プロローグ 第二部:日常の歯車
朝の号令が山々に吸い込まれるころ、白峰駐屯地の演習区域には、すでに無数の足音が満ちていた。
北側の起伏の激しい山道では、普通科部隊による戦術運動訓練が行われている。 半長靴が硬い土を踏みしめる音が重なり、木々の間から鋭い指示の声が飛ぶ。六四式や八九式小銃を携えた隊員たちは、互いに視線と銃口を交差させ、起伏の陰に身を潜めては次の一歩を刻んでいく。その規律正しい動きは、山そのものと一体化しているかのようだった。
その様子を、少し離れた稜線から冷めた眼差しで眺めている男がいた。
情報科の橋谷史朗三曹。 彼は、無線傍受や画像解析といった本職のほかに、部隊内では「奇人」に近い知られ方をしていた。戦史、地域史、果ては土地に眠る民俗伝承。学術的というよりも、公的な記録からは零れ落ちた断片を拾い集め、欠けたピースに思いを馳めるのが、彼の性分だった。 「記録に残らなかったものほど、重要な情報だったりするんですよ」 目を細め、彼はそう嘯く。それが橋谷の持論であり、この古い要塞跡に身を置く彼なりの流儀だった。
普通科中隊長の伊藤誠司三佐は、その偏屈な言葉を笑って切り捨てたりはしない。 伊藤は叩き上げの指揮官だ。作戦立案において論理を尊ぶが、同時に「理屈を超えた現場の違和感」を軽視しない慎重さも持ち合わせている。 「……裏は取れるのか、その『伝承』とやらは」 「取れますよ。ただし、教科書に載っているような歴史じゃなくなりますが」 「構わん。我々の守るべき国土は、教科書の中だけに広がっているわけではないからな」 そんな、噛み合っているようで噛み合わないやり取りが、二人の間では日常の風景となっていた。
西側の車両区域では、重厚な金属音が空気を震わせていた。 整備工場の巨大なシャッターが上がり、暖機運転を始めた10式戦車の排気音が、重低音となって胃の腑に響く。立ち昇るディーゼル排気と油の匂い、それに、駆動系から放たれる熱気が、高地特有の冷気と混じり合う。最新鋭の電子機器と鋼鉄の塊が、目覚めの産声を上げていた。
車両の周囲を慌ただしく行き交うのは、整備員と警備隊の面々だ。 その中に、ひときわ軽妙な足取りで立ち回る若い男がいた。警備隊所属、宮本拓海士長。 「お疲れ様です! 誘導、手伝いますか?」 彼は整備員たちに気さくに声をかけながら、車両の周囲に危険がないかを確認し、肩の無線機に短く報告を入れる。 「了解。車両区域、全車異常なしです」 迷彩服の襟を正し、爽やかな笑みを浮かべる宮本の周囲には、基地内外を問わず自然と人が集まった。
医務室の白々とした蛍光灯の下では、静かな緊張が保たれていた。 医官の佐野玲奈二尉は、無機質な診療台の傍らでカルテを捲っている。 訓練中に足関節を捻った隊員の処置を終え、包帯の締まり具合を指先で確かめた。 「――今日はここまで。明日の朝、もう一度見せて」 感情を削ぎ落としたような、淡々とした宣告。だが、その指先の動きには医師としての確かな労わりが宿っている。 窓の外では、土煙を上げて装甲車が移動していく。 ここでは、負傷は想定の一部だ。それでも、彼女の役割はその中から「脱落者」を出させないことにある。常に最悪を想定し、最善の手を打つ。それが彼女の戦いだった。
駐屯地の最深部、指揮庁舎では朝の報告が締めくくられようとしていた。 司令、外山陸一佐は、机上に広げられた資料を整然とまとめ、通信室のモニタへと視線を移した。 訓練進捗、気象概況、車両の稼働率。 流れてくる情報はどれも平穏そのものだ。だが、外山はその平穏を常に維持することの難しさを、誰よりも理解している。 「午後から天候が崩れる。航空運用は予定を切り上げさせろ。安全管理を最優先だ」 短い指示に指揮官が頷く。 外山は席を立ち、窓の外に広がる山並みを見上げた。 何十年、何百年と変わらぬ姿でそこにある山々。 だが、その不変を守るために、自分たちは日々、肉体を磨き、泥に塗れ、技術を研ぎ澄ませているのだ。
昼時が近づき、張り詰めていた糸が一時的に緩む。 隊員たちが食堂で列を作り、訓練の反省や、次の休暇の予定といった、どこにでもある会話が交わされる。 その一方で、演習場にはまだ居残る者たちの姿があった。 射撃姿勢を繰り返し確認する者、黙々と山道を駆け上がる者。 彼らは知っている。自分たちが動く時は、この「日常」が壊れる時であることを。
白峰駐屯地は、人も、装備も、この地形も、すべてが「その時」が来ないことを祈りながら、しかし「その時」を待つかのように、黙々と動き続け、変わらぬ体制を維持している。




