第二章 第二部:理由は情報によって作られる
弥吉が収容されている医務室から伊藤、橋谷、佐野が戻ると、会議室は静まり返っていた。
壁に掲げられた地図は、転移前のものともう一つ。偵察部隊による目視と、レーザー測距儀などを用いた簡易測量によって急造された手製の地図が横に並ぶ。 連なる山々。深く刻まれた谷。蛇行する川。 そして、その北東の一角に、小さく書き込まれた文字――“小谷”。
「照合の結果を聞こう」
白峰駐屯地司令、外山一佐が、短く問いを投げた。
「……確定、とまでは断言できません」
答えたのは、情報科の橋谷三曹だった。彼は視線を地図に落としたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、私の記憶に、奇妙に合致する断片があります」
伊藤三佐が、訝しげに眉をひそめた。
「記憶だと?」
「はい。以前、郷土資料館で目にした古い郷土史の記述です。戦国時代、この白峰駐屯地の北側に、“小谷”と呼ばれる場所が存在していた、と」
「実在した村だったのか」
橋谷は、わずかに首を振った。
「……小さな集落だった、という程度の扱いです。詳しいことまでは書いていなかったと記憶します。ただ、少なくとも、我々がいた時代にはありませんでした。その地名も、集落も。。。」
それだけが、動かしようのない事実だった。 “あったことだけが記録に残っている”。そして、いつ、どのようにして消えたのかさえ、現代の歴史からは零れ落ちている。外山は、座ったまま地図から目を離さず、静かに言った。
「橋谷。もう少し情報を当たれるか」
「はい。引き続き弥吉から聞き取りを行うとともに、情報課が保持している資料や、手持ちの郷土資料などを片っ端から当たってみます」
外山は黙って頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「問題を整理する」
司令の言葉に、室内の視線が集まる。
「まず大前提として、我々がいるのは、過去の、白峰の地である可能性が極めて高い。これをもとに、話を進める」
外山は、指を一つ立てた。
「第一。我々は補給を断たれた。電力は基地内の自家発電と備蓄燃料で当面は維持できる。水は谷の小川を浄化して使える。弾薬も、実弾訓練を控えれば当面は足りる。だが――燃料と食料は、減る一方の有限資産だ。これをどうにかする必要がある。」
次に、二本目の指を立てる。
「第二。元の世界への帰り方。これについては今のところ全くあてがないので保留とする。」
さらに、三本目。
「第三。この時代での我々の行動は、現代に壊滅的な影響を及ぼす恐れがある。これを避けるため、我々はどう動くべきか、何を控えるべきか、検討する必要がある。」
そして四本目。外山の目が鋭さを増した。
「第四。にもかかわらず、我々はすでに一名の命を救った。自衛官として目の前の窮地を見過ごさなかった結果だが、これは紛れもない“歴史への干渉”だ」
その救出の是非について、誰も口を開かなかった。だが、その事実は重い鉛のように全員の胸にのしかかっている。
「さらに、救った男――弥吉を駐屯地内で保護している。彼を村に帰すべきか。帰すとすれば、どのような条件が必要かを検討しなければならない。……皆の意見を聞きたい」
沈黙が会議室を支配する。
わずかな逡巡ののち、衛生課の佐野二尉が、診察記録見ながら静かに口を開いた。
「彼には、まだ継続的な治療と安静が必要です。少なくとも今の状態で帰すのは看過できません」
「理由はそれだけか」
外山が重ねて問う。
「……それだけではありません」
橋谷が、佐野の言葉を引き継ぐように割り込んだ。
「彼は、この時代、この土地の情勢を知る貴重な“生きた情報源”です。我々が生存する上で、彼の持つ知識は何よりも得難い価値がある。それに――」
橋谷の言葉が、一段と低くなる。
「――このまま何の策もなく村に戻せば、彼は我々の存在を、この時代とは違う駐屯地の施設を、村の皆に語るでしょう。そこから話がどう広がり、どういう影響をもたらすか分かりません。それは歴史に影響を及ぼし、現代に取り返しのつかない事態を招く可能性があります」
意見が積み重なっていく。だが――結論は、出ない。
「では、このまま彼をここに留め置くのか」
「……それでは、拉致と変わりません」
隅に控えていた警備隊の宮本士長が、押し殺したような声で呟いた。その言葉は、室内にいた全員の「自衛官としての良心」を鋭く抉った。
皆の意見を聞き届けた外山が、最後に重々しく口を開く。
「彼の扱いについて、現時点の結論を出す」
空気が張り詰め、すべての視線が外山に集まった。
「保護を継続する。治療を行い、必要な情報を収集せよ。だが――村への帰還、および外部勢力との接触については、しばらく周辺情勢を見てから決める」
「……保留、ですか」
「そうだ」
外山は、断固とした口調で言い切った。
「我々には、この判断をするための材料があまりに足りない。歴史を変えてでも守るべき理由も、歴史を守るために彼を見捨てる理由も、今はまだ、どちらも弱い」
外山は、医務室の方を見ながら言った。
「弥吉には、事実をそのまま伝えろ」
伊藤も医務室の方角を見つめ、独り言のように呟いた。
「君は安全だ。だが、今はまだ帰せない。いつになるかは――我々にも、まだ分からない」
それは、誠実でありながら、弥吉にとって残酷な答えだった。




