ノーライフ・ノーミート
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俺の住んでいるマンションの一階はスーパーである。
しかも二十四時間営業の。
これを幸運と呼ばずして何を幸運と呼ぶべきか。
俺は入居した日から今日に至るまで一貫してそう思い続けているのだが、同僚に話しても「ああ下駄履きね」のひと言で処理されてしまうのが口惜しい。
下駄履き〇〇〇とは、一階が商業テナントになっている集合住宅の事だ。不動産業界ではそう呼ぶのだ。業界に四年もいると自分の住まいですらつい業界用語で値踏みする癖がつくのは職業病だが、まあ今はそんな話をしたいのではない。
肉の話がしたいのだ。
坂巻金次郎、二十八歳、独身、株式会社三和住建の営業二課。板橋区蓮根在住。以上が俺の全スペックであり諸兄にお伝えすべき身上はこれ以上たいして存在しない。
サンライズ・レジデンス丸の内──名前は壮大だが所在地は丸の内ではなく板橋区蓮根である──鉄筋コンクリート造四階建て築二十三年、全十六戸、管理人は週三日巡回型。
率直に言って物件としては中の下だ。外壁には三年前の台風で生じた亀裂が走ったまま放置されているし、エントランスのオートロックは築十五年目に壊れた切り退役しているし、駐輪場の屋根は半分しかない。
しかし何ら問題はない。
家賃が安いのだ。四階の1LDKが管理費込みで月額五万八千円。板橋でもこの価格帯はそうそう見つからない。そして俺にとっては家賃の安さなど副次的な恩恵にすぎない。
というのも、一階にフレッシュまるとみがあるのだ。
フレッシュまるとみ──白地に赤でロゴが描かれた個人経営の食品スーパーで、チェーン展開はしていない。売り場は五十坪ほどで都内の個人スーパーとしてはまあまあの規模だが、俺がこの店を偏愛してやまないのは偏にその精肉コーナーの尋常ならざる充実ぶりによる。
肉が安い。旨い。種類が多い。そして品切れを見たことがない。この四拍子を揃えた精肉売り場は二十三区広しといえども容易には見つからないだろう。
豚のバラも肩ロースも鶏もも肉も!!──つねに冷蔵ケースの中に整然と並んでおり、パックの底にドリップが溜まっているような無粋なこともない。ここの肉を知って以来、俺は他のスーパーの精肉コーナーを信用できなくなった。
舌というものは一度上等を知ると元の水準には戻れないのである。
もう一つ付け加えるなら、俺はこのマンションの管理会社である三和住建の社員でもあり、入居者にしてかつ管理側でもあるという些か珍妙な立場に置かれている。
マンションのオーナーでありフレッシュまるとみの経営者でもある越谷さんは温厚な初老の紳士で、俺には常に好意的だった。
仕事帰りにスーパーに寄れば精肉コーナーのガラスケースの奥から「坂巻くん、今日はいいのが入ってるよ」と声をかけてくれる。大家というよりは親戚のおじさんに近い存在だ。
ああ、そうそう、これも話しておかねば。四階には俺を含めて四世帯が入居しているのだが、隣の四〇三号室に住んでいた丸山源蔵という男については少し触れておく必要がある。
丸山は太っていた。
ただ太っているのではない。質量に対する自覚というものが根本的に欠落している種類の太り方をしていた。胴回りは目測百二十センチ、首の後ろには脂肪が段になって堆積しており、夏場ともなれば額から顎からとめどなく脂汗を垂らしていた。俺は内心でコイツの事を「食デブ」と呼んでいる。
ショクデブ──食ってばかりのデブという意味だ。
一緒にエレベーターに乗ると箱の全体がわずかに沈み込むのが体感でわかるほどのデブだ。
体もだらしなければ、生活もだらしない。
共用廊下にダンボール箱を積み上げ、分別しないままゴミ袋を適当な曜日に出し、週末にはベランダの窓を全開にして大音量でテレビを鳴らした。管理規約違反のフルコースだ。
俺は幾度となく注意に赴いたが、丸山はこちらの忠告を一切聞き入れるつもりがないようで──
「大家でもねえくせによ、偉そうにすんなや」
エレベーターの中で二人きりのときに、そう吐き捨てられた晩のことはわりとよく覚えている。狭い鋼鉄の箱の中に汗と皮脂と体臭の混合物が充満して、四階に着くまでの十数秒間にわたり俺の鼻腔を侵略していた。
何年も脂を溜め込んだ肉が酸化したような体臭だった。
あまりにも濃厚な脂の匂いというのは、嗅覚を通り越して味覚に障るものであると俺はそのとき初めて知った。
しかしまあ丸山に関してはもういいだろう。いなくなったのだから。
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いなくなったのは先月の話である。
ある水曜の朝、出勤しようと四階の廊下に出たら四〇三号室の前があきらかに様子を変えていた。丸山が常習的に積み上げていたダンボールは撤去されドアノブに掛かっていた百均の鳥よけも外されマジックで殴り書きされていた「丸山」の表札も消えていた。退去したのだ。
別段驚くことではない。
このマンションでは最近このような退去がぽつぽつ続いていて、二階にいたってはすでに四戸中三戸が空室になっている。不動産屋の視点で見れば空室率の上昇は由々しき事態にも思えるが、この手の築古物件では珍しいことでもなく、空いたぶんは新しい入居者をつけるのが俺の仕事だ。
越谷さんに報告したら「あらそう、じゃあまた坂巻くんに頼まなきゃね」と笑っただけで特に心配している風はなかった。越谷さんはいつでも泰然としている。肝の据わった人だと俺は常々感心しているのである。
その日の夕方、仕事帰りにフレッシュまるとみに寄った。
精肉コーナーで今晩の構想を練る。日課だ。ロース、バラ、もも、ヒレ。冷蔵ケースにはいつも通り潤沢に肉が並んでいたが、その日は少し見慣れない切り方のパックが棚の中央を堂々と占めていた。
ラベルには「国産 特選切り落とし」としか書かれていない。手に取ると見るからに脂肪の比率が高い。白い脂身が赤身に複雑な紋様を描いており肉質は柔らかそうだが率直に言えばかなり脂の乗った肉だった。四百グラム、三百八十円。破格だ。
精肉コーナーのガラスケースの奥から越谷さんが顔を出した。
「それ今朝入ったばかりだから新鮮だよ。脂はあるけどね、そのぶん焼くと甘みが出るんだ」
「じゃあいただきます」
帰宅して鉄のフライパンに油を引かずに焼いた。脂身から大量の油が滲み出てきたので、キッチンペーパーで何度か拭い取りながら両面にじっくりと焼き色をつける。
塩だけで食うと──脂が甘い。
舌の上でとろりと融けて、鼻腔に立ちのぼる香ばしさが脳の奥を撫でる。
ビールを開けて一気に呑む──殺人的な旨さだ!
丸山がいなくなった四階は嘘のように静かであった。
隣室から漏れ聞こえてくるテレビの音もダンボール箱を蹴飛ばして歩く足音ももうない。
俺は焼けた肉を最後のひと切れまで丁寧に平らげ、二本目の缶ビールを開けた。いい夕飯だった。
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ところで、フレッシュまるとみにはポイントカードがある。二百円につき一ポイント、五百ポイントで五百円分の割引が受けられるという至極真っ当な制度なのだが、俺のように毎日毎日足を運んでいるとなかなかの速度でポイントが蓄積されていく。
「坂巻くん、いつもありがとね」
レジに立つのは越谷さんの奥方である。ご主人同様に温厚な人柄で俺には常に親切だ。
「今月もたくさん入居者さんつけてくれたんですってね。お父さん喜んでたわよ」
「いえいえ仕事ですから。でもうちの会社としてもこのマンションは回転がいいんで助かってます」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。おかげで仕入れも安定してるし。ね、ポイントちょっと多めにつけとくわね」
「ありがとうございます」
俺は礼を言って買い物袋を受け取った。回転がいい──我ながら的確な表現だと思う。退去が出ればすぐに次の入居者をつけ、空室期間を最小に抑える。
それが俺の仕事であり越谷さんの商売もまたその循環の上に成り立っている。
上手く回っているのだ。このマンションは。
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翌週の火曜日、俺は三〇二号室の内見に一人のお客を案内していた。
二十代半ばの女性で名前は藤原さんといった。新卒三年目の会社員で、勤務先は池袋方面、現在は千葉の実家から通勤しているがそろそろ一人暮らしを始めたいとのことだった。小柄で色白のおとなしそうな人だった。
「駅からは徒歩八分です。この周辺はコンビニも揃ってますしなにより一階にスーパーが入ってますので、お仕事帰りにそのまま買い物ができます」
「へえ、それは便利ですね」
「ええ。精肉コーナーがすごく充実していまして、お肉がおいしいんです。私もここの住人ですが毎日利用してます」
藤原さんは部屋の中を見回していた。窓から差し込む西日が彼女の白い首筋を照らしている。築年数が少し引っ掛かっているのかもしれない。俺は営業の間合いを見計らってもう一歩だけ踏み込んだ。
「最近空室が出たばかりなのでオーナーさんにお家賃のご相談もできると思います。それと──」
少し声を落として付け加えた。
「ここ、本当にいいマンションなんですよ。住めばわかります」
藤原さんの顔がふっと明るくなった。
「前向きに検討します」
「ありがとうございます。きっと気に入っていただけると思います」
俺は名刺入れから一枚を抜いて手渡した。
藤原さんを見送りながら、俺は携帯を取り出して越谷さんに電話を入れた。
「越谷さん、坂巻です。三〇二、いい方が見つかりましたよ」




