第一章 第三部:最初の実力行使
北西境界地点。 地表振動センサーが、連続した異常値を叩き出していた。
「中型熱源一一、転倒を繰り返しながらこちらへ移動。……推定、人間。その後方にも四足のやや大型の熱源が追尾一一、形状と動きから見て、恐らく熊と思われます」
監視モニタの暗視映像には、必死に斜面を駆け降りる小柄な人影と、それを執拗に追う四つ足の黒い影が映し出されていた。
「森を抜けるまで、百二十秒」
司令部にて、外山一佐は即断した。
「人命保護を優先する。狙撃班、制止射撃準備。」
若い男――この時代の村人であるその男は手も足も傷だらけになりながら、痛みも忘れ、地形も何も分からぬままただ無我夢中で走り続けていた。すると、唐突に木々が途切れ、足元の感触が変わった。 次の瞬間、男は足をもつれさせ、その身体は宙を舞い、むき出しの荒れ地の上を転がった。砂を噛みながら振り返った視線の先、月の光を浴びて、咆哮を上げる山の主が姿を現した。
「……た、助けて……!」
「射線クリア。目標、大型獣」
距離、約百二十メートル。 動く標的。だが、まずは動きを止めるだけなら十分な距離だ。
「初弾、撃てっ」
『ダーン!』
乾いた銃声が夜の森を切り裂いた。 五・五六ミリ弾が、熊の体側を正確に貫く。衝撃で熊の巨体が前のめりに崩れ、地面を激しく叩いた。 しかし、その凄まじい生命力は尽きない。傷を負い、より凶暴さを増した熊は、這いずりながらも目の前の獲物――若い男へと肉薄する。
「距離を詰めろ。確実に仕留めろ」
警備隊員がライトを点灯させ、迅速に前進を開始する。
男は地面に這いつくばったまま、背後で起きた超常的な出来事を理解できずに熊を凝視していた。雷のような音、そして目の前で突然血を噴き出した熊。それが苦悶の声を上げ、再び男を襲おうとしたその瞬間。 距離、二十メートル。
『――ダーンッ―!』
頭部への確実な一撃。残響が森の奥へと吸い込まれていく。 山の主と呼ばれた巨躯は、二度と動くことはなかった。
「脅威排除を確認。周囲の警戒を継続せよ」
「弾数二。消費、最小」
銃口が下げられる。 タクティカルライトの強烈な光の中、警備隊員が腰を抜かした若い男に歩み寄った。
「大丈夫か。怪我はないか」
男は、目の前の存在を理解できずにただ震えていた。 森に溶ける幾何学模様の奇妙な服。揃った動き。手に持つ、取っ手の付いた奇妙な黒い棒。それは彼が知る侍とも、野盗とも、あるいは神仏の類とも異なる“異形”の集団だった。
男は、震える声で精一杯の感謝を口にした。
「ありがとう……ござい……ます。命を、助けて……下さって……」
司令部で、外山は静かに息を吐いた。 銃を撃ったことへの動揺ではない。ましてや、救った命への悔恨でもない。 ただ、自分たちはこの世界における「最初の暴力」を行使した。 そして、この世界における”人”の生死に干渉したのだ。現代日本の論理と装備をもって。 その事実の重みが、静かに肩にのしかかる。
「衛生課、男を収容。事情聴取は落ち着いてからでいい」
白峰駐屯地は、この世界で初めて銃声を響かせた。
それは、この未知の世界において、“守るべきもの”を選択した最初の一歩であった。




