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断層

作者: 石井A



脳が溶解するような夏が欲しい、と思った。


四個目のの太陽。


空気の密度の薄い縦縞の夏。遠く冷たい海。発散しない肌。

それでもその日は窓を開け放っても空気は歪むようで、露出の分だけ肌に汗を感じた。川沿いから吹く風もわずかだった。

休日、女は白い脚を疲労の中に投げ出して、もう一歩も動きたくなかった。


この地に住み初めて数年経つが、この夏に慣れることが出来ない。だからといって脳が溶けるような夏を体感してきたわけでもなかった。

ただ、細胞が液化するような何かに身を投じたかった。


削ぐように刻まれる日々。それでも、やはり削ぐようにヒールの音を響かせた。そこにはっきりと伝えられた単純な価値を作り上げた。

だが時折、脳の白紙の部分が螺旋に反転してゆく。

時に意識的に。


女は、無造作に解かれた髪をソファに放射線状に広げたまま、仕切られた空をカーテンの隙間に見上げる。

鎖骨。ソファからだらりと落ちた腕。背骨から腰への線。その先に剥げかけたペディキュア。

女は動かない。ただ、扇風機の風が股の内側を掠めている。


遠く、或いはすぐ近く、子供達の笑い声が聞こえてくる。夏休みの正午。

表札を額に掲げた住宅街。そこは、互いに知ることを避けた人々が埋め込まれたアパート郡に住むよりも一層、浮いた自分を感じた。


夜には男が来るだろう。

どんな土地、どんな時にも違う空気がある。そして皆、違う空気を抱えている。

女は耳を閉じた。瞳も。

空気が解け合う。


時が、交差する。






あの少女。


公園の裏手を流れる小さな川沿いは、夏に雑草が生い茂る。

長く雨が続いた。水溜まりの残る公園に子供達の声が響いている。


走り回る少年たちの横には、ブランコをベンチ代わりにした三人の少女がいる。一人は、腰に手をあてすでに主婦のような口振りで何やら話し続けていて、一人は時折、視線をチラと男子に向けると、両手を口にあて隠すように笑った。

もう一人の少女。二人よりは幼い。


少し勝ち気な瞳、ショートカットから覗く横顔は何を見ているのだろう、話には無関心なようだ。まっすぐに伸びた脚をバランスよく使い、ブランコをこぎ続けている。スカートがそれに合わせて規則正しくほんの少しめくれた。



子供が子供らしいと思えるのは大人だけで、少年にしろ少女にしろ複雑化していく精神の予兆としての根を張らし始めていた。


男子の中ではいつでも無意識に、社会が組織されるらしい。それは崩れることなく、背の高い少年の突然の指令に従い、それぞれが自転車に乗り公園を去っていった。一人が遅れる。

その声が遠ざかっていく。


少女は最後、目一杯ブランコをこぐと、ヒラリと飛び降りた。年上らしき二人が連れだってトイレに行ったすきに、公園を隔てるフェンスの隙間から、肩を超えるほどの雑草のなかに入っていった。

それは好奇心と言うには、興味や興奮が欠如していた。解放を感じたかったのかもしれない。川のそばへと向かっていた。



住宅街の手前に最近綺麗なアパートが建った。リゾート地のコテージのような造りで、窓が縦に長い。

その一階の五つ目の白いカーテンが揺れている。


雑草は肌に気持ち悪く、土の蒸気が鼻に付く。

やっとわずかなセメントと土の境目まで来たときに、その五つ目の窓の正面であることにハッとして、積まれたブロックの横に知らず身を隠した。


奥に白い脚が見える。


それは横たわったまま、左右に力なく組まれていた。外から見える室内は暗く、脚だけが浮かび上がり、そしてやけに無防備だった。風にカーテンが大きく揺れた。

組まれた脚が解かれ、不自然な角度で動くのを見ていた。





陽は少女の横顔を射す。

蝉が鳴いていた。


どれだけの時が経ったのかわからない。数秒も経っていないのかもしれない。

ただ耳の中を蝉が支配し、時は停止したようだった。


公園の声を蝉が掻き消した時、少女は瞳を見開き後ろを見た。風が瞳を刺した。


駈けた。


ぬかるみに脚をとられながら、深い草地からこみ上げる湿気と汗がスカートにまとわりつく。

その腿の感覚が、知らず自分が変化してゆく予兆のようで、逃げるように駈けた。


瞳の中を残像が巡る。

それは果たして今見たものなのか。嘔吐感が少女をまた走らせた。



子供は記憶を意識しないのだろう。記憶の必要がないからだ。

ただ海綿のように柔軟に吸収されていく。

少女のその陶器の肌に埋め込まれた空気を貫くような真っすぐな瞳は何を見るのか。

いつしかその視界に余分なたっぷりとした脂肪のようなものが付着していき、それらが少女自身を形成し外面にさえ現れ、気付けば後戻り出来ないことを今は知る由もなかった。


少女がフェンスに辿り着き川岸を抜けた時、それと同時に染みのような残像をいとも簡単に密閉し、脳の底に放り込んだ。


住宅街の坂道の上に傾いた空があった。公園は長い影を作っていた。

海は深い。だが確実に底はある。









浴室に私はいる。


顔だけを水面から出し、瞳を閉じる。髪は放射線に解放され、私から離れてゆく。心臓の音が微かに聞こえる。


映像が時間とともに積み重なり、一人の人間が作られる。いくつもの層、幾重にもなり、すでにそれらは地下深くに沈んでいる。

取り出すことは不可能に思われる。しかし、ふいに、そう、すでに層は混沌とし、とらえられない次元のものとなり、そのなかから、ふいに訪れる。形成、私たち自身を形成してゆく。映像が、あらわれる。

すべてもはや意志ではない。層になった形。

美しくもあり、ひどく脆くもある。



私の心臓は浴槽に浮いている。

ユニットバスに溶け込んだ映像は液体となり、心臓の鼓動を時間のぶんだけ静かに進めている。


私はそれを見ている。







女、そう女。


女は瞳をゆっくりと開ける。換気扇、ユニットバスの白い壁。視界が仕切られる。視界が脳を仕切る。

上向きに沈めた上半身を浴槽から起こしてゆく。水面から出た冷えた脚、それは細く質感が落ちている、それでも女が最もお気に入りの脚、それを既にぬるく


なった湯に戻した。肩から胸元の白い肌が浮き立って見える。全身の白い肌は透き通るようで、内腿に青く細い血管を透いている。強く見える外面の内側に潜む見え隠れする繊細さに似て、だがそこにも血が走っていた。

内腿に血管が浮くのは淫乱の証だよ。誰が言ったのだろう。さほど淫乱な気はしていない。だが、あれがそうだというなら、そういう部分はあるのだろう。

興奮すると内腿が赤くなる。男、誰か男が言う。それを見たい、その自身の姿を見たいと思った。


電話、携帯の着信音がリビングから微かに聞こえる。女は再び頭を水面に沈め、音が止まるのを待った。

それからゆっくりと立ち上がり、タオルで髪をふきながら浴室を出る。裸体のままリビングへ向かう。その頃にはもう三度目の携帯音が鳴っている。

K。小さな画面に名が記されている。それをソファの上に放り投げる、そのままベッドルームへ向かう。


携帯音は鳴り止まない。

女はその音を聞きながら、ゆっくりと内腿へと手をやる。







お前が殺したんだろ。




女の目の前には、一枚の写真が置かれている。

スーツを着た若い男。ネクタイはしていない。胸元、肌が見える。茶髪。真っすぐに立ったつもりらしいが、少し右肩が傾いている。

警察署で撮られたものらしい。初めて見る写真だが、確かにこの男を知っている。


その部屋は、テレビドラマでみる取調室のような作りではなく、新築のオフィスのコミュニティルームといった感じで、壁もオレンジがかり、部屋の隅にはコーヒーマシンも設置されている。立ち上がって自由にコーヒーでも飲めそうだが、目の前ではテープレコーダーが録音状態で回っている。

暴力団関係の刑事達は、どちらがそちらの方か、わからない。広いテーブルの一番奥に座らされた女は、かわるがわる向かい側に座っては、あの手この手で話してくる刑事たちの質問に、一言も答えていない。

脚を組み、瞳を閉じている。


Kの携帯からあんたのところにな、一番電話がかかっているんだよ。知ってるんだろ。

Kはどこにいるんだ。

居場所を間違えている。女は思う。誰も時に。





それにしても警察署に来て、一体もう何時間になるのだろう。


その日の朝方、女がやっと眠りについた頃、インターホンが鳴った。男だと思った。

警察だと、声は優しい口調で言った。ドアを開けたのは一人の若い刑事だった。

署の方までね、来ていただくことになってね。

お話をね、聞かせて下さい。大丈夫かな。

と、笑顔で言った。


少し時間を下さい、と女は言った。

部屋の壁には昨夜脱いだ呂の着物が掛かっている。それを背中に鏡の前に立ち、自分の瞳を見つめた。

それからゆっくりと化粧をし、クローゼットを開けると素肌にきつめの黒のスーツを選んだ。胸元が鋭角に深く開いている。そこに一度チョーカーをつけ、そして外す。

スーツに合わせた高めの黒ヒールを箱から出しバッグを、と、そこで鏡に再びチラと視線を走らせる。

バッグは赤を選んだ。

その作業は女にとって仮面のようなものだった。

再びドアが開くと、一人はオーと頭の悪そうな感嘆符で女を見た。

もう一人刑事がいたらしい。マンションの裏、駐車場側から駆け付ける。鉄則なのか。誰かが窓から逃げないか見ていたのだろう。

誰もいないのに。逃亡するものなど。





雨、女が呟く。


そうですねぇ、定番のトレンチを着た背の高い新人刑事が、いやですよねぇ、天気予報ではね、雨なんです、降らなきゃいいですね、とハンドルを握りながら甲高い声で無邪気に答えている。

少し先輩らしき体育会系の刑事はあきれ顔で新人をチラと見る。

警察のよく磨かれた黒の車は午前中のオフィス街を走っていく。

大橋を過ぎる。毎晩タクシーで通る同じ道だが、この映像は見たことがないと感じていた。数年、夜しか見ていない。


頬を掠める風景は、鋭角で時折、人の心を削ってゆく。

その空間の隙間に、自分の今いる場所が繋がらない。過去と未来をどう繋げていいのか、わからなくなる。

間違っている、どこかで間違えてしまった、そんな気がしている。

だが自身が選んだことなのだろう。



空はやはりどんよりしている水族館の中にいるようだと思った。あの少女が脳をよぎる。

雨は降らなかった。








二人かがりで帯を左右からキツく締めると、後襟をグイと引っ張り、脇腹の辺りをパンと弾くように叩いた。

いい女になってきたわね。

わかるのよ、長年こうして何人も着物を着せていると。今日は帯、下目に着けたの、わかる?。


女、麗と呼ばれた、夜は。

壁全体に貼られた鏡に写し出された自身の姿を無言のまま見ている。

黒に黒の帯。深紅の帯留め。

それを見ている。そしてその自身に近づき口紅を濃い赤に塗り直す。


いくつもの心臓をを飲み込んで夜が膨張してゆく。すすきの。

金曜。どこからか溢れた人々は斜めに歪みながら無関心に交差し、やがて液体になってゆく。


麗は、慣れた裾捌きでその夜に降りてゆく。

緞帳が上がりはじめる。

ゆっくりと肩の力を抜く。クッと白い首筋を伸ばした。



ごめんなさい。遅くなって。

今日は着物で登場かい?

彼の目を見ずに微笑む。

いいね、着物も。極道の妻みたいだ。

桜井。品のある甘い顔立ちをしている。

30代前半で二代目の社長になった。泥酔すると必ず、俺の決めた人生じゃない、と言った。

彼だけは麗の本当の年齢を知っていた。彼よりも年上だった。


着物を着るのはいつも計算上のことだ。抱かれることを断る言い訳にするために。

だが、麗は桜井には抱かれてもいいと思うことがある。

それを想像した。



次々と料理が運ばれている。

あまり食べないのね。お父様具合どう?最近。

ん、ああ。

そう言ったきり、冷酒を口にする。

いや、前立腺癌てな、女性ホルモンを射つんだ。いや、そうらしい。

と、また杯を手にする。

おっぱいがさ、出てきちゃうんだと。

それにショックを受ける。あのオヤジがさ。

そう。


逢えないんだ。逢いたくないんだよ。

二人はしばらく無言になる。




ふいに麗が言う。


ねえ、癌細胞って触ったことある?

ボソボソしてるの。腫瘍。悪性リンパ腫。

股の付け根の辺りがね、腫れてて、その中がボソボソして。

人間の持つものじゃない。

ボソボソして、あんな風に、

ボソボソに。


と、手のひらを見る。


果たしてそれは本当に、言葉になっていたかわからない。

一瞬手のひらを見ただけかもしれなかった。



隣の個室から笑い声が響く。もう時間ね。行きましょう。

外に出ると冷気が頬を刺す。

グッと甘えるように肩を抱いた桜井の手を払いのけた。



その夜、No.3の誕生日で店はごった返していた。店頭に飾られる花の本数が競われる。No.2が携帯を片手に不機嫌そうに花の前に立っているのが見える。その横に二人女の子がいる。

なんであの子に花あげてんのよ。

と言うNo.2の声が聞こえた。二人の女の子は腕組みをしてうなずいている。

派閥。その配下に入ることで、指名のオコボレをもらう。

この店に移ってきたばかりの麗には、その仕組みがよくわからなかったし、わかりたくもないと思っていた。

怖いなと桜井が言う。


その夜、麗には三名の指名が入った。No.1だった前の店からの客だった。

以前の小さい店から、この有名店に移った。ここにはモデルのような背の高い女が揃う。麗はその中で小さい方だったが、店内に入ると視線を感じた。

女たちの視線だった。


桜井は接待客を連れ他のクラブにハシゴに行き、親が土地持ちの退屈な若者は、言われるがままにボトルを注文し、トニーと名乗る男はいつものように良く手入れされたスーツを着こなし葉巻を吸いながら、静かに飲んだ。




麗はそれぞれに演じた。

演じる?わからない。それが、夜に生きる以前には心の深層に押し込めていた本来の自分なのかもしれない。


帰りぎわロッカーでは、指名を横取りした、しないのいざこざがあり、床には泥酔した女が過呼吸になって倒れていた。買い物依存らしき女はまた新しく買ったブランドの紙袋をいくつも肩から掛けていた。

桜井から、送るか?と電話があったが、アフターがあると断り、そのアフターも上手く断った。


タクシーから降りて、マンションに着くと、バサッと着物を脱いだ。

長襦袢姿でソファーに座る。

携帯には、Kからの着信が連続で入ってる。



孤独にのみ込まれた姿は醜悪だ、と麗は思う。

冷酷であること。


そして眠る。







そのドアを開けたのはいつだったか。

殺したヤツがKの携帯を使ってあんたに電話してるんじゃないのか?




いくつかのドア。そしてドア。









騒音のようなリズム。這うような高揚。異空間は突然に訪れる。

フロアは真鍮の柱、アールデコ調の装飾、全面の鏡、それらがあやしくライトアップされ、いくつものボックスに仕切られている。ミラーボールが回っている。

奥行きがわからない。或いは失っている。


それは人なのだろうか。たくさんの。

あちらこちらで溶け合った塊のような、何かが覚醒したもののように動めいている。

麗は嘔吐感とともに訪れた感情を整理出来ない。

ただ存在をぐらつかせまいとして辛うじて剥げかけた化粧を保つように、桜井に微笑んでみせた。


こんなとこ始めてだろ。


桜井様こちらへ。

今日は女性もご一緒ですか。まあよいでしょう。

ユリカと誰かご希望はございますか。


フロアをゆっくりと案内されてゆく。

そのうごめく塊の中を。男、女、そして肌。自身を保てなくなっている。




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