り返った松本の顔は、強張ったものだった。その反応が理解できず、由香里は眉根を寄せる。
普段であれば嫌味の一つや二つ投げてくる松本は、二人きりになると何も言わない。ただ、由香里を見つめるその顔は不愉快というよりも、困惑じみたものだ。
「……なんだよ」
「どうして、今更松本さんがそんな顔をするんですか?」
途端に松本は視線を反らしてしまう。確かに江崎がいうようにいじめであれば、二人きりという状況に居心地の悪さを感じるのも分かる。ただ、松本の場合、最初から少し違った。
そう、確かあの噂が流れた段階から、酷く攻撃的だった。
「前に松本さんは、私には恨みがないって言っていました。それなら、一体誰に恨みがあったんですか? もしかして内海さん?」
「……別に殺したくなるくらい恨んでる訳じゃないからな」
答えはある。けれども、それは恨みがあったと認めたようなものだ。例え殺意なき恨みだったとしても。
「理由、教えて貰えませんか?」
「山吹には関係ない」
「……そうですか、分かりました。それなら今から警察に行って、松本さんは内海さんを恨んでいたと伝えてきます」
途端にギョッとした顔で由香里へと視線を向けた。そこには怯えや、困惑、そしてありえないと否定したがる顔がある。
「困ってるみたいですからね。警察も容疑者が浮かばず」
「冗談だろ? 容疑者のくせに」
「でも、私が犯人と確定された訳じゃありませんから。現実に逮捕されていませんし、そもそも私は内海さんを殺していません」
「でも、山吹と内海は付き合ってたんだろ」
吐き捨てるように言われて、由香里の方が困惑する。同期で内海とは仲良くやってきた。けれども、内海と恋人になったことは一度もない。むしろ、内海から告白されて驚いたくらいだ。
「そういう噂があったんですか?」
「……あぁ」
「それなら訂正します。私と内海さんは付き合っていません。ただの同期で友人くらいの立ち位置だったと思います」
「そんなもん、幾らでも嘘つけるだろ。今となっては内海はいないんだから」
「確かに幾らでも嘘はつけます。でも、この場合、付き合っていようといなかろうと、既に容疑は私に向いているから無意味ですね」
「……俺を殺すつもりか?」
「いえ、殺すも何も、私が松本さんを殺す理由すらありません」
「……嫌がらせしたから」
「嫌がらせ、一応自覚はあったんですね」
少し怯えた様子の松本に、由香里は小さく笑う。途端に強張った顔で、松本はまっすぐに由香里へと視線を向けてきた。
「……お前、誰だよ」
「山吹です。それ以外の誰でもありません。ただ、一つ忠告するなら、目に見える嫌がらせは止めた方がいいと思いますけど」
「どういう意味だ?」
「上が動きますよ。社内いじめは、裁判に発展することがあるので、そろそろ上も見逃せなくなっている様子です。私としては嫌がらせなんて痛くも痒くもありませんが、松本さんは違うんではありませんか? ついでに先程の内海さんに恨みを持っている、なんてことまで上に報告すれば、それは楽しいことになると思いますけど、どう思いますか?」
これでは由香里の方が悪者じみている。実際、目の前にいる松本は顔色をなくしているのだから、これでは脅迫者と言われても仕方ない。
でも、これ以上放っておいても何一つ変わらない。いや、実際には江崎が動いて松本や倉田は何かしらの処分を受ける可能性が高い。自分が変化しなくても、周りが変化するのは見逃せない。
微かな表情の変化も見逃さないように松本を見つめる。その視線に居心地が悪かったのか、顔色を悪くした松本は少し身動ぎすると由香里から顔を背けた。
「……最初から言っていたけど、山吹に他意はない。はっきり言えば八つ当たりだ」
「八つ当たりの理由は何ですか?」
「むしろ俺が気に入らなかったのは内海の方だ。内海の恋人である山吹にちょっかいだせば、多少なりとも不快になるだろうと思ってやってた」
「内海さんを気に入らなかった理由は何だったんですか?」
「……これ以上は勘弁しろよ。山吹も営業事務やってるなら分かれ」
それだけ言うと、松本は黙り込んでしまう。
由香里は元々他人に興味がある訳でもない。だから、分かれと言われてもとっさに松本の言いたいことが理解できずにいた。ただ、営業事務という言葉で、毎月発表される営業成績を思い出した。
内海は中の上をキープしていたが、確か松本は中の中。今年四年目になる松本が内海に成績を抜かれ面白く無かった、ということなのだろう。そして、内海に直接攻撃するよりも、恋人だと思い込んでいる由香里に嫌がらせをした方が内海にとって痛手になると踏んだ。
そういう意味で正しいのだろうか。正否を確認する意味で松本へ聞けば、ふて腐れたような顔で「そうだ」と短く返された。けれども、それだと納得行かないこともある。
「それでしたら、内海さんが亡くなった時点で嫌がらせの必要は無くなったんではありませんか?」
「死んだから嫌がらせを止めた、なんてことになったら俺が疑われるかもしれないだろ」
「別にそれくらいで疑われるとは思いませんけど……内海さんのこと殺してないんですか?」
「だから、さきから言ってるけど殺してなんかいない! そもそも、営業成績程度のことで殺してたら、俺は今頃連続殺人犯だ。せいぜい嫌がらせ程度しかしない」
確かに松本が言う通りかもしれない。営業成績なんて波があるものだし、その度に人を殺していたのでは、余りにも割に合わない。いや、でも突発的、ということもあるのだろうか。
つい疑わしげな視線で松本を見つめてしまえば、松本は嫌そうな顔をして口を開いた。
「犯人捜ししてるなら言うが、疑わしいのは別に俺だけじゃないだろ。内海と出掛けた山吹だって疑わしいし、内海に惚れてた倉田だって充分疑わしい」
「倉田さん……内海さんのこと好きだったんですか?」
予想外の言葉につい問い掛けてしまえば、言った松本は呆れたような視線を投げてくる。
「内海が山吹を好きなことも、倉田が内海を好きなことも暗黙の了解状態だったけど、本当に気づいていなかったのか?」
松本の口調は、すっかり嫌がらせする以前のものへ戻っている。そこに蔑みや嫌悪という毒々しいものは含まれていない。
「そこまで他人に興味がないので」
「付き合ってたんだとばかり思ってたけど……内海が報われないな……」
ぽつりとため息混じりに言われても、由香里には何も言えない。ただ、内海に同情しているらしい松本の様子を見る限り、殺意はないのかもしれない。
「とにかく、俺が言えるのはこれだけだ。……もう嫌がらせもしない。子供じみた真似して悪かった」
「そうして貰えると助かります」
「倉田はさ……山吹と内海が付き合ってると思ってるから、あんな行動に出たんだと思う。でも、普段であれば嫌がらせするようなタイプじゃないから」
少し早口に話す松本はまるで言い訳でもするかのようだ。でも倉田を庇うようなその言葉に、松本の気持ちが見えた気がした。
「松本さん、倉田さんのことが好きなんですね」
「別に、そんなんじゃない」
吐き捨てるように言うと、松本は机に置いたままになっていた鞄を手にすると、逃げるように歩き出した。
「お疲れ様」
挨拶をする松本に「お疲れ様でした」と返したけど、既に廊下へと足を踏み出していた松本に由香里の声が聞こえていたのか定かではない。ただ、自分が地雷を踏んだらしいことは分かった。
けれども、それで分かったこともある。松本が倉田が好きなのだとしたら、由香里に対する嫌がらせは営業成績のことだけではなかったのかもしれない。
好きな人を手に入れたいと思ったら、内海への殺意も芽生える……?
そこまで考えて由香里は緩く頭を振った。別に内海の件は警察の仕事だし、由香里が考えてどうこうできるものではない。
だから、すぐに思考を切り替えると、由香里もバッグを掴むと更衣室へと足を向けようとした。だが、そのタイミングで携帯がバッグの中で鳴り響く。画面を見れば江崎からで悩むことなく通話ボタンを押した。
「もしもし」
「江崎です。きみはまだ社にいるのか?」
「はい、今から帰るところです。何かありましたか?」
「いや、もしよければ今日の状況を聞きたいから、食事でもどうかと思って電話をした」
その言葉に由香里はすぐに返事をできずにいた。
というのも、江崎が何を考えているのか読めない、というのが一番の原因だ。実際、今日の状況を聞きたいだけであれば電話で済む。それに由香里としては会う理由もない。
一体、江崎は何を目的として会おうとしているのか……。
それを考えれば、迂闊に返事もできない。
「山吹さん?」
「すみません、今日は寄るところがあるので」
実際、寄るところなど由香里にはない。帰りに寄り道することすら稀なのだから、断るための作り事だ。君子危うきに近寄らず。由香里は今までそうやって生きてきた。判断がつかないものには近づかない。
「そうか……」
由香里の言葉に対して返ってきたのは一言だ。だが、この微妙な沈黙は何なのか、それを考えたところで江崎の人となりが分からないから判断がつかない。そもそも、江崎は敵なのか味方なのか……。
今の状況からみれば、味方のようにも見える。実際、今日一日だけでも、由香里が嫌がらせを受けていた時に一喝入れたりもしていた。それによって、目に見える範囲での嫌がらせはかなり改善している。
ただ改善されたのは目に見える部分だけで、目に見えない部分はさらにヒートアップしている気がしないでもない。それを促している、なんてことはあるのだろうか。
さすがにそれは穿ちすぎだろうと、由香里は苦く笑う。
「今日は助かりました。有難うございます」
現時点での裏事情は報告せず、由香里は声を掛けた。それに対して、電話向こうの江崎が微かに笑う気配が伝わってくる。
「いや、立場からすれば当たり前のことだ」
「でも助かったのは確かなので」
「そうか。そういえば、松本と話しはできたか?」
確かに先ほどまで由香里は松本と話していた。だが、何故それを江崎が知っているのか分からない。思わず誰もいない室内を見回してしまったのは、江崎がここにいるのでは。そう思ったからだ。
けれども、静まりかえった部屋には人の気配はなく、物音一つしない。ストーカーのような悪戯電話、そして見透かしたような江崎。その二つは似通っていて、由香里の手にじわりと汗が滲む。
「……どうしてそれを部長が知っているんですか?」
「先ほど松本が社に戻っただろ。今日は松本と営業へ出ていたから、今日中に資料を社へ戻すように伝えて別れた。猫を被らないきみなら、松本を問い質すだろうと思ったからな」
江崎の言葉で、由香里は緊張で握り締めていた携帯から力を抜いた。聞けばなんてことないからくりだ。
ただ、気が抜ける状況という訳ではない。由香里の中で江崎という駒は、まだどこへ配置していいのか分からない駒の一つだ。
「今後、嫌がらせはしないそうです」
「一つ解決したみたいで良かった」
江崎の満足そうな声にお礼を言って、その後は挨拶をして電話を切った。途端にため息が零れたのは、それだけ緊張していたからだ。今の電話で酷く疲れた気がする。だからといって、ここで座り込む訳にもいかない。
この場に留まっていても仕方ないので由香里は出入り口付近にあるスイッチでフロアの電気を消す。途端に暗くなる室内の中で、赤や緑の光が点灯している。それはまるで蛍のようだと思いつつも部屋を後にした。
更衣室で着替え、会社を出た途端に携帯がメールを受信する。画面を確認するよりも先に辺りを見回せば、ビジネス街ということもあり人影はまだ多い。
駅に向かう人たちが多い中で、ふとその集団は視界に入った。三人組の女性は駅に向かう訳でもなく、その場に立ち止まり背中を向けている。
食事処がない訳ではないけど、大抵の女性であれば駅前にある綺麗な店に足を向ける。由香里は見覚えのある顔を見なかったことにして、駅に向かって歩き出した。
フロアの違う女性社員の三人。視線は合わなかったけど、あそこにいた理由はメールがきた理由とは無関係ではない気がする。ストーカーのようなメールは一人が送ってきているものだと思っていたが、もしかしたら……。
どちらにしても、明日は倉田と話しをしなければならない。二人だけで話すことができるのか分からない。でも、あの三人組の一人は、倉田と同じ習い事教室に通っているということで仲が良かったのは確かだ。
由香里としては、別に暴き立てたい訳じゃない。ただ、平凡な生活に戻りたいだけだ。でも、そのためには内海の件で容疑者から外れないことには、平凡には戻れない気がする。
平凡に戻るためにはいつになるのか。それを考えると、由香里の唇から自然とため息が零れた。