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Act.03

 いつものように始業三十分前に会社へ着くと更衣室へ向かう。制服着用が義務づけられていることもあり、それはいつもと変わらない朝の風景だ。

 更衣室前で聞こえてくるざわめきもいつもと変わらない。けれども、扉を開けた途端ざわめきが一瞬にして消えた。不思議に思いながらも中へ入れば、中にいた女性社員全員の視線が由香里へと向けられる。

「おはようございます」

 途端にそれぞれ視線が反らされて、もごもごと挨拶を返される。昨日とは違う反応に、内海から聞いた噂を思い出した。

 恐らくここにいるのが友人であれば、弁解の一つでもしたかもしれない。けれども、ここにいるのは会社繋がり程度の人間で、知人以上でも以下でもない。

 だからこそ由香里は気にした様子もなく、自分のロッカーを開けると黙々と着替えを始める。他の社員たちは無駄口一つなく、早々に着替え終えると更衣室を出て行ってしまう。

 取り残された由香里は小さく溜息をつくと、仕方ないかと納得する。あんな噂を聞けば面倒ごとには巻き込まれたくないだろう。それに仲がいい人相手であれば、否定もして回るし、話しを聞こうとも思うが、由香里はそういう人間関係を作ってこなかった。

 ある意味、自業自得な面もあるから他人の行動に怒る理由もない。ただ、面倒なことになってるな、とは思う。

 由香里の後から来た人間も挨拶はするけど、その後話し掛けてくることもない。けれども、そわそわした様子でこちらを伺ってくる。その視線が面倒だ。

 だからこそ、由香里もいつも以上に手早く着替え、髪を纏めてバレッタで留めると、早々に更衣室を後にした。途中、給湯室に立ち寄り、コーヒーを一杯用意してから課内に足を踏み入れた。

 挨拶と共に中へ入れば、ポツポツと返ってくる挨拶。けれども、昨日に比べたらさらに少なく、部内でもほとんどの人間が例の噂を知っているのだと分かる。

 それでも挨拶をしてくれる人たちは、噂を知らないのか、もしくは知っていても噂でしかないと思っているのか、挨拶くらいは返しておこうと思っているのか、今の由香里には分からない。

 恐らく由香里であれば、挨拶くらいは返しておくに違いない。例え内心に嫌悪があろうと。

 あからさまに由香里と、そして二課課長である碓井を交互に見ている人間もいる。ここで違うと騒げば、逆に疑いを深めることになる。あからさまな視線は楽しいものではないけど、気にしないようにして自席へと腰を落ち着けた。

 客先に直出人間もいるが、やはり朝一は出社する人間の方が多い。人間が増えれば増えただけ、あちらこちらでヒソヒソと囁きながらこちらを見る目が多くなる。

 集団生活というのは本当に面倒だと思う。一層のこと、誰かが聞きにきてくれたら、思い切り否定することもできるというのに、こういう状況が一番面倒だ。

 そもそも、由香里が思っていた以上に、噂を鵜呑みにしている人間が多いことに驚くよりもさきに呆れるしかない。

 そんなことをグダグダと考えながらも、由香里の手は既に仕事をするためにキーボードの上を走っていた。そして、部内にも徐々に人が増えて行く。

 始業時間は九時からではあるが、どうせなら早く始めて早く帰れるなら早く帰りたい。だから、周りの目は違うけど、こうして仕事を始業前に始めるのは由香里の日常だ。

 九時になり、始業のチャイムが鳴る。チャイムが鳴り終わると同時に、部内に現れたのは専務だ。滅多に現れることのない専務の登場に、あちらこちらからヒソヒソと交わされる会話。

 専務はそんな部内の様子は気にすることなく、部長である江崎、そして課長である空峰、碓井を呼ぶと、指だけで別室へと促した。三課の課長である大内も呼ばれていたが、大内はまだ出張から戻っていない。

 すぐさま四人は部内から出て行ったけど、これはある意味異常事態だった。まず、専務が営業部に顔を出すなんてことは一年に一度あるか、ないかという程度だ。

 いや、でもつい最近専務をここで見た記憶がある。それを思い出せば、例の野口を襲ったと噂の高井が辞める前日、やはり同じように専務が部内に現れた。そして、今と同じように役職四人を呼んで別室へと移った。

 しばらくざわめきが広がったが、それぞれが仕事を始めると徐々にざわめきは落ち着いてくる。けれども、部内全体が浮き足立つ、そんな感じに見えた。

「山吹さん、内海から連絡貰ってるか?」

 部内に聞こえるくらいの大きさで声を上げたのは松本だ。言われて始めて行き先が書かれたホワイトボードに視線を向ける。内海の名前の横には帰宅のマグネットがつけられたままで、今日も朝から出勤の予定だったらしい。

 けれども、既に九時は過ぎている。幾つか二課にも電話は入っていたけど、内海からのものはまだない。

「いえ、まだ今日の連絡はありません」

「なんだ、昨日から一緒だったんじゃないのか?」

 顔中に下卑た笑みを浮かべた松本がこちらを見ている。途端に周りから好奇の視線が由香里に向けられたのが分かる。

「一緒ではありません。こちらから連絡を入れてみますか?」

「ふーん……まぁ、いいや。三十分になっても出勤してこなかったら入れて」

「分かりました」

 別に後ろ暗いことはない。挑発されていることは分かっていたから、それに乗ることもせずに、手短かに話しを終わらせると再びパソコンに向かう。

 ようやく集まる視線から解放されたにも関わらず、再び注目される羽目になったのはそれから五分後のことだった。

 慌てた様子で戻ってきた碓井が、部屋に入るなり珍しく大きな声を上げた。

「山吹さん、ちょっと来て貰えるかな」

 どうして自分が呼ばれるのか訳が分からない。それでも椅子から立ち上がると、由香里は碓井と共に部屋を出た。

 背後からはざわめきが聞こえていたけど、今はそれほど気にならない。ただ、不安だけが大きくなっていく。前を歩く碓井は何も言わない。けれども、焦っているのか慌てているのか、いつもよりもかなり歩調が速い。

 エレベーターに乗って連れて行かれた先は、社長室横にある応接室。ノックする碓井の後ろで、由香里は緊張で乾ききった口内で唾を飲み込む。

「碓井です。山吹さんを連れて来ました」

「入れ」

 扉を開けて碓井に中へ入るように促される。会長や社長を筆頭に、それぞれの部長がいて、そして営業部の課長が顔を並べる。一瞬にして、背筋に脂汗が滲む。

「君が山吹さんか。少しお話しを聞きたいのでこちらへ」

 そう言って見たことのない顔が、正面の席を勧めてくる。少なくとも、その顔に見覚えがないこともあり、碓井と通り越し江崎へと視線を向けた。

 小さく頷く江崎を見て、酷く落ち着かない気分で正面の椅子に座る。会長と社長、そして社外の人間だろう二人、そして由香里、座っているのはその五人だけだ。それ以外の人間は周りを囲むようにして立っていて、緊張が高まる。

「私は桐谷。こういう者です」

「同じく根本です」

 二人が揃って由香里に見えるように翳したのは警察手帳だ。

 何故警察がここにいるのか、何故自分だけがここに呼ばれたのか。困惑しながらも緊張する自分がいる。

「内海綾人さんをご存知ですね?」

「はい、同じ課で同期になります」

「その内海さんが、昨晩、何者かに殺害されました」

「え……?」

 内海とは昨日笑って別れた。だからこそ、とっさに話しを飲み込むことができない。理解が追いつくよりも先に、桐谷という刑事が話しを続ける。

「昨晩、トランというお店で内海さんとお食事を一緒になさったとか」

「……はい、確かに二人で食事をしました」

「その時の彼の様子は?」

「特別変わった様子はありませんでした」

「失礼ですが、どんなお話を?」

 話していた内容のメインは例の噂話についてだ。確かに内海の口調からはかなり広がっている様子だったが、上役がいる前で話したいことではない。

「……プライベートなことなので、ここではちょっと」

「あぁ、そうですよね。申し訳ない。何時頃、内海さんとは別れましたか?」

「時間は覚えていませんが、家に帰った時に十時半を回っていたと思います」

「誰か証明できる方は?」

 心臓がうるさいくらいにバクバクいってる。まるで身体中が心臓になってしまった気がするくらい鼓動がうるさい。

 カラカラに乾いた唇で、どうにか由香里は口を開いた。

「……一人暮らしなのでいません。あの、疑われてるんでしょうか?」

 それはらしくもなく、震えて掠れた声だった。

「いえいえ、そんなことありませんよ。一応、身近な方には全員にお聞きする規則なので」

 にこやかに笑う桐谷だったが、その目が笑っていない。桐谷の隣に座る根本は、もっとあからさまに疑わしげな視線を投げてくる。

「私……内海さんを殺すようなことしません!」

「分かってるよ」

 本当に分かってるのだろうか。こんなこと、これだけ役員の揃った場所で聞かれたら、間違いなく由香里が疑われるのは目に見えている。しかも、あんな噂の後だけに何をどう言えばいいのか分からない。

「内海さんとの関係を聞いても?」

「関係も何も、同期で……友人、だと思います」

 内海とは気が合い、遠慮がいらない関係ではあった。けれども、友人というほど近い距離ではないし、知人や同期というほど離れてもいない。こういう場合、どう表現すればいいのか分からない。

 だから微妙に歯切れの悪い答え方になってしまえば、気にした様子もなく桐谷は言葉を続ける。

「恋人ではないんですか?」

 その問い掛けに、ふと昨日の告白を思い出す。少なくとも由香里は気を持たせるような真似をしたつもりはない。ただ、内海が亡くなった今、強い言葉で否定するのは良心が咎めた。

「……ありません。それは断言できます」

 だから答えた声は自然と静かなものになり、トーンも先程に比べたら落ちたものになる。

「そうですか。……別れた時間だけでも証明できたらなぁ」

 溜息混じりで呟いた桐谷に、由香里は証明できる何かを考えてみる。けれども、昨日は食事を取ったからいつものようにスーパーやコンビニにも寄り道していない。

 内海と別れてからの行動を何度かなぞり、そんな中で一つだけ証明できるものを思い出す。

「あ……スイカ」

「スイカ?」

「JRで使うスイカです。あれに履歴が残ってるから、改札に入った時間と出た時間は分かります」

「今持ってる?」

 問い掛けながら、桐谷がわずかに身を乗り出してきた。そんな桐谷に由香里は頷き返す。

「自分の席へ戻ればあります」

「確認してきますのでお預かりしても宜しいですか」

「はい、それなら今すぐ持ってきます」

「根本、一緒についてけ」

「分かりました」

 別に逃亡するつもりなんてない。けれども、見張られている気がして気分は重い。一旦失礼して部屋を出ると、小さく溜息をついた。

 これで部外者である根本が刑事だと分かったら、また部内で何を言われるか分からない。正直面倒だと思うけど、逃げ出す訳にもいかない。

 別に特別正義感が強い訳じゃない。できたら事なかれ主義だと自覚はある。それでも、内海が亡くなったというのは、由香里にとって衝撃的だった。

 だから、つい背後をついてくる根本に声を掛けてしまった。

「あの、内海さんが殺されたって……本当ですか?」

「残念ながら」

「でも、内海さん明るい人ですし、殺されるようなタイプじゃないと思います」

「勿論、怨恨なのか、通り魔なのか、まだ捜査中なので分かりません。そのためにご協力頂けませんか?」

「それは、勿論お役に立てるのであれば、幾らでも協力させて貰いますけど」

「けど?」

 一旦歩みを止めると、振り返り根本を見上げた。

「……私、疑われてるんですよね。最初に呼ばれたくらいですし」

「いえ、本当にそういう訳じゃないんです。ただ、内海さんと山吹さんがご一緒だったという目撃情報があったので、一番最初に色々聞いてみただけです。正直、うちとしては内海さんの恋人だと思っていたのですが」

「すみません。本当にそういう関係じゃなかったので。ただ、私としては同期で一番仲が良かったです。内海さんが私をどう思っているのかは分かりませんが」

 それだけ言うと、再び由香里は廊下を歩き出す。

 内海からしたら、告白をしたくらいだから、由香里の立場は友人という立ち位置ではなかったに違いない。

 疑われている。それでも告白云々について伝える気になれなかったのは、自分が無碍にしたことが原因だ。死んでしまった内海に、振られた男という汚名を着せたくなかった。

 いや、それよりも、自分が責められたくなかったのかもしれない。確かに振ったのは由香里自身だったが、そのことで色々言われたくなかった。

 自分可愛さ、そう考えると滅入った気分になる。自分の中にそんな自己保身を計ろうとする気持ちがあることを知りたくなかった。

「内海さんは恨まれるような人ではなかった?」

「少なくとも私はそう思います。けれども、他の方の意見はどうだったのか分かりません。正直、私は会社の人とはそれなりの付き合いしかしていないので」

「それはわざと、なのかな?」

「えぇ、会社で問題起こすと後々面倒そうな気がして。少しこちらでお待ち下さい」

 営業部の前に到着すると、根本に声を掛けてから部屋に入った。途端にざわめいていた部屋が静まり返る。

「山吹さん、あのデートの後で内海のこと殺しちゃったの?」

 そんなとんでもないことを言い出したのは、昨日から少しおかしい松本だ。どういう経緯か分からないが、由香里がいない間に内海が亡くなったことは広まったらしい。それに対して、由香里は怒る気にもなれない。

「別にデートでもありませんし、私に内海さんを殺す理由はありません」

「でも昨日、内海と二人で会社出て行っただろ」

 途端に周りがざわめきだしたけど、由香里としては怒る気にもなれない。どちらにしても、きちんと真実が分かれば突っかかってくることもなくなる。それまでの我慢だと思いながら、いつも自席に置いてある鞄からパスケースを取り出した。

「出て行ったからどうかしたんですか? 別に一緒に食事して駅前で別れましたよ」

「恋人でもないのに?」

「同期ですから」

「セフレだったんだろ? それとも、内海から金貰ってた?」

 下卑た笑いを浮かべる松本に呆れながらも、由香里は周りを見渡す。けれども、向けられる視線は好奇、蔑み、そんなものばかりで小さく溜息をついた。どうやら、由香里が思っている以上に噂は広がっていたらしい。

「ご期待に添えなくて申し訳ありませんが、セフレでもなければ、内海さんとはお金を貰うような関係でもありません。余り誹謗中傷がすぎると、こちらとしても出るところ出ますけど」

 しっかりと松本の顔を見てそれだけ言えば、松本の笑みが一瞬にして固まり、舌打ちする音が聞こえた。

 視線を集めていることに気付きながら、由香里はそれ以上何かを言うことなくパスケースを手に部屋を出た。

 出入り口近くで待っていた根本に、酷く同情的な視線を向けられて由香里としてはどんな顔をすればいいのか分からない。ただ、無駄に大きな声で話していた松本は、根本に聞かせたかったのかもしれない。

「……微妙な立場にさせてしまったみたいで申し訳ありません」

「別に構わないです。少し前からおかしな立場だったみたいですから」

「おかしな立場、ですか?」

「えぇ、隠しておいても分かると思うのではっきり言うと、少し前から私が売春しているという噂が立っていたみたいで。でも、私は余り他の人と付き合いがないから、その噂を知らなかったんです。それで、昨日、噂について内海さんが教えてくれたんです」

 嘘はついていない。ただ、自分で言いながら、果たしてこの噂はどちらに傾くのかは気になった。これを聞いた根本は、果たして由香里を犯人と思うのか、関係無いと思うのか。勿論、それを聞いたところで根本が答えるとは思えない。

「そういうことだったんですか」

 それだけ言うと根本は黙り込んでしまい、由香里も同じように口を噤んだ。

 その足で応接室に戻り、スイカを桐谷に渡してしまえば、仕事に戻って構わないと言われた。それから応接室を追い出されるように出ると、由香里はもう何度目になるか分からない溜息をついた。

 あの状況で自席に戻るのはかなり厳しいものがある。だからといって、ここで立っていても仕方ない。

 酷く足取りは重かった。けれども、自分は何一つ悪いことをしていないのだから、そう思って営業部前で深呼吸してから部屋に入る。

 途端に向けられる視線を見なかったことにして自席に座ると、あちらこちらからヒソヒソと会話を交わす音が聞こえる。けれども、何を言っているのかまでは聞き取れない。

 視界の端では松本がニヤニヤと笑い、それが腹立たしく思う。けれども、ここで激昂すれば由香里の立場はさらに悪くなる。それが分かっているからこそ、由香里は仕事を進めるべくパソコンに向かう。

 十分程してそれぞれ課長が戻り、その五分後には部長も戻ってきた。その後からは二課の人間が一人ずつ呼び出され、色々聞かれたらしい。勿論、その内容はひそやかに交わされていたが、それを由香里に教えてくれる人間は誰一人いない。

 元々、会社の人間との距離感なんてこんなものだった。そう思うのに、避けられている気がしてならない。だからこそ、落ち着かない気分で気が滅入る。

 しかも資料が足りずに課内の人間に声を掛ければ、誰一人として返事をしない。どこかピリピリとした雰囲気の中、午前中の就業は終わった。

 昼休みになると、足早に部屋を出たのは集まる視線が煩わしかったからだ。逃げるつもりはなかったけど、他人から逃げたように見えたかもしれない。

 そんなことを考えたのは、会議室に到着して椅子にぐったりと身体を預けてからだった。とにかく自席に座っている最中、針のむしろというのはこういうことなんだと身をもって知った。

 いずれ事実が分かれば、こんな噂は消え去る。それまでの我慢だと思っていた。

 けれども、内海が亡くなってから二日、三日と経つ内に、由香里の状況は徐々に変化していった。

 まず、挨拶が返されなくなった。すれ違う時にクスクスと笑う女性社員。あからさまに嫌な顔をする男性社員。そして極めつけは、朝出社して自席に飾られた菊の花    。

 一緒に昼食を取っていた倉田は、遠回しに断ってくるようになり、今では遠巻きにしている女性社員たちと共に由香里を見て嘲笑うこともある。

 別に友人だった訳ではないから、こういう状況では仕方ないと納得している部分もある。ただ、噂に振り回されるなんて馬鹿らしい、という思いは消えなかった。

 桐谷から返されたスイカからアリバイはほぼ確認された筈なのに、犯人が捕まらないが故に広がる犯人説。

 いずれ理解されると思っていたけれども、日々状況は由香里の想像していなかった方向へと流れていく。こうなると噂の暴走を止められる筈もなく、弁解しようにも弁解するべき相手がいない。

 それは社内での完全な孤立でもあった。当たり前だが業務にも支障をきたし、余りなかった残業も嫌がらせと比例して徐々に増えていく。

 携帯や家には無言電話の嫌がらせが始まり、連絡が余りくることのない電話は家電も携帯も電源を切った。

 そんな中でも態度が全く変わらなかったのは、課長である碓井、部長である江崎、そして事務長である渡瀬だ。

 基本的に寡黙で何事にも関わらない碓井はともかく、江崎と渡瀬は遠巻きながらも由香里を気遣ってくれたことは分かった。

 だからこそ、逃げ出さずに毎日会社に通勤し業務をこなした。それでも、一週間もすれば、胃はキリキリと痛むようになっていたし、鏡に映る顔からは徐々に肉が削げ落ちていった。

 由香里は疲れていた。疲れていたからこそ、普段投げやりだった思考が、徐々に攻撃的になる。

 だから勝ち誇ったような顔ですれ違った松本の腕を掴んだのは、反射的なものに近かった。

「何だよ、離せ」

「私、最初に言いましたよね。これ以上、噂を広めるようであれば出るところに出ると」

 途端ににやけた顔から笑みが消える。由香里が一歩近づけば、松本は一歩背後へと下がる。見るからに怯えたような、引き攣った顔をしている。

「俺のせいじゃないからな」

「そうですか? 松本さんが、あんなことを言い出さなければ、ここまで噂は広がらなかったと思いますが? 近い内に法的手続き取らせて頂きます」

 社内で問題は起こしたくない。そう思っていたけど、色々な意味で限界だった。松本に声を掛けた段階で、退職の文字がちらつく。

 言い捨てて松本の手を離すと、逆に由香里の腕を掴まれた。

「法的手続きって、名目ないだろ」

「名誉毀損って知ってます? 事実でも名誉毀損は立証できるんです。そもそも、松本さんは私に何の恨みがあるんですか?」

「恨み……俺は別に山吹に恨みなんてないよ。ただ……」

 そのまま口籠もると、振り払うようにして腕を離すと踵を返して足早に立ち去ってしまう。掴まれた腕は鈍い痛みとしびれ、そして不可解さを残し、由香里は小さくなる松本の背中を挑むように睨みつけた。

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