第一章 第二部:断絶の刻(とき)
室内灯の切れた薄暗い部屋に、非常用照明が灯った。隊員たちの間に広がる動揺を切り裂いたのは、スピーカーから流れる緊迫した構内放送だった。
『全隊員、持ち場で状況確認。異常を即時報告せよ。これは演習ではない。繰り返す、状況確認を開始せよ』
駐屯地司令、外山一佐の声だった。
医務室では、佐野二尉が即座に意識を切り替えた。
「安藤さん、滝口さん、動かないでここで待機を。看護官、民間人のバイタルと外傷を確認!」
老夫婦は青ざめた顔で頷き、パイプ椅子に身を沈めた。一方で、現地民の滝口は、落ち着かない手つきで窓の外を凝視していた。
「……風が違う。森も、何か、、、俺の知ってる山じゃない」
その呟きに答えられる者は、そこにはいなかった。
指揮庁舎の通信室には、絶望的な報告が濁流のように積み上がっていた。
「商用電源喪失。非常用発電機、稼働開始」
「外線、携帯、無線、ネット回線、すべて死んでいます」
「衛星リンク、ダウン。応答なし」
「GPS、信号ロスト。現在地取得不能」
レーダー画面には、かつて網の目のように行き交っていた民間機の航跡は一切ない。近隣のTVやラジオ局の電波も、民間の電波も、一切受信しない。電子的に沈黙した世界が広がっていた。
「状況か?」
誰かが掠れた声で漏らしたが、即座に打ち消された。これほどの規模でインフラを完全遮断する“状況”など、物理的に不可能だ。それに“状況”なら事前通告がある。むしろ司令は“これは演習ではない”と言っていた。
外山は司令官席に深く腰を下ろし、無線を通じて淀みない口調で命じた。
「全周警戒を強化。警備班は即時周辺環境の視認確認を行え」
「各科の長は、人員の状況、燃料、弾薬、および食糧の現有量、基地の装備設備の状況を十五分以内に集計し報告しろ」
屋外では、この地に起きた“現象”の全貌が次第に明らかになりつつあった。
駐屯地の南側、正門。それまで下界へと続いていたはずの片側一車線の舗装路は、正門の先で、鋭利な刃物で断ち切られたように消失していた。その先にあるのは、見たこともない密林と、風にそよぐ膝丈までの草地。アスファルトも、電柱も、案内標識も、遠景に広がるはずの盆地の町並みも、現代文明の痕跡は一切、消え失せていた。
「……道が、ありません」
警備隊員が握りしめた無線機が、微かに震えていた。
北側の演習区域も同様だった。山頂付近に聳えていたはずの電波塔が消え、稜線の向こうにあった送電鉄塔も見当たらない。監視塔からの報告が、外山の耳に届く。
「周辺に近代的構造物、一切確認できず」
監視員は、信じがたい光景を飲み込むようにして言葉を続けた。
「地形自体は駐屯地の周辺地図と一致しますが、植生の密度が異常です。……人工物はほとんどなく、谷の下流に数軒のあばら家と、小さなかずら橋のようなものが見えるだけです」
報告を聞く間に、指揮庁舎に各科の長が集まってきた。
外山は深く息を吸い込み、冷静に報告を促した。
「人員の被害状況は?」
「人員点呼、完了。欠員なし。民間人四名の生存も確認されました」
衛生課の佐野が付け加える。
「収容された男は、意識回復の兆候あり。身元を確認できる所持品はありません」
外山は短く頷いた。
「民間人は当面、本駐屯地の保護下とする。現状が不明な以上、独断での基地外への移動は厳禁だ」
出席者一同、黙ってうなずく。
「ほかは」
「燃料、弾薬、食糧。いずれも規定量を保持」
「基地の損害は」
「……駐屯地敷地内は、皆無です。全主要装備、無傷で稼働可能です」
外山の眉が、わずかに上がる。
「駐屯地敷地内“は”、とは?」
「はい。東、西、北の端において、外壁及びフェンスが消失しています」
「どういうことだ? 原因は?」
「分かりません。ただ、正門前のアスファルト同様、鋭利な刃物で断ち切られたかのように切断されており、その先はもともと何もなかったかのように深い森が広がっています」
外山は額に手を当て、俯き黙り込んだ。原因は見当もつかないが、物理的な防御に穴が開いたことは致命的だ。今は原因を考えるよりも、消失した外壁への対策が先決だった。
「ひとまず、リスクが低く手のかかる北の山頂側は後回しだ。西と東の切断箇所に、仮設フェンスを緊急構築、突破防止に可能な限り補強しろ」
そして、誰もが喉の奥で止めていた疑問が、ついに議題に上がった。“ここは、どこなのか”
広げられた現代の地図。等高線や川の流れを、現在の窓外の景色と照合していく。情報科の橋谷三曹が、地図の一点を指さした。
「あそこにあるはずの採石場跡がありません。それに、あの崖……あそこは明治時代の崖崩れで崩壊したはずですが、どう見ても崩壊前の形状です」
「つまり?」
中隊長の伊藤三佐が問う。
「少なくとも、我々の知る現代日本ではありません。もしも、時代が異なるのであれば、明治時代以前……それもかなり昔の日本かと」
室内が、静まり返った。あまりにも突飛な話だが、誰も笑わなかった。突きつけられた無慈悲な事実からは、それ以外の答えは見つからなかった。
外山は、全員を見渡した。
「これ以上の推論は後だ。まずは、生き延びる。それだけを考えろ」
その声には、三百名の命を預かる指揮官としての、凄まじい覚悟が宿っていた。
「この基地は、もともと要塞として設計されている。守り抜くことは可能だ。方針を伝える。無闇に動かず、外部にこちらの存在を悟らせるな。外部との接触は、我々が必要になったときに我々が主導する。――全施設、隠密行動に移行する」
夕刻までに、駐屯地はその姿を変貌させた。外灯はすべて落とされ、日中以外は必ず遮光カーテンを閉める。車両は掩体や森の影へ隠蔽され、南の壁も目立つ建屋も偽装網で覆われた。山から見下ろせば、基地全体が深い緑の中に溶け込んで見えるはずだ。
加えて、発電機の排気音は消音器で抑えられ、起床ラッパや場内放送、銃砲訓練も控えることとなった。
旧陸軍が“秘匿”のために作り上げたこの土地の構造が、数十年を経て再びその真価を発揮し始めた。白峰駐屯地は、巨大な自然の中に沈んでいく。
その頃、医務室では。ベッドに横たわっていた若い男が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……ここは……」
掠れた声。佐野二尉が、彼の顔を覗き込む。
「わかりますか。ここは陸上自衛隊白峰駐屯地です。あなたの名前を教えてください」
男は天井を見つめ、記憶の断片を繋ぎ合わせるように、小さく唇を動かした。
「私……は……」
その言葉を、外から響いた鋭い叫びが切り裂いた。
「地上接近反応! 北西境界付近の警備班より全隊へ、総員警戒!」




