第二章 第一部:境界線の内側で
男が意識を取り戻したとき、最初に感じたのは、いつもと違う匂いだった。
焚き火の煙でも、土壁の湿気を含んだ匂いでもない。
薬草の苦い匂いでもなければ、村に漂う汗のすえた匂いでもない。
鼻孔を満たすのは、何かの花のような香りと、嗅いだことのない僅かな刺激臭だった。
「……ここは……」
声は喉の奥で掠れ、自分でも驚くほど弱々しく響いた。
視界に入った天井は、見慣れた梁ではない。
まっすぐに整えられ、余計な装飾の一切ない真四角な白い板が並び、その中に直接、点々と灯る明かりが埋め込まれた、奇妙で美しい天井だった。
身体を動かそうとして、男は初めて気づいた。
――うまく動かない。
いつものように力が入らない。
無理に力を入れれば、胸と脚に走る鈍痛と、包帯の感触。
物音はほとんど聞こえない。虫の音も、木々の葉のこすれあう音も、隙間風の音も。ただ、一定の間隔で刻まれる規則正しい音だけが耳につく。
『かち。かち。かち。』
何かの拍子か。だが、こんな規則的な音は聞いたことがない。
「目が覚めましたか」
優しく、落ち着いた声。振り向こうとして、また痛みが走る。視界の端に、見慣れぬ姿の男が立っていた。異様な色と模様の衣を纏い、微動だにせず直立している。
だが、腰に刀を差しているわけでも、槍を携えているわけでもなく、敵意は感じない。
「無理に動かないでください。足を捻挫し、肋が二本折れています」
女が近づき、男の視界に入る。男は、女の顔を見た。年は若く、周りの者とは違う白い衣を着ており、澄んだ瞳をしている。
村の者のように、日々の不安を溜め込んだ目ではない。
「……助けて、もらった……?」
「はい。あなたは熊に追われて我々の敷地に逃げ込み、倒れてしまいました」
「ここは……どこの、お館様の……」
女は、わずかに眉を寄せた。
「ここは、個人の家ではありませんよ」
「……は?」
「少なくとも、“お館様”と言われるような人はいません」
男の喉が鳴った。誰かのものではないとしたら、ここはどういう場所だというのか。しかし、言葉を選び、慎重に話してはいるが、嘘や冗談を言っている様子ではない。
その様子を、部屋の隅から男が見ていた。他の者と同じ異様な衣を着ている。しきりに紙に何かを書き込み、男の一語一句、一挙一動を逃さない。
「ここは白峰駐屯地。私は医官の佐野と言います。あなたのお名前を聞かせてください」
佐野が尋ねる。
「……弥吉」
「ご年齢は」
「二十……一」
「どちらから来られたのですか」
その問いに、弥吉は一瞬、口を閉ざした。村の名を出すことで、村を危険に晒すのでは。
だが――
危険を冒して熊に襲われる自分を助けてくれた。ならば、悪いようにはしないのでは。
「北から……小谷の村から、です」
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
部屋の隅にいた男の手が止まり、息を呑んだ。
「……確認します」
男はそう言って、部屋を出ていった。
残された沈黙の中、弥吉はようやく気づく。
――自分は、とんでもない場所に逃げ込んでしまったのではないか。
しばらくして、扉が再び開いた。
今度は二人だった。最初の無口な男に加え、年嵩の男。目つきが違う。弥吉の言葉を、ただ聞くためではなく、計るための目だった。
「弥吉」
その男が名を呼んだ。
「私はこの駐屯地の伊藤という。君は、小谷の村で生まれ、今もそこに暮らしているのだな。」
「はい……」
「その村について、我々は、少しだけ知っている」
“少しだけ”。その言い方に、弥吉は背筋が冷えた。
「君は、当面ここを離れることはできない」
「……村に、戻れないのですか」
「戻すことはできない。今はまだ、な。」
伊藤の声は穏やかだった。だが、揺るぎがない。
「君の治療のためだ。そして――君たちへの影響がないか、判断する必要がある」
何を判断するのか。それは、語られなかった。
弥吉は、布団の中で拳を握った。村に戻れない不安。だが、それ以上に――この者たちは、自分の村について何か重要なことを知っている。それは何なのか、村の皆は無事なのか。
様々な思いと想像が、弥吉の胸を巡っていく。
駐屯地の外では、依然として静寂が支配している。
だが、弥吉という一人の村人の出現により、指揮庁舎の空気は一変していた。




