第一章 エピローグ:山の向こう
エピローグですので、読み飛ばしていただいても構いません。
駐屯地に逃げ込んできた男。
その男には、守らねばならないものがあった。
男は、山間の斜面にある、小さな貧しい村で育った。数年前の戦で徴兵された父は戦死し、二人の姉はすでに他家へ嫁いでいる。今、家を守るのは男と母親の二人きりだった。
村に若い男の姿はほとんどない。領主の命により、妻子を持つ働き盛りの男たちは皆、防衛のための徴兵で村を離れていたからだ。男のような数少ない独り身の若者だけが、村を維持するための最低限の労働力として村に辛うじて残されていた。農民として土を耕す傍ら、重い資材の運搬から建物の修繕まで、村のあらゆる力仕事を担う彼は、村にとって欠かせない存在で、村人たちから一身に頼りにされていた。
その日、男は村人たちが春の山仕事を始めるための下見として、一人で南の山へと入った。だが、運悪く、山奥で“山の主”と畏れられる大きな熊に遭遇してしまう。何人もの村人を葬ってきた黒くて太い体躯、むせ返るような獣臭と、地を揺らすような低いうなり声に、男は恐怖に支配され、その思考は一瞬で凍り付き、その場に立ちすくむ。
そこに、熊の太い腕が容赦なく振るわれる。とっさに手に持った鉈で防ごうとしたが、鉄を打つような衝撃に鉈は弾き飛ばされ、その勢いのまま鋭い爪が肩を裂き、宙を舞った男の身体は、うつぶせに冷たい地面に叩きつけられた。
衝撃に我に返ると、遅れて激痛が走る。ようやく動き出した本能が叫ぶ、(逃げろ、死ぬぞ)と。男は慌てて立ち上がり、熊に背を向け血を流しながら死に物狂いで駆け出した。しかし、しばらく走ったところで、見たこともない奇妙な“鉄の網”が行く手を阻んだ。
鉄の網を掴むが、細い針金が幾重にも編まれたその網はびくともせず、稜線に沿ってどこまでも続いている。パニックに陥った男は、それに沿って遮二無二、ひたすら斜面を駆け上がった。やがて、網が不自然に断ち切られた場所に辿り着いた。男はそこから訳もわからず内側へと入り込み、山を越えた。
何度も転倒し、全身を泥と血で汚しながら斜面を駆け降りていくと、唐突に森が途切れた。足元の感覚が変わる。それまでの柔らかな土や落ち葉ではなく、硬いむき出しの土や砂利の平地に飛び出したのだ。
あまりの感触の違いと砂利に、疲れ果てた足を取られ、もつれた。男は盛大に転倒し、これまでの人生で最も死を近くに感じながら、這いつくばったまま振り返った。月光の下、すぐそこまで山の主の巨影が迫っている。
男は震える声で、誰にともなく呻きを漏らした。
「……た、助けて……!」
死を覚悟したその声に呼応するように、背後の暗闇から何者かの話し声が聞こえた。そこからの記憶は、もう、この世のこととは思えぬ常軌を逸したことばかりだった。
雷でも落ちたかのような、奇妙な音が響く。直後、目の前の熊が胴から鮮血を噴き出して倒れ込んだ。状況を把握できていないのは熊も同じなのであろう、突然見舞われた痛みに逆上し、より凶暴さを増して男ににじり寄る。
すると、いくつかの足音が近づき、背後から光が射した。何が起きているのか分からないまま、ただ眼前の怪物に怯えていると、すぐ背後で再びあの音が鳴り響き、夜闇に反響した。
“山の主”が、崩れるように息絶えた。
ようやく死の恐怖から解放された男が、震えながら振り返る。そこには、まばゆい光を自分に向ける、見慣れぬ格好をした集団が立っていた。男には、彼らが何者なのか、その光や音が何なのか、今この場で何が起こったのか、全く分からなかった。だが、この集団が自分を救ってくれたことだけは間違いなかった。
「ありがとう……ござい……ます。命を、助けて……下さって……」
男はそう告げるのが精一杯だった。
気づけば腰を抜かし、指一本動かす気力も残っていない。男は集団の手によって運び出され、見慣れない巨大な建物のなかへと連れて行かれた。
運ばれた部屋にあったのは、村の藁床とは全く異質の、白く、清潔な寝台だった。その寝台に寝かされると、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
男は心地よい感触に包まれながら、深い、深い眠りへと落ちていった。




