第四章 エピローグ:観測者の逡巡
転移の前、山で行き倒れていたところを保護され、白峰駐屯地へと運び込まれた男、日下部楓斗の現在の居場所は、駐屯地の片隅、宿舎の一番端にあった。
最初は巻き込まれた民間人として。次は、周囲が同情を寄せる保護対象として。そして今――誰とも関りを持たない謎多き“同居人”として、彼はそこにいた。
自衛隊員たちは一様に親切だった。同じ場所で過ごす老夫婦も、折に触れて言葉をかけてくれた。畑の育ち具合。日々の体調。この異常な状況が一体いつまで続くのかという、答えの出ない話。そして時に、自分たちの身の上話をしつつ、日下部がどこから来たのか、何をしていたのかを聞いてきた。しかし、男は“日下部楓斗”と名乗るだけで、自分のことを語らなかった。それどころか、話しかけられるのさえ嫌がるような、人を寄せ付けない空気を醸し出していた。次第に周囲は、何があったか分からないが今はそっとしておいてほしいのだろう、と、距離を取るようになった。
だが、日下部はただ塞ぎ込んでいたわけではない。むしろ、静かにアンテナを張っていた。そのアンテナの先は駐屯地内だけではなく、小谷の村にも向けられていた。自ら直接関与することはないが、漏れ聞こえる噂、往復する隊員たちの会話、運び出される物資の量、そして村を包む空気の変化。
部外者という“外側”に身を置いているからこそ、俯瞰的に見えてくる真実があった。
夜が訪れると、日下部は割り当てられた自室で一人になった。その時間だけ、誰の目にも触れぬよう、彼は慎重に荷物を開いた。その中にあったのは、掌に収まる程度の、奇妙なデザインの端末。外装は激しく傷ついているが、二つに開くと、その内部に傷はない。開いた面を上に向けて電源を投入すると、虚空にホログラムディスプレイが浮かび上がった。そこには、複雑な文字列が表示されている。
これまで、その内容に大きな変化は訪れなかった。 だが、その夜――表示内容が揺れた。文字列が崩れ、行が高速で書き換えられていく。初めての、劇的な変化だった。
日下部は、ゆっくりと吐息を漏らした。 (村が変わり始めている。いや、変質していると言ったほうが正しいか) それは、外から観察しているだけでも十分に伝わってきた。
そして――宮本という男が取った行動。提供された医薬品、防寒具、そして工具類。
一つひとつは、取るに足りない小さな善意に過ぎないのかもしれない。だが、それらの積み重ねがもたらした“結果”が、今、目の前の端末に残酷なまでに反映されている。
今はまだ、誰も知らない。この世界で、何が起きようとしているのか。どこまで、取り返しがつかない事態になるのか。
日下部は、静かに端末を閉じた。
(自分が、語らなければならない)
頭の中で、自らの責務が声となって響く。 自分が何者であるのか。そして、この端末が表示するものが何なのか。
もう、逃げ続けることは許されない。 灯りのない暗渠のような部屋で、握りしめた端末を見つめる日下部楓斗は、静かに、だが鋼のような強さで決意を固めた。
夜の基地は、その胎動など知らぬげに、ただ深く静まり返っていた。




